嫁入りは、突然に
晴天の霹靂とは、まさにこのことだろう。
倉敷ゆきは目の前に広がっている光景が信じられず、眩暈を覚えこめかみを抑える。
今日はゆきの高等女学校の卒業の日。
後輩たちに小さな花束をもらったゆきは、つい先ほど両親と共に帰宅したばかり。名前のイメージからだろうか、白を基調とした淡い色の花束は玄関の花瓶の中で降り積もった雪のように太陽の光を反射しキラキラと煌めく。
玄関には履き慣れていない黒の革靴とベージュのパンプスが恥ずかしそうに縮こまっていた。
父と母は先に着いていたのか。
ゆきは少しくたびれたローファーをその隣にきっちりと並べる。もうこの靴を履くことはないだろうな、と共に過ごした学園生活を思い出して名残惜しい気持ちになる。
明日からはこの家の跡取りとして、呉服屋の世界に入る。ゆきは気の引き締まる思いで、裏口から見える店内に目を向けた。
倉敷家は代々呉服屋を営んできていた。
若くして嫁いだ母がこの世を去ったのは、ゆきが小学校に入学した頃、倉敷家の経営が右肩下がりになった頃と被る。
次々と仲間の店が潰れていく中、この店と父、信幸を支えたのは今、この店の女将である亜希だ。亜季は呉服のことだけでなく、洋装についても勉強し呉服の世界を広げていった。
そして、信幸は自分を健気に支え続けた亜季に次第に惹かれていき、一昨年、ようやく籍を入れた。店の経営でいっぱいいっぱいだったと言うのもあるだろうが、おそらくはゆきの為である。
信幸と亜希は、10年という時間をかけて、ゆっくりとゆきとの新しい関係を築いていった。実の母の死は幼いゆきには耐えられぬほど辛かったが、その悲しみを一緒に悼んでくれた亜希の存在に、ゆきは幼いながらもこの人は信じてもいい人なのだと信頼していった。そして、父が亜希と結婚を決めたとき、ゆきは素直に喜び祝福した。正直、もっと早く籍を入れても良かったのではないかと思うほどに。
まあ、亜希も若かったため、7つ上のコブ付きの男に嫁ぐなど、親族も慎重になったのだろう。
粘り強く説得した結果、やっと結婚できた2人の間に新たな命が宿っているとつい先日報告された。
18歳差の兄弟か…自分の子どもでもおかしくはない歳だなと、ゆきはもらった花束を花瓶にいけながらぼんやりと思う。
ゆきを産んだ母はどんな気持ちだろうか。思い出すのは太陽のように明るい笑顔。きっと、小さい子が好きだから我が子同然のように可愛がるのだろうな、と小さく笑う。
想像上の母親が、ゆきは嬉しくないの?と揶揄うように聞いてくる。
「多分、1番喜んでる」
独り言のように、小さく溢した口元が隠し切れないほどにっこりと弧を描く。
信幸も亜希も心配していたが、何を心配するのだというくらい、2人の間に子どもが生まれるのがすごくすごく嬉しい。
信幸以上に過保護なゆきは、亜希のいく先々を付き纏い、亜希には「ゆきちゃんが父親みたいね」と笑われた。
とにかく、亜希には出産を控えてゆっくり休養してほしいと言う気持ちもあり、高校を卒業して家業を手伝えるようになるのを心待ちにしていた。花の微調整を終えると、少し濡れた指先を宙で踊らせながら、足腰が悪く式に参加できなかった祖母のいる離れへと向かう。
古い日本家屋の家は、冬にとてつもなく弱く隙間風がそこらじゅうから入り外と気温が変わらないほどだ。段差も多く、高齢には辛いということで、祖母の代に先代の住居として離れを増築した。離れも雰囲気は母屋と同じく、古風な由緒ある日本家屋風ではあるが、年々、バリアフリー化されており母家と比べると驚くほど快適である。離れの居間には祖母の妙子がのんびりと茶を啜って、ゆきの到着を待っていた。
「おばあちゃん、お待たせ。話って何?」
妙子の正面に腰を下ろし、脇に置いてある急須に手を伸ばす。たっぷりと湯の入った急須にはうっすらと湯気が昇っている。横に置かれている茶器を取り、自分用のお茶を入れる。廊下ですっかり冷えてしまったため、ついでに暖を取ろうという思惑である。
妙子は「待ってたで」とお茶請けをゆきに薦めると、茶を飲み干しふうと一息つく。空になった祖母の分の茶も淹れると、ゆきも茶を口にする。
じんわりと温もりが広がり、強張っていた指が解れる。
妙子は仰々しく懐に入れていた、古い巻物を取り出して、ゆきの目の前に広げる。ゆきは身を乗り出して、巻物の中を覗き込む。そこには見覚えのある筆跡で婚約証書とデカデカと書かれており、何故だか、そこにゆきの名が記されている。
じわりと嫌な汗が背中を伝う。
見間違えかと思うが、やはりそうではない。巻物には、ゆきの名の前に妻とはっきり書かれてた。結婚した覚えはもちろん、交際した覚えもない。
ゆきは震える手で巻物を指差す。
「おばあちゃん、これなに?」
ゆきの困惑などつゆ知らず、妙子はにっこりと微笑むと、口に手を当ててふふふと声を漏らす。紅を塗った唇が弧を描き、見本のような美しい笑みを浮かべる。計算高く腹黒く見えてしまうのは、ゆきだけではないはずだ。
