告白
舞乃空が東京に戻って、約二週間が過ぎる。
彼のいない日常生活に戻った明来は、以前から恐怖する暗闇を
さらに深めるものになってしまう。
そんな時、葉音の存在が光となる。
抑えつけていた彼女への想いが、溢れる。
4
舞乃空が東京に戻ってから、
約二週間が過ぎた。
あいつがいなくなった途端、
あの3日間が夢のように思える。
あいつは、本当に存在したのか。
夢じゃなかったのか。
そう錯覚する程、
あいつの痕跡は残っていない。
ただあるとすれば、父さんのアコギ。
物置部屋の、主のように存在していた。
どこから見つけ出したのか、
ギタースタンドに立て掛けられている。
【戻ってきたら弾かせてもらうぞーっ】
そう言って、あいつは笑っていた。
あの場所にアコギがあることで、
確かにあいつがいたんだと、実感できる。
そしてアコギも、
舞乃空の帰りを待っているように見えた。
仕事して、家に帰り、音楽を聴きながら
公園に行って、自分の時間を過ごす。
いつも通りだ。
別に、何も思うところはない。
ただ、前よりも
心の穴が大きくなったみたいで
そこから、冷たい風が吹き込んでいる。
ずっと明けない、夜中にいるみたいだ。
そして、いつも同じ夢を見るようになった。
起きると忘れている、夢。
とても恐ろしい夢なのだと思う。
汗をかき、涙を流しているのだ。
目覚めが悪い事は、確かだろう。
ひどい脱力感に襲われている。
何なのだろう。
全然思い出せない。
だから、いつもすっきりしない。
あいつが戻ってきたら、
夢は見なくなるのだろうか。
思い出せない夢に、
うなされずに済むのだろうか。
・・・・・・
メールをしても、既読が付かない。
電話もしてみたが、
電源を入れていないのか繋がらない。
何があったのかも、分からない。
葉音も連絡してみたらしいが、
同じだったらしい。
どうしたんよ。
連絡くらいしろよ。
・・・・・・
両親に反対されたのかな。
スマホ、親の名義だって言っとったな。
没収されたとか。
・・・・・・
だめだ。
悪い方にしか考えられない。
早く、戻ってこい。
みんな、心配しとるけん。
*
4月下旬。
街中を咲き誇っていた桜は、
青々と生い茂った葉を身につけて
風とともに揺れている。
「休憩しよう。」
松宮の一声が響く。
「はい。」
六尺の脚立に上がって、モンキーレンチで
フレアを締め終えた明来は、
首に掛けていたタオルで汗を拭きながら
ゆっくりと床に下りた。
今日の業務は、10坪程の新設飲食店に
天井カセット形エアコン1台、
従業員スペースに壁掛け形エアコンを1台
設置する案件である。
天井ボードはまだ貼られていない為、
軽天と寸切りが
むき出しになっている。
この状態だと、内機を設置しやすい。
明来が天井カセット形エアコンの設置を
手掛けるのは、これで初めてである。
勿論松宮の指導の元で行っているが、
今回自ら設置したいと申し出た。
外に出ると、外機を施工していた
水野と寺本に合流する。
「順調か?」
「ああ。完了した。」
「早いっすね。
・・・明来、手際よくなったんやないか?」
寺本は明来の横に並び、
感心しながら言った。
それに対して、喜ぶ素振りを見せずに
言葉を返す。
「ボードが貼られてなかったからっすよ。」
「それにしても、上出来やんか。」
松宮たちは、店舗の裏手に駐車している
バンと軽トラックの元へ歩いていく。
「明来はもう、立派な戦力だな。」
ぽつりと出た松宮の言葉は、明来にとって
かなり恐縮だった。
自分は、やっと内機の設置を覚えただけで
皆の足元にも及ばない。
「・・・・・・まだまだっす。」
「ははっ。二週間でこれだけできりゃあ、
上出来だって。」
「褒めすぎっすよ、寺さん。」
「大創。今度から、配管ルート確保も
どんどん覚えてさせていけ。
明来は化けるかもしれんぞ。」
「じょ、常務までっ。」
「ははっ。間違いないっす。了解っす。」
皆は、温かい。
明来は只々、恐縮するばかりだった。
舞乃空がいない寂しさを埋めるように、
明来は仕事に没頭していた。
そして数日前から、喉の調子がおかしい。
かすれて、思うように声が出ないのだ。
皆が言うには、声変わりの兆候だという。
ようやく。
自分にも、それが来たのだ。
こんなに嬉しい事はない。
コンプレックスだった自分の声が、変わる。
どんな声になるのか。
それが唯一の楽しみになっていた。
今日は曇天で気温の上昇は抑えられているが、
それでも施工をしていると
汗が滲むほど暑い。
寺本は軽トラックのエンジンを掛け、
冷房を最大限に稼働する。
明来は助手席に置いていた
ショルダーリュックを膝の上に乗せて、
乗り込んだ。
「そうだ、明来。」
運転席に座り、タオルで汗を拭き取りながら
寺本が呼び掛ける。
「例のダチから、連絡はあったと?」
ショルダーリュックから
マグボトルを取り出し、明来は答えた。
「・・・・・・ないっす。」
「そうか~・・・・・・まぁ、
いろいろあるやろうし・・・・・・
すぐに来ることは難しいのかもな。」
「・・・・・・それでも、
連絡一つないのは・・・・・・」
―あり得ない。既読も、だ。
「信じて待つのも、ダチやろ。」
その言葉に、明来は目を向ける。
「何かあるけん、連絡できんのかもしれん。
連絡したくても、できないとか。
・・・理由は沢山ある。
事情は、本人にしか分からない。」
「・・・・・・」
「うまく言えんけど・・・・・・
ダチのお前が待ってやらないと。」
いつの間にか、寺本は
保温バッグから弁当箱を取り出している。
「戻ってくるって言ったんやろ?」
その問いに、明来は小さく頷く。
「じゃあ、戻ってくるやろ。」
「・・・・・・はい。」
「・・・ははっ。何か変な言い方やけど、
恋人の帰りを待っとるみたいやぞ、お前。」
“恋人”の単語に、明来は
きょとんとする。
言った本人は、大して
深い意味はないようだった。
「そんなに深刻になるなって。
お前の話を聞いただけやけど、そいつ
言ったことは守るタイプだと思う。」
「・・・・・・」
“いただきまーす”と言って、寺本は
明太子入り卵焼きを箸で摘まみ、口に運ぶ。
マグボトルの蓋を開けて水を飲むと、
明来はショルダーリュックから
おにぎり2つを取り出した。
今日は、梅おかかとわかめご飯である。
それを見つめて、思う。
―・・・・・・寺さんの言う通りだ。
たったの、2週間。
あいつには、あいつの事情がある。
・・・・・・戻ってきたら、聞けばいい。
*
舞乃空くんがいなくなってから、
明来ちゃんは元気がない。
舞乃空くんと再会する前は、何ていうか・・・・・・
感情を出さないというか。
今は、少し違う。
明らかに、元気がない。
高校生活が始まり、
明来ちゃんと顔を合わせるのは
早朝ランニングの時、たまに。
いつもじゃなくなった。
ゆっくり会って、話をしていない。
夕ご飯を家で一緒に食べることも、
あの日以来から、ない。
明来ちゃんは、遠慮しとるみたいやった。
舞乃空くんのことで、
お父さんお母さんに気を遣っているのかも。
・・・・・・遠慮する必要ないのに。
前よりも何だか、私たちと
距離を置いている気がする。
舞乃空くんが、戻ってこないから?
別にそれは、明来ちゃんのせいじゃないのに。
元気がないと言えば、私もかも。
合唱部はハードで、朝練、
授業が終わった後も遅くまで練習。
くたくたになって家に帰る。
それから、ボイトレ。
先生とのレッスンは、この間初めてした。
課題がたくさんある。
歌うのは大好きだし、上手になる為だし、
新しいことばかりで楽しいけど・・・・・・
息をつく暇がない。
夢の為に頑張らないと、だけど・・・・・・
弱気になっとる。
歌うことが好きなのは周りも同じで、
自分よりも上手い子だって、たくさんいる。
配信は、前から始めとるけど
思ったよりも評価されていない。
・・・・・・これが、現実なんよね。
自分の歌声は、埋もれちゃっとるんよね。
受け止めなきゃ、だけど・・・・・・
これ以上、何を頑張ればいいのか分からない。
弱気に、なっとる。
今まで、気づかなかった。
明来ちゃんがそばにいて、
話を聞いてくれることが当り前だと
思っていた。
そして、いつも励ましてくれていたこと。
そのありがたさを、私は普通に思っていた。
だけど、それは違っていた。
これから歩いていく道は、
時間の過ごし方も違って、
時間の過ぎ方も違うこと。
考え方も、価値観も、離れていく。
いつも一緒には、いられなくなったこと。
・・・・・・
会って、話したいな。
会いたいって言ったら、
会ってくれるかな?
