異常事態、発生
ガタンと床が揺れる音と同時に、奥の方から障子の外れる音がし、ゆきは驚いて飛び跳ねた。いつもと変わらぬ穏やかな日々を一変させた、その物音にゆきは手にしていた買い物袋をひっくり返しそうになった。
何事……?
九鬼家の使いの人に買ってきてもらっていた食料品を片付けていたゆきは、これが終わったら海と甘味でも食べて人休憩しようと上機嫌で家事をこなしていた。しかし、どうやら穏やかな午後の予定は全くの白紙に戻された。
なにかトラブルが起こったのであろう。障子が外れるほどの衝撃に思い当たる節はなく、嫌な予感しかしない。幸い、一度の物音と揺れのみで静まり返っているので、自然災害ではないだろう。不安でいっぱいのゆきは恐る恐る音のした方へと足を進める。
地震じゃないとしたら……野生の動物でも飛び込んできた?
台所から庭に面する部屋までは、なかなかの距離がある。一部屋ずつ慎重に通り過ぎていると、物音を聞きつけた海がゆきのあとを追いかけてきた。
「ゆきちゃん、今の音なあに?」
「何だろうね……。危ないから、海ちゃんはここで待っててくれる?」
「えー、うみもいくー」
やだやだ、とごねる海に、ゆきは頭を悩ませる。こうなった海を止めるのは至難の業だ。困ったな、とゆきは折れかけるが、もし、何か危険なものだった場合、ゆきでは海を守れない。
「海ちゃん、海ちゃんは主将ね!私は偵察に行ってくる係。私が呼んだら海ちゃんが助けに来て欲しいんだけど……海ちゃん、できるかな?」
「しゅしょー?」
「そう、主将。1番強くて偉い人のことだよ。海ちゃんにしか頼めないんだけど、どうかな?」
海の目が爛々と輝く。海にしか頼めない、というのが効いたようだ。ゆきの機転でなんとか、海をそこに待機させて、1人で音のした方へ歩いていく。ここまできたら、もう腹を括るしかない。
熊とか鹿じゃありませんように……!
大型動物ではないことを切実に祈りながら、恐る恐る歩みを進める。縁側に面した部屋の前までくると、ゆっくりと隙間を開け中を覗き込む。
そして、縁側付近へと目を凝らしたゆきは、目の前に広がる光景に驚き息をのんだ。
野生動物なんかじゃない。そこにはいたのは、ぐったりとした倒れ込んだ胡月ではないか。ゆきは襖を乱暴に開けて、慌てて胡月のもとに駆け寄る。所々、かすり傷はあるようだが、大きな怪我は見当たらない。しかし、肌が目で見てわかるぐらい真っ赤に染まっていた。
「ちょっと、どうしたの?!」
慌てて駆け寄り、起きあがろうとする胡月を助け手を貸そうとするが、服越しにもわかる熱にゆきは驚き怯んでしまう。胡月には自力で起き上がるだけの体力が残っていないようで、ゆきの手を滑り床へと吸い込まれていく。我に帰ったゆきが、なんとか床に倒れるギリギリで胡月の体を受け止める。
「ねえ、すごい熱だよ?!」
慌てるゆきの声に、胡月はうっすらと瞳を開ける。金色の瞳が揺らぎながら、ゆきへと焦点を合わせ、その存在を確認するとうるさいと言いたげに思いっきり眉を顰めた。
「うるさい……妖力に当てられただけだ。休めば、治る」
そう言う胡月の息は絶え絶えで、今にも力尽きそうである。喋るのも億劫なようで、肩で息をしながら乱れた息を整える、その体は湯気が出そうなほど熱い。弱りきった姿に困惑するものの、虎徹は外出中で、今、家にいるのはゆきと海のみだ。他に頼れるものはおらず、妖怪の体について無知なゆきは、胡月の言葉を頼るほかない。
「ほんとに大丈夫なの……?」
「ああ……人間の風邪みたいなものだ」
立ちあがろうとする胡月の体を横から支える。
