幸せな時間
幽体離脱にハマっている。
何もアブナイ薬を使ったり、自殺未遂を繰り返しているわけではない。最初は夢だと思ったがどうも違う。今では寝る前に「幽体離脱したいな」と思うだけで出来るようになった。
友人も少なく、当然のように彼女もいない。会社と家を往復する。そんな毎日のなかで出会った唯一の楽しみだ。
最初は嫌だった。自分の顔を鏡以外で見るのは気味が悪いなどという俗っぽいこともあるが、一番は体が宙に浮く感覚、足が地面についていない感覚が気持ち悪かった。
「こんばんは」
女性が話しかけてきた。この世界では僕と同じように幽体離脱をしている人にも出会う。
僕も挨拶を返した。
「今夜も幽体離脱ですか?」
落ち着いた口調で彼女が聞いてきた。彼女とはこちらの世界では顔なじみだ。
「ええ。最近は毎晩です」
幽体離脱をしていると、思ったことがそのまま口から出てしまう。そのため嘘がつけない。
「そうですか……現実世界は大変ですか?」
「大変というか、忙しいです。これしか楽しみがないくらい」
僕がそう言うと、彼女はクスリと笑った。
以前、幽体離脱は現実逃避みたいなものと、彼女に話したことがあった。それを思い出したのだろうか。
「寝ることしか楽しみがないんですね」
実社会ではストレートで無礼な発言も、この世界では普通だ。誰も気を使わない。使えない。使う必要がない。
そんなところも気に入っていた。
彼女と幽体離脱ツーリングをした。ツーリングといっても夜空を飛びながら話をするだけだ。
主に僕の話がメインで、彼女は聞き役に徹してくれた。会社への不満や上司の愚痴、難癖にも近いクレームをつけてくる客のことなど、聞くだけでもウンザリしそうなことでも、彼女は嫌な顔ひとつせずに耳を傾けてくれた。
あっという間に陽が昇る時間になった。肉体に戻らなければならない時間だ。
「今夜も楽しかったです。また一緒にツーリングしましょうね」
そういって別れようとしたとき、彼女が僕の服の裾をつかんだ。
「あの、もう少し飛びませんか?」
「でも、もう戻らないと……」
「飛びませんか?」
彼女の瞳は強かった。
ほかに幽体離脱をしている人たちが次々と家に帰っていく。そんななか僕たちは二人、浮いていた。
「私には……帰ることが出来る体がありません」
彼女は寂しそうに、でも申し訳なさそうな表情で言った。
「それって、もう亡くなられていると?」
「はい」
彼女はついに、うつむいてしまった。それでも、裾を掴む手の力は強い。
「現実世界に未練があるのですか? 私と一緒にいてもらえませんか?」
うつむいたまま、震える声で彼女が言った。
即答出来なかった。現実は厳しい。嫌なことばかりだ。ずっと彼女といたい。しかし、このまま戻らないということは死ぬことを意味するのだろう。彼女のことは好きだ。好きだが……。
生きることをこんなに真剣に考えたのは初めてかもしれない。好き好んで死に近い幽体離脱を毎晩のようにして生に執着か。惨めなものだな。
そんなことを考えていると、彼女が裾を離した。
「えっ?」
驚いて彼女を見ると、うつむくのをやめてこちらを見ていた。その顔は、いつもは白い頬が赤く染まり、瞳は潤んでいた。
「どうして?」
僕は思わず聞いてしまった。
「気持ちを聞けたので、もう十分です」
「気持ち?」
そうだ。この世界では考えたことが口から自然と出てしまうのだ。先ほど一人考えていたことが彼女にも聞こえたのだろう。
「また、今夜来ます。必ず来ます」
こうして僕にも彼女が出来た。
精一杯生きよう。彼女と悔いなく一緒に過ごせるようになる、その日まで。