自覚
物置部屋に立て掛けられた、父親のアコースティックギター。
片隅に追いやっていた記憶の断片を、明来は蘇らせる。
そして、自分を取り巻く周りの存在。
支えられて、助けられている。
3
瞼を閉じて、明来は
戻らない日常を振り返る。
父のアコースティックギターが
響かせる音色は、温かい記憶を引き出した。
母が作る夕ご飯の匂いと
それを待っている間の、ひととき。
奏でられるギターの音色を、自分は
父に寄り添って静かに聴いていた。
懐かしさと美しさのあまり、
自然と涙が零れた。
自分は今、どれだけ遠い所にいるのだろう。
思い出す時間も忘れ、
生きることが精一杯で。
部屋に響き渡る音色には、所々狂いがある。
それが気になり出し、ゆっくり瞼を上げた。
同時に、ふわりと頭に置かれる温かさ。
すぐ傍にいる舞乃空を見上げると、
彼の真摯な眼差しに囚われた。
自分以外のものは排除しているような、
とても真っ直ぐな双眸。
本能的に、その目から逃れる事は難しかった。
しばらく互いに見つめ合う。
息をすることも、
身体を動かすことも、苦しい。
胸の奥が、痛い。
彼の眼差しは、とても強い。
心の隅々まで、容赦なく差し込む光。
堪らず息を飲もうとした次の瞬間、
舞乃空は、ふわりと笑った。
「・・・・・・明来。チューナーある?」
優しい囁き。
それに赦されて明来は、小さく口を開ける。
ひゅっ、と息を吸う音が聞こえる程
部屋内は今、静かだった。
いつの間にか、演奏が止まっている。
そして彼の手は、自分の頭に
尚も置かれたままだ。
「・・・・・・ち、チューナーって・・・・・・?」
やっとの思いで絞り出した声は、掠れた。
言葉を紡いだと同時に、堰を切って
鼓動が胸を叩く。
今にも懐に包まれそうな距離に
自分は、いる。
「キーを合わせるやつ。あ、音程のことね。
それがあったら狂いを直せるんだ。
弦を張ってると、時間が経つと
どうしても狂っちまう。
・・・・・・新しい弦も、
ケースの中に入ってないかなー。
サビはないけど、張り替えたいかなって。
立て掛けてた割には
反りもないから、安心しろー。」
「・・・・・・」
流暢に言葉を発する
彼の雰囲気は、戻っている。
しかし先程の強い視線が
脳裏と心に焼き付いて、離れない。
頭に置かれた彼の手から逃れるように、
明来は手の甲で零れた涙を拭って
ハードケース内にあるポケットを探る。
中には、掌に納まる程の小さな機器と
10cm四方の紙袋が入っていた。
「・・・・・・これ?」
ポケットからその二つを取り出し、
舞乃空に見せる。
「あー。それな。」
受け取る彼の指が、自分の手に軽く触れる。
その部分に相手の体温を感じ、
ちりちりするような痺れが生じた。
すぐに手を下げ、
耐えるように俯いて拳を作る。
「・・・・・・明来。もう寝ないと、だろ?
このギター、好きにしていい?」
明来は何も発さず、頷く。
「ケースの中も見ていいかなー?
多分レンチとか、張り替えに必要な道具も
入ってると思うんだよな。潤滑剤とか。」
言葉の内容が入って来ず、
ただひたすら頷くしかできなかった。
「明日、生まれ変わった音を聴かせてやるよ。
楽しみにしてろー。」
そう言って、舞乃空は顔を綻ばせる。
雰囲気、声音、笑顔、心遣い。
全てが、自分の為に注がれている気がする。
息苦しさと激しく鳴る鼓動に耐えられず
立ち上がると、明来は
振り絞るように言葉を吐いた。
「・・・・・・おやすみ。」
「おやすみー。」
手を挙げて自分を見送る舞乃空は、
優しい笑顔を浮かべていた。
部屋のドアが閉まると、
明来は大きく深呼吸をした。
廊下の空気は、火照った身体に
とても心地好い。
取り込んで、ある程度落ち着いた後
その場を離れる。
階段を上がる為に踏み出した足は、
うまく力が入らない。
気を抜くと、座り込みそうだった。
壁に拳を擦りつけながら身体を支え、
ゆっくり上がっていく。
時間を掛け自分の部屋まで辿り着いて
ドアを開けると、ベッドの上に倒れ込んだ。
うつ伏せのまま、枕に顔を埋める。
脳裏に焼き付いた舞乃空の真摯な眼差しが、
自分を捉えて離れない。
こうして無事に部屋へ戻れたというのに、
未だに支配されている気がした。
力ではなく。
心を射抜こうとする、強い光。
―・・・・・・正直、キスされるかと思った。
想像やけど、多分大人は
あんな感じの空気作って・・・・・・
するんやろ。そうなんやろ。そんな気がする。
したことない俺でも、分かった。
多分、当たってる。
あいつは絶対、したことあるんだ。
絶対、そうだ。
でなきゃ、あんな空気作れないって。
・・・・・・
いやいや、マジで何なん?
同じ歳やん?子どもやん?
おかしいやろ。
大人みたいなこと、しやがって。
しかも、俺相手に。
それな。俺相手に。笑えないって。
・・・・・・でも、あいつはしなかった。
だよな。冗談にも、程があるやろ。
何なん?あいつ、何考えとるん?
・・・・・・
突き放すことは、出来るはずだった。
言葉も、跳ね返すように言えたはずだった。
だけど、それが出来ずに固まった。
明来は、身体を抱えるように縮こまる。
―・・・・・・まさか・・・・・・
あいつ、マジで、俺に・・・・・・?
そう考えて、頭を何度も振った。
―・・・・・・寝よ。
そうだ。寝よう。
明日から、初めて仕事を覚えるんやし・・・・・・
葉音。そうだ。葉音だ。葉音の事考えよ。
今日、あいつかわいかったな~。
いや、いつもかわいいっちゃけどさ。
歌も、最高にかわいかった。うん。
もうすぐ入学やし、制服姿も拝める。
おお。それはヤバい。最高すぎる。
あの学校の制服、ばりかわいいっちゃんね。
楽しみやんか。早く見たい。
・・・・・・
・・・・・・
アコギ、楽しみやな・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・ギター、弾けるとか。
何なん・・・・・・
かっこよすぎるだろ・・・・・・
歌もできて、楽器もできるとか・・・・・・
・・・・・・あいつ、何者なん?
・・・・・・
次第に、瞼が重くなる。
声を張って沢山喋り、
腹の底から声を出して歌い、
美味しいものを作って食べて、眠る。
それは一人ではなく、友だちと一緒に。
今日だけで、とても濃い時間を過ごした。
心地好く微睡むには、充分な疲れだった。
そして耳に残る、ギターの音色。
優しい囁き。
自分に向けられた笑顔。眼差し。
今日を過ごした時間には、いつも彼がいた。
その光が寄り添って、
暗闇の自分を照らしてくれていた。
安堵感と、充実感。
それに包まれて、
明来は眠りに落ちていく。
彼の中で起こった、小さな化学反応。
それは、本人が気づかない水面下の
無意識の部分で、少しずつ広がっていく。
穏やかに、ゆっくりと。
*
ちゅんちゅん。
さえずりが耳に届き、覚醒させる。
ゆっくり瞼を上げると、
明来は手を伸ばして
ヘッドボードの上に置いていたスマホを掴む。
時刻は、5時を過ぎた頃である。
スマホの目覚ましでスヌーズをかけても、
起きることが困難だった数日前とは
全然違う。すっきり、目を覚ました。
しかも、目覚ましが鳴る前である。
身体を起こして背伸びをした後、
ベッドから下りて窓に目を向けた。
カーテンの隙間から、街灯の光が漏れている。
外はまだ薄暗い。
部屋の照明をオンにして
ベッドに腰掛けると、スマホに届いている
通知を確認する。
すると、葉音からメールが届いていた。
時間は昨日、自分が眠りに落ちた頃である。
《(*'ω'*)》
その顔文字の下に、画像が貼られていた。
昨日カラオケルームを出る際、葉音が
三人一緒の写真を撮りたいと言って
自撮りしていたのを思い出す。
二人とも歌い尽くして爽快感溢れる笑顔だが、
真ん中にいる自分は、何とも言えない表情だ。
これでも、和んでいるとは思う。
実際昨日のカラオケは楽しかった。
―・・・・・・小学生みたいだな、俺。
改めて自分の顔を確認すると、幼い。
普段まともに見ないので、
これが自分だと思うと残念に思える。
隣にいる舞乃空と比べると、
とても同じ歳には見えない。
明来は溜め息をついて、
スマホを勉強机の上に置いた。
部屋を出て階段を下りていき
リビングのドアに目を向けると、
ガラス越しから照明が点いているのに気づく。
―消し忘れた?