いつもなら振り払われるだろうが、そんな体力もないのか、胡月は大人しくゆきにもたれかかる。ずしりとかかる重みが、事の重大さを表しているようで、ゆきは心配でしかたなかった。しかし、胡月は事を荒げたくないようで、再度、「寝たら、治る」とゆきに言い放つと、立っているのもやっとな癖に、自室へ戻ろうと体を動かす。
前へ前へと進もうとするも、早る気持ちに身体はついていかず前のめりに突っ伏しそうになる胡月を、ゆきは慌てて前に回り込み抱き止めるように、その身体を支える。
細身とは言え、長身の胡月を支えて歩くのは、女子一人の力では厳しいと判断したゆきは、どうしようか、と悩んだ末に海の存在を思い出した。
「海ちゃーん!助けてー!」
大袈裟にそう呼ぶと、海はバタバタと足音を立てながら意気揚々と縁側へ走ってきた。そして、元気いっぱいに襖を思いっきり開けると、ゆきに抱きつくように立っている胡月を見て、さっきまでの勢いはどこへやら、目をまん丸にさせて首を傾げた。
「大にーに、どーしたの?」
海からは胡月の顔が見えず、状況が飲み込めずぽかんとしている海に、ゆきは「海ちゃんにお願いがあるんだけど……」と切り出す。
お願い、と言う言葉にぴくりと海の耳が動き、大きな二つの瞳が期待に満ちて輝く。
海の視線を背中に感じたのだろうか。胡月は、一体、海に何を頼むつもりだ、と言いたげな厳しい視線をゆきへ向けたが、もう喋る元気もないらしい。ゆきに体重を預け、かろうじて立っている状態の胡月のもの言いたげな視線を無視して、困った顔を海へ向ける。
「胡月お兄ちゃんの部屋にいる、付喪神たちを呼んできてくれる?」
そう頼み、最後に念押しをする。
「海ちゃんにしか頼めない、大事なお仕事なんだけど……」
そういうや否や、大事なお仕事に顔を輝かせた海が、「わかった!呼んでくる!」と勢いよくかけていく。どたどたと足音が家の中をこだましている。この様子だと、すぐにでも付喪神たちは来てくれるだろう。そのことに安堵し、ゆきはほっと息をついた。
胡月はもう、目を開ける元気もないのか目を瞑ったまま静かに胸を上下させている。その姿はとても、大丈夫、には見えなくてゆきの不安は募っていく。
走って呼びに行ってくれたのだろう、すぐに海が付喪神たちを連れて「つれてきたー!」と元気な声をこだまさせる。救世主たちの登場にゆきはほっと胸を撫で下ろす。
「海ちゃんありがとう〜!助かったよ」
海はえっへん、と胸を張って「うみ、しゅしょーだからね!」と得意げである。
海の後ろには、付喪神たちがぞろぞろと集まってきた。そして、主人の異変に気づき、心配そうにどうすればいいのかと、オロオロしている。
「ごめん、つくもたち、布団ひいてくれる?」
ゆきがそう声をかけると、付喪神たちは大きく頷き、部屋に駆けていく。そして、胡月のものなのだろう、持ってきた布団を器用にひいていく。
付喪神たちが布団を引いているのを見て、違和感を感じ取ったのか、海が胡月の顔の方へ回り込み、ゆきの肩に半分埋まった顔を覗き込むように見上げる。
「大にーに、いたいいたい?」
いつもの胡月とは違う、痛々しい表情に気付いたのだろう。海が心配そうにそう聞くと、胡月はなんとか絞り出した声で「大丈夫だ……」と微笑む。額には汗が滲み、全くもって大丈夫そうではないその様子に、海は心配そうに胡月の足元にくっつく。
胡月に触れているところが尋常じゃないくらい熱く、本人は風邪のようなものと言ったが、明らかに風邪のレベルを超えていると思う。
妖怪のことは全くわからないが、少なくとも今の胡月の言葉を信じちゃダメだ。
ゆきは胡月の腕を下から支えるように、自身の肩の上へ回し、腕を掴んだ手と反対の手で、胡月の体をしっかりと掴む。
後から恨まれようがキレられようが構うまい。ゆきは目の前の病人を看病すると心に決めた。