檻の中に芽生える、交差する思い
奇妙な面会から数日、あの日の曇天が嘘のような快晴の下、ゆきは暇を持て余していた。というのも、あの日から酒呑と胡月はほぼ家に帰らず、多忙を極めていた。食事もほぼ取らず、帰ってきても自室にこもって何やら調べものを夜遅くまでしているようだ。
あれほど困らされていたエンゲル係数も、実家となんら変わらず、作っても作ってもすぐになくなった料理も数日間の作り置きができるほどまでに落ち着いた。
ひとつ、気がかりなのは胡月のことである。旅館からの帰り道、彼は難しい顔のまま一言も発しなかった。話しかけるのも憚られるような空気に、ゆきは居心地の悪さ以上に、何かあったのだろうかと気になる。ゆきがはなれから退室した後、胡月は少しの間、虎徹の婚約者予定のエマという少女の親族である、ルネ、アダン、そしてエドモンドと3対1で話をしていたようなのだ。
何を話していたのか気にはなったものの、今にも一雨降り出してしまいそうな天気の悪さに、結局聞けないまま車に乗り込み、そのまま聞けずじまいとなってしまった。
その日を境に、酒呑と胡月が多忙を極めているので、おそらく、バレリ家関連だろう。
あの日のあまりにも失礼な態度を思い出し、ゆきはムッと口を真一文に硬く結ぶ。聞いていた話では、彼ら西洋妖怪のための婚約のはずなのに、なんとも見下した様子で、虎徹の一体何が気に入らないんだ、とゆきは詰め寄りたい気分だった。
ルネの話だと、花嫁であるエマは虎徹を気に入っているようだったし、虎徹自身も今回の婚姻に同意しているようだ。それを叔父とか兄とかしらないが、何を偉そうに……と思い始めたところで、ゆきは自身の思考を恥じた。勝手に決められた婚姻を、本人が同意しているからといって、外野があれこれ口を出すことじゃないし、自分も胡月との婚姻を勝手に決められて辟易していたのを棚上げしていた。
エマって女の子はどうなんだろう……。
エマと自分を重ねて想像してしまう。もしかしたら、親に言われて仕方なく同意したのかもしれない。ほんとは別に好きな人がいたのかもしれない。エドモンドたちを悪者のように言っていたが、ほんとはエマのことを慮っていたからかもしれない。だからといって、虎徹らにとった失礼な態度は許されるものではないが、本人でもない自分が好き勝手言うべきことではない。
ただ、一つ思うことがある。もし、エマと同じように、日本人として種族を救うために、他国の人と結婚しろと言われたら、自分だったらどうするだろうか。家族や友人、知人たちだけでなく、喋ったことのない、顔も知らない人たちを救うために、どれだけ自己の感情を押し殺して生きていくことができるだろうか。
ゆきは複雑な感情で、顔も知らぬエマという少女の心を慮る。彼女の心が重圧で崩れてしまわないませんように。どうか、納得のいく決断ができますように。
ゆきがそう願いを込めて、雲ひとつない青空を見上げていると、後ろからトタトタという可愛らしい足音が聞こえてきた。
「ゆきちゃーん!見てみて!」
振り向くと海が両手いっぱいに、画用紙とクレヨンを胸に抱え込んでやってきた。その後ろをにこにこと優しい笑顔の玉枝が音もなくするりと歩み寄る。玉枝が来てたのか、とゆきが軽く会釈すると、優しい笑みをさらに深めてくれた。
胡月と酒呑が多忙を極めるようになり、家にいるのは虎徹とゆき、海の3人になることが増えた。虎徹はまだ高校生だし、高校を卒業したとはいえ、ゆきに至っては居候という身分だ。
酒呑の妖力で守られている九鬼家は、対人間に関しての防犯は全くの問題はない。もちろん、日本の妖怪に対しても、と言う酒呑は「ただ、やつらに関しては、何もせぬとは断言できぬ」と厳しい面持ちで、ゆきと虎徹に告げた。彼ら、とはおそらくバレリ家のことで間違いないだろう。