*
「ゴールデンウイークの事なのだが、
5月1日から6日まで休業だ。
みんなゆっくり休んでくれ。」
現場から事務所に帰ってきた松宮たちは、
ソファーに腰を下ろして
打ち合わせをしていた。
その時間も終わり、話題は世間話に移る。
「俺は家族サービスで、ゆっくり休めん。」
ため息をつく水野に、寺本は笑顔で聞く。
「大阪に旅行するって言っとったっすね。
いーじゃないっすか。」
「わざわざ人の多い所に出掛ける
意味が分からん。」
「こういう時にしか行けないっすよ。
楽しまないと。」
「寺さんは、出掛るんっすか?」
「俺は、土地探ししようと思って。」
「おっ。いよいよか。」
「まぁ、そういうことっす。」
寺本は無事、
付き合っている彼女と籍を入れた。
結婚生活と授かった子どもの将来を考え、
土地を購入して
一戸建てを建てる計画をしている。
ちょくちょくそれを口にしており、
明来はそれを知っていた。
「社長は、どう過ごされる予定っすか?」
「娘の誕生日祝いも兼ねて、
北海道に旅行しようと思っているよ。」
「おお、そうやったなぁ。
葉音ちゃんももう、16になるんか。」
「早いっすね~!俺が初めて会った時は、
小学3年生やったっすよね?
見る度に成長しとるっていうか・・・・・・
可愛いのはもちろんっすけど、
綺麗になっちまって。」
「ふふっ。女の子は成長早いのよ~。」
陽菜が笑いながら、相槌を打つ。
葉音の誕生日旅行について、明来は事前に
松宮と陽菜から、とある申し出をされていた。
“一緒に行かないか?”
“去年は、いろいろあって
行けなかったけど・・・・・・
喪明けするからと思って。”
思いも寄らなかった。
そんな大事な家族旅行に、自分が誘われるとは
思っていなかったのだ。
心の準備も、何もかも整理がつかなくて
今回は丁重に断った。
もし行けたとしても、その期間に
舞乃空が戻ってきたら。
そう考えると、楽しめる気分になれなかった。
その日に顔を合わせて
“おめでとう”が言えるのは、
願ってもない事なのだが。
葉音の誕生日は、5月4日。
明来は学生の頃も、
直接会ってお祝いをしたことがない。
いつも、事前に言う形になる。
家族旅行に行くのが、
毎年恒例になっているからだ。
スマホを持つようになって
メールで伝えられるが、
メールでしか言えないことが残念だと思う。
それで充分だと、
言いきれないのが本音だった。
しかし今年も、そうなるだろう。
明来の両親の命日は、明日。
世間では一周忌とされる日である。
この日は、墓参りをする為に
休みを取っている。
親戚を呼んで、偲ぶ時間を
設けなければならないだろうが、
それをしない方向だった。
自分だけで墓参りに行き、供養する。
明来は、そう決めていた。
両親の死は、不審な点が多い。
これは、誰にも伝えていない。
自殺、事故、どちらの線も警察は調べている。
車のスピードを上げ、ハンドル操作を誤り、
そのまま崖から落下。二人とも即死である。
自分からすれば、不自然すぎる。
二人は、自分に黙って
どこへ出掛けていたのか。
いや、出掛けようとしていたのか。
山奥に、何の用事があったのか。
そして自分はなぜ、親が亡くなった日の事を
思い出せないのだろうか。
親戚や警察には、
“知らない”としか伝えていない。
実際、“知らない”のかもしれないのだ。
思い出そうとしても、
頭痛がして気分が悪くなるので、やめる。
もしかしたら、自分は
両親が行こうとしていた場所を
知っているのかもしれない。
それが、思い出せないとしたら?
そう考えると、恐ろしくなった。
どうして自分は、その日の事を
思い出せないのか。
これは、誰にも言えることじゃない。
親戚は、自分たち一家を
白い目で見ている。
それは知っている。
言わないけれど、きっとそうだ。
だから、世話にはなりたくない。
そして、この場所。
ここに、思い出せるきっかけが
あるかもしれない。
それが何かは分からないが、
それが、あったとしたら。
それを考えると、この家を出ていくことも
売り払うことも出来なかった。
これは、彼が秘密にしている真実である。
家に帰り着き、明来は小さく息をつく。
仕事の疲れもあるが、
明かりが灯らない玄関に迎えられても、
テンションは上がらない。
廊下に上がり、照明を点けて
ショルダーリュックを床に置くと、
そのまま洗面台へ歩いていく。
今日もよく、汗を流した。
手を洗い、顔を洗うだけで気持ちがいい。
このままシャワーを浴びようか、考える。
だがスマホの通知が気になり、
手と顔をタオルで拭いて
制服の胸元からスマホを取り出す。
指紋認証で画面を開き、確認した。
葉音からメールが届いている。
明来はタップして、その内容を見た。
《お疲れさま(#^.^#)》
《会って話がしたいな~》
浮き立つものがあった。
メールはしているが、
時間を合わせて会うことは
あの日以来していない。
彼女からの申し出に、断る理由はなかった。
《こんばんは》
《いいよ》
《8時頃に公園で会おう》
返信すると、すぐに既読が付く。
《ありがとう!(*'ω'*)
疲れてるのにごめんね》
とんでもない。
会って話が出来るなんて、ご褒美に近い。
彼女の、“会って話がしたい”という一言は、
今の明来にとって魔法の言葉だった。
明来はショルダーリュックを手に持って、
2階へ駆け上がる。
シャワーを浴びて整えないと。
会えると思うと、
脱力感も、疲労感も、吹き飛ぶ。
早く、彼女の笑顔が見たい。
明来が公園に来たのは、夜7時半頃。
待ち合わせよりも早く着いたことは、
彼女に内緒である。
「ねぇ、明来ちゃん。身長伸びた?
何か目線が違う気がする・・・・・・」
「えっ?・・・いや、
変わらないと思うけど・・・・・・」
「ふふっ。気のせいかなぁ。」
そう言って、葉音は笑う。
彼女の笑顔が、自分の顔を綻ばせる。
「桜が散るのって、早いよねぇ。」
公園の奥にある、
大きな桜の木を見上げながら
葉音はベンチに腰を下ろす。
明来も、距離を保って隣に座った。
葉桜を見上げる彼女の横顔は、
どこか寂しげだ。
「・・・・・・何かあった?」
問い掛けると、小さく首を横に振る。
「明来ちゃんと会いたかっただけ。」
その言葉に、どきっとする。
深い意味はないと思うが、そう言われると
嬉しくてたまらない。
例え、深い意味はなくても。
「・・・・・・お話、聞いてくれる?」
そう言って自分へ目を向けた彼女に、
明来は視線を逸らすタイミングで頷く。
葉音は、高校生活の事や合唱部の事、
会えなかった時間の分を
埋めるように話し始める。
表情豊かに語る彼女は、いつも以上に
とても可愛かった。
まともに視線を合わせることが
出来なかったが、それをちらちらと窺っては
笑みを浮かべて相槌を打っていた。
「でね、実はこっそり
歌の配信してたんやけど・・・・・・」
「・・・そうなん?」
それは初耳だった。
「聴いてもらえる?」
「もちろん。チャンネルの名前教えて。」
何でもっと早く言わないのか。
明来は、そんな風にパーカーのポケットから
スマホを取り出そうとする。
毎日葉音を見て、
葉音の歌声が聴けるということなのに。
「えっ、えっ?今聴こうとしとる?
今、聴かないでよぉ。
あとでメールするぅ。あとで聴いてねっ。」
恥ずかしそうに慌てて言う葉音を、
明来は首を傾げながらも優しく見守る。
―なぜ、恥ずかしがる?
今までカラオケで、
ばりばり歌ってきとるのに。
「お話、たくさん聞いてもらっちゃったなぁ。
ふふっ。ありがとね。
・・・次は明来ちゃんの番。」
「俺の方は・・・・・・何もないよ。」
「えーっ?」
「声・・・くらいかな。」
「あっ・・・まさか、声変わりなん?
