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虚言

よくある話とお思いになるかも知れませんが、わたくしは悲しくて、あの、お優しく汚れを知らぬお嬢様が、どうしてあの様になってしまわれたのかと思われて仕方がないのでございます。


お嬢様がお生まれになったのは、わたくしが、この安城家にお仕えして二十余年になる頃でした。それはもう旦那様も奥様もお喜びになられて、当時まだお元気でいらした大奥様もお嬢様を大変可愛がられました。わたくしも、もう嬉しくて嬉しくて。お嬢様はまるで太陽のように家中を明るく照らしていらっしゃいました。

その、幼かったお嬢様もすくすくとご成長され、二十歳をお迎えになられると、凛とした立ち振る舞いや容貌が周囲の目を引くような、美しい女性になられました。お嬢様には、すれ違う人皆が振り返る花のような上品さがございました。


あれは、その二年後のことでした。

ええ、確か夏の暑さに向日葵が元気よく咲き誇る頃で、わたくしは庭先で蝉の抜け殻を毎日片付けておりました。

お嬢様は、ある大学のクラシック音楽同好会へと入られ、その日はコンサートへお出かけになると仰って、わたくしは、いつものように、朗らかなお嬢様をお見送りして、干からびた蝉の抜け殻を拾いに戻り、夕方からはご夕食の支度をしておりました。

しかし、お嬢様はご夕食の準備が整ってからもなかなかお帰りにならず、わたくしは心配でたまらなくなりました。

結局、数時間して、お帰りになりましたが、それでもわたくしは何かあってはいけない、と肝を冷やしたことを今でも覚えております。

なぜって、女の園をお出になってから、世の小汚い男どもがお嬢様を虎視眈々と狙って、破滅の道へ手ぐすねを引いていると思うと、それはもう居ても立ってもいられませんでしたとも。

しかし、お嬢様はそれからもその同好会へと足繁く通っておられました。


それからしばらくしたある日、お嬢様が仰ったのでございます。

「ばあや、わたくしは今生まれて初めて恋をしていてよ」

お嬢様の目は輝きを放ち、背筋はピンと伸び、胸を張って立っていらっしゃいました。

背後の紅葉の葉が、炎のように真っ赤に色づき、お嬢様の白い肌も心なしか赤みを帯びて美しく上気しておりました。

恋する乙女の可愛らしさと言ったら、この世に並ぶものなどございません。

しかし、わたくしは嬉しくなると同時に心配にもなりました。世の中の男がどんなものか知らぬお嬢様が、いつ悪い男に騙されやしないかと考えずにはいられなかったのです。


「お嬢様がお好きな方は、どんな方でいらっしゃいますか」

わたくしがお尋ねしましたら、お嬢様は、

「背が高くて頭の良い方よ。オーケストラでホルン奏者もなさっているとか」

と頬を赤らめながらお答えになりました。

わたくしは、心配をしながらも、可愛らしいお嬢様のお姿を見て、お嬢様の恋を応援したいと思うようになりました。


秋の終わり頃のことでございます。

お嬢様は、一日お帰りになりませんでした。奥様も大変心配されましたが、翌日の朝、お嬢様はお一人で帰って来られて、「お酒をいただき過ぎたの。ごめんなさい、ご心配おかけして」と奥様に仰いました。

わたくしは、お嬢様に何とお声がけすべきか分かりませんでした。あまりにも元気がなく、その後ろ姿もある種の哀愁が漂っているように見えました。

わたくしが、「お茶が入りましたよ」と扉の外から申し上げましたら「今はひとりにしてちょうだい、具合が悪いの」と仰ったので、「お薬をお持ちしましょうか」とお尋ねしましたが、「ひとりにしてと言ってるのよ」と珍しくお怒りになりました。

やはり、ご様子がおかしいとしか思えませんでしたが、わたくしは、お嬢様のお言い付け通り、何もせずに遠くから見守ることにしました。

燃え盛る炎のようだった紅葉の葉もすっかり落ちて、裸の木々が寒さに凍えるような季節でございました。


それからでございます、お嬢様がおかしくなられたのは。

お嬢様は、しょっちゅう外出で家を空け、朝帰りが多くなりまして、厳しく、暗いお顔をなさるようになりました。

「わたくしは、早く大人にならなくてはならないのよ。あの方に見合うような、このまま何も知らぬ少女のままではいられないわ」

お嬢様は仰いました。わたくしは、お嬢様がお可哀想で仕方がございませんでした。お嬢様の恋が正しい方向に進んでいるとは思えませんでしたから。時々どうにかしてお嬢様の目を覚まさせなくては、と