暴力沙汰になるのはごめんだし、俺一人じゃ太刀打ちできないだろうし……まあ対策を練るのに越したことはないよね、と虎徹は酒呑の考えに賛同しているようだった。酒呑は家の結界は今まで以上に十分に張っていること、術をより強固なものにするために玉枝にも短時間の術を上乗せでかけてもらうことを説明し、虎徹にはそれがきちんと作動しているか確認し、家のものに危害が及ばぬよう周囲への注意を怠るなと、言いつけた。そして、ゆきに対して、絶対に敷地内から出ぬようにと念を押されたのだ。
玉枝は術の点検かつ掛け直しに来ては、海の遊び相手をしたり、ゆきともに家事をしてくれたりと、女性陣の中はぐんっと狭まっていった。
玉枝に付き添われてやってきた海は、足元にクレヨンと画用紙を置くと、一枚の大きな画用紙を両手で持つ。そして、ゆきに向かって差し出しながら、大きな目を爛々と輝かせて早く見てと言わんばかりに、ゆきに押し付けてくる。
「ゆきちゃんに、あげるー!」
見てほしいのではなく、どうやらプレゼントらしい。
「くれるの?ありがとう〜!」
海と視線を合わせてそう言うと、海は早く見てと言わんばかりに、鼻息荒くこくこくと頷く。なんだろうか、とワクワクしながら、ゆきが受け取りその画用紙を見やると、そこには画用紙いっぱいににっこりと笑っている女の人の姿が描かれていた。
ほぼ丸で塗りつぶされていて誰なのか判別がつかないが、着ているものの色と形にゆきはピンと来た。
「もしかして、私?」
ワンピースにしては袖が長く描かれており、腹の部分が四角の黒色で強調されており、おそらく着物を描いたのだろう。そしてなりより、黄色の着物、これはバレリ家との顔合わせの時に、ゆきが着付けてもらった着物と同じだ。
当たりだったようで、「うん!」と海は勢いよく返事をすると、褒めてもらえるのを身体をクネクネさせながら待っている。そのいじらしさに、ゆきの胸はガツンと鷲掴みにされた。
「ありがとう!すっごく嬉しい」
ゆきが声に力を込めて、嬉しさを強調すると、海はえへへと蕩けてしまいそうなほど相貌を崩した。ゆきの膝の上に登ると、一緒に絵を見ながらこれがゆきちゃんでー、と絵の説明を始めた。顔のすぐ下にある、海の頭皮からお日様のようなポカポカした匂いが漂う。優しい気持ちになりながら、その話を聞いていると玉枝が二人の姿を見て目元を緩めた。
「海ちゃんな、着物姿のゆきちゃんが描きたい言うて、着物の絵、たくさん練習してたんよ」
玉枝に「なー、海ちゃん」と声をかけられた海は、コクリと大きく頷くと、ゆきのカーディガンを握りしめて片膝立ちで、ゆきの耳元に口を寄せる。内緒話でもするみたいな仕草に、ゆきが耳を傾けてやると、海が大きな声のまま、こっそり耳打ちしてきた。
「ゆきちゃん、とってもかわいくて、お姫様みたいだったの」
照れたようにはにかむ海の可愛さに、危うくKOしかけたゆきは感情のままに海を抱きしめる。
「海ちゃんありがとう〜海ちゃんもお姫様みたいに、とっても可愛いよ」とぎゅうと抱きしめると、海はくすぐったそうに高い声できゃっきゃっと笑う。側から見れば、二人の年の離れた姉妹が戯れあっているようにしか見えない。
玉枝は、そんな二人の姿を微笑ましそうに見守る。ゆきを姉のように純粋な心で慕う海も、海を妹のように慈しみ可愛がるゆきも、二人とも愛し愛される存在であり、大人たちに守られるべき対象である。
安心できる環境でのびのびと自由に生きていくべきでなのに、と玉枝は歯痒い思いで現状を思い返す。二人を守るための結界は、いわば檻のようなものである。敵からの攻撃から隔離され安全に過ごせるが、それは自由を奪い拘束するのと同義である。もしも、離れていても十分に守れるくらい、莫大な妖力を手にしていれば。もしも、先祖返りのゆきにも十分な妖力があれば。もしも、海が自分の力をコントロールできるほど成長していれば。たくさんのもしもが渦巻き、どうすることもできないないものねだりに、玉枝は心が闇で侵食されていくような気がした。
こんな檻の中でしか二人を守ることができない、自分たち親世代の不甲斐なさを悔やむことしかできなかった。