・・・・・・いや、それはないよな。
じゃあ・・・・・・
ドアノブに手を掛ける。
開けて中に入ると、アイランドキッチン付近に
舞乃空が立っていた。
入ってきた明来に気づき、彼は慌てる。
「おっ、もう起きたのかー?
早ぇなぁ!おはよー!
・・・どーしよーかな。
まだ朝メシの準備できてねーよー。」
「・・・・・・おはよ。いいよ。顔洗ってくる。」
短く言葉を残し、明来はリビングを出ていく。
自分よりも早く、彼は起きていた。
しかも朝御飯の準備をしようと、
キッチンに立っている。
自然と、笑みが零れた。
―・・・・・・コーヒーメーカーの使い方、
分かるとかいな。豆がある所も。
どこに何があるのか、教えてないし。
「明来ーっ!
コーヒー豆どこにあるんだー?!」
思っていた矢先、舞乃空の声がした。
「シンク上の戸棚ーっ!」
声を張って、言葉を返す。
「・・・・・・あったー!」
しばらくして、嬉しそうな声が返ってきた。
朝から声を張って会話をするなんて、
彼が来る前は考えられなかった。
誰かがいて、朝を迎えるなど。
明来は、安堵の息を漏らす。
昨晩の事は、思い出さないようにしていた。
あれはきっと、悪乗りしてしまったのだろう。
そう考えて、そっと蓋をしていた。
「じゃ、行ってきます。」
「行ってらっしゃーい。あ。明来。
忘れものー。」
抱き締めようとする舞乃空の両腕から、
素晴らしい速さで回避する明来。
「ハグはー?」
しゅんと肩を落とす彼に、
何事もなかったかのように断言する。
「それはしない。」
「いーじゃんよぉ。そんくらい。」
―良くない。
「行ってきます。」
「いってらー」
外に出て玄関のドアを閉めると、
明来は大きく息をつく。
「・・・・・・あっぶな・・・・・・」
冷静を装ったが、かなり焦った。
隙を見て狙ってきた舞乃空に、
何とか対処はしたものの・・・・・・
昨日みたいな雰囲気で来られたらと思うと、
胸の奥が痛くなった。
せっかく、蓋をしたのに。
―・・・・・・
俺が、あんな空気作れたとして・・・・・・
葉音と向き合ったら・・・・・・
葉音は、どう思うんやろうか?
そう考えて、すぐに打ち消す。
―・・・・・・何考えてるん?
葉音は、これからの高校生活で
良い出会いが待っている。
夢に向かって歩こうとしている。
俺が、彼女を汚していいわけがない。
俺の願いは、彼女が幸せになる事。
出来れば傍にいて、
彼女が安心できる存在である事。
・・・・・・それだけ分かれば充分だ。
明来は、ゆっくり歩き出す。
肩に掛けたショルダーリュックには、
おにぎり2つと水筒が入っている。
連日遅刻して用意できなかったが、
いつもはこのスタイルである。
おにぎりは昨日、沢山作って
冷凍庫にストックしている。それを温めて
1つはごま塩を振り掛け、
1つは醤油を染み込ませた鰹節に
焼き海苔を巻けば、立派な昼御飯になる。
白々と明けてはきているものの、空はまだ
薄暗いので街灯が点いている。
昨晩、雨が降ったのだろう。
アスファルトが濡れていた。
どこからか飛んできた桜の花びらが
張り付いて、歩道を彩っている。
少し冷たい風が、頬を撫でていった。
時間に余裕があると、
些細な事に気づくことが多い。
―昨晩の雨で、結構散ったなぁ・・・・・・
今夜は、公園の桜に会いに行こう。
大事な時間だ。
“松宮冷機”と掲げられた看板を見上げた後
門をくぐると、機材と資材が収められている
倉庫のシャッターが開けられていて、
明かりが点いていた。
「・・・・・・おー、早いやん。おはよう。」
やってきた明来に気づいて、
倉庫内から寺本が姿を見せる。
日焼けのせいか、肌は浅黒い。
細身に見えるが彼の身体は無駄がなく、
引き締まっている。
作業服の袖をまくり、むき出しになった腕は
力強くて逞しい。
「寺さんこそ早いっすよ。
おはようございます。
・・・昨日一昨日は、すんません。」
頭を下げて言う明来を見て、
寺本は一笑する。
「その申し訳ない気持ちを、
仕事で返せばいい。
先に、タイムカード通してこい。」
「はい。」
返事をして一礼すると、速やかに
事務所へ続く階段を上っていく。
専務の陽菜は9時出勤なので、誰もいない。
大抵は、鍵を持っている寺本と水野が
事務所の出入り口を解錠している。
明来は、入り口付近にある
タイムレコーダーの前に立ち、
自分のカードを手に取る。
通し終えると、とある方向に目を向けた。
しんと静まり返る事務所内の隅に佇む、
サンセベリア。
身を寄せ合い、天井に向かって伸びる姿は
ずっと見ていても飽きない。
ささやかな、癒しだった。
その姿を少し眺めた後、事務所から出ていく。
「お前の腰道具、作っとるけん。
ほら、そこ。」
倉庫に戻ると、ドレンホース
(室内機から出る水を排出するもの)を
運びながら寺本が声を掛けてきた。
彼が目を向けるテーブルの上に、
一組の腰道具が置かれている。
それを目にして、明来は表情を明るくさせた。
「ありがとうございます!」
「これでやっと、お前も職人だな。」
「えっ?・・・・・・まだ、何も・・・・・・」
「道具を持った時点で、職人だ。
それを忘れるなよ。」
「・・・・・・はいっ。」
重みのある一言だった。
寺本だけではなく、水野や松宮の意思も
含まれているような気がした。
「うわ。このモンキー、300?
でかくないっすか?」
「明来専用。持っているだけで筋トレになるぞ。
非力やけん、そんくらいじゃないと
フレア締められんやろ。」
「い、いや・・・・・・いくらなんでも・・・・・・
ねじ切っちゃいそうっすけど・・・・・・」
「・・・ぶははっ。俺もそう思う。
流石に300は重いよなぁ。
それ、水野さんのギャグ。
250に変えていいぞ。」
明来の反応が当然だと分かっていたのか、
寺本は笑いながら
250サイズのモンキーレンチを差し出す。
「まぁでも、そんくらいにやれ。
一回やれば加減が分かる。」
腰道具に備え付けられた中で、
一際目立つ大きなモンキーレンチ。
それを取り外して、
差し出されたものと交換する。
「・・・・・・でも、確かに
筋トレにはなりそうっすよね。」
「やめとけ。動けんくなるけん。」
250サイズを付け直したその隣には、
200サイズのものが取り付けられている。
銅管と室内機、室外機を繋げるには、
フレアと呼ばれる加工をしなければならない。
銅管をラッパ状の形にしてナットを締める際、
固定する為にモンキーレンチが
二つ必要になる。
「・・・・・・着けてもいいっすか?」
「お前のだぞ。好きにしろ。」
袋の部分に青いラインが入った腰道具は、
年季が入っている。
持つと、ずっしり重い。
だが装着すると、重いと感じるよりも
ようやく仲間になれたのだという
嬉しい気持ちの方が強かった。
「使い古しやけん、綺麗じゃないけどな。」
「充分っすよ。ありがとうございます。」
「みんなが使わなくなった道具を
寄せ集めとる。慣れたら、
自分が好きなように揃えたらいい。
それ、ばり楽しいっちゃんね~。」
「寺さん、こだわってますもんね。」
「そりゃあなぁ。どんなにベテランでも、
道具がないと何もできねぇから。
手入れするのもプロの内やけんな。
大事に使えよ。」
「はい。」
「・・・ペアコイル2分3分。
そうやな~・・・・・・とりあえず3巻やな。
あと電線3芯。」
「はいっ。」
何を言われているのか
すぐに理解した明来は、腰道具を外して
資材が置かれた棚へ行く。
「今日で4機設置するけんな。
・・・下調べだと、壁はボードやから
ボードアンカーを持って行く。
一応コーススレッドと青ビスも用意しとけ。」
「了解っす。」
今回寺本が請け負う案件の新築アパートは
軽量鉄骨造の1Kで、
エアコン備え付けの物件である。
内装の施工が完了している為、
情報を元に資材を準備する必要があった。
どの案件も段取りを組んで資材を取り寄せ、
施工に必要な機材も揃えて現場に持っていく。
「おはよう。」
落ち着いた低い声が響いた。
その一声で、寺本は姿勢を正して声を張る。
「おはようございます!」
威勢がいい挨拶に手を止め、資材棚の隙間から
その方向に目を向けると、