「その方は、お嬢様を大切にして下さいますか。一度ここへお連れしてはいかがでしょう」

と申し上げましたが、

「そんな子供じみたことなどしなくてよ」

と仰るだけでございました。


冬の寒さが厳しくなる頃には、お嬢様は以前にも増して女らしく、しかし、悲哀の色も濃くおなりになりました。どこか大人びて妖艶な魅力をお放ちになるようになり、ふわふわとした巻き髪が揺れると、香水の甘い香りが微かに漂うようになられました。わたくしでさえ、その色気にハッとしたほどでございます。


雪の寒さの中、ある時は、体格の立派な爽やかな青年が、ある時は、真面目そうな顔をした医大生が、そしてまたある時は、眼鏡をかけた背の高い痩せ型の男性が、お嬢様を訪ねていらっしゃいました。

わたくしが、

「お嬢様はお出かけになられましたが」

と申し上げると、どの方もつまらなそうな顔をしてお帰りになりました。

わたくしは、いつお嬢様のお慕いしている方がいらっしゃるのかと、一日千秋の思いでおりましたが、お嬢様は

「ばあや、わたくしは女としての悦びをやっと実感していてよ。あの方に見初められなくても、わたくしにはこの悦びがあるわ」

と仰って、お笑いになるのです。

「しかし、お嬢様、それではお嬢様の本当のお心は報われないのではございませんか」

わたくしは申し上げましたが、

「良いのです。もう、そんな赤ん坊のような幻想などわたくしは捨てたのよ」

と悲しそうに呟かれただけでした。


それから数日経ちました。

お嬢様は、ご学友の方のお屋敷にお泊りになると仰って、お出かけになりました。

お嬢様がお帰りになると、奥様が、

「どうでしたの、明美さんはお元気でいらっしゃって?」

とお聞きになりまして、

「ええ、とてもお元気そうでしたわ。お母様にも宜しくと仰って、これ、くださったのよ」

と、お嬢様は明美さんからいただいた菓子折りをお渡しになりました。

「あらまぁ、ご親切に。明美さんにお礼と、今度はうちに遊びにいらしてと伝えておいてちょうだい」

「ええ」


しかし、明美様と楽しい時間をお過ごしになったはずのお嬢様は、お元気そうではありませんでした。

わたくしが

「お嬢様、明美様は今度はこちらにお泊りにいらっしゃるので?」

とお聞きしましたら、

「さぁ、どうかしら。分からないわ」

とだけ仰ってベッドに倒れ込まれて、そのままお眠りになってしまいました。


その夜のことでございます。

真夜中に、お嬢様がわたくしをお呼びになって、わたくしは何事かと急いでお嬢様のお部屋に駆けつけました。お嬢様は仄暗いお部屋の中で、ベッドに座ってわたくしを待っていらっしゃって、ええ、わたくしもそう思いましたとも。どこかお具合が悪くて、わたくしをお呼びになったのだと。

しかし、そうではございませんでした。わたくしには、想像も出来ないようなことでございました。

「ばあや、あなた今おいくつ」

「四十八になりますが」

「結婚はまだ」

「ええ、わたくしにはお嬢様と旦那様、奥様がおりますから」

「そう」

お嬢様がわたくしの目をじっと見つめ、仰いました。

「ばあや、あなた、他の女の身体に触れたことがあって」

わたくしは驚きのあまり言葉を失いました。そのようなことをお嬢様から尋ねられようとは夢にも思いませんでしたから。

「お嬢様、どうなさったのです」

「わたくしの身体に触れたいとは思わなくて?」

わたくしは、めまいがいたしました。お嬢様がわたくしに触れられて、お喜びになるはずがございません。

「なぜ、そんなことを仰るのです。今晩は、お加減がお悪いのではございませんか」

「いいえ、ばあや。わたくしの身体はもう壊れてしまったの。あれ程お慕いして、恋い焦がれていたあの方に抱かれても、もう何も感じることが出来なくなってしまったのよ」

そう仰って、ナイトガウンをお脱ぎになって、そのままわたくしの手を胸元へ引き寄せられたのです。

「お嬢様」

わたくしは、囁くように申し上げました。

「いけません、お嬢様。旦那様も奥様も悲しまれますよ」

「お父様、お母様が何です。わたくしはもうとっくに狂っているわ。今まで他の方とならいくらだって感じてきたというのに、あの方にここを触られたって何も感じない。もう何も感じることのできない身体になったしまった。わたくしは、もう女ではないのよ、ばあや。こんなわたくしの身体に何の価値があって?」

お嬢様は、泣きそうな顔をしてそう訴え、わたくしの手を一際強く握られました。わたくしは、何も出来ずに茫然と立ちつくしました。あの、汚れのないお優しいお嬢様が、こんなことを仰るのは何故でございましょうか。お嬢様は、このわたくしに、しかも女の身であるわたくしに、抱いてくれと仰るのです。

