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絶望の淵で 後


 

 船が大きく揺れ、時折、獣の遠吠えが聞こえてくる。何かが激しくぶつかり合う音が何なのか、ゆきにはすぐにわかることとなった。


 アダンはゆきを担ぎながら、長い廊下を進み甲板へと通じる扉の前で、徐に立ち止まった。

 激しい叫び声にゆきの心臓は飛び出しそうになる。その声の主を、ゆきはよく知っていた。


「ははは、あの鬼、やるじゃん」


 アダンの声にゆきは身を捩り、肩越しに船上の惨事を目の当たりにする。


「酒呑、さん……?!」


 そこには顔を真っ青にさせながら、その腹の中にエドモンドを吸い込む酒呑の姿があった。

 どう言う状況なのかはわからない。ただ、酒呑の顔色がだんだん茶色味を帯び、酒呑にかなりの負荷がかかっていることは明白だった。

 

 どうしよう……!


 肩の上でじたばたと暴れるゆきを、アダンは鋭い爪を喉元に当て黙らせる。

 つーっと一筋の血が喉を伝うのがわかった。


「良いところなんだから大人しくしてくれない?」


 そう言うアダンの顔はひどく愉快そうで、ゆきはその違和感に混乱した。酒呑の顔色が悪いのはもちろんだが、状況的には明らかにエドモンドが不利だ。

 それなのに、アダンは特に助太刀する様子もなく、ただその様子を見物していた。


 アダンとエドモンドは血族であり、この船にいると言うことはゆきの誘拐は2人の計画なのだろう。それなのに、何故、味方の危機をこんなにも平然と眺めていられるのか。

 ゆきには到底理解ができなかった。


 ゆきが怪訝そうな顔をしていると、徐にアダンがゆきの方へと視線を向ける。肩越しに視線がぶつかり、ゆきはアダンの表情に恐怖を覚えた。


 その目は、あまりにも嬉しそうに弧を描いていたのだ。まるで、エドモンドの敗北を望んでいるかのように。


「ははっ、大叔父がいなくなれば、君の処遇は僕の一存だね。もっと、僕に媚を売った方がいいと思うけど」


 こんなに面白いおもちゃ、分け合うなんてできないよね、とアダンが笑ったと同時に、エドモンドの悲痛な叫び声が鼓膜を震わせた。

 それは、エドモンドの負けを意味していた。


「はははっ!最高だ!」


 ゆきの目にはもう、彼の姿は欲に飲まれた化け物にしか見えなかった。


 アダンが勢いよく扉を開けて、甲板へと出る。一同の視線がアダンとゆきに集まり、アダンはゆきを盾にするように自身の前に立たせた。

 皆の視線に緊張感が走る。


「お前らの負けだ。早く、ゆき殿を解放しろ」


 酒呑が低い唸り声を上げ、威嚇する。それに続き、虎徹がゆきの名を叫ぶ。


 ようやく、皆の顔を見ることができたゆきだが、その傷だらけの疲労困憊な様子に、罪悪感で胸が震えた。

 ごめんなさい……そう言いたいのに喉に枷をつけられたように声が出ない。


「お主、それは禁術じゃなかろうな……」


 ゆきと面識のない鼻の長い赤い顔をした妖、大鴉天狗がゆきの身に生じている異変を察知し鋭い視線をアダンへ向ける。

 アダンは肩をすくめるだけで、大鴉天狗の質問には答えず、もう一度ゆきの喉へと爪を立てた。


 アダンの挑発的な態度に、一同が戦闘体制を取る。しかし、踏み出すことはできない。


「ははっ、分かってるんだろ?こいつが今、生きられてるのが誰のおかげか。こいつの命が惜しくば、俺らが逃げるのを黙って見てろよ」


 完全なる脅しだった。

 酒呑とエドモンドの激しい戦闘のそばで、ゆきが生きられているのはアダンの術が外界の妖力からゆきを守っていたからだ。そして、今、下手に手を出せばゆきを避けて攻撃したとしても、アダンの意思一つで、その妖力はゆきの命を奪う。

 妖力なしに実戦でゆきを奪い返そうにも、その鋭い爪がゆきの喉を切り裂く方が早いだろう。


 出方次第でゆきの命を危険に晒す、そう言っているようなものだ。


 手を出せず悔しげに下唇を噛む酒呑らを、アダンは笑い飛ばす。性悪、その言葉がこれほどまでに似合う笑みは、そうそう出会えないだろう。


「せいぜい、そこでこいつが連れ去られていくのを指を咥えて見てるんだな」


 アダンの元へ複数の蝙蝠が集まり、アダンの身を囲ったかと思うと、その身は黒く艶やかな2枚の大きな蝙蝠の羽に変わり、アダンの背中へとおさまった。


 そして、右手をゆきの喉元へ当てたまま、左手を腹に回して抱き込むと、そのまま宙へと浮かんだ。


 このまま空から逃げる気なのか、酒呑らがどんどん小さくなっていく。


 焦るゆきは、自身が逃げるタイミングを失ったことに気づき、慌ててその手から抜け出そうとするももう遅い。


 どうしようどうしようどうしよう。


 パニックになるゆきの耳元で、カサッと紙が動く音がした。その紙はアダンに近づかれないように、そっとゆきの耳元で何かを囁いた。その声はゆきがよく知っている、頼もしくて力強い声だった。ゆきは、思わず息を呑む。


 どうして気づかなかったんだろう……!


 ずっと、そばにいてくれた頼もしい存在に、ゆきは泣き出しそうになるのをグッと堪え、ゆきはその声に応じるように小さく頷いた。

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