にこやかな表情を浮かべる
松宮の姿を捉えた。
明来は彼の元へ歩いていき、頭を下げる。
「おはようございます。」
「ああ、おはよう。・・・腰道具、着けてみたか?」
「はい。作って頂いて、
本当にありがとうございます。」
「ほとんど、皆が使っていた道具を集めたから
新しくはないが、使いやすいと思う。
・・・これからもよろしく。」
「はいっ!」
返事をして、頭を深々と下げる。
それを見守り、松宮は微笑むと
事務所に続く階段を上がっていく。
その広い背中を見送った後、明来は
再び準備に取り掛かった。
今日使う社用車は、軽トラックである。
資材、設置に使う道具、機材、
壁掛け形の室内機、室外機4台を
荷台に乗せている。
準備が終わる頃には、松宮と水野が
倉庫に姿を見せていた。
水野は電子タバコを吸いながら、
明来と寺本に目を向ける。
「気をつけて作業しろ。頼むぞ。」
「はい。」
松宮と水野は、一昨日設置完了した店舗の
試運転に向かう。
明来たちが向かう新築アパートは
県内で、移動距離は約30分程である。
「大創。明来をよろしく頼む。」
松宮の一声は、
寺本の姿勢を正すのに造作もない。
「はいっ!」
「では、行こうか。」
そして、魔法の言葉のように
皆を従わせる。
空は、完全に青空である。
雲一つない快晴だった。
明来は軽トラックの助手席に座り、
シートベルトを着用する。
シートの座り心地は、
お世辞にも良いとは言えない。
運転席に乗る寺本も
シートベルトを着用して、エンジンを掛けた。
始動と共に、ぶるぶると車体が震える。
「この軽トラは
オーディオついてないっちゃんねー。
ラジオでもいいか?」
「はい。」
寺本がカーラジオを付けると、
ちょうど音楽が流れていた。
曲調は、レゲエのようなリズムを刻んでいる。
松宮と水野が乗り込むバンを見送った後、
軽トラックはゆっくり走り出す。
「・・・・・・あの、寺さん。」
「ん?」
発進して間もなく、明来は声を掛ける。
「真面目な話をしてもいいっすか?」
「何だ?改まって。」
「・・・・・・ここで働きたいっていう
友人がいるんっすけど・・・・・・どう思います?」
舞乃空の事を松宮に話す前に、
寺本に相談してみようと思ったのだ。
話を切り出すのは、今日の仕事が
終わってからにしようと考えていた。
寺本の反応は、とても和やかだった。
「へぇ。そんなやついると?気合入ってんな。
俺は大歓迎やけど。」
「・・・・・・雇ってくれますかね?」
「うーん。当たり前かもしれんけど、
社長の考え次第やなぁ。あと、陽菜さんの。
ここんとこ仕事も増えとるし、
人手が欲しいとは思う。
やれる仕事も幅が広がるけんなぁ。」
「・・・・・・」
「なに、そいつ同年?」
「はい。小1ん時遊んでたやつです。
親の転勤で転校したっすけど・・・・・・
最近偶然会いまして。」
「知らんかったなぁ。
そんなダチがいたんやな。
一緒に働けたら、お前も楽しいやろ。」
「・・・・・・そうっすね。」
「もし働くことになったら、
面倒見てやるけん。弟が増えるのは
俺も嬉しいもんなぁ。」
そう言って屈託なく笑う寺本は、
とても頼もしい。
明来は、少しだけ肩の力を抜くことが出来た。
舞乃空が自分と同じ作業服を着て、
同じ時間を共有する。
明来は朧気に想像しながら、
車窓を眺めていた。
*
明来、今日帰ってくるの遅いかなー?
新しい仕事覚えるみたいだし。
待ってる間、アコギの弦張り替るには
ちょうどいいかも。
へへ。あと、曲作って驚かせてやる。
ほとんどの掃除は、明来が済ませている。
洗濯も。俺の担当は、廊下。
いいのかなー。簡単なとこで。
・・・でも、勝手に部屋入れねーし。
二階上がれねーし。いいんだろな。
俺の貴重な一着は、無事に干されている。
明来の親父さんと俺のサイズが
合ってるって・・・・・・
意外と、明来は身長伸びるんじゃね?
顔も整ってるしー。将来、イケメンだな。
いや、今も充分イケメンだ。
昨日しっかり、顔を拝ませてもらったけど
・・・・・・ヤバかった。
思わず、チューするとこだった。
あぶねーあぶねー。
・・・・・・古着、調べて買おうかなー。
安くて激レアなやつあればいいなー。
・・・・・・ん?メールが来てる。
葉音だ。
昨日、三人で撮ったやつ送ってきてたなー。
へへ。ありがと、葉音。
これ、めっちゃいい写真。
《おはよぉ(*^。^*)起きとる?》
10分前のメールだ。
《はよ(*^^*)起きてるぜ》
おっ。既読が付いた。
《昨日は楽しかったね~(*'ω'*)♪♪》
《楽しかったなー(*'ω'*)♪♪》
《これから何すると?》
《掃除かなー》
《(*'ω'*)》
《はのんは?》
《朝のランニング終わって
落ち着いたとこ~》
あー。明来から聞いた気がする。
頑張ってるなー。
《今から何すんの?》
その質問から、間が空く。
答えないとこみると・・・・・・やっぱそうか。
俺からの言葉を待ってるのか。
《話する?》
《うん!通話してもいい?》
昨日、俺の家出の事は全く話していない。
あの場で話す空気じゃなかったし、
重くなるのも嫌だった。
葉音としては、明来の家に泊まる俺の事情が
気になっていたんだろう。
「どーも。」
『ごめんね。』
「はははっ。何で謝んの?」
『・・・・・・昨日ね、ほんとは
聞きたかったんやけど・・・・・・』
・・・・・・ああ。だよな。
『舞乃空くん、何で家出したと?
良かったら話してほしい。
・・・・・・明来ちゃんは、詳しいこと知っとるん?』
「・・・・・・ああ。知ってる。」
『私にも話せる?』
「もちろん。その前にさ・・・・・・」
葉音の反応が知りたい。
「俺、葉音んちの冷機屋さんで
働こうと思ってるんだ。冗談抜きで。」
『・・・・・・えっ?』
「親んとこ、帰る気ないんだ。」
『・・・・・・』
「明来と、一緒に住もうと思ってる。」
『・・・・・・』
言葉を失う。
・・・っていうやつかな。
『・・・・・・なんで?』
やっと、出せたような声だった。
『どうして?明来ちゃんも、舞乃空くんも、
苦しい方をどうして選ぶの?』
「・・・・・・」
『どうして?』
「苦しい方とか、そんなんじゃないよ。」
『・・・・・・?』
「俺は、明来の生き方好きなんだ。
自分の力で生きてるっていう、
実感がほしい。もちろん、
100パー頼らないってのは無理だけど、
地に足をつけて歩いていることが・・・・・・
存在証明というか。それだけなんだ。」
『・・・・・・分かんないよ。』
「だよな。」
少なくとも明来は、そう思っているはずだ。
「俺も親が離婚しなければ、
フツーに過ごしてた。」
『・・・・・・離婚?』
そんなの、考えたくないだろ?
当り前に一緒にいた家族が、離れるとか。
「頼りたくないんだ。どっちにも。
俺に選ぶ権利がないって言われて、
納得がいかなくて家出した。」
『・・・・・・』
「明来とは事情が全く違うけど、大人の事情に
振り回されたくない気持ちは同じだ。」
『・・・・・・』
それは、確認済みだ。
「今日、俺が働きたいっていう事を
明来がお前の親父さんに
話してくれるけど・・・・・・ダメでも、
親に話して家を出るつもり。」
『・・・・・・』
「ずっといていいって、
明来が言ってくれたんだ。」
『・・・・・・舞乃空くん。』
ふわりとした優しい声。
でも、力強い。
『舞乃空くんが明来ちゃんの傍に
いてくれるの、とても嬉しいの。
これは素直な気持ち。
明来ちゃんのご両親が亡くなられた後、
明来ちゃんは変わってしまった。
感情がないというか・・・・・・出さなくなった。
でも舞乃空くんが来てから、
明来ちゃん楽しそうにしとる。
・・・・・・私じゃ、ダメなんだなって。』
「・・・・・・ダメとか言うなよ。」
明来は、お前が好きなんだぞ。
『できれば、傍にいてあげてね。
舞乃空くんがいてくれると安心かも。
昨日1日だけで・・・・・・舞乃空くんが、
とても良い人だって分かった。』
「・・・・・・良い人?はははっ。
1日だけで分かるのかー?」
『ふふっ。私の勘は当たるっちゃんね。
舞乃空くんは、とっても良い人。』
女の勘ってやつか?
