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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

おばけの話

人食いおばけと殺人鬼

作者: 遠野なつめ

あるところに、人を食らう存在が潜んでいた。

その存在は、黒髪の少女の姿を模していた。人間の言葉を理解すると、自らを「人食いおばけ」と定義するようになった。同種の存在に一度も出会ったことがなく、本来の性別すら定かではない。


おばけは自らが人間の科学では説明できないことを理解していた。図書館を訪ねて自然科学の棚を探ったこともあったが、自分のような存在への言及はない。


季節ごとに一人を捕らえ、相手の経験や能力をその身に取り込みながら、おばけは旅を続けた。捕食された者は、この世に存在した形跡を一切残さず消え去ってしまった。


これは、おばけの記録である。


春のこと。おばけが朝の河川敷をぶらぶら歩いていると、路地から柴犬を連れた人間が歩いてきた。


おばけは犬が苦手だった。どの犬種でも、出会った犬は例外なく敵意を剥き出して吠えるからだ。飼い主でさえ「うちの温厚な犬がこんなに吠えるなんて」と首をかしげることがある。


犬は鼻が利くという。わたしの正体を見抜いているのかもしれない、とおばけは思う。


案の定、まだ距離があるのに吠える声が聞こえてきた。これ以上近づくのは互いに得しないだろうと思い、避けるように階段を降りて川べりに向かった。川べりにはたんぽぽが咲いていた。


川べりに降りたとき、少し離れた場所に人が横たわっていることに気づいた。


高齢の男性が寝転んでいる──いや、倒れている。

朝に歩くのを日課にしているのか、揃ったジャージに身を包んでいた。


少女の姿をしたおばけは、彼に駆け寄って肩をたたきながら「もしもし」と呼びかけた。反応はない。呼吸が止まっているようで、胸や腹も動いていないが、体には温もりが残っていた。


周りに人影はなかったが、今から彼を食べようとは思わなかった。十日ばかり前に人を食べていて、空腹は満たされていたのだ。捕食は季節ごとに一人。それ以外の時期に他の生きものや料理を摂る必要はない。


自然と手が動いていて、彼のウエストポーチを漁っていた。携帯を取り出してホーム画面から「緊急通報」を選び、119番に連絡する。自分の携帯を持ったことはないが使い方は知っていた。これまでに食べた相手の経験として、携帯の使い方や助けの呼び方が含まれていた。


電話口から救急隊員の声が聞こえた。


「火事ですか、救急ですか」

「救急です」

「どなたがどうされましたか?」


男性が倒れていて呼びかけに応じないことを伝えると、隊員はおばけに問いかけた。


「周りに大人はいる? きみだけかな?」

「わたしだけです」


声の幼さを不思議に思ったんだろう。隊員は一瞬の戸惑いを浮かべた後、胸骨圧迫の手順を伝えた。電話越しに指示されたように、携帯をスピーカーモードにして地面に置いた。これで両手が空く。


男性の胸に両手を重ねて、一定の速さで押し込んだ。動きに合わせて髪が揺れて目元にかかった。


やがてサイレンの音が近づいて、救急車から隊員が降りてきた。数人の隊員が手早く男性を救急車に乗せて処置を行った。


そのうちの一人が腰をかがめて「お嬢ちゃん、名前は」と質問した。


おばけは答えずに背を向けて、明後日の方向へ走り出した。隊員は引き止めようとしたが、離れていく少女の背中を見やって、諦めて救急車に乗り込んだ。


サイレンが遠ざかる。

人目につかない橋の下に腰をおろして、手についた砂を払った。


初めての状況なのに、この体は以前から知っているようによく動いた。そういえば、どこかの街で医療の心得がある者を食べたように思う。夜更けに相手の家を訪ねて、合意のうえで食べたのだ。相手の名前は覚えていない。


コンクリートの壁の落書きを眺めながら、誰かを助けるのは面倒だなと思った。自分には名前がない。適当に名乗ったとしても、住所や学校や親の名前を聞かれたらお手上げだ。


──おばけは人助けに向かない。


足元のたんぽぽを摘んで、綿毛を吹いて飛ばした。


その後、救急隊員の間で真偽の分からない噂が広まった。ランドセルを背負っても良いような年頃の少女が、急病人を見つけて通報してきた。的確な救命処置を行ったうえ、現場に向かった隊員の問いかけに答えず、信じがたい速さで走り去ったという。


搬送された男性は意識を取り戻して社会復帰しているが、少女の素性は分からないままだ、と。


隊員の中にも、そんな人間離れした話があるかと突っ込む者がいた。話がおばけの耳に届くことはなく、季節は春から夏へ移った。


夏の夜のこと。


梅雨が明けた頃から、女性を狙った殺人事件が続いていた。被害者同士に関わりはなく、状況からすると同一犯らしい。警察は捜査に取り組んでいるが、犯人はいまだ捕まっていない。


おばけは犯人の居場所を知っていた。街角でテレビのニュースを観たり、立ち寄った図書館で新聞を読んだりしているうちに、犯人のいる方角と周りの風景が自分の内に流れ込んできたのだ。


