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「驚いてはいるようだけど、空が割れた割には大してびっくりしてないね」
「実はこの世界は本物じゃないんだ。偽物の、コンピュータの中の世界なんだね。擬似的に作り上げられた幻の世界」
「でも、偽りの世界であってもあの猫をどうしても助けたかった。ついでに学園生活を謳歌してみたいって思ってたんだ」
「今、それは要するに現実世界での今なんだけど、“デジタナログ”という新たなシステムの開発の真っ只中で、そこでぼくは被験者として立候補したんだ。詳しい話は、ぼくは科学者じゃないからよくわからないんだけど、アナログとデジタルが見事に融合した第三の概念らしい。で、そのシステムっていうのが、明晰夢をベーシックに現実の世界に擬似的に反映させるとかで、それで今システム作りの一環で今、ぼくは夢を見ながら外の世界では博士があれこれやってる。そういうことをやってる最中なんだよね。実験はまあまあ成功したみたいで、これでデジタナ理論が一歩前進するのなら被験者のぼくとしては喜ばしい限り」
「ちょっと待って」
ペラペラと喋る郷秋を遮って環は言った。
「大丈夫?」
「そう思うのも無理はない。君はバグだから」
?
「バグ?」
「そうさ。桜のことも、ぼくのことも猫のことも、本来一データに過ぎない君が疑問に思う余地はないはずだったんだ。ところが明晰夢をベースにする理論とはいえまだまだ開発途中で何もかもを思い通りにするのは、ちょっと難しかったようで。それで秀哉くんだったり沢木さんだったりにワクチンの役割を果たしてもらって君の意識を安定させてきたんだけど、実験も終了することだし、もういいかなー、というか——」
そこで郷秋はちょっとはにかんだ。
「あの頃、君のことがちょっと好きだったんだよね」
その愛の告白を聞いても、環には特に感慨もなければ衝撃もなかった。ただ、そういうこともあるのかもしれないな、と、何となく、そんな風に思った。
だから、昨日の違和感が存在していたのかもしれない、と、そう思った。
郷秋は続けた。
「だからなのか、そのちょっとした強い恋心が、君という一登場人物に異変を生じさせた」
風が吹く。
爽やかな風。
何の疑問もない、風。
「でも、伝えられて、良かった」
「私には、何が何だか全然わからない」
正直な感想であったが、しかし、レベルでわかるような気がしていた。
「その話が本当だとして、何が言いたいのかな月山くん」
「理解が早くて助かるよ」
「月山くん」
「もうこの世界は終わる。世界の終わりさ。なぜなら実験がとりあえず終了するから。——でも、その前に、ちょっと君と話してみたかった」
「世界の終わりって」
「君はバグとはいえデータであること自体は間違いないから、世界の終わりと共に君も消滅する」
なかなか恐ろしいことを言っているが、しかしその割には自分には大して恐怖心がない。
「混乱させてるみたいで」
「いや」
「ごめんね」
この人の言っていることはにわかには信じられない。この世界が幻? コンピュータの中の世界? 明晰夢? 本気でそんなことを言っているのだろうか? でも、それを否定する術は、少なくとも自分にはない……彼の言っていることが全部世迷い言だと言うことは、私にはできない。
確かに、そんな気がする、というのも確かな感情だったから。
「その話が本当だとして」
「理解が早くて」
「月山くん」
「はい」
環は郷秋を見る。
小学校のときから一緒の男子で、成績優秀でピアノの弾ける目立つ男子で、でも、顔はこんなにイケメンじゃなかったような気がして……。
「月山くんは、楽しいの? それが全部本当だとして、不登校じゃない自分、ちょっと本当より、その、かっこいい自分になって、それって楽しいの?」
「興味津々たる難問だね」
「だって、それが全て事実だとして、それって全部嘘なんでしょ。よくあるじゃない。小説の主人公に自分を投影させて、でもそのお話の中ではすごい英雄みたいな活躍をして、って。それって楽しいの? 楽しいのかな……」
「目覚めればただのアラフォーサラリーマンだからねぇ。現実とのギャップにやられちゃうかもしれないね。でもね」
そこで郷秋はニコッと笑った。
「それでも、結構、楽しかったよ。ほんの束の間の間でも主人公になることができて、二つの記憶を同時に持つことができて。ぼくはあんまり楽しい子ども時代じゃなかったから、思い出すことは嫌なことばっかりだし良かった出来事っていうのがあんまり思い出せない。でも、この夢の中で、ぼくはぼくで秀哉くんたちと結構楽しく過ごせて、体育ができる設定でピアニスト間近みたいな設定で、そういう偽りの記憶でも、それでも嫌なことだけだったわけじゃないんだってそう思えるのって、結構楽しいことだと思うんだよね。偽物の記憶であっても、ぼくに新しい子ども時代の思い出ができて良かったってきっとそう思い続けると思うよ」
「ふーん。そうなんだ」
「じゃ、ま。それでは——さようなら」
郷秋が目の前で手を軽く振る。
本当にこれでさようなら? この人は次の瞬間いなくなる? いや、いなくなるのは私?
これでこの後も世界が続いていくようならこの人はやばい人。
でも——仮にそうでも、この人なら、うまく世界を乗りこなしていけるような気がする。そんな気がするのも、結構、環の正直な感想だった。
「あ、ちょっと待って」
「ん?」
環は、何か言おうと思ったが、しかし何を言えばいいのかよくわからず、だからこう言った。
「さようなら」
郷秋は笑う。
「さようなら」