「せやから、ゆきちゃんは九鬼さんのお孫さんの胡月くんとこに嫁入りするんよ。おじいちゃんと九鬼さん、えらい仲が良うてな〜。お互い同じ年に孫が生まれたからって、とんとん拍子に進んだんよ」
妙子はそう言うと、一息ついてもう一度湯呑みに手を伸ばす。ゆっくりと湯呑みを傾ける妙子は穏やかそうな笑みを浮かべたままだ。そんな妙子とは裏腹に、心中穏やかではないゆきは、話が盛り上がったからって孫を勝手に嫁に出すなよと怒りに肩を震わせる。
そんな約束など、18歳のこの日まで、一度たりとも耳にしたこともはない。ましてや、こんな田舎の僻地で小中高と古くからの女子校に入れられたゆきは、全くもって男性との関わりがなかった。
それが急に婚約なんて、意味がわからない。
私の蚊帳の外で、私の将来についてあれこれと手を回されていたのだということも、気に食わない。今は亡き祖父に恨み言なんて言いたくはないが、棺桶の中から引きずり出して怒りをぶちまけたい気持ちになる。
「そんなの知らないし、私、その人と結婚しないから!」
ゆきは思いっきり机を両手で叩くと、妙子は相変わらずののほほんとした表情で、あらあらと口元に片手を添える。自身の孫の結婚話だと言うのに、何故にこうも他人事なのだろうか。
「そうは言うてもなぁ、ゆきちゃん。もうお約束してしもたし、九鬼さんといえばここら辺の中でも有名な名家や。反故になんてできやしまへん」
口調こそゆったりとしているが、ゆきの意見など聞かぬと、はっきりとした物言いで拒絶される。ゆきの反論を許さぬとばかりに、妙子は続ける。
「万が一にもよ、ゆきちゃんが嫌がって逃げたりなんかしたら…もう、九鬼さんカンカンに怒って、うちなんてもう商売できひんくなるわ……亜希ちゃんのお腹の子もみーんな、路頭に迷っちゃうなぁ……」
ゆきはぐぬぬと苦虫を噛みつぶす。
直接的な物言いはしていないが、要するに店が潰され一家一同路頭に迷うと言うわけだ。こんな狭い村の、小さな商家の一つである倉敷家は、大きな名家の不興を買えばあっけないほどすぐに捻り潰されてしまうのだ。
店が潰れるだけなら百歩譲って仕方がないことだとしても、今まで苦しい思いをしてきた父や義母、そして可愛い弟妹に惨めな暮らしをさせるなど論外である。一家を人質にとられているこの状況下で、ゆきに拒否権などはなから存在しないのだろう。
まてよ、とゆきは眉間に皺をよせる。ある嫌な疑惑が思い浮かんだのだ。
「もしかして、私の学校を指定してきたのも、修行やらなんやら言って友達と全然遊べなくしたのも、全部この為……?」
妙子はびくりと肩を揺らし、手にしていた湯呑みから茶をひっくり返しそうになる。普段ならしない同様具合に、ゆきは戦慄く。
図星、なのだろう。
遠くの学費の高い女子校じゃないと高校進学を認めない、と何故か最後まで反対していたのは妙子だけだった。本人が望むのなら父は近くの高校でもいいのではと何度も妙子に反論していたが、その度に倉敷家のしきたりだ、女将修行ができるのはそこしかないなど、よくわからない理由をつけて喧嘩になっていた。
正直、学校にこだわりがなかったゆきは、過剰分の学費は祖父母が出すというので、毎日のように行われていた言い合いに疲れたのもあり、妙子の勧める女子校に入学したのだ。
妙子は眉をハの字に寄せ、申し訳なさそうに縮こまる。あくまでも、顔だけは、だが。
「かんにんえ。18歳になったらすぐ九鬼さんのお宅に行かなあかんし……もし恋人でもできてたら、お別れしなあかんやろ?」
どうやら、ゆきが恋人を作ってしまって変に手がついて向こうの家に迷惑がかからぬように、という妙子なりの配慮だったらしい。
ゆきには迷惑な話である。怒りに任せて口を開こうとしたゆきだったが、耳に残った言葉の違和感に口籠る。そして、恐る恐る口を開き、言葉を発した。
「今、18歳になったら、何て言った?」
遅生まれのゆきは丁度明日18歳の誕生日を迎える。ゆきは身を乗り出し妙子に詰め寄るが、妙子はどこ吹く風か、全く動じず急須に手を伸ばす。
「そうや、明日、九鬼さんのお宅に行くんや。九鬼さんの家で住み込みで花嫁修行をして、20歳になったら正式に嫁入りや」
妙子は、ゆきちゃんの花嫁衣装楽しみやわぁと、新たに茶を入れ直す。
「住み込みって……明日から家を手伝う話だったじゃない!」
急展開する話についていけず、心の拠り所であった家業のことを口にするが、妙子の冷えた目が突き刺さる。
「倉敷家が潰れたら家業云々の話じゃあらしまへん嫁入りも立派な家の仕事です」
この目になった妙子には何を言っても聞き入れてもらえないと、長年の経験がものを言う。
これは、相談じゃなくて、決定事項なのだ。
ゆきは悔しくて泣きたくなる気持ちを必死で抑えながら、目の前の巻き物をきっと睨む。この、古臭い巻物のせいで、ゆきはこれから売られるも同然。でも、そんなのは絶対嫌。
ごくりと唾を飲む。
明日から嫁入りなんて知ったこっちゃない。こうなったら、証拠隠滅して無かったことにするしかない…!