風邪なのかと思ってた・・・・・・
かすれてて、何だか不思議な声やね。」
素直な反応に、明来は小さく笑う。
「・・・・・・どんな声になると思う?」
「うーん。そうやねぇ。
ばりばりカッコいい声になると思う。
明来ちゃんの声は元から、
とっても良い声だから。」
―それは、褒めすぎやろ。
言われて嬉しい反面、動揺する。
「あの時のカラオケで
明来ちゃんが歌った曲は・・・・・・
原曲キーで歌うの難しくなるね。
聴くの最後だったのかぁ・・・・・・寂しいなぁ。」
「・・・・・・」
「やっぱり、
録っておけばよかったなぁ・・・・・・」
強めの風が、二人の髪を舞いあげる。
ざぁ、と、桜の葉たちも
ざわめくように音を立てた。
「・・・・・・明来ちゃん。」
ぽつりと零れる、彼女の声。
彼の名前を紡ぎ、彼の姿を瞳に映す。
呼ばれて、目を向けないわけにはいかない。
潤みで揺れる彼女の双眸に、
明来は釘付けになった。
逸らせない。
逸らしたら、いけない。
彼女の表情に浮かぶ色。
さっきまで自分に向けてきたものとは、
明らかに違う。
何かを、伝えようとしている。
「・・・・・・葉音?」
告げられぬ間に耐えられず、彼は呼び掛ける。
呼び掛けても、彼女は応えない。
鼓動が高鳴って、どうかなりそうだった。
彼女の唇は、小さく震えている。
「・・・・・・あ・・・・・・あの・・・・・・・」
声も震えている。
小さな撫で肩も。
「・・・・・・どうした?」
彼女は一体、何を伝えようとしているのか。
揺れる大きな瞳を、
彼は見つめるしかなかった。
「え・・・・・・っと・・・・・・
・・・・・・」
何かに耐えきれなくなったのか、
葉音は明来から目を逸らして俯く。
ぎゅっと、膝上で
フレアスカートの生地を握り締める両手も、
小さく震えていた。
彼女は、どうしてしまったのだろう。
今までに、こんな姿を見せたことはない。
こういう時、どうしたらいいのか
明来には分からなかった。
待つのか、尋ねるのか。
それとも。
明来は彼女の様子を見守りながら、固唾を呑む。
何を言われるのか。
何を伝えられるのか。
全く想像がつかない。
「・・・・・・」
再び顔を上げ、彼に目を向けた
彼女の頬は、夜の暗さでも分かるほど
真っ赤に染まっている。
「・・・・・・
どうしたらいいんやろぉ・・・・・・」
彼女の口から、やっと言葉が漏れる。
大きな双眸から、涙が溢れそうだ。
「どうすればいいんやろぉ・・・・・・
明来ちゃん・・・・・・」
「一体、どうしたん・・・・・・?」
堪らず、聞いた。
思わぬ衝動に駆られる。
このまま、何も言わず、何も聞かず、
抱き締めようか。
その行為に、変な意味はない。
ただ彼女の様子を見て、そう思った。
明来が葛藤していると、
それを吹き飛ばすように葉音は動いた。
起こったことは、受け入れ難い。
視線を落とした自分の懐に、彼女の頭がある。
きゅっと、震える腕を回して
自分の身体に抱きついている。
ふわりと、彼女から
爽やかなシトラスミントの香りが漂った。
「・・・・・・!」
胸を突き破りそうな鼓動が、
彼女の頬を叩いていないか心配になった。
動揺の波が、自分を飲み込む。
「・・・・・・は、葉音っ。」
どうした?何があった?
そう紡ごうとした言葉を、彼女は遮る。
「明来ちゃん・・・・・・
私はね・・・・・・
明来ちゃんのこと・・・・・・大好きです・・・・・・」
「・・・えっ・・・・・・?」
「それはずっとね、変わらんと。
でもね、今すぐ、
はいっ、付き合いましょうとか・・・・・・
そんなの・・・・・・その・・・・・・
何が変わるのか、分からなくて・・・・・・
今まで通りでいいのか、悪いのか・・・・・・
分からんとよ・・・・・・」
―・・・・・・
それは。
まさか。
「・・・・・・どうしたらいいと思う・・・・・・?」
葉音が紡ぐ言葉は、とても小さい。
しかし振動が胸を伝い、耳に届く。
「・・・・・・そ・・・・・・
それは・・・・・・」
―俺が、教えてほしい。
告られるなんて、思わない。
心の準備なんて、そんなもの、
あるわけがない。
「・・・・・・舞乃空くんみたいに・・・・・・
ハグしたら、何か分かるかもって・・・・・・」
―・・・今なぜ、あいつの名前を出す?
「・・・・・・明来ちゃんは?
私のこと、どう思っとる?」
―・・・・・・それを。
今、言えというのか?
彼女の為。
光ある彼女の将来の為、この想いを
表に出さずにいようと思っていた。
自分が、彼女に色を付けてはならない。
そう言い聞かせていた。
それを。
彼女から、打ち破るなんて。
あまりにも、急すぎる。
急すぎて、どうしたらいいのか
分かるわけがない。
明来の身体に回す
葉音の腕の力が、強くなる。
―・・・・・・何で、そんなに全力なん?
全力で大好きだと言われて、
全力で返さないなんて、俺にはできない。
「・・・・・・」
明来は、両腕を上げる。
彼女に負けない程、震えていた。
これをしたら、引き下がれない。
引き下がれないことを、今、自分は
やろうとしている。
止める理由はもう、見当たらない。
彼女の全力に、応えなくては。
「・・・・・・葉音・・・・・・」
彼女の名前を呼び、
両腕を、その小さな身体に
ふわりと回す。
温もり。
匂い。
そして、存在。
今まで抑えつけていた想いが、溢れ出す。
それを止めることは、もうできない。
「俺も・・・・・・葉音が大好きだ。」
まだ安定しない声で紡ぐことが、悔やまれる。
こんな大事なことを、
万全で言えないのが。
「俺も、なんよ。ずっと変わらない。
大好きで、どうかなりそうなくらい。
・・・・・・だから、ずっと我慢してた。
抑えなきゃ、って。
夢に向かって頑張っとるのに、
邪魔をしたくなくて。
・・・・・・俺なんかが、
一緒にいていいわけがないって。」
葉音は、強く首を横に振る。
「俺なんかがとか、言っちゃダメ!
どうして?何で我慢すると?
邪魔とか、なんで、
そんな悲しいこと言うと・・・・・・?」
「・・・・・・
葉音が、笑顔でいられたらいいって・・・・・・
幼なじみで、今まで通りでいいって・・・・・・
思ったんだ。」
―吐き出す時が来るなんて。
神さまがいたとしたら、
これはかなり、意地悪すぎないか?
「でも、本音は・・・・・・変わりたいと思ってた。
本音は・・・・・・
葉音に、もっと近づきたい。」
―気持ちを伝えるには・・・・・・
言葉では、足りない。
でも、それをすると、
何もかも変わってしまいそうで怖かった。
ふわりと彼女に回していた
両腕に、力が入る。
ふと、舞乃空の言葉を思い出した。
『キスの仕方、教えてやるぞー。
これから必要だろ?
