微かな、ざわめき 後
車はだいぶ進んでいたようだ。胡月と別れた場所が小さく映る。ゆきは胸騒ぎを覚えたまま、その軽い体で風を切るように走る。
走れば走るほど、ゆきの胸騒ぎはどんどん増していく。
疲れたと、軽く言っていたが本当は起き上がれないほど辛いのではないだろうか。わざとそっけない態度をとっていたのも、こちらに気取られないように、あえてそうしていたのではないか。
病み上がりの胡月は、妖力が回復しきっていなかったはずだ。それなのに、ゆきを助けに来てその上、亜希を見つけ出すために自身の妖力をゆきに分けてくれた。
胡月はゆきにとって、命の恩人、そのものだっあ。
そんな彼に残っている妖力が、どれだけあるのか、彼がどんな状態に陥っているのかは分からない。ただ、思い返してみると引っかかることがある。亜希の腹の子が持っていた妖力は淡い光のようなものとして、ゆきの目に映っていた。それは自分が腹の子に分け与えた妖力も同じだった。
しかし、胡月の周りにはその光が全く、なかった。
焦っていて見間違えたのかもしれない。しかし、ゆきの推測が正しければ、胡月は危険な状態なのではないだろうか。
妖の妖力は、人間の生命力と同じだと、虎徹から聞いたことがある。妖が生きるための命の灯火、それが妖力なのだ。
胡月さんの、バカ……!
なんでそんな大事なものを、自分に分け与えたのだろう。どうして、そこまでして自分を救ってくれるのだろう。
胸がギュッと掴まれるような、息苦しさを感じゆきは顔を顰めた。それでも、足を止めるわけにはいかない。
ゆきは妖の世界と人間の世界を隔てる幕を潜り抜け、あたりを見渡す。たしか、この辺のはずだ。
「胡月さん!胡月さん!」
大声で叫びながら探していると、少し先の茂みの中から息を呑む声が気配を感じた。ゆきが慌てていてそちらへ駆け寄ると、そこには顔を真っ青にした胡月が呆れた顔をしてこちらを見ていた。
「胡月さん……っ!」
ゆきは慌てて胡月のもとへ駆け寄ると、その顔を覗き込むように跪く。真っ青な顔に吸い寄せられるように、そっと手のひらで触れる。
その肌は血の通っていない人形のように硬く、冷たかった。
「胡月さん……っ?!なんで?!」
その温度は幼い頃に亡くした、実の母の姿と同じもので、ゆきは慌てて胡月の手を取った。手首から感じる脈がとてつもなく、遅い。
死を連想させるその姿にゆきは慌てて、胡月の肩を揺さぶる。
起きて、その一心で声をかけ続けると、胡月がうっすらと瞳を開けた。
「胡月さん?!ねぇ、胡月さん!」
必死で叫ぶゆきの方を向く気力もないのか。胡月は身じろぎもせずに微かに唇を動かした。
「な、ん……で、も、どって……きた」
胡月の声は怒っているようで、ゆきはその言葉に余計に感情を爆発させた。
「なんでって……!ばか!なんでこんな無茶するの?!なんで、それを隠すのよ……っ!なんで、なんで……わたしなんかの、ために……」
目に浮かんだ大粒の涙が、ぽたぽたと胡月の頬に落ちる。溢れる涙は止めることを知らない。
ゆきが涙で言葉に詰まらせていると、胡月がゆきへと手を伸ばした。
「泣く、な……」
胡月の冷たい手が頬を擦り、そのまま地面へと落ちていく。
「胡月さん?!胡月さん!!」
瞼が硬く閉じ、呼吸が弱くなっていた。
胡月が死んでしまう、とゆきは何度も胡月の肩を揺さぶる。彼をこの世に繋ぎ止めなくては、その一心で何度も呼びかけるが、その目は開かない。
「やだっ……!死なないで!ねえ!胡月さん!」
泣き叫ぶゆきの声はもう、胡月には届いていなかった。胡月を抱きしめ、その重みと冷たさに、ゆきはさらに泣き叫んだ。
だめだ、こんなの、だめだ……!
「置いてかないでよ……っ!」
そう叫んだ瞬間、ゆきの身体から橙色の光が溢れてきた。それは、先ほど目にしたゆきの妖力そのものだった。
しかし、どこか様子がおかしい。その光の粒は、まるで意志を持っているかのように集まり、人型のような形になった。
訳がわからず、胡月を抱きしめる腕に力を入れる。その姿が、まるで死の世界の使者のように見えたからである。胡月が連れていかれると思ったゆきは、胡月を守らなくてはいけない、その一心だった。
しかし、その光の人型はゆきの想像に反して、再び光の粒となるとゆきの胸元へと帰っていった。
「えっ?何……っ?」
慌てるゆきに、誰かの声が耳元でこだまする。
ーーー彼を救いたい?
その声に、ゆきはハッと顔を上げ辺りを見回した。しかし、そこには誰の姿もない。
動揺するゆきに、その声は続けてくる。
ーーー彼を救う方法、一つだけあるよ。
切望していた言葉に、ゆきは藁をも掴む思いで頼み込む。
「お願い!教えて!どうしたらいいの?」
ゆきの必死な声が森にこだまする。
静寂の中、その声が小さく、笑った気がした。
ーーーもらった時と同じ。もらったものを返してあげればいい。
ぽぅっとゆきの胸元が淡く光る。
胡月にもらったもの、それは今、ゆきの身体の中を巡っている、この妖力だ。そして、もらった時と同じということは、きっと……。しかし、口付けだけで妖力は戻っていくものなのだろうか。
確証は持てないが、やってみるしかない。
ゆきは意を決して、胡月の頬に手を当てる。
身体中の妖力が熱を帯び、主人の元へ帰りたがっているような、気がした。
「今、返すからね」
ゆきはそう呟くと、自身の唇をそっと、胡月の唇へ重ねた。