・・・ハズレかもしれねーぞ。葉音。
『・・・・・・私もね、ずっと
一緒にいれたらいいなぁって思ったの。
明来ちゃんと、舞乃空くんと。
楽しく過ごせたらいいなぁって。
私にできることがあったら言ってね。
協力するけん。』
「・・・・・はははっ。ありがと。」
こんなに心強い味方は、他にいない。
明来が好きになるのも、分かる。
光そのものだな、葉音は。
『・・・・・・でも、舞乃空くん。
歌うことやめちゃうん?大好きなんよね?
歌う人、目指さんと?』
「・・・・・・そうだなー。」
葉音には、少し言わないといけないかもな。
「一歩手前だったんだよ。デビューの。
事情あって、できなかったんだ。」
『えっ?』
「もちろん俺も目指してた。でもな・・・・・・
大好きだけじゃ、
どうにもならない事がある。」
『どういうこと?舞乃空くん?』
「これ以上は言えない。これから目指す
葉音だから言った。・・・・・・誰にも言うなよ。」
『ちょ、ちょっと待って。
どういうことなん?教えて、舞乃空くん。』
「ごめんな。」
『気になるよぉ!何があったの?』
「俺に、キスできる?」
『・・・・・・えっ』
「キスできたら、教えてもいい。」
『・・・・・・』
口実、ってやつだ。
こう言えば、みんな引くから。
『・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・ほっぺたなら・・・・・・』
「・・・・・・え?」
『・・・・・・ほっぺたなら、
・・・・・・できるかも・・・・・・』
「・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・はははっ!」
マジで考えたのか?!
どんだけピュアなんだよ!
「冗談だよ!ごめん!
話すのが難しいってことだから。」
『えっ?・・・あ、そ、そうなん?
やだ、そっか。そういう意味だったん?
こっちこそ、ごめんね・・・・・・』
「いや。はははっ。
だから何で謝る?謝るのは俺だから。」
マジでごめん、葉音。
ピュア過ぎんだろ、お前。
あ。あと明来にも謝らないと。
ごめん、明来。
「そうだ、葉音。今日、明来んち来いよ。
俺からも明来に頼んでみるから。」
『えっ?で、でも・・・・・・』
「三人なら、明来もいいって言うだろ。」
『・・・・・・いいの?』
「良くなきゃ困るぜー。
俺のオリジナルソング聴かせたいし。」
『オリジナルソング?!すごい!』
「お宝見つけたんだよー。
今俺さ、物置部屋で寝てんだけど、そこで
明来の親父さんのアコギ発見してさ。」
『わぁっ、うれしい!聴きたい!
おじさんのアコギ、聴いたことあるよぉ。
とってもいい音なんよぉ。』
ははは。やっぱ知ってるんだな。
「へへ。明来が帰ってくるの
遅いかもしれないけど、いーじゃん。
隣だし。呼べばすぐに来れる距離だろ?」
『わぁい、ふふっ。
ありがとぉ、舞乃空くん!
楽しみに待ってるね!』
「明来次第だけどなー。
そうなるように言ってみる。」
『お願いしまぁす!』
葉音、嬉しそうだな。
そうだよな。
・・・・・・でも、自覚ないって。
天然小悪魔かも。
「・・・・・・葉音。聞くけどお前さ、
明来のこと好き?」
『えっ?』
「友だちとしてじゃなくて、
恋愛対象として。」
『・・・・・・』
ストレートに聞いてみた。
・・・・・・困ってる。
多分、答えるの困ってるな。
「明来のこと、どう思ってる?」
『・・・ま、舞乃空くん・・・・・・』
「そんな歳になるんだよ。俺たちはもう。
異性で、友だち同士でいられるのは
レアだぞ。」
少なくとも、俺が過ごしてきた日常では。
『・・・・・・明来ちゃんは、
大事な親友だよ・・・・・・』
「お前はそうでも、
明来は違うかもしれない。」
『・・・・・・』
「女として見てるかもしれない。
だから、家に上げないんだよ。
お前のためを思って。
男の目線は、女と違うとこあるから。」
ごめん、明来。
でも一応、はぐらかしたぞ。
『・・・・・・そっか・・・・・・
そうなんよね・・・・・・
明来ちゃんは・・・・・・私のこと、
親友だと思っていないかもしれない。
ただの、女の子としか。』
「・・・・・・それは、誤解があるんじゃね?」
『私はね・・・・・・
明来ちゃんのこと、
ただの男の子とは見てないよ。
世界で、たった一人の親友なの。
それって、ダメなことなのかな・・・・・・?』
・・・・・・
「ダメじゃねーよ。」
『恋愛しないと、一緒にいちゃダメなの?』
「だから、ダメじゃないって。」
『分かんないよ。
明来ちゃんは、明来ちゃんでしょ?
舞乃空くんは、舞乃空くんだよ。
二人とも、世界に一人だよ。』
・・・・・・そうだよ。
俺は、お前の考え方すげーと思う。
「分かった。もう言わねーから。」
『ありがとう。何となく分かった。
・・・私は少し、
距離感を考えないといけないんやね。』
「・・・・・・」
『難しいね。大人になるって。』
「・・・・・・それな。」
『オリジナルソング、楽しみにしてるね。』
「ああ。」
通話が切れた。
今葉音がどんな気持ちなのか、
分かる気がする。
・・・・・・きっと、寂しと思ってる。
いつまでも、子どものままでいたい。
一緒に遊びたい。
そう思ってる。
でもな。
待ってくれないんだよ。
俺たちは、大人になるしかない。
だから、自分がどんな道を歩くのか・・・・・・
先を、しっかり見る必要があるんだ。
先に何があるのか。
進まないと、分からないことだらけだ。
その時、何を思うのか。
自分が、自分のままでいられるのか。
それで初めて・・・・・・得られると思う。
本当に、見たいものが。
俺は、そう考えているよ。葉音。
*
「明来。休憩しよう。」
その呼び掛けは、届かなかった。
「おーい。明来。」
二度目の呼び掛けで、ようやく明来は気づく。
フレアツール
(銅管の先端をラッパ状に加工する機器)で
作った箇所に傷がないか、じっと見ていたら
時間のことを忘れていた。
「集中しとるのはいいことやけど、
休憩せんといかんぞ。」
「・・・・・・はい。」
首に巻き付けていたタオルで、
額から流れる汗を拭う。
窓を開けて換気はしているものの、
降り注ぐ太陽の光熱で
部屋内は熱気が発生していた。
両足で挟むようにして立っていた
4尺の脚立から下りると、明来は
ずっしり重い腰道具を外して
その場に、ゆっくり置いた。
フローリングには養生シートと、脚立の足で
傷つかないように毛布が敷かれている。
午前中に1台、
室内機を取り付けられると思っていたが
その考えは甘かった。
寺本に教えてもらい、実践するも
壁に掛ける為のプレートの位置を測るだけで
何回もやり直した。
やっと付けたはいいが、今度は
ペアコイルを外に通す穴の位置を測って、
ホールソー(コアドリル)で開けるのに
時間が掛かった。
そしていざ、室内機を掛けて少し浮かせ、
繋げるペアコイルを穴に通し、
手で微調整して曲げる作業。
これが大変だった。
少しでも曲げる力が強いと、空洞がつぶれて
折れてしまう可能性がある。
寺本に注意されながら慎重に曲げ、
ようやくフレア加工に至ったのだった。
「・・・・・・すんません。」
「最初は、こんなもんだ。順調やんか。」
明来に教えながらも、寺本は午前中で
3台の室内機を設置した。
この早さは、今後目標にするべきものだろう。
「明来は、今の1台を確実に終わらせろ。
・・・室外機に繋げるのは、
スリムダクトを付けてからやな。
俺は昼から室外機の方に回るけん。」
外に出ると、二人は
アパートの敷地内に設置されている
パイプテントへ歩いていく。
その下には長机が2台と
パイプ椅子が8脚設けられており、
塗装作業員が3人先に座って
昼食を摂っていた。
明来のショルダーリュックと
寺本のリュックは、アパートに来た時点で
パイプ椅子の上に置いている。
昼御飯が傷まないように
保温バッグに入れてはいるが、
車の中に放置するよりも
風当たりの良いテント下に置く方が良いのは、
言うまでもない。
二人は、もう一方の長机に座る
塗装作業員たちに向けて会釈をした後、
各自荷物を置いたパイプ椅子に座り込む。
明来は、すぐさまショルダーリュックから
マグボトルを取り出して、直飲みする。
喉に通る麦茶が、とても気持ちいい。
「今日は暑いなぁ。」
寺本も同様に、リュックから
大きめの水筒を取り出して
スポーツドリンクをコップに注ぎ、
直ぐに飲み干す。
この季節は暖かくて過ごしやすいが、
日中容赦なく太陽が照りつけると
施工している作業員にとっては、
汗が滲むほど暑くなる。
これから本格的に、水分補給と塩分補給が
必須になってくるのだ。
「お前またそれだけ?もたねぇぞ。」
明来が手にする、
ラップに包まれたおにぎり2個を見て
寺本は言う。
「寺さんは、よくそんなに食えるっすね。」
寺本が長机に置く
大きな保温弁当箱を目にして、
明来も言葉を零す。
「これでも、腹八分くらいやけんな。」
弁当箱の蓋が開けられ、目に飛び込むのは
ぎっしり詰め込まれた白ご飯と
色とりどりのおかず。
「・・・・・・いつも、うまそうっすね。」
寺本の弁当を見るだけで、
お腹いっぱいになる。
いつもそう思いながら、明来は眺めている。
「ありがてぇよ。ほんと。」
手を合わせて、“いただきます”と
言うと同時に、寺本は
綺麗に巻かれた卵焼きを箸で掴み、頬張る。
「・・・あ、そうだ。お前に1番に教えるけどな、
カノジョに子どもできた。」
「・・・・・・えっ?」
ラップを剥ぐ手を止めて、明来は目を見張る。
「授かっちまった。近いうちに籍入れる。」
寺本は、そう告げて笑うと
口いっぱいに白ご飯をかき込む。
予期していなかった朗報に、
明来は思わず声を上げた。
「おめでとうございます!」
「へへっ。」
話を聞いていたのか、塗装作業員たちも
笑顔で頷き合っている。
「もっと、しっかりせんとな。」
嬉しいのと美味しいのと、彼は
両方咀嚼しているようだった。
「充分かっこいいっすよ、寺さんは。」
「おっ。お世辞でも嬉しいっちゃけど。」
「ガチっす。」
「ははっ。あまり褒めんな。
調子に乗るけん。」
互いに笑い合い、ご飯を頬張る。
どんなに過酷な現場でも、
みんなで寄り添って食べる昼ご飯は美味い。
明来は、この仕事に携わって
それを理解するようになっていた。
おにぎりを食べ終え、麦茶を飲んだ後
スマホを手に取る。
通知を確認していると、
舞乃空からメールが届いていた。
《アコギ復活!!