葉音と仲良くするだろ?』
高鳴る鼓動が煩すぎて、よく考えられない。
―仕方とか、空気とか、よく分からない。
だけど・・・・・・今、それが・・・・・・
伝えるには、いいかもしれない。
明来は、抱き締める力を緩めて
両手を彼女の両肩に置く。
彼の抱擁が緩和されて、
彼女は疑問に思い、顔を見上げた。
視線が、ぶつかる。
互いに、こんなに間近で、
顔を近づけて見つめ合うことは、
今までにない。
互いの鼓動は、最高潮に跳ね上がった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
葉音は、ぎゅっと瞼を閉じる。
見つめ合う距離に耐えきれないのもあるが、
明来の意図を考慮してのものだった。
彼女は、彼の気持ちを
受け止めようとしている。
暗いのに、この距離だと
はっきり彼女の顔が見えた。
普段の距離でも可愛いと思うのに、
こんなに間近だと、それを通り越して
ずっと眺めたい衝動に駆られる。
でもそれは、彼女に悪い。
息が掛かりそうな距離なので、
思わず呼吸を止めた。
このまま時間も、止まらないか。
意を決して、明来は固く瞼を閉じて
さらに顔を近づけた。
彼女の唇に、自分の唇で
触れようとした、その時。
互いの鼻が、先にぶつかる。
「いたっ」
互いに、言葉を漏らした。
思わず瞼を上げて、ばち、と
視線が合った瞬間、二人は思わず
吹き出して笑った。
「あははっ・・・・・・!」
「ごめんっ・・・・・・!」
触れ合うことを、初めて実行した。
当然の結果とも言える。
慣れないことをしようとしたのもあるが、
触れることに必死すぎてしまった。
「鼻、ぶつかるとか
考えてなかったなぁ・・・・・・」
「ははっ・・・まぁ・・・・・・ごめん・・・・・・」
―鼻があることなんて、頭から飛んでいた。
「謝らないでよぉ。ふふっ。
明来ちゃんが、するの慣れてたら
どうしようかと思っちゃった。」
「そ、そんなわけないやろ。」
「ふふっ。」
失敗に終わったが、
妙に清々しい気持ちになった。
ここで触れてしまったら、
もっと触れたい気持ちが収まらなくなりそうで
怖かった。
でも、かと言って
このまま何もしないのは、もやもやする。
「えっと・・・・・・」
まごついていると、葉音が
にっこり笑って告げる。
「手、つなごぉ。」
―・・・・・・手、か。
それなら、いいかもしれない。
既に、葉音は差し出すように
ベンチの上に手を置いている。
恥ずかしさを隠すように、彼女は
視線を合わせない。
明来は躊躇いながらも、
ベンチに置かれた彼女の手に
そっと触れる。
葉音と手を繋いだのは、かなり前だった。
互いにまだ、母親たちに連れられて
近所の公園で遊んでいた頃。
彼女と手を繋いで、駆け回っていた。
何もかも楽しくて、
母親たちが“帰ろう”と言うまで
ずっと一緒に遊んでいた。
その頃から、彼女は自分よりも
身体が小さかった。
だから、守らなければと自然に思っていた。
時間が流れて成長した彼女の手は、
小さくて柔らかい。
ふわふわして、心地好い。
あの頃と違うのは、湧き出る愛おしさが
押し寄せることだった。
「とても、頑張っとる手やね・・・・・・」
そう呟いて、きゅっと明来の手を握り返す
葉音は、顔を綻ばせる。
彼女も、あの頃の事を
思い出しているのだろうか。
互いの視線は、桜を映している。
目を通わせようとしないのは、
追憶を巡らせて、
恥ずかしさと強く高鳴る鼓動を
紛らせているからである。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
しばらくそうしていると、落ち着いてくる。
互いの温もりが、繋いだ手から伝わって
安堵感を生んだのかもしれない。
「・・・・・・明来ちゃん。
明日、お墓参りするんやろ?」
「・・・・・・うん。」
「私も行きたかったな・・・・・・」
「・・・・・・気持ちだけでいいよ。
親戚も呼ばないし、
一人で済ませるつもりだから。」
「・・・・・・気をつけて行ってね。」
「・・・・・・ああ。葉音も、学校頑張って。」
「うん。また、メールするね。」
「うん・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
このまま、時間が止まらないだろうか。
そう明来は強く思った。
今日という日は、二度と来ない。
同じ時は、二度もない。
こうして彼女と一緒に過ごせる時間は、
とても貴重で、とても愛おしい。
告白して、
互いの気持ちを確かめ合ったこの日を、
一生忘れない。
「・・・・・・帰りたくないなぁ。」
ぽつりと、葉音は言葉を零す。
同じ気持ちだったので、明来は微笑む。
「明日も会いたいなぁ。」
「・・・・・・いいよ。」
「ほんと?いいと?」
「言うのは俺の方。・・・・・・きつくない?」
「明来ちゃんと会うのがきついなんて、
一度も思った事ないよぉ。」
「・・・・・・実は、俺も。」
「・・・・・・えへへ。ねぇ、明来ちゃん。」
「・・・ん?」
呼ばれて振り向くと、
視界いっぱいに葉音の顔が映り込む。
ふわりと唇に触れたのは一瞬で、明来は
触れてすぐに離れた葉音を凝視した。
彼女は、優しく微笑んでいる。
「不意打ち~」
「はのっ・・・・・・」
「ふふふっ。うまくいったぁ。」
思わぬ行動に、どきどきと汗が止まらない。
葉音は頬を赤く染めつつ
ベンチから立ち上がると、自分よりも
顔を真っ赤に染める明来に向かって言う。
「帰ろっ。」
「・・・・・・い、今のはっ、良くないっ。」
「えーっ?何でぇ?」
「ふ、不意打ちは、ダメだっ。」
「いいやーん。」
くすくす笑いながら歩いていく彼女の後を、
明来は慌て気味で追いかける。
横に並ぶと、掴まえるように
葉音の手を取った。
彼女はそれを拒むことなく、
自然と指を絡ませて歩いていく。
その横顔は、嬉しそうに微笑んでいる。
このまま、また抱き締めたい。
さっきよりもずっと、強く。
でも、抑える。
そこはきちんと、理性が働いた。
大事にしたい。
その気持ちが強かった。
家までの距離は、目と鼻の先しかない。
なるべく、ゆっくり。
そう思う明来と同じように、葉音も
ゆっくり歩いていく。
なるべく、ゆっくり。
そう思う明来と同じように、葉音も
ゆっくり歩いていく。
愛おしい。
大事にしたい。
ゆっくり、変わりたい。
互いに、歩を進める。
今日で、変わろうとしていた。
それは、想像していた景色とは違う。
もっと深く、もっと大好きになり、
分かり合えるものになると。
そして、明来は予感する。
彼女と一緒にいるこれからの時間は、
深いところまで、落ちていくのだと。
夜風が、心地好い。
いつもなら肌寒さを感じるが、
今日は丁度いい。
明来は、夢見心地で
僅かな帰路を歩いていく。
まだ、感触が残っている。
手と、唇に、彼女の温もりが。
―夢じゃ、ないんだよな・・・・・・
嬉しさを通り越して、放心状態だった。
―何も、考えられなかった。
葉音の気持ちを聞いて、飛んだ。
今まで悩んできた時間は、
何やったん?
気持ちを隠して身を引くとか、
できるわけがない。
・・・・・・そこまでできる程、自分は
できた人間じゃない。
それを、明来は思い知った。
―・・・・・・いいんだよな。
これから、素直に・・・好きだと言って。
頭に浮かんだ人たちがいる。
松宮と陽菜だ。
二人に、何て言えばいいのだろう。
ごめんなさい。
葉音と手を繋ぎ、キスをしました。
でも、それは不意打ちで彼女から・・・・・・とか、
言えるわけがない。
―・・・・・・
“付き合う”って、言うべきやろうか。
許してもらえるのか。
想像つかない。
夜空を見上げると、
曇天だった昼間とは一変して
雲一つなく、星の瞬きが窺えた。
そして、暗闇を
丸く切り込んだような、薄い月。
明日は、晴れるだろうか。
浸りながらゆっくり歩いて、
自宅の敷地内に足を踏み入れると、
明来は玄関へ目を向ける。
すると、何かの気配を感じた。
「・・・・・・?」
暗くて、よく見えない。
玄関前に、影が見える。
その影は、玄関のドア付近に
座り込んでいるようだ。
急に、妙な動悸が起こる。
影の大きさからすると、人に間違いない。
「・・・・・・」
さらに近づくと、その輪郭と容姿を
目で捉えることができた。
明来は、目を見開く。
「・・・・・・あ、おかえりー。明来ー。」
影の方も明来に気づき、声を上げる。
「・・・・・・舞乃空。」
名前を紡ぐと、座り込んでいた
その影は立ち上がった。
「ちょっと遅くなっちまって、ごめんな。」
申し訳なさそうに言う彼は、
紛れもなく舞乃空だった。
明るいカーキ色のジャケットを羽織り、
濃いグレーのスリムチノパンは、
彼の足の長さを強調している。
二週間前の彼よりも、洗練された姿だった。
玄関先には、黒いリュックが置かれている。
「・・・・・・連絡くらい、入れろよ。」
ずっと思っていた言葉を、思わず口にした。
明来は怪訝そうに、舞乃空を見据える。
「あー、ごめん!いろいろあってさー。
こっちに来れるようになってから
連絡しようと思って・・・・・・
あれ、でもさっきメールしといたけど。」
―さっきは、公園にいた。
じゃあ、あの時間に来とったのか。
・・・・・・
スマホを見る余裕がなかった。
「・・・・・・ここに来たってことは・・・・・・」
明来が零した言葉の続きを、
舞乃空は満面の笑みを浮かべて言う。
「ああ!これからお世話になりまーす!
あとの荷物はさ、後日ここに届くから。
思ったよりも多くなってさー。」
「・・・・・・」
複雑だった。
いろいろ言いたいことがあった。
でも、本人を目の前にすると
どうでもよくなった。
こうして、笑顔で戻って来たのだ。
しかし・・・・・・
「・・・なぁ、明来。
もしかして、ついに声変わり?」
かすれた声に気づいたのか、
舞乃空が尋ねる。
明来は、じっと彼を見上げて
小さく頷いた。
それよりも、気になることがある。
「・・・・・・何か、元気ないな。」
「えっ?」
「何か、あったのか?」
見逃さなかった。
彼は明らかに、元気がない。
二週間前ここにいた彼の様子とは、少し違う。
「・・・・・・んー。」
聞かれたことに、
考える素振りをみせる舞乃空。
「・・・・・・あ。きっと、あれだな。」
「?」
舞乃空の長い両腕が、
勢いよく明来に絡みつく。
「あー、これだ!きっとこれ!
