忍び寄る陰
翌る日、目が覚めると胡月はもう床にはいなかった。胡月の姿はもちろんだが、壊れた縁側の襖や、布団、氷枕も全てが跡形もなく消えており、まるで昨日のことが幻であったのように、元通りりの静謐さを取り戻していた。
もう熱は引いたのだろうか?妖力は?もう動いてもいいのか?
たくさんの疑問が胸を横切るが、その答えを知る由もなく、疑問の渦の中でひとり取り残される。
あんなにボロボロになってまで、体を壊してまで、胡月が必死になってやっていることは、胡月自身を消耗してまで、行う価値のあることなのだろうか?
胡月が寝ていた場所をぼんやりと見つめながら、ゆきは胡月への問いをどうすることもできず、のみこんだ。
ーーーーー……
深い深い闇の中、一羽のコウモリが赤い光を纏い空を飛ぶ。ここが人間界であったなら、一種のオカルト好きの連中のみならず、見た者すべてが
騒ぎ立てているであろう現象だが、夜は静謐さを保ったまま、その光を闇の中へと飲み込もうとする。妖の世界のことわりが、妖たちを守るように、その存在を包み隠すのだ。
コウモリが向かうは森の中。満月になりきれぬ月が、辺りを照らす中、器用に木々を通り抜ける。
そして、木々の狭間の開けた場所で、灰色の毛皮を被った生き物が獲物を捕食しているのを、コウモリが鋭い双眸で捉えた。
見つけた、コウモリがそう呟くや否やその姿は瞬く間に霞を帯び、灰色の毛皮、もとい、灰色の狼の目の前に金髪に赤い瞳をもつ少年が降り立った。
「大おじさん、ここでの捕食は控えろって言われてなかった?」
狼に臆することなく近づく少年。相貌は異なるが、その声はアダン・バレリのものである。
アダンは風で乱れた髪を直しながら、軽薄そうな笑みを浮かべて、小動物の骨を足で突く。
「これがバレたら大事じゃない?」
狼はちらり、アダンへと視線を向けるとごくりと口のものを飲み込む。そして、その姿を霞ませ変幻し、現れたのはルネの叔父であるエドモンド本人であった。
エドモンドは血のついた口元をハンカチーフで拭う。
「そう言うお前も、だいぶお楽しみだったようだな」
エドモンドはそういうと、口元を指し示した。アダンの口元からは隠しきれないほどの、鋭い犬歯が口元からはみ出ていた。
「僕にも狼の血が流れているみたいで、満月が近づくと疼くんだよね」
鮮血のように真っ赤な舌で牙をなぞる。恍惚な表情は、先ほどまでの甘美な蜜を思い出してのことだろうか。
エドモンドはそんな甥の姿に肩をすくめ、そへにしても、と真剣な面持ちで口を開く。
「こんなに妖力を消耗するとは思わなかったよ。本来ならば、狩りをせず穏便に済ましたかったのだがね」
ピクリ、とアダンのこめかみに青筋が立つ。はらわたが煮え繰り返るような怒りを露わにして、アダンは舌打ちを溢す。
そんな甥の様子を珍しいものをみたと、エドモンドは愉快そうに笑う。
「君も随分と手こずっているようだね」
「何、嫌味?」
「まさか。日本の妖怪を侮っていたのは、私も同じさ」
アダンの怒りをひらりと交わしながら、エドモンドは愉快そうに笑う。
アダンは不貞腐れながら、「しぶといから嫌になる」とため息をついた。
「あの狐、ちょこまかと僕の邪魔をするんだよね。ほんと陰険。僕の傀儡ほとんど壊されたんだけど」
「あの親子は日本の妖怪の中では、妖力が桁違いだからな」
「それに、あの結界!ほんと迷惑!綻びがあるように見せかけて、そこに違う種類の術がかかってんの。トラップすぎるでしょ」
憤るアダンに対して、エドモンドは笑みをさらに深めた。やはりな、と呟いた声は低く、アダンが少したじろぐほどの圧倒的な妖力が漏れ出ていた。
「あの家には、それほどに隠したいものがあるってことだ……あの女、何かあるな」
アダンは少し戸惑いながら、「座敷童子のこと?妹の方じゃなくて?」と、少し悩みながら口を開く。
「あの陰険な狐が、エマとの婚約を蹴ってまで嫁入りさせたぐらいだし、あの牽制っぷり……何かあるかと思ったけど、力無さすぎない?それなら、妖力の強い妹の方がレアだし。種族が座敷童子ってだけで、妖力的にはほぼ人間じゃん」
ずっと家の様子探ってたけど、期待外れだったと溢すアダンに、「人間、ねぇ」とエドモンドが呟く。日本妖怪が必死に隠している何かが、その人間臭い座敷童子の少女の中に眠っているのだ。
「まあ、この目で実際に見なければなんとも言えないがね。特別な少女と、強固な力を持つ妖狐、双方を手に入れれば我がバレリ家の一強時代となる。ルネの生ぬるい政治はもう終わりだ」
エドモンドの高笑いが闇の中に鳴り響く。全ては、我が権力のため。圧倒的、悪がエドモンドを支配していた。
「我らの下に、皆跪けば良い。共存なんぞ生ぬるい。全ては、我らのために」
こうなったエドモンドはもう手がつけられないと、アダンはやれやれ、とエドモンドの独壇場を見守る。正直、アダンには権力というものに興味はない。ただ、面白そうな方へ流れているだけで、頼りない当主である父ではなく、野望に満ちた大叔父についた方が刺激的だという理由だけで、この男の下にいる。
大叔父について正解だったな、とアダンは舌なめずりする。胡月という男が屈辱に歪む顔はさぞ実物だろう。
あれほどの執着を見せた胡月の大切なものを奪ったら、一体、胡月はどんな表情を見せてくれるのか。悔しさ、絶望、後悔。悲壮に満ちた表情は、どんな人間の血よりも甘美だろう。
「ゆき……か。僕を楽しませてくれよ」
月が、アダンを照らす。満月はすぐそこまで迫っていた。