オリジナルソングできた!!》
その下に、画像が貼られている。
父親のギターが画面いっぱいに写っていた。
明来は小さく笑い、返信する。
《すごいやん》
《帰ったらきかせて》
返信を待っていたかのように、
すぐ既読が付いて言葉が返ってくる。
《葉音にもきかせたいんだけど》
《家に呼ばねーか?》
“葉音”の文字が目に入り、しばらく考える。
その間も、次々に返信が来る。
《三人だし、いいんじゃね?》
《二人っきりにならなければ》
《お前もムラムラしねーだろ》
最後の文には、黙っていられなかった。
《言いかた気をつけろ》
《隠さなくてよくね?》
《お前の
葉音に対する気持ち
たっぷり知ってるしー》
確かに、ぶちまけてしまった。
秘密にしようと思っていた気持ちを、
舞乃空に全部喋ってしまった。
あれは失敗だったと、明来は後悔している。
《いーじゃん》
《俺もいるしー》
《間違いはおこらねーって》
《だからお前》
《楽しいと思うぞー》
明来は少し考えて、答えを返す。
《仕事が遅くならんかったら》
《呼んでもいいけど》
《(*'ω'*)》
《早く終わらせて帰ってこい♪♪》
明来は、項垂れる。
彼女が家に来るというだけで、ざわついた。
自分のにおいが染みついた所に
踏み入れさせるなんて、考えるだけで
どうかなりそうだった。
第三者がいたとしても、だ。
―・・・・・・こんなことなら、
もっと丁寧に掃除しとけばよかった。
あ。いい匂いするやつ買って帰ろうかな・・・・・・
帰ったら、リビング掃除しないと・・・・・・
「・・・・・・どうした?面白いぞ、お前。」
明来の表情が豊かに変わる様を、
寺本は苦笑しながら見守っている。
声を掛けられ、はっとして顔を上げた。
「い、いや・・・・・・何でもないっす。」
「例のダチからか?」
「えっ・・・と・・・・・・はい。そうっす。」
「ははっ。早く会ってみたいなぁ。」
弁当箱に目を落とすと、
綺麗に空になっていた。
彼はコップのスポーツドリンクを
飲み干した後、満足げに息をついている。
寺本の一言で、明来は現実に戻った。
―・・・・・・そうだ。
舞乃空のことを、
松宮さんに話さないと。
受け入れてもらえたらいいけど。
昼からの施工は、スムーズに事が運んだ。
フレア、電線を繋ぎ、ドレンホースを
勾配つけて繋ぎ合わせると、
プレートに引っ掛けて少し浮かせていた
室内機を完全に取り付けた。
その間に寺本は、4台分のスリムダクトを
外壁に取り付け終わらせていた。
共にペアコイル、電線を
室外機に繋げて、17時前に完了する。
「順調やったな。片付けて帰るぞ。」
立て掛けていた脚立を閉じて
肩に引っ掛けると、寺本は
敷いていた毛布と機材を手に取る。
「ほとんど、寺さんがしたっすけど・・・・・・」
各資材の切れ端を回収し、ガラ袋に入れると
明来も同様に脚立を肩に掛けて
毛布を脇に抱える。
「1台完璧に終わらせたやんか。上出来だ。
明日は2台任せるけんな。」
笑いながら言う寺本の背中は、
まだまだ遠く感じる。
彼はきっと、今日の仕事を
一人で終わらせることが出来るはずだ。
しかし明来にとって、
無事に設置を終えることが出来たのは
かなり嬉しかった。
“道具持った時点で、職人だ。
それを忘れるなよ。”
この言葉の意味が、今は理解できる。
明来と寺本は事務所に戻ると、
軽トラックに積んでいた
廃材と機材を下ろした。
機材は明日も使うが、盗難の恐れもある為
倉庫内に置いておく。
片付け終えて階段を上がり
事務所のドアを開けると、松宮と水野が
ソファーに向かい合って座っていた。
「お疲れさま。」
二人の姿を見るなり、
松宮は微笑んで労いの言葉を掛ける。
明来と寺本は会釈をしながら、
“お疲れさまっす”と言葉を返した。
「いい顔になっとるな。明来。」
にか、と歯を見せて笑いながら、
水野は言葉を投げる。
言われて、頬の部分が
ひりひりするのに気づいた。
太陽が照り付けていたので、
日焼けしているのかもしれない。
「二人ともお疲れさま~。
冷蔵庫に缶コーヒーがあるから
飲んでね~。」
デスクから、陽菜が笑顔を向けて声を上げた。
「あざっす!」
二人は、その笑顔に応えて頭を下げると
給湯室へ向かう。
行くとすぐに、2ドアの冷蔵庫が目に入った。
開けると、ひんやりとした空気が
肌に伝わる。
現場から帰ってきた後、事務所で
その日の報告と翌日の打ち合わせをする。
缶コーヒーを手にした明来と寺本は、
松宮と水野が座るソファーに各々
腰を下ろした。
「試運転は問題なく終わった。
明日洗浄の案件が入っているので、
水野に任せようと思う。」
「糸島だったか。
・・・道の駅で、お土産でも買ってきちゃる。」
寺本と明来は手にした缶コーヒーの
タブを開け、口にする。
「私は午前中廃材処分に向かい、午後は
大創と明来の元へ行く。
・・・どのくらいまで進んでいる?」
「1階の4台を終わらせています。
真空引きをしつつ、2階の4台に
取り掛かろうと思っています。」
「明来。取り付けてみてどうだったか?」
今まで、この打ち合わせで
自分に話を振られることはなかった。
皆が注目する中、背筋を伸ばして口を開く。
「・・・・・・思うようにはいきませんでしたが、
とても楽しかったです。」
その言葉に、皆笑顔になった。
「ははっ。楽しかったか。」
「バリ取りうまくいかんかったろ?」
「はい。何回もやり直しました。」
「でも、水野さん。こいつ筋はいいです。
これから楽しみっすよ。」
「ほぉ。」
「ぜ、全然、まだまだっすけど・・・・・・」
「明日、楽しみにしておこう。」
松宮の和やかな笑顔を目にして、
明来も表情を緩める。
自分の報告まだ、皆のようにはできない。
だが、一員になれた実感が溢れる。
「以上だ。みんなご苦労様。」
その一声で、皆立ち上がる。
タイムカードを通し、水野と寺本が
事務所を後にする中、明来は
カードを通し終えると
松宮と陽菜の方へ目を向けた。
「・・・・・・あの。話があるのですが・・・・・・」
明来の呼びかけに、二人は顔を向ける。
「どうしたの?」
改まった様子を察し、陽菜は
やんわりと尋ねた。
松宮も仕事の表情から変わり、
穏やかな面持ちで見守っている。
息を整え、頭の中で整理すると
明来は言葉を紡いだ。
「・・・・・・今、自分の家に泊まっている
友だちがいるんですが・・・・・・そいつが、
ここで働きたいと言っているんです。
雇ってもらえますか?」
紡がれた内容に、二人は目を見開く。
視線を向けるその少年に、
家に泊まらせる程の友人がいた事。
そしてその友人が、
この松宮冷機で働きたいという事実。
いずれにせよ、疑問を
投げかけないわけにはいかなかった。
「・・・・・・明来くんの友だち?」
「はい。同年です。
小1ん時一緒に遊んでいた奴で・・・・・・
親の転勤で、すぐ東京に
引っ越したんですが・・・・・・」
「泊まっているというのは、ずっとか?」
松宮の問い掛けに、明来は頷く。
「3日前からです。家出しています。」
「・・・・・・家出?」
「両親が離婚するらしくて・・・・・・
どっちにも行きたくないから、
家を出たそうです。
・・・何でこっちに来たのかは、分かりません。
偶然、近所の公園で会って・・・・・・
昨日、その事情を聞きました。
一応、親に連絡はしているみたいです。」
自分の話し方が拙いのは、言うまでもない。
それなら、二人からの質問に
受け答えする方が無難なのではと思った。
包み隠さず、なるべく伝わるように
言葉を紡ぐ。
「昨日そいつを連れて、
葉音とカラオケに行きました。
・・・葉音が松宮さんたちに、
どう伝えているのか知りませんが・・・・・・」
松宮と陽菜は、顔を見合わせた。
互いに無言だったが、目で通わせて
頭に浮かんだ意思は、同じだった。
「・・・・・・明来。
その友だちと一緒に、家に来なさい。」
「・・・・・・え?」
「その子も、晩ご飯まだよね?