明来不足だー。
二週間分チャージさせてー。」
「・・・えっ・・・・・・」
油断していた。
約二週間という時間が空いて、鈍っていた。
かわすことなど、頭になかった。
「生き返るーっ!」
ぎゅーっとハグされて、明来は
ようやく我に返った。
そして、ふつふつと沸き上がるもの。
その感情を、爆発させる。
「・・・お前はっ!!分かっとるん?!
どんだけ心配させたと思っとるん?!
連絡の一つくらいしたら、
松宮さんたちも心配せずに済んだのに!!」
「ごめんなー。寂しかったんだなー。
ごめんごめん。」
「はなせっ!!」
「いやいや。まだまだ足りないなー。
・・・あれ?身長伸びた?」
「二週間で、伸びるわけないやろ!」
「うんうん。成長してるんだなー。
二週間って、結構な時間だよなー。
これから、明来の成長を
近くで見守れるんだよなー。やばっ。」
二週間では、舞乃空ハグから
逃れる程の力は生まれていなかった。
明来は必死にもがくが、びくともしない。
「大好きで、どうかなりそうなくらいー。」
「あのなっ・・・・・・、って・・・・・・?」
舞乃空の言葉に、引っ掛かりを覚える。
どこかで、聞いたような。
「お前・・・・・・」
「だから、ずっと我慢してた。
・・・・・・俺なんかが、
一緒にいていいわけがないって。」
青ざめる。
まさか。
こいつは。もしかして。
「よくやったぞ、明来。
これで葉音と、
思いっきりイチャイチャできるな。」
「み・・・・・・見とったん・・・・・・?」
「公園に行ったら、もしかしたら
明来がいるんじゃねーかと思って。
行ったら、二人いるじゃん?
おー、やべー。隠れないとって。
見守っていたら、告ってんじゃん?
で、チューしようとして・・・・・・」
「あーっ!!!」
―見られとったなんて!!
ぶわっ、と変な汗が噴き出る。
「ほらー。俺にレクチャーされとけば
ミスらずに済んだのにー。
笑いこらえるの大変だったんだぜ?
鼻ぶつけるとか、どんだけ必死なんだよ。
はははっ。
かわいすぎんだろー。よしよし。」
もがく明来の頭を、舞乃空は宥めるように
頬ずりする。
「やめろっ!!」
舞乃空の一方的な行為に、
もがいて離れようとするが、それは敵わない。
「でもまぁ、結果良かったじゃん。
イイ感じだったから、
俺はこっそり離れた。」
「お前はっ!!マジどこまでもっ・・・!!」
「安心しろよー。全部は見てないからさー。
よく頑張ったなー。うんうん。
・・・それからどうなったの?ん?
教えなさい。」
―教えられん。
葉音から、キスされたなんて。
「手ぇ、つないだのは当然だろ?」
「・・・・・・」
―何でこいつ、分かるん?
「再度、チャレンジしたとか?」
「・・・・・・」
―それは、葉音からだっ。
「うわ。もしかして、それ以上?」
「殴る。お前を殴りたい。」
「葉音もおとなしそうに見えるけど、
やるなー。」
「はなせ。」
「大進歩じゃん。もう心配いらねーな。
お前ら最強だ。」
「舞乃空。」
「祝杯といこう。」
「・・・・・・とにかく、家に入ろう。」
もがき疲れた明来は、
ぐったりしながら言葉を漏らす。
「お土産あるぞー。・・・あ。あとな。
母親がお前と話したいって。」
「・・・・・・え?」
「これから俺が世話になるから、その挨拶。
あと、俺を匿ってくれたお礼を
言いたいって。
・・・電話で話してもらえるか?」
ようやく明来の身体を放して、
舞乃空は言う。
「父親の方は、ダメだ。
戻ってから一回だけ会って話したけど・・・・・・
まぁ、母親の方は理解してくれた。
親権も母親。
俺も、それでいいと思ってるし。」
真顔で語り出す彼は、
少し寂しげな表情を浮かべている。
そんな舞乃空を、明来は見守る。
「今持ってきたのは、必需品とお土産かな。
松宮さんたちのも、もちろんある。
・・・連絡しなくて、悪かったと思ってるよ。
挨拶は、明日の方がいいよな。
もう遅くなるし。」
―・・・・・・こいつのペースには、ついていけん。
明るく話していると思えば、
急に真顔で話し出す。
それに周りは、ペースを乱される。
そう。これが、舞乃空だ。
「・・・・・・うん。そうやな。」
目の前にいるのは、
二週間前にいた彼なのだと、
ようやく明来は実感する。
独特な彼のペースを、
なぜか周りは受け入れてしまうのだ。
舞乃空は玄関前に置いていたリュックを
手に取り、肩に掛ける。
「明来は明日も仕事だよな。
・・・挨拶するのは、朝一にしようかな。」
「・・・・・・いや。
明日は、休み取っとる。」
「え?」
明来は玄関のドアに歩いていき、
鍵を出して解錠する。
「親の命日なんだ。墓参りに行く。」
「・・・・・・そっか。
・・・なぁ。それって、俺も行っていいのか?」
「・・・・・・」
―舞乃空が、このタイミングで
戻ってくるとは思わなかった。
「お前は挨拶しなきゃ、やろ。」
「えっ。俺一人で?気まずいじゃん。
・・・墓参りが終わってからでもいーだろ?」
「・・・・・・」
返事をせず、明来は
玄関のドアを開けて中に入る。
「・・・・・・お前は、
墓参り行かなくていいよ。」
その後に続き、舞乃空も中に入っていく。
「えー?それこそ挨拶しなきゃ、だろ。
これから世話になるし、報告しないと。」
舞乃空の言葉に、明来は目を向ける。
―しかもこいつは、変なところで真面目だ。
「・・・・・・マジで、行くと?」
「行きたい。」
明来はスニーカーを脱いで、廊下に上がる。
「ただいまー!・・・って言っていいよな?」
舞乃空は嬉しそうな笑顔を浮かべ、
スリッポンを脱いで後に続く。
彼が肩に掛けている黒いリュックは、
ずっしりと重そうだった。
お土産と必需品を、一体
どれだけ詰め込んできたのか。
「・・・・・・部屋、もう使えるようにしとるけん。」
「うわー。
準備万端で待ってくれてたのねー。」
「違うけん。」
「へへっ。いいよー。
明来がツンデレなのは了解済みだから。」
「違うっちゃけど。」
リビングに行かず、
明来は階段を上がっていく。
「お。いきなり行くの?」
楽しそうに、舞乃空は後を付いていく。
階段を上り切ると、左側には
ルーフバルコニーへ続く窓がある。
今その箇所は、
ウッドブラインドで遮られていた。
「ここ、言ってたやつだよな?
後で行ってもいいか?」
「・・・いつでも行っていいよ。」
「へへっ。・・・えーっと、
俺が使っていい部屋って、どっち?」
「こっち。」
ルーフバルコニーに続く窓の向かい側に、
暖かみのある木製のドアが二つある。
階段側にあるドアの前へ、
明来は歩いていく。
「じゃあ隣は、明来の部屋?」
「ああ。」
「いつでも行っていい?」
「・・・いつでもは、ダメ。」
「じゃあ、たまに?」
「気が向いたら。」
「よしっ。
・・・・・・あれ?奥は、何の部屋なんだ?」
廊下の突き当りにある、もう一つのドア。
「・・・・・・両親の仕事部屋、かな。
入らせてくれんかったけん、よく分からん。
鍵が掛かってて、入れない。」
「・・・えっ?」
「鍵を探したんやけど・・・・・・
どこにもないんよ。」
「・・・・・・鍵、壊せばいーじゃん。」
「えっ。・・・・・・いや、いいよ。」
「えー?気にならないのか?
俺だったら、壊してでも入るけど。」
確かに、そうだ。分かっている。
でも、そうだとは思っていても
気が進まないのだ。
「・・・・・・」
明来は、俯く。
彼の、ただならない様子を
舞乃空は、じっと見据えている。
「・・・・・・まぁ、明来がいいって言うなら
別にいいと思うけど。」
「・・・・・・」
「もし気が変わったら、いつでも言えよ。
一緒にいるから。」
彼の言葉に、明来は顔を上げる。
目を合わせると、舞乃空は柔らかく笑った。
自分は、何も語っていない。
だが、それを見透かすような、
彼の佇まい。
自分が、何かに恐怖を抱いている事を
彼は、理解しているだろうか。
明来は彼から目を逸らし、
部屋のドアを開ける。
中を見るなり、舞乃空は声を上げた。
「広っ!いいの?俺が、ここ使っても?」
「・・・・・・
使える部屋は、ここくらいやけん。」
部屋に入って一番目を引くのは、
深い青色のシーツが敷かれた、
クイーンサイズのベッド。
「ベッド、でかっ!」
「両親が使ってたやつやけん。
あ、でも掃除もしとるし、シーツも
新しいやつやから。
・・・・・・それでも気になるんやったら・・・・・・」
「いやいや。使わせていただきます!