食事の時期が近づくと、次に対象とする相手の居場所を感じ取ることがある。普通の人間にはこんな機能はないんだろう。


人を食らうおばけは、犯人を捕まえて食べることにした。被害者に胸を痛めたわけでも、義憤にかられたわけでもない。空腹を満たすことが一番の目的で、結果的に事件が収束すればいいか、という程度の思いつきだった。おばけは犯人を追いかけて、歓楽街に足を踏み入れた。


月よりも明るい夜の街。


通りの両側には派手な電飾がきらめき、客引きの男女が道行く人を呼び止めていた。笑い声、歌声、怒鳴り声。様々な声が混ざり合って耳に届いた。


街の中心へと足を進めると、酔っ払いがおばけを指さして何事かを騒いでいた。おろした黒髪に帽子をかぶり、膝までのワンピースを纏った少女の姿は、歓楽街には似合わない。どこかの私立小学校の生徒を連想させた。


おばけは人混みの中、感覚を研ぎ澄ませて歩き続けた。足元に点在する嘔吐物が目障りだった。空腹を満たしたら長居はせずに出ていこうと思う。顔や名前は知らないが、相手の居場所は分かっていて、距離は着実に縮まっていた。


そして、一人の男のもとに行き着いた。


スーツを着た中肉中背の男が、自販機の脇で煙草を吸っていた。年は三十ぐらいか。殺人鬼という前提がなければ、あえて気に留める者はいないだろう。街に自然に埋もれるような姿をしていた。


おばけは彼に声をかけて、道に迷ったから最寄り駅まで案内してほしいと伝えた。男はそれに応じて、途中ではぐれないようにと手を握った。少女の手首を、男の無骨な手が繋ぎ止める。


「君は中学生か? まさか小学生ってことはないよな」


曖昧に首を振ると、男はもっともらしい忠告をした。


「世の中には悪者がたくさんいるんだ。こんな場所を一人で歩いてると悪い大人に食われてしまう。君みたいなのは格好の標的だ」


外は危ないから部屋に来るかと誘われて、おばけは頷いた。どこかの路地に引きずり込んで食べるつもりだったが、部屋に上がれるなら周りの目がなくて好都合だ。


この男は少女を標的だと思っている。自分は襲い食らう側だと信じて疑わない。


道中でいくつかの質問を受けた。携帯を持っていないのか、家で親が待ってたりしないのか。携帯は持っていないし家族もいないと答えると、男は口の端に笑みを浮かべて「俺も一人暮らしだ」と返した。


入り組んだ路地の先に、年期の入ったアパートがあった。


無防備な男は少女の手を握ったまま階段を上り、扉の鍵を開けた。人を食らうおばけを自分の家に招き入れた。


玄関で靴を脱ぐと、すぐに正面の部屋に行き着いた。

どことなく殺風景で、倉庫や作業場を連想させる空間だった。床はタイル貼りでじゅうたんはなく、丸めたブルーシートが部屋の端に寝かせてあった。


壁際に大型の冷蔵庫があって、銀色の扉が蛍光灯を反射していた。一人暮らしの部屋には不自然な大きさだった。男は鞄を床に置いてスーツの上着を脱ぎ、流しで手を洗っている。おばけは冷蔵庫の扉に手をかけて開いた。


袋詰めされた赤色が目に飛び込む。

人間の食べ物はなく、お茶の一本も冷えていない。

殺人の確かな証拠がそこにあった。


背後から「見たな」と声がした。凍り付くような響きの低い声だった。返事は求めていない。

男は叩きつけるように冷蔵庫の扉を閉めると、少女の胸元を掴んで壁に押し付けた。遅かれ早かれそうするつもりだった。殺害の動機に口封じが加わっただけのこと。


男の手が首にかかったとき。

少女の形が崩れて、触手が男の胸を貫いた。肉のしなやかさと機械的な重さを併せ持つ一撃だった。


男は肺の中の空気をすべて吐き切って、虚ろな目で相手を捉えた。


連続殺人は異常な行為だが、それを行ったのは「人間」だ。人の理を超えた化け物にはかなわない。


「悪いひとはおばけに食べられてしまいます」

「……おまえは」


あなたを食べるためにおうちに上がりました、と続ける。相手の意識はほとんど飛んでいたので、説明を止めて捕食に入った。無数の触手に覆われて、彼はこの世から消え去った。


捕食を終えたおばけは、少女の姿に戻って部屋にたたずんでいた。男の部屋は入居待ちの空室に変化し、ブルーシートや冷蔵庫も消えていた。


おばけに食べられた者は、死亡や行方不明ではなく「初めから存在しなかった者」になる。存在しない者には人は殺せない。連続殺人は初めから発生せず、女性たちはどこかで生きていることだろう。