一緒に食べましょう。」
二人の、自分に対する視線は
とても真っ直ぐで、揺るぎない。
そう申し出た二人の意図が分からず、
明来は戸惑うしかなかった。
どっちなのだろう。
いいのか、悪いのか。
自分を見つめる二人の表情からは、
全く掴めない。
断るわけにもいかず、静かに頷いた。
「・・・・・・連れてきます。」
玄関のドアを開けると、
すぐに舞乃空がリビングから顔を出した。
「おかえりー!!」
ハグする勢いで腕を広げてきたが、
明来は後ろに身を引いて、ドアに背を預ける。
「・・・ただいま。」
「塩対応だなー。
・・・明来、日焼けしてんじゃね?
日焼け止め塗ってるか?シミになるぞー。」
「舞乃空。今から着替えてこい。
一緒に松宮さんとこ行く。」
明来の真っ直ぐな視線と、言われた内容に
舞乃空は神妙な面持ちになる。
「・・・・・・話したのか?どうだった?」
「分からない。」
「分からない?」
「答えを聞いてもないし、
話してもくれなかった。
・・・とりあえず、一緒に晩メシ食おうって。」
「・・・そ、そうか。何かキンチョーするなー。」
「・・・俺も軽くシャワー浴びて、着替えてくる。」
安全靴を脱いで廊下に上がると、
明来は洗面台に向かう。
「あ。明来。今日仕事どうだったんだ?
うまく出来たか?」
行こうとする明来の背中に、
舞乃空は呼び掛ける。
それに応えて足を止め、振り返った。
「・・・・・・いっちょんダメ。」
「ダメだったかー。」
「ダメやったけど、楽しかった。」
そう告げて、ふわりと笑う。
明来の微笑みに、舞乃空は目を見開いた。
自然に出たその感情は、
何の壁も感じない。
「お前も、一緒に働けるといいな。」
そう言い残すと、明来は再び歩き出す。
彼の後ろ姿は、まだ小さい。
しかし朝の彼とは、何かが違う。
それを感じ取り、舞乃空の胸が騒いだ。
今日という時間だけで、彼は成長している。
「・・・オリジナルソング聴くの、
晩メシ食った後な。」
パーカーとジーンズ姿に着替えた明来は、
玄関から外に出て鍵を閉めた。
「やべーな。スコアに起こせば良かった。
忘れちまいそうなくらい、
キンチョーする。」
その後ろには、猫背になって身を縮める
舞乃空がいる。
彼に目を向けて、明来は小さく笑った。
「お前も緊張するんやな。」
「するし。東京の知り合いでも、
家に上がったことねーくらいなのに。」
「・・・・・・そうなん?」
―その割には・・・・・・俺んちに上がり込んで
好き勝手しとるやん。
路地を歩く二人の頭上には、藍色と朱色が
淡く彩る空が広がっている。
電灯が、アスファルトを照らしていた。
心地好く涼しい風が、吹き抜けていく。
1分も経たずに、松宮家に到着した。
二人が門扉の前に来ると、
センサーが働いて明かりを灯す。
明来が、門扉に備え付けられている
インターホンを鳴らすと、すぐに
玄関のドアから葉音が出てきた。
キャンディピンク色のロングTシャツと
クロップドパンツ姿の彼女は、
とても爽やかな笑顔を浮かべている。
「こんばんは!」
薄暗い中でも、彼女の笑顔は眩しい。
明来は小さく笑って挨拶を返す。
「こんばんは。」
「明来ちゃんお疲れさま!
・・・あれ?日焼けしとらん?
ダメだよぉ。きちんと対策せんとぉ。」
「はははっ。俺と同じこと言ってるー。」
「あっ、舞乃空くん!こんばんは!」
「昨日ぶりー。」
「ふふっ。なんか不思議~。
お父さんたちから聞いて、驚いちゃった。」
「だよなー。俺もビックリ。
・・・・・・怒ってなかった?」
「何で怒ると?」
「い、いやー。何となく。」
「昨日、明来ちゃんと、明来ちゃんの友だちで
カラオケに行くって
ちゃんと言ったもん。怒られないよぉ。」
三人は並んで、庭を歩いていく。
少し強い風が吹き、皆の髪を舞わせた。
確かに、不思議だった。
一昨日まで、
こんな風景は想像していなかった。
松宮家の庭を、舞乃空と歩いているなんて。
葉音が玄関のドアを開けると、
とある松宮家の一員が
ちょこんと座って出迎えてくれた。
「こはる。こんばんは。」
明来が歩み寄ると、こはるは
にゃーん、と甘えた声を上げる。
「うわっ。かわいっ。」
こはるの姿を見て、
舞乃空は目を輝かせて近づく。
見慣れぬ訪問者に、彼女は
びくっとして走り去っていった。
「・・・・・・フラれたー。」
「ふふっ。初めての人には、懐かんよぉ。
・・・でも明来ちゃんにはなぜか、
最初から大丈夫やったよね。」
「・・・そうやったっけ?」
「明来のイケメンっぷりに落ちたんだな。」
「・・・・・・どういう意味?」
「いらっしゃい。こんばんは。」
玄関で話していると、陽菜が
笑顔でリビングから姿を見せた。
明来が会釈をすると、舞乃空も頭を下げて
挨拶の言葉を返す。
「こんばんはっす。」
「初めまして。私は、松宮 陽菜です。
あなたの名前を伺ってもいいかしら?」
「・・・阿久屋 舞乃空っす。」
「舞乃空っていうの?素敵な名前ね~。
ご飯、たくさん食べていってね。
今夜は明来くんからのリクエストに
お応えして、焼きそばよ。」
「あ、ありがとうございます。」
「さぁ、二人とも上がって。
葉音。お父さんと風雅呼んできて。」
「はーい!」
元気よく返事をすると、葉音は
目の前の階段を上がっていく。
陽菜は二人に向けて、にこっと笑うと
リビングへ戻っていった。
スニーカーを脱ぎ、廊下に上がると
舞乃空は明来に耳打ちする。
「・・・葉音のママ、綺麗な人だな。」
それに、明来は頷いて応える。
「・・・俺もそう思う。」
確かに陽菜は、30代前半だと思うくらい
若々しくて綺麗だった。
葉音くらいの娘がいるとは思えない程だ。
「歓迎は・・・してくれてるみたいだけど。」
「・・・・・・うん。」
彼女の様子は、とても穏やかだった。
自己紹介もしていたし、敬遠する要素は
全く見受けられなかった。
「明来兄ちゃん!こんばんは!
・・・・・・えっ。だれ?」
二階から、葉音と風雅が下りてくる。
明来の横に立つ舞乃空を見て、風雅は
大きな目をさらに開いて驚く。
「おー。葉音の弟!かわいーじゃん。」
「えっ。だれ?ねぇ、ねーちゃん。
来るの聞いてないよ。」
「ふふっ。サプラぁイズ。
明来ちゃんのお友だち。」
「俺、舞乃空ー。よろしくー。」
「ま、まのあ?変な名前・・・・・・」
「風雅ってんだなー。かわいすぎるだろ。」
「ふふっ。ほら風雅。あいさつ!」
「よ、よろしく・・・・・・」
「えー?怖がってない?何で?