こんな立派なベッド、
使わなきゃもったいないって。
・・・やばっ。明来。いつでも部屋に来いよ。
一人じゃ寂しすぎるー。一緒に寝ようぜ。」
「寝ません。」
冷静に言葉を返し、明来は
差し出すように舞乃空へ手を伸ばす。
「これ、家の鍵。またお前に預ける。」
舞乃空が東京に戻る時、渡していた家の鍵を
一旦返してもらっていたのだ。
それを再び手渡され、舞乃空は
とても嬉しそうだった。
「今度は正式に、ってやつだな。
・・・はははっ。夢みてー。」
「大げさやろ。」
「いやマジで。
明来と一緒に暮らせるとか、
正直思ってなかったからさー。」
「・・・・・・」
「ありがとな!」
鍵を受け取り、笑顔で
部屋中を歩き回る舞乃空を見て、
明来は安堵感を覚える。
彼がこの家に来ただけで、
電灯のように明かりが灯った。
二週間、いや、一年もの間。
暗い家の中を過ごしていた時間には、
もう戻りたくない。
「母親の電話、明来んち着いたらって
言ってあるんだ。面倒だろうけど、頼む。」
「・・・ああ。いいよ。」
舞乃空はベッドの上に座ると、
リュックのサイドポケットから
スマホを取り出し、タップして操作し始める。
明来は、その行方を見守った。
「・・・・・・
・・・・・・ああ、着いた。代わるよ。」
短い言葉を交わし、舞乃空は
スマホを明来に差し出す。
舞乃空の母親とはいえ、通話をするのは
少なからず緊張する。
会っていたとしても、
自分の記憶には残っていない。
差し出されたスマホを受け取って
少し息を整えた後、耳に宛てがう。
「・・・・・・こんばんは。」
挨拶の言葉を紡ぐと、
相手は少し間を置いて応答した。
『先日は、息子が
大変お世話になりました。』
丁寧に返された声は、落ち着いた声量で
少しハスキーだった。
『感謝しても、し尽せません。』
「・・・・・・いえ、そんな。」
―大したことは、していない。
『・・・本当に、大丈夫ですか?』
「・・・・・・?」
『迷惑に感じられましたら、
すぐに言ってくださいね。』
敬語で他人行儀な言葉は、
明来にとって不愉快さを感じた。
自分の記憶に姿形もないが、
舞乃空の母親と思ったら
この距離感は、少し残念に思う。
「・・・・・・それは、大丈夫です。」
『舞乃空に、三ヶ月分程の家賃代を
渡しています。その期間にもし、
迷惑だと感じられたら・・・・・・』
「大丈夫です。」
今度は、きっぱりと言い切った。
「そう思っていたら、初めから
住んでいいとは言っていませんから。」
―俺たちの事を、信じていないのか。
明来が少し口調を強くして
通話する様子を、
舞乃空は真摯な目で見守っている。
『・・・・・・そうですか。
生活するのは、大変でしょう?』
相手の口調が、和らぐ。
通話だけなので表情が見えず
何とも言えないが、その声音を聞いて
明来は、はっとする。
自分が感じたのは、
早とちりだったことに気がついた。
―・・・・・・もしかしたら。
この人は、自分や舞乃空の事を
思って言っているのか。
先入観。
舞乃空から聞いた少ない情報だけで、
会ってもない彼の母親像を生み出していた。
―この人は母親という立場で、
俺たちは子どもだ。
当然なんだ。
心配するのも。
「・・・・・・生活するのは、苦じゃありません。
舞乃空がいてくれることは、自分にとって
とても助けになると思っています。」
和らげて紡いだ明来の言葉に、
舞乃空は目を見開く。
「だから、心配しないでください。
俺たちは、生活していけますから。」
『・・・・・・』
しばらく、無言の時間が流れる。
明来はフローリングに視点を落として、
相手の言葉を待っていた。
『・・・・・・ごめんなさいね。』
ぽつりと、謝罪の言葉が響く。
『こちらこそ、
舞乃空を助けてくれて、ありがとう。』
心の籠った、優しい声音だった。
相手との壁が緩和したのを感じて、
明来は言葉を紡ぐ。
「・・・・・・俺たちは子どもだし、
社会人としては、弱いです。
・・・・・・仕事が楽じゃないのは、分かっています。
でも、やりがいはあります。
舞乃空が駄目だと思って辞めたとしても、
それはそれでいいと思います。・・・・・・
舞乃空が、ここにいたいと思うなら。」
『・・・・・・あなたは、
とてもしっかりしているわね。』
母親としての響きを持った、
温かい言葉。
『あなたがいてくれて、良かった。
ありがとう。よろしくお願いします。』
感謝の言葉。
明来の心を、優しく包み込む。
「・・・・・・はい。」
『・・・・・・舞乃空に、代わってもらえる?』
「はい。」
スマホを耳から外して
舞乃空へ目を向けると、彼は真っ直ぐに
自分を見つめていた。
目が合うと、ふわりと笑う。
明来から差し出されたスマホを受け取ると、
舞乃空は耳に宛てがう。
何度か短く返事をした後に、
彼は通話を切った。
「・・・・・・明来。」
名前を紡いで、舞乃空は微笑む。
「ありがとな。」
安堵。歓喜。畏敬。
色々な感情が入り混じった表情だった。
そんな彼を見て、明来は小さく笑う。
「・・・・・・いい人やんか。お前の母親。」
「・・・かてーんだよ。マジ。
でも、今回の事で少し・・・・・・見直した。」
「大事にしろよ。」
「・・・・・・ああ。」
「・・・・・・俺は晩メシ、まだなんよ。
ラーメン作るけど食うか?」
みるみるうちに、
舞乃空は満面の笑みを浮かべる。
「食う!ちょー腹減ってる!」
「即席のやつやけど。」
「アレだろ?初めて食った時、
うますぎて衝撃だったんだよなー。」
「もやしとハム、乗せていいと?」
「最強っす。」
「手を洗って、リビングに来い。
すぐできるけん。」
「トイレしてから、すぐ行くっす。」
嬉しそうに返事をする彼を
ちらっと見た後、明来は部屋を出ていく。
階段を下りる、足取りは軽い。
その表情には、少し笑みも浮かんでいた。
今日は、いい日だ。
今夜のことは、一生忘れない。
何もかも、いい日だった。
そして明日から、楽しい時間が始まる。
そう思うと、
悪夢の時間は耐えられる。
いや、見ないかもしれない。
そう確信していた。
*
ゆっくり、瞼を上げる。
自然と覚醒し、明来は天井のシミを
ぼーっと見つめた。
―・・・・・・今、何時やろ。
雀の声は、聞こえない。
だが、カーテンから陽の光が漏れている。
―・・・・・・あれ、目覚ましは・・・・・・?
ベッドから身体を起こし、
欠伸をしながら背伸びをする。
枕のすぐ横に会ったスマホを手に取り、
画面をタップした。
目覚ましのスヌーズは、切られている。
無意識で切ったのだろう。
指し示す画面の時刻を見て、目を丸くした。
―もう11時やんか。
目覚ましをセットしていた時刻は、9時。
完全に、寝坊だった。
―・・・・・・まぁ休みやけん、
いいっちゃけど・・・・・・
仕事じゃなくてよかった。
ベッドから下りてカーテンを開けると、
目が痛くなる程の直射日光が差し込む。
天気は、快晴だった。
―・・・・・・あいつ、起きとるかな。
明来は部屋を出ると、
隣の部屋のドアへ目を向ける。
ここは、元両親の部屋。
昨日、舞乃空の部屋になった。
ドアを軽くノックする。
「舞乃空。起きとる?」
呼び掛けるが、返事がない。
リビングにいるのか。
そうだとしたら、何で起こしてくれないのか。
そう思いながら明来は、階段を下りる。
リビングに入ると、ソファーで寛ぎながら
スマホをいじっている舞乃空が目に入った。
「あ。おはよー、明来。」
彼も明来に気づき、
笑顔で挨拶の言葉を口にする。
「・・・・・・おかしいと思わんかったと?」
「何がー?」
「10時に出掛けるって言ったやん?
