絶望の淵で 前
激しい破壊音と身が浮くほどの衝撃がゆきの身体を襲う。意識が無理やり現へと引っ張り出されたような、身体と精神が分離しているような曖昧な意識を何とか覚醒させ、辺りを伺う。
ゆきは捉えられた姿のまま、周囲に異変はない。硬く結ばれたままの手足に、ゆきは落胆しつつも、後ろ手でなんとか体を起こした。
部屋の中で、唯一外界に面しているのは、アダンが出入りしていた入口のみである。
ゆきは意を決して、体を引きずりながら扉に近づき、耳を澄ます。
悲鳴、慟哭、怒号……負の感情が入り混じった声が鳴り響く。そして、その奥に先ほどまで聞こえなかった波の音が聞こえてきた。
ここが海の上であると、はじめて認識したゆきは、逃げ場のない牢獄にいれられていたのだと気づく。何が起きているかはわからないが、何かトラブルが起きたことは明白だった。
逃げ出すなら、今しかない。
ゆきは身体を逸らして、足首の縄の繋ぎ目になんとか手を伸ばし、その硬い繋ぎ目を解こうと苦戦するも縄は一向に解けない。
ただ硬いだけではない。縄の隙間に手を滑り飲まそうとすると、縄が硬化して隙間を閉じてしまうのだ。何か術がかけられているとしか思えない。
ゆきが諦めかけたその時、ドアの隙間からスルルッと紙のようなものが滑り込んできた。
それも、一枚だけではなく、数枚が連なって狭い隙間を掻い潜って入ってくる。
その紙は人型を模したもののようで、その身を翻しながらゆきの元へと近づいてくる。そして、ゆきが苦戦していた縄へ張り付く。
「え?なに?」
たじろぐゆきに、一枚の人型が頬を撫で目の前で大きな弧を描いた。任せろとでも言いたげな人型に、ゆきはおずおずと身を差し出した。
不思議とその人型への恐怖心はなく、むしろ親しみや懐かしさを感じ、ゆきの直感がこの人型を信じろと訴えていた。
人型は縄を取り囲むと、仄かな熱を発した。そしてつぎの瞬間、パリンとガラスが弾ける音とともに、足を縛っていた縄が解かれていた。驚いたのも束の間、その人型は腕の拘束も解き、ゆきの身に自由が取り戻された。
「ありがとう!」
ゆきがお礼を言うと、その人型は大きな丸を作ってそのまま流れるように、扉を開けるようにゆきを誘う。
着いてこい、とでも言いたげな仕草にゆきは頷いて扉に手をかける。
ゆきが恐る恐るドアノブを回す。鍵はかかっていないようだ。
静かにドアノブを回し、微かな隙間から外の世界を伺うと、そこには丸い人魂のようなものが部屋の前でたくさん浮遊していた。
アダン達の見張りか、とゆきの身に緊張感が走ったが、その人魂から聞こえてきた音にゆきは驚き声をあげそうになる。
ーーーゆきさん
人魂から聞こえてきたのは、虎徹の声だったのだ。これは、虎徹の術なのだろうか、驚いたゆきは口に手を当てて叫び声を飲み込んだ。
助けに来てくれたんだ……!
安心感でゆきは泣きそうになる。それと同時に巨大な恐怖がゆきを襲う。先ほどの破壊音といい、今現在も聞こえている激しい騒音は、ゆきを助け出すために、皆が西洋妖怪たちと戦っている音なのだろう。
ゆきが約束を破り、捕まってしまったせいでみんなを危険に晒している。そう自覚した途端、これまで以上の恐怖心に震え上がった。
「早くここを出ないと……!」
ゆきは人型が指し示す方へ足を踏み出す。みんなのためにも、早くここから脱出して皆と合流しなければ。早く、早く。
ふいに、目の前をいく人型たちがピタッと止まる。
いや、止まったのではない。細い針のようなもので、宙に食い止められている。
人生とはどうしてこうもうまく行かないのか。ゆきは悔しさと絶望に強張る身体で、ゆっくりと振り向く。冷や汗が背筋を流れていくのが、やけにゆっくりとスローモーションに感じる。
「ほんっと、ろくなことしないよね」
その声と共に人型たちが弾けて、粉々に散っていく。一瞬の出来事にゆきは声も出せずに、見開いたその目で声の主を捉えた。
背後で、アダンが腹立たしそうにゆきを見下ろしていた。
「ほんと厄介だね」
そういうと、平手で勢いよく頬を打たれその衝撃にゆきの身は壁へと飛ぶ。容赦のないその暴力は、ゆきの心を絶望の淵に立たせた。
アダンは吹っ飛んだゆきの身体を、めんどくさそうに首を掴んで起き上がらせると、そのままゆきを俵のように肩に担ぐ。
「爆ぜろ」
アダンの目が赤色に光り、人魂達が水風船を破るようにどんどん弾けていく。
「虎徹くん……っ!」
ゆきが悲鳴にも似た声を上げると、身体を支えていた手をギリッと食い込ませられ、その鋭い痛みにゆきは顔を顰めた。
「君、これ以上、俺の機嫌を損ねないほうがいいよ?」
痛みを与え続けながら、船の先へとアダンは進んでいく。殴られた頬は熱を帯び、そこに心臓があるのかと錯覚するほどの激しい拍動を感じる。
理不尽な暴力に屈したくはない。しかし、アダンに捕まった以上、ゆきは自分の力ではその手から逃げ出すことはできない。
悔しい。自分の情けなさが、悔しい。
折れそうになる心を、ゆきはなんとか必死で繋ぎ止める。目に浮かんだのは、身体を壊すまで身を呈した胡月の姿。
ゆきがここで諦めば、きっと胡月は、九鬼家のみんなはその身を呈して、ゆきを救おうとしてくれるだろう。もうすでに足手纏いだけど、それでも、私にもできることがあるはず。
優しい彼らを、これ以上傷つけてはいけない。
ゆきは抵抗を辞め、従順に身を任せるふりをする。
絶対に、チャンスを逃すまい。
ゆきはアダンの肩に揺られながら、その時がくるのを虎視眈々と狙っていた。