怖くないよー。おいでー。ハグしちゃる。」
「えっ・・・わーっ!」
舞乃空の両腕から、風雅が逃れる術はない。
ぎゅーっと抱き締められ、風雅は
もがいて助けを求める視線を送る。
「明来兄ちゃぁん、たすけてぇ」
―もしかして・・・・・・ハグするのって、
こいつなりの気遣いなのかな・・・・・・
風雅を、にこにこしながらハグする
舞乃空を眺めながら、明来は思う。
冷静に見守る彼に、葉音は
どうしていいか分からず戸惑っている。
「こらーっ!そこでわちゃわちゃしない!」
なかなかリビングに入ってこない
子どもたちに、陽菜の喝が入る。
その一喝のお陰で
舞乃空のハグから抜け出すと、風雅は一目散に
リビングへ走っていく。
その姿を、満足げに見守りながら
舞乃空も後に続き入っていった。
明来と葉音は顔を見合わせて笑うと
リビングに入っていき、
ダイニングテーブルへ歩いていく。
そのテーブルの中央には、
大きなホットプレートが準備されていた。
「えーっと、風雅、葉音、
明来くん、舞乃空くんの順で座って。」
椅子を指しながら、陽菜が言う。
今夜は、テーブル囲むように
配置されていた。
皆言われた通りに座っていった後、
リビングに松宮が姿を見せる。
「賑やかだなぁ。」
優しい笑みを浮かべながら、彼は
皆の元へ歩いていく。
松宮の存在は、子どもたちにとって
静かにさせる要素があるようだ。
大黒柱の登場に、皆黙って視線を送る。
「翔太さんは、ここね。」
その中でも、陽菜は自然に話し掛けて
松宮を席に促す。
その席は、舞乃空と隣りになる場所である。
座ると視線を合わせ、松宮は微笑む。
「どうも。松宮 翔太です。」
舞乃空は姿勢を正し、頭を深々と下げる。
「阿久屋 舞乃空です。・・・あの、
呼んで頂いて、ありがとうございます。」
「明来から話は聞いているよ。
・・・とりあえず、食べた後に話そうか。」
「そうね。・・・はい!始めますよ~!」
声を上げた陽菜が、シンク横の作業台から
てんこ盛りのキャベツと
もやしが入った調理用ボウルを持ってくる。
「うわ~!マンガみてぇ!」
それを見て、はしゃぐ風雅。
「今日は、
エビもたくさん入れちゃうからね~。」
「やった!」
「あ、お母さん!ホタテは?」
「もちろん用意してるわよ~。
・・・熱くなったかしら。」
焼きそばの具になるエビ、ホタテ、イカなど
次々に陽菜が持ってくるのを見て、
松宮家の姉弟は盛り上がる。
それを、明来と舞乃空は
和やかに眺めていた。
松宮も穏やかな表情を浮かべて
その様子を見守りながら、
舞乃空に話し掛ける。
「・・・・・・君は、歌が上手いそうだね。」
ぽつりと零れた声と、エビ、ホタテ、イカが
ジュ―っとなる音が重なる。
かき消されたようになったが、舞乃空は
その声を拾って笑顔で言葉を返した。
「歌うの大好きですね。」
「葉音も、歌うことが好きでね。」
会話をする二人に、明来は目を向ける。
その声の大きさは、注意して耳を傾けないと
聞こえない程である。
「昨日たっぷり聴かせてもらいました。
葉音、めっちゃ上手いですよ。」
「そうか?君もそう思うか?」
「はい。ずっと聴きたいと思えるくらいです。
明来もそう思っていますよ。」
「それなら良かった。
いつも付き合わせているからねぇ。
少し気掛かりだったんだよ。」
いつもより、松宮が
言葉を紡いでいる気がする。
それに対して柔軟に対応する舞乃空に、
明来は強い視線を送る。
―変なこと言うなよ。舞乃空。
初対面の二人が
笑顔で話しているのに気づいて
葉音は目を向けるが、内容が全く聞こえない。
焼きそばは、順調に作られていく。
「葉音は、歌手になれるかなぁ。」
「文句なしに可愛いです。それもプラスで
なれると思いますよ。」
「おお。そう思うか。
・・・身内の欲目があるからねぇ。
そう言ってもらえると嬉しいよ。」
「明来なんて、
口開けて見惚れてましたから。」
「・・・おいっ。」
それには堪らず、
明来は舞乃空に呼び掛ける。
「それは知っているよ。いつもだから。」
「・・・まっ・・・・・」
予想もしていなかった松宮の言葉に、
フリーズする。
「はははっ!バレてるじゃん!」
「あっ。いえっ。そのっ。」
「当人たちの問題だからなぁ。
僕は口を挟めないけど、まだまだ
時間を重ねてほしいと思っているよ。」
「その気持ち、父親なら当然だと思います。」
「分かってくれるか。」
「もちろんです。」
松宮と舞乃空の会話が弾んでいる。
その光景に、陽菜は聞こえずとも
笑顔で調理している。
「何話してるんやろぉ・・・・・・」
葉音は、気になって仕方がなかった。
聞き耳を立てているのに、届いてこない。
身を乗り出すようにして
明来の方へ寄る。
その拍子に、彼女の髪から
爽やかなフレグランスの香りが
鼻の辺りを、ふわりと漂った。
「お父さんと舞乃空くん、何話しとるん?」
見上げてくる無邪気な瞳に、明来は
視線を逸らすことも赦されない。
「えっ・・・と・・・いや、ほら。
カラオケの話。」
香ばしく焼けて広がる磯の香りよりも、
微かに漂うフレグランスの香りが
とても気になる。
「カラオケ?」
「昨日の。」
「あ~。話したもんね。ばり楽しかったもん。
・・・・・・それだけ?」
「それだけ。」
「それだけ~?」
「それだけだって。」
「親を目の前にイチャつくとか、
エグすぎね?」
明来と葉音のやり取りを見て、舞乃空は
にやにやしながら言う。
「い、イチャついてない!」
「ち、違うよぉっ!」
慌てて、二人は離れる。
「ねーちゃんと明来兄ちゃんって、
付き合っとるんやろ?」
思いもよらない所から、投げられる。
「・・・風雅?」
「ケッコンするけん、いつも来るんやろ?」
「風雅っ!」
「はははっ!」
「結婚は、まだ早いなぁ。」
「うふふっ。みんな楽しそうね~。
はい!できあがり~!」
いつの間にか、ホットプレートの鉄板一面に
大量のシーフード焼きそばが
出来上がっていた。
麺に絡んだソースが、
ジュワジュワと音を立てている。
その上に掛けられた鰹節が、
ひらひらと踊っていた。
「うわぁっ、美味しそう!」
風雅は逸早く声を上げ、
出来上がった焼きそばに釘付けになっている。
彼のお陰で気まずくなった
明来と葉音は、出来上がった焼きそばに
目を向けながら
ぼそぼそと言葉を交わす。
「・・・ごめんね、明来ちゃん・・・・・・」
「い、いや・・・別にいいよ。」
普段なら流せた事項だが、互いに
意識させる原因が共通していた。
鼓動を早める二人の横で、“うまそっ”と
笑顔を浮かべている舞乃空である。
彼が、二人に気づかせたのだ。
自分たちの周りが、自分たちのことを
どう見ているのか。
しかも、身内という近い存在が。
幼なじみとしてではなく、
男女として。
その距離を、自覚させた。
「最初は皿に盛るから、おかわりの人は
自由に取ってね~。」
「おかーさん、ぼく大盛り!」
「はいはい。まずはお父さんからね。」
「僕も大盛りでお願いします。」
「了解しました~。」
松宮の皿を取り、陽菜は
二つのへらで焼きそばを掴んで盛る。
何気ないやり取りだが、
仲睦まじい二人の姿に
明来と葉音は目を向ける。
“夫婦”になるということ。
15年生きてきた彼らが
それを想像するには、
まだ足りないものがある。
しかし目の前には
理想像が、現実にいる。
「次は明来くんね。」
にこやかに差し出される白い手。
明来は、はっとして皿を両手に持つ。
「お仕事、お疲れさまです。
いつもありがとう。」
皿を受け取り、陽菜は微笑みながら
ふわりと焼きそばを盛る。
ほかほかと、湯気が立ち昇るその皿を
明来は大事に受け取った。
「・・・・・・明日からも頑張ります。」
「ふふっ。明来くんの場合は、
少し肩の力を抜くといいわね。
もう充分、頑張ってるから。」
一言一言が、心と身体に染みる。
上司ではあるが、
母親でもある彼女の言葉は
とても優しくて、温かい。
「次は舞乃空くんよ。」
「えっ、俺っすか?いいんっすか?