少女の視線はぼんやりと定まらない。


──全然足りない。


一人を食べ切ったのに満たされないのは初めてのことだ。表札のない部屋を出て、夜の街へと引き返した。


通りの端に、ミニスカートを履いた若い女性が立っていた。道行く男性に声をかけて客を集めているところだった。彼女の背後には暗い路地が続いている。


ゆるく巻いた金色の髪と、白い手足が目に留まる。彼女の悲鳴を聞きたかった。顔が苦痛に歪むのを見たかった。


おばけは路地に身を隠し、彼女を引きずり込もうとして、直前でふと冷静になった。伸ばしかけた手を引っ込めて、今の自分は何をしているのかと疑問を抱く。


おばけが人を食べるとき、相手の経験や能力を自分に取り込むことになる。そうして文字の読み書きや社会の決まり事、職業上の経験などを取り込んできた。


誰かを食べたとしても性質が大きく変わることはなく、主導権はあくまで彼女にあった。人殺しの技術を受け継いだとしても、実行しなければ済む話だったが。


殺人犯を食べたことで、おばけは殺人への執着を取り込んでしまったのだ。生きるために人を捕食するおばけの性質と、殺人で快楽を得る犯人の性質が掛け合わされて、我を忘れるほどの強さになっていた。


足し算ではなく掛け算。十に十を掛けたら百になる。


空腹はおさまらないし、これではどっちがどっちを食べたのか分からない。悪い大人に食われてしまう、という言葉はある意味正しかった。


飛び退くように路地の奥に引っ込み、膝を抱えて夜明けまで過ごした。どこにも行かないように、自分の両手で足を抱え込む。やがて歓楽街に静かな朝が来て、おばけはふらりと立ち上がった。


県境の山の中腹に、打ち捨てられた小屋があった。林業をやっていた頃は農具倉庫として使われていたが、所有者がいなくなって朽ちかけていた。


おばけは山に足を運び、自然に還りつつある小屋に行き着いた。出会う者すべてを捕食の対象として見てしまう彼女は、前のように街にはいられなかった。外を歩いて図書館で本を読んだりしていたのが信じられない。


街に出れば誰かを襲ってしまうし、一人を襲うと歯止めが利かなくなるから、誰も襲わずに山にこもっていた。殺人犯が犯行を重ねたように、人を襲ったぶんだけ欲求が加速することは知っていた。


日中は木々の中に分け入り、草花を摘んで口に運んだ。人間を食べることが唯一の栄養源であり、草花を食べるのはその場しのぎの行動だった。枝から葉を外して口に入れ、残った枝は小山にして積んだ。


夜に小屋で横になっていると、どこかから獣の吠えるような声が聞こえた。


おばけは蚊や蜂に刺されることも、獣に襲われることもなかった。人間の社会だけじゃなく、生物の理からも外れていたのだ。夜もまともに眠れず、目をつぶると人殺しの幻影を見た。


ある晴れた朝、衝動から逃れるために、崖から谷底へ身を投げた。

崖から少女の姿が消えて、木の枝が揺れる。落下の途中で体から触手が生えて空中で広がり、木の枝を掴んでぶらさがっていた。


本能を象ったような触手は、彼女の意思を無視してでも生き続けようとした。手足を空中で揺らしながら、おばけは自分が失敗したことを知った。


こんな触手はもいでしまおうと思った。触手は捕食するための器官だから、触手がなくなれば衝動もおさまるだろう。


小屋に戻ってからは、自分の触手をもぎ取って食べた。味はよく分からない。


引きちぎった部分から液体が滲んで、新しい組織が再生した。痛みに耐えるように息をついて、時間が経つのを待った。再生に使うエネルギーのほうが多いのだから、空腹感はむしろ募るばかりだ。


どうしてこんなことをしてるんだろう、と思う。

山を下りればたくさんの人がいるし、存在ごと食べてしまえば誰にも叱られないし見つからないのに。


人間を知りすぎたから、欲求に任せて食い漁れなくなった。


日が上っては沈み、時々雨が降った。小屋の中で雨の音を聞き、屋根が風に揺れるのを感じながら触手をもいだ。天井から垂れた滴と、触手から染みた液体が混ざって床を濡らした。


やがて、触手の再生速度が落ちて、止まるときが来た。


木の葉が静かにそよぐ秋の夜。おばけは小屋を這い出て、月明かりの下で横になった。


──もう誰かを食べる元気もないや。


たとえ目の前に人間がいたとしても、今の彼女には捕食する力が残っていない。風に揺れるほど細い触手では、相手の体を貫いて仕留めることはできない。


その事実が嬉しかった。この命とともに殺人鬼の影響を終わりにするんだ、と思う。久しぶりに穏やかに眠れそうだった。


そういえば、人間は死んだら天国や地獄に行くのだと聞いたことがある。自分はどっちに行くんだろうと考えて、どっちでもない答えを見つけた。


──わたしはおばけの国に行く。


満足げに目を閉じて、そのまま息を引き取った。


誰も知らない戦いが終わる。



季節は巡って、春が訪れた。

おばけが倒れた場所には一本のたんぽぽが咲いて、綿毛がふわふわと飛んでいた。

たんぽぽの綿毛の花言葉:別離

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