何で声掛けてくれんかったと?」
「えー?ノックして声掛けたぜー?
スヌーズも鳴ってたっぽいけど、
すぐ切ってたじゃん。
でも全然部屋出てこねーし。
二度寝コースかなーと思ってた。」
舞乃空の言い分に、明来は驚く。
―・・・・・・気づかなかった。
爆睡しとったってことか?
「・・・・・・もっとしつこく、声掛けてほしかった。」
「えー。じゃあ今度からこういう時、
部屋のドア開けて侵入して、
目覚めのチューするぞ。」
「・・・・・・いや、いい。俺が悪かった。」
―こいつはマジで、する。
舞乃空は笑ってソファーから立ち上がると、
スマホをダイニングテーブルに置き、
アイランドキッチンへ歩いていく。
「墓参りだけだろー?まったりいこうぜー。」
「掃除と洗濯、済ませたかった。」
「廊下と階段の掃除は、済んでるぞ。
洗濯は勝手にできねーと思って、してない。
今度やり方教えてくれー。」
「・・・えっ?」
「朝メシ用意するけど。食べるだろ?」
「・・・・・・」
気を遣って、自分を起こさなかった。
しかも、掃除まで。
そんな彼に対して、明来は
何も言い返せなかった。
「東京のお土産第一弾!
サイコーに美味い食パン!
この店のパン、ちょーうまいの。
そのままちぎって食うのもいいけどさ、
軽くトーストして、バター乗せて食ったら・・・
めっっっちゃ幸せになれる。」
そう言って、彼は楽しそうに
透明の袋に入った食パン一斤を掲げる。
―あのリュックに、
食パン一斤入っとったのか。
「・・・・・・確かに美味そうやけど・・・・・・」
「だろー?」
「それを、わざわざ持ってくる
必要あったん?」
「ひどっ。明来にも、
この幸せを分けてやろうと思って
持ってきたのに・・・・・・」
「あのリュックに、あと何入れとるん?」
「え。聞きたいの?エロいな。」
「いや。何で。」
「それは教えられません。これから少しずつ
出していくんだから。
一気に見せるなんて。そんなエロいこと、
俺にはできねー!」
「意味わからん。」
―こいつの言うことは、たまに理解不能だ。
「あ。今夜さー、葉音来るだろ?
俺、出掛けようかな。」
「は?」
「せっかくイチャイチャできる
チャンスなのに、
俺がいたらできねーだろ。」
昨晩、舞乃空が来たことを
明来は葉音にメールで伝えた。
彼女はとても喜んでいて、すぐに
話がしたいと申し出てきた。
急遽3人で通話を繋ぎ、
しばらく会話をしたのだ。
今夜、彼女が
自分の家に来ることになっている。
「・・・・・・お前が作った歌を聴くために、
来るっちゃけど。」
この前、舞乃空が作ったオリジナルソングを
聴けなかったのが、心残りだったようだ。
「それは口実だろー。
葉音は明来とイチャつきたいんだって。」
「おい。」
「お前もね。もう我慢しなくていいんだぞ。」
「いや、あのな・・・・・・」
「いつでもバックレるようにしとくから。」
「そういうことは、極力しない方向でいく。」
「はー?!何でー?!」
信じられない、といった様子で
舞乃空は声を上げる。
「なにお前、聖職者でも目指すの?
じゃなきゃお前の考えオカシイぞ。」
「いや、お前の考えの方が
どうかしとる。」
「いやいや。
葉音が求めてきたらどーすんの?
お前拒むの?」
「・・・・・・」
―それは、できない。
「お前、マジで止められんの?」
「・・・・・・」
―止められる、自信ない。
「止められないなら、受け入れる。
進みたいなら、リードする。だろ?」
「葉音は、な・・・・・・」
「そんなことしないって?
言っとくけど、それはない。
・・・・・・まさか、
彼女の為を思って、止めるとか?
子どもだからって、止めるとか?
ありえねーぞ。
大事にしたいと思って止めるのは、
逆に傷つけることにもなるからな。」
「・・・・・・お前は、何を言っとるん?」
「大好きなんだろ?」
「・・・・・・ああ。」
「そう。大好きだろ?
気持ちを確かめ合っただろ?
じゃあその後は?・・・イチャつきたいだろ。
触りたいだろ。キスしたいだろ。
ハグしたいだろ。でもって・・・・・・」
「ま、待てって!」
舞乃空が零していく言葉を、
明来は顔を赤く染めて堰き止める。
少なからず想像したことは、今までにある。
もちろん、昨日だって。
でも、だからこそ、
葉音に謝りたいと思う。
昨日以上のこと現実でするのは、
自分の心が追いつかない。
「・・・・・・俺もだけど、
葉音も、そこまで考えとらんと思う。」
「そうかなー?」
「今、歌うことで一生懸命なんよ。
これから目指すものの為に、頑張っとる。
俺は、邪魔したくない。」
「それだ。その考えこそ、めんどくせーぞ。」
舞乃空は、真っ直ぐに明来を見据える。
「綺麗ごとで済まそうだなんて、
理想でしかないんだからな。」
その視線から、明来は目を逸らす。
「お前のペースだと、いつになるかなー。
ダメになっちまうかもなー。」
舞乃空は、キッチン上の戸棚から
コーヒー豆の袋を取り出して、
マグカップを準備する。
「・・・まぁ、これだけ背中を押せば、
もしかすると、ってな。へへっ。
二人なら大丈夫だろうけど。
でもな。時間は、待ってはくれねーぞ。」
「・・・・・・」
―お前は、本当に同じ歳か?
大人びた発言と、時折見せる
色を帯びた舞乃空の表情。
以前彼から聞いていた事実を、
明来は思い出す。
『大人の女と付き合ってたんだ、俺。
いろいろ教えてくれた。
甘いことも、苦いことも。』
そんな機会が、
普通に転がっているわけがない。
彼は一体、東京で
どんな環境にいたのだろう。
「これからが楽しみだなー、明来。
いつでもアドバイスしてやるぞー。」
「・・・・・・しなくていい。」
―お前のアドバイスは、大人すぎる。
「気持ちってのは、
いつも一定ってわけじゃないからな。
その時はサイコーでも、時間が経てば
どうしても忘れるものがある。
だから、確かめ合う時間が必要なんだ。」
―だから。お前は、いくつだ?
「気持ちは、変わるってことだよ。」
「・・・・・・俺は、変わらん。」
「変わる。ニンゲンさまは、難しいんだ。」
陰のある微笑を浮かべて食パンを切る
舞乃空を、明来は訝しげに見る。
―お前の言葉を理解する方が、難しい。
「でもさ。変わることは、
悪いばかりじゃない。良いこともある。
成長するって意味で。
・・・・・・それを、この二週間で知った。」
挽かれたコーヒー豆の香ばしい匂いが、
リビングに広がる。
「・・・・・・」
「今の俺は、最強だぞー。」
そう言って、
不敵な笑みを浮かべて食卓の準備をする
舞乃空を眺めた後、明来は
ぼそ、と告げた。
「・・・・・・顔洗ってくる。」
「あー。戻ってきた時には、用意できてるぜ。
行ってらっしゃーい。」
リビングを出た後、立ち止まる。
明来は、小さくため息をついた。
自分勝手で、こちらのペースを乱し、
明るく笑顔を浮かべて、
お構いなしに言いたい放題。
しかしそんな彼は、
自分が知らない闇を抱えている。
―・・・・・・これから、
知ることになるかもしれない。
自分と同じように、
彼は秘密を抱えている。
それを聞かされる時が、
打ち明ける時が、来るかもしれない。
舞乃空が東京から持ってきた、一斤の食パン。
これがかなり美味かった。
明来は彼の言葉通り、幸せな気持ちに浸った。
その様子を、舞乃空は会話をしながら
満足そうに眺めていた。
時間も正午を過ぎ、このまま部屋で
まったり過ごしたくなったが、
そうもいかない。
いつもの廊下と階段掃除は
舞乃空が済ませていたので、明来は
朝食と同時進行で行っていた洗濯を済ませ、
ルーフバルコニーで彼と洗濯物を干した。
着替えをして家を出る頃には、
昼1時を回っていた。
雲一つない、快晴。
鮮やかな青色が、
身体と心の隅々まで浸透していく。
「いー天気だなー!」
玄関の施錠をする明来の後方で、
舞乃空は太陽に向かって背伸びをしている。
そんな彼の背中を見て、明来は言った。
「電車で行くけん。」
「おー!電車旅!サイコーじゃん!