先ほどから何度も、一文一句何かボロがないか読み返してきた巻物を乱暴に取り上げる。こうなったら実力行使だ。
「やめといた方がええで」
ちらりとこちらを見て涼しげにあしらう妙子を、鋭い目で制して力一杯に巻物を破り捨てようとした、その時。
「ーーーーっ!!」
手に鋭い電流が流れ、手にしていた巻物が音を立てて机の上に戻る。
静電気?いや、そんなはずはない…。
自然現象では片付けられない鋭い手の痛みに、縋るように妙子を見つめる。妙子はそんなゆきを一瞥すると、「ほら言うたやろ。バチ当たるで」とさらりと言い放つ。
この巻物には呪いでも込められていて、亡き物にしようとしたゆきへの天罰とでも言うのか?
現実的にあり得ないだろう、そう思うのに思えば思うほど手の痛みが増す。
破ろうとしただけでこの様だ。信じたくはないが、これ以上この巻物に危害を加えたら、今度は手だけではなく、体全体へ電流が落ちるかもしれない。多分、雷に打たれたぐらいの電流が。
ゆきは身震いして、巻物から体を離す。
茶を飲み切ったらしい妙子が、徐に立ち上がり障子をあける。そこでようやく、障子の向こう側に誰かが立っているのにゆきは気づいた。
「信幸!居るんやろ、早よ入り!」
鋭い妙子の声が響き渡り、おずおずと障子が開く。一体、いつから聞いていたのだろうか?卒業式の時と同じスーツ姿の信幸が申し訳なさそうに顔を見せた。その顔が、ゆきの婚約話を無かったことにはしない、と物語っていた。
絶望に打ちひしがれるゆきをよそに、信幸が深く頭を下げる。
「俺が不甲斐ないばかりにすまん…!」
その言葉に、やっぱり信幸も共犯だったのかとやるせ無い気持ちになる。信幸にとっては、無理もないことなのかもしれない。家を人質に娘を差し出せと言われているのだから。
きっと、ゆきと倉敷家を天秤にかけた結果なのだろう。そして、実の娘に頭を下げざるを得ないほどの圧力を、我が倉敷家は受けているのだ。脳裏に浮かぶのは、ゆきを受け入れてくれた優しい笑顔と、まだ顔も知らない新しい命。
「亜希さんは…?」
ぽつりと言葉を落とす。
信幸は言葉の意図が理解できず、頭にはてなをたくさん浮かべたような間抜け面である。
「亜希さんは、このこと知ってるの?!」
ゆきが声を荒げながらそう聞くと、信幸はやっと質問の意図がわかったようで勢いよく被りを振る。
「亜希は何も知らない。俺も聞いたのはついさっきだったし…」
ゆきは二人に聞こえるように、はあと大きなため息をつく。信幸は今知って、ゆきに嫁入りをしてもらうのが最善だと考えたのだ。悔しいが、ゆきもそう思う。
ならば、ゆきがすることは一つだけ…。
「亜希さんに詳しいことは内緒にして。亜希さんとお腹の子を傷つけたら、ただじゃおかないから」
連れ子の自分を受け入れ、愛情を注いでくれた心優しい亜希とその子を守れるのは、ゆきだけなのだ。
本当のことを知ったら、自分が路頭に迷うかもと知っていても、ゆきの気持ちを優先してくれるだろう。貧しくてもなんとかなると、前向きに明るく今まで以上に頑張るだろう。
「ほんまに、あんたの方が父親みたいやねぇ」
ゆきの勇ましい宣言に、妙子がすっと目を細める。その目には先ほどまでの意地悪さは消えており、ただ優しさのみが宿っていた。
「わかりました。亜希さんには、許嫁との縁談を進めるかどうか吟味するために、数週間あちらのお宅にお邪魔する、とでも言うときましょ」
妙子の言葉に、信幸も静々と居住まいを正す。やや迷い、そして決心したように、まっすぐにゆきを見つめる。
「こちらからは断ることはできない…でも、あちらからなら…」
縋るような信幸の視線と、静かに頷く妙子の顔に、ゆきは二人が言わんとしていることを察する。
失礼に当たらない程度で、向こうの家に幻滅されさえすればいいのだ。そうしたら、婚約破棄でゆきは自由の身、そして、倉敷家には非がないので圧力をかけられない。
必ず、この家に帰ってきてやる…!
ゆきは心の中で勇み声を上げた。