「申し訳ございません。わたくしには、出来ません。お嬢様の大事なお身体を汚してしまうことなど、わたくしには」

「そう、もう良いわ。わたくしには、あなたに抱かれるほどの価値さえないと言うのね」

お嬢様は、哀しみと怒りを湛えた瞳でわたくしを一瞥し、しかし、すぐに

「ごめんなさい。忘れてちょうだい」

と悲しそうに仰いました。

わたくしが戸を閉め、

「お嬢様のお身体はわたくしもご家族の皆様も大事に思っておりますよ。きっと今度の事は、たまたまお身体の具合がよくなかっただけでございましょう」

と申し上げると、消え入りそうなか細い声で

「ええ、そうね。おやすみ」

と仰いました。

わたくしは、

「おやすみなさいませ」

と静かに申し上げました。


春が近づいて参りました。桜の花は芽吹き始め、庭先の花々にモンシロチョウが飛んでくるようになりました。

お嬢様は、ふと、朝食のスープを一口お飲みになって、

「あ」

と仰いました。何かを思い出されたのか、少しの間お食事に手をつけられずに、ぼんやりなさって、それから何事もなかったかのように、またスープをお飲みになりました。

「もうすぐ春ね」

お嬢様が独り言のように仰いました。

「はい、お花見の季節ですね」

「ええ、でもわたくしは、今年はお花見などしないわ」

その一瞬、お嬢様は、鋭い瞳をわたくしに向けられ、わたくしは背筋がぞっといたしました。お嬢様は、あの冬の夜と同じお顔をしていらっしゃったのです。

しかし、すぐにそのお顔は、ぼんやりと寂しげな表情に変わり、その瞳は庭に飛んでいる蝶を眺められ、

「美しいものを見ると、悲しくなってしまうようになったの。どうしてかしらね。わたくしはもう…」

と黙り込まれて、しばらく何も仰いませんでした。

わたくしは、お嬢様がお可哀想で、涙が溢れました。すると、お嬢様は、わたくしを見て、ポケットから藍色のハンカチをお出しになって、

「わたくしの涙は枯れてしまったけれど、代わりにばあやが泣く事はなくてよ」

などと冗談めいたことを仰るのです。

お優しいお嬢様。しかし、もうお嬢様はあの頃のお嬢様にはお戻りになれないのです。



つまらないお話でございましたでしょう。ごめんなさいね。老人の戯言とお思いになって、どうかお気になさらないでください。わたくしはもう、何十年も外へ出られない身でございましたから、あなた方とお話できるのが嬉しくて、つい。いえ、わたくしは七十になりまして、ええ、いつからここにいるかって、それはもう十年、二十年ではきかないかしら。もう忘れてしまったわ、時が経ち過ぎて。


そう言って、彼女は病室へと戻って行った。美しい白い巻き髪がふわりと舞ったのが、今でも私の目に焼き付いている。



その一週間後のことだ。私は手元の資料を眺め、溜息をついた。

三十六番 安城京子 五十七歳 虚言癖あり

死因 自殺


「どうして精神病棟で自殺なんて起こるんですかね、ちゃんと管理してんのかな」

後輩の笹本がコーヒーを啜りながら不満を漏らした。

「お前、ここのお嬢さんのことよく知ってるだろう」

「まぁ、知ってますけど。でも十年前ですよ、会社倒産して破産したの。あのお婆さんの耳には入らないんじゃないですか」

「あのお婆さんは、馬鹿じゃない。むしろ、相当頭が切れる。お前、ちゃんと資料読んでないだろう。安城京子が病棟に入ったのは、五年前だぞ」

「げっ、十年、二十年前って」

「お得意の虚言癖だろう」

私は、何故笹本のような男が警官になれたのだろう、と疑問に思わざるを得なかった。

「でも先輩、惜しいことしましたね。重要な証人だったかもしれないのに」

「俺だって悔しいよ。でも、安城家の人間は、彼女で最後じゃない」

「まだ、安城京子の弟がいるんでしたっけ。安城京子が七十だから、もう相当な歳でしょうけど」

そうだ。彼女の姪にあたる安城清美が殺害されてから三年。私は安城家に関わる人間を探し、捜査を続けて来たが、未だ事件は解決には至っていない。

「でも、哀れなものですね、安城家って、現代の没落貴族ってところですかね。敵も多そうだ」

「その前に、笹本、安城京子はいくつだって?」

「七十ですよね、本人が言ってた」

「彼女はまだ五十代だったぞ」

「ええ!」

笹本は目を丸くした。

「あんな白髪でまだ五十代だったなんて」

「彼女の髪は、ここ数年であそこまで真っ白になったらしい」

「そんな、マリーアントワネットじゃないんだから」

「その前にお前は、資料をよく読め」

「すみません」

そう言って、笹本はまたコーヒーを啜った。

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