・・・そーいえば場所ってどこ?」
「太宰府。」
「いいねー。行ってみたかったとこじゃん。」
二人の服装は、普段と変わらない。
舞乃空が気にして明来に尋ねたが、
そこはこだわらないと答えた。
黒いものを着るのは、気が進まなかった。
なぜ、黒いものを着るのだろう。
黒いスーツを新調するのも、
黒い学ランを着るのも、気が進まない。
喪服が黒色である理由は知っている。
しかし彼自身の抱える理由が、
それに従うのを拒んでしまう。
明来は、黒が苦手だった。
何も見えない、浮かばない。
どんな色も飲み込んでしまう、暗闇が。
「あ。明来。忘れてた。」
舞乃空に言われて、明来は
歩いていこうとしていた足を止める。
「おはよーのハグしてない。」
それに対し、冷静に返す。
「・・・・・・寝坊したけん、せんでいい。」
「うまいこと言うー。」
動じず歩き出す明来の返しに、
舞乃空は笑い飛ばして後を追う。
「ただいまのハグは、しようなー。」
「せんでいい。」
「大事だろー?」
「大事やない。」
「・・・あれ?そっちに行くの?」
明来が踏み出す足は、車両区がある駅とは
反対側に向いている。
「俺んちの場所は、ちょうど
一区間の中間地点なんよ。
博多方面に行くなら車両区の方やけど、
太宰府は反対側に行くけん、こっち。」
「へぇー。そうだったのか。」
「二日市駅まで行って、
そこからバスに乗る。」
彼の肩に掛けられた
ショルダーリュックの中には、
供養に使うものが入っている。
「明来ー。ハグはなー。一番分かり合える
大事なコミュニケーションなんだぞー。」
「お前と分かり合う気はない。」
「ひどっ。昨日母親に言ってくれたのは、
嘘だったのかー?」
「・・・・・・」
「めっちゃ、カッコよかったのに。
マジ、リスペクトだったのに。」
「・・・・・・お前さ、何でハグしたがるんよ?
日本の文化やないやん。」
「今の時代、グローバル。世界共通。」
「そんなの、聞いたことない。」
「恥ずかしいんだな?分かる。でもな、
恥ずかしがってる場合じゃないぞ。」
「なぜ、やる方向に持っていく?」
「構えすぎなんだよ、明来は。
気軽にいこうぜー。
俺たち、ダチ。な?別におかしくない。」
「おかしいのは、お前の距離感。」
「あ。バレた。」
「・・・・・・だから。」
「はははっ。なー。これから
いろんなとこ出掛けよーぜ。
考えると楽しくてさー。」
「・・・・・・」
「行こーぜー。」
「・・・・・・うん。」
「へへっ。」
―肝心なところは、はぐらかす。
冗談なのか、本気なのか。
「松宮さんへの挨拶は、夕方でいいと思う。
二人揃ってる時がいいかなって。」
「了解。・・・良くしてもらった分、
これから返さないとな。」
かんかんかん。
目の前にあった踏切の遮断機が下り、
二人は立ち止まる。
「俺、明来の弟子になるー。」
「え。いや、俺はまだそんなに・・・・・・」
「仕事の立場上、
先輩たちに従うけどさ。
俺の師匠は、明来だって決めてる。」
「・・・・・・やめた方がいいけど。」
「もう弟子だけどなっ!」
「いや、何の?」
通り過ぎる快速電車を見送り、
遮断機が上がると再び二人は歩き出す。
同じように立ち止まっていた通行人も、
車道に停まっていた自動車も、
一斉に動き出した。
平日この時間に、
駅周辺を歩く事はないので
新鮮に感じる。
しかも、舞乃空と電車に乗ることも。
―これから、こういう時間が増えるのは・・・・・・
不思議と、嫌じゃない。
明来は、プラットホームで
自分の横に並ぶ舞乃空を見る。
目が合いそうになると、
視線を線路に落とした。
舞乃空と過ごす時間は、
現実を忘れられる。
暗闇を感じずに、済む。
二日市駅を降り、目的地行きのバス停に行くと
タイミング良くバスが来た。
乗客はまばらで、空席が目立つ。
ICカードを通してバスに乗ると、
明来と舞乃空は後部座席へ座った。
目的地へ向かうにつれて、
さらに乗客は減っていく。
ついには、自分たちと
とある女性一人だけになった。
真っ直ぐ伸びた、綺麗な黒髪。
自分たちからの角度だと、
彼女の後ろ姿しか確認できない。
「・・・・・・明来。
あの人、めっちゃ美人だった。
乗る時、ちらっと見たけど。」
舞乃空が、耳打ちしてくる。
纏う雰囲気のせいなのか、明来も
その女性に目を向けてしまっていた。
彼女の時間だけが、
止まっているように見えたのだ。
「・・・・・・俺たちと、同じ所に行くかも。」
「だろーな。
黒のフォーマルスーツ着てるから。」
「・・・・・・お前、よく見とったな。」
「そんくらい、目ぇ引いた。」
ひそひそと話した後、明来は改めて
その女性の後ろ姿を見つめる。
黒。纏うものすべてが、黒だ。
それが気になって、目を奪われてしまう。
目的地に辿り着くと、その女性は席を立つ。
続くように、
明来と舞乃空も立ち上がった。
バスから降りると、
その女性と距離を保ち、後ろを歩いていく。
「・・・・・・なー。明来。」
「・・・・・・ん?」
「あの人の行くお墓が、
お前の両親んとこだったら、エグくない?」
「・・・・・・」
黒を纏う女性の後ろ姿を見つめ、
明来は首を横に振る。
「知り合いじゃない。」
「あの人、幽霊だったりして。」
舞乃空が紡ぐ言葉に、彼は
さらに首を横に振る。
「何言っとるん?」
「・・・あれ?明来、こういうのダメなやつ?」
「冗談でも言うな。」
「やっぱ、ダメなんだな?」
「あの人は、人間だ。」
彼の口から零れる声は、震えている。
「へへっ。明来ー。怖いんだろ?
いつでも掴んでいいからなー。」
舞乃空は面白がって、片腕を差し出す。
「・・・・・・」
震えている自分の姿を見て
可笑しそうにしている彼を、明来は睨んだ。
「幽霊なんて、この世にいない。」
「っていう割にはー?震えてんぞ。」
「・・・・・・震えてない。」
「明来の弱点、みっけた。」
「・・・・・・」
「いいぞ。いつでも飛び込んでこい。
俺が守ってやるからなー。」
屈託ない笑顔で言い放つ舞乃空に、冗談抜きで
すがりつきたい衝動に駆られる。
それ程、今の明来には余裕がなかった。
気づけば、霊園に辿り着いている。
女性は敷地内に足を踏み入れ、歩いていく。
目指す方向は、同じだ。
「・・・・・・」
明来は、立ち止まりそうになった。
足が震えて、今にも崩れ落ちそうだった。
ただならない彼の様子に、舞乃空は
茶化さずに声を掛ける。
「・・・・・・明来。大丈夫か?」
「・・・・・・」
返事すら、できない。
俯いて、黙り込む。
完全に、足が止まった。
「明来。」
「・・・・・・舞乃空、気分が悪い・・・・・・」
絞り出した声は、届くかどうかも分からない。
あの女性との、面識はない。
だが、纏う黒が、恐怖に陥れる。
「・・・・・・ダメ、なんだ。黒は・・・・・・」
普段なら、何とも思わない。
避ければ、何てことない。
だが。
今日という日に、
この場所で、このタイミングで、
黒を纏う人間に会うのは。
「明来っ。」
「帰りたい。無理だ。行きたくない。」
もう、懇願に近い。
知らずに、舞乃空の片腕を掴んでいた。
何か掴まないと、立っていられない。
身を震わせ、今にも
地面へ崩れ落ちそうな明来に、
舞乃空は真摯な目を向ける。
「・・・・・・明来、落ち着け。」
彼の声も、届かない。
冷や汗が滴り落ち、明来は必死に両手で
彼の片腕にすがりつく。
「・・・・・・」
涙が、溢れ出す。
震えが、止まらない。
明来の膝が崩れ、
その身体が地面に倒れそうになる寸前で
舞乃空は抱き留める。
「・・・・・・明来・・・・・・」
―ダメなんだ。
黒は。
すべてを、飲み込んでしまう。
震えながら泣き崩れる明来を、舞乃空は
力強く抱き締める。
再会して、彼が泣き崩れた、あの夜。
あの時も、彼は必死で
何かから逃げようとしていた。
怯えて、震えて、すがりついて。
その事を、彼には告げていない。
大きな悲しみを抱え、
何かから逃れようとする彼の姿は、
尋常じゃなかったからだ。
「明来・・・・・・明来・・・・・・」
「・・・・・・」
何度も呼び掛けるが、彼は応えない。
彼は一体、何に怯えているのか。