あざっす!」
嬉しそうに笑いながら、舞乃空は
皿を差し出す。
「私たちの大事な子どもたちと、
付き合ってくれてありがとう。
お陰さまで、とても楽しい晩ご飯を
迎えられています。」
彼女の笑顔と言葉は、
盛られる焼きそばに振り掛けられる。
舞乃空は、満面の笑みを浮かべて
それを受け取った。
「はい!お待たせ風雅!」
「おかーさん、ぼくには?」
「そうね~。ふふっ。
元気に育ってくれてありがとう。」
「なにそれ~?」
彼には、ぴんと来なかったようだ。
不思議そうに、大盛り焼きそばの皿を受け取る
風雅の頭を、陽菜は笑いながら
くしゃくしゃと撫でる。
「お母さん。私も大盛りがいいなぁ。」
「あら、ふふっ。珍しいわね。」
「だって、美味しそうなんだもん・・・・・・」
「たくさん食べなさい。
食べたい時に食べないと、いざという時に
力が出ないわよ。
ダイエットは、ほどほどにね。
・・・はい、葉音。
素直で可愛く育ってくれてありがとね。」
「・・・・・・えへへ。」
盛られた皿を受け取り、陽菜に頭を撫でられて
はにかむ葉音は、とても可愛かった。
彼女の笑顔につられて、明来も微笑む。
「それでは、君の皿には僕が。」
立ち上がって焼きそばを調理し、
皆の皿に盛りつけていた陽菜。
その申し出に、彼女は柔らかく微笑む。
「ありがとうございます。」
松宮は同じように立ち上がって、
陽菜が持つ二つのへらを両手で受け取る。
「いつもありがとう、陽菜。」
「ふふっ。こちらこそ。翔太さん。」
交わす言葉は短いが、
二人はそれで十分だった。
そんな満ち足りた二人の姿を、
子どもたちは温かく見守る。
「それでは、いただきます。」
「いただきまーす!!」
「たくさん召し上がれ~!」
こんなに賑やかで楽しい夕食は、
今までにないかもしれない。
みんなが笑顔で、温かい晩餐は。
今夜の、大きなホットプレートで作られた
大量のシーフード焼きそばは、
歴代トップクラスに入る程絶品だった。
仕事の疲れも忘れる程、
明来は箸を進めて食いついた。
舞乃空も、それに負けないくらいがっついて
おかわりを何度もする。
それにつられて風雅も食らいつくが、
3回目のおかわりでペースダウンした。
松宮と陽菜はマイペースで食べ進め、
子どもたちの様子を和やかに眺めている。
葉音は、男子たちのがっつき具合を
若干気圧されながら、
陽菜が盛り付けてくれた大盛り焼きそばを
少しずつ口に運んでいた。
ホットプレートの隅々まで敷き詰められていた
シーフード焼きそばは、
もやし一つ残らず平らげられた。
「あ~っ。おなかいっぱぁい。」
「ぼく、もう入らない。」
葉音と風雅が、同じような体勢で
椅子の背もたれに寄り掛かって
仰け反っている。
「みんな、良い食べっぷりだったわね。
ふふっ。」
焼きそばが綺麗に無くなった様を見て、
陽菜は大いに満足げだった。
「ごちそうさまでした。」
「めっちゃうまかったっす!」
そんな彼女に、明来と舞乃空は
頭を下げてお礼を言う。
「こちらこそ。
あんだけ美味しそうに食べてくれたら、
とても嬉しいわ。」
ふんわり笑う顔は、心まで満たしてくれる。
「ごちそうさま。美味しかったよ。」
松宮が一言声を掛けると、陽菜は
優しく微笑んで頷く。
にゃーん、と、甘えた鳴き声が
陽菜の足元から聞こえた。
「あら、こはる。どこ行ってたの?
・・・ごはんあげましょうね。おいで。」
立ち上がって歩いていく彼女に、こはるは
すり寄るように付いていく。
自分たちが食事していた時、
どこにいたのだろう。
尻尾をぴんと立てて歩く
愛くるしい姿を見つめ、明来は思う。
「さてと・・・・・明来。舞乃空くん。
ちょっとこっちに座ろうか。」
湯呑みのお茶を飲み干すと、松宮は腰を上げて
L字のソファーへ歩いていく。
それが意味するものを、言わずとも理解した。
従うように、二人は席を立つ。
「お母さん。
こはるのごはん、私があげるけん。
片付けもするから行っていいよ。」
松宮たちがソファーに行く姿を見て、
察した葉音は立ち上がって
陽菜に申し出る。
「・・・・・・ありがとう。」
その心遣いを、彼女は素直に受けた。
「こはる。こっちおいで。」
陽菜の足にピッタリくっついていた
こはるに呼び掛け、所定の位置にある
キャットフードの箱を手にする。
ぴん、と耳を張り、葉音に目を向けると
軽やかに走ってきた。
フードボウルに、さらさらと出すと
こはるは脇目もふらずに食べ出す。
「みんな、どうしたと?」
ただ一人理解していなかった風雅は、
ソファーに集まる松宮たちに目を向けて
首を傾げた。
「風雅は、お風呂に入っちゃって。」
陽菜がソファーに行ったのを見届け、葉音は
ダイニングテーブルの上にある皆の皿を
回収し始める。
「えーっ。明来兄ちゃんたちと
ゲームしたい。」
「だーめ。大事な話があると。」
「この前もやったやんかぁ。」
「今日は、ほんとにダメなの。」
「・・・・・・」
皆の様子を見て、流石に察した風雅は
渋々立ち上がり、リビングを後にした。
明来と舞乃空は並んでソファーに座ると、
対角線上に座る松宮と陽菜に目を合わせる。
リビング内に残る、ソースの香り。
その和やかな時間は、自分たちの目の前にいる
大人たちの空気で薄れていく。
揺るがない、真摯な眼差し。
二人の目は、自分たちを
子どもとは判断していない。
一人の人間として、見据えている。
「・・・・・・舞乃空くん。
君は家出していると聞いた。
親御さんたちには、どう伝えている?」
松宮の質問に、舞乃空は真剣に答えた。
「・・・・・・友だちの家に泊っていると、
伝えています。」
「進学は、考えていないの?」
やんわりと、陽菜が尋ねる。
「はい。働きたいと思っています。
・・・父方にも、母方にも、
頼りたくありません。」
「明来の家に、一緒に住むということか?」
「いてもいいと、言ってくれています。」
「・・・明来くんは、どう思っているの?」
話を振られ、明来は淀まずに
しっかりと言葉にする。
「・・・・・・舞乃空がいてくれることは、
俺にとって嬉しいことです。
出来れば、
支えになりたいと思っています。」
その言葉に、舞乃空は思わず目を向ける。
松宮たちに真っ直ぐ伝える彼の横顔は、
とても頼もしく見えた。
感動のあまり、唇を嚙みしめる。
明来は正直、舞乃空との思い出は朧気で
思い出せることは少ない。
電車を見に行ったこと。
一緒に遊んだこと。
今まで生きてきた中で、
彼と過ごした時間は少ない。
しかし再会して、3日間。
この時間は、とても濃く感じた。
彼が持つ陽気さと、考え方。
自分にないものを、彼は沢山持っている。
ただの友だちといえばそうだが、
なぜか彼との壁が感じられない。
助けられてばかりだ。
両親という
かけがえのないものを失ったという、自覚。
涙を流して、気づいた。
一人で生きようとして、もがいてきたこと。
傍には松宮家の人たちがいる。
それを、気づかせてくれたこと。
そして、今。
“お前となら、楽しい気がする。”
舞乃空が最初に言った言葉。
そっくりそのまま、
自分も言えるかもしれない。
「・・・・・・」
松宮と陽菜は、
こちらを真っ直ぐ見据えてくる明来に
真摯な目を向けた。
今まで彼が、ここまで強く
言葉を告げたことは一度もない。
口を慎み、俯くばかりで
意思を伝えてこなかった。
だが今、目にする彼は
いつもと様子が違う。
しっかり考えを述べ、自分たちに
意思表示している。
真っ直ぐに、見据えて。
静まり返るリビングに、水が流れる音が響く。
葉音は黙々と、洗い物をこなしていた。
後方で交わされる
4人の会話は聞こえないが、
朗報が訪れるはずだと信じながら
彼女は手を動かす。
「・・・・・・私たちの考えはね。」
陽菜が、ぽつりと切り出す。
「あなたがここで働きたいという意志を
尊重したい。その為には、
ご両親の承諾が必要だと考えるの。」
続くように、松宮も告げる。
「一旦、親御さんたちの元へ帰りなさい。
そして、許しをもらってからもう一度・・・・・・
ここに来ることを勧めたい。
君も、着の身着のまま来たわけだから、
持ち物を整理する必要があるだろう。
・・・旅費は出そう。
君が、ここに再度来てくれることを望む。」
二人が紡いだ言葉を飲み込み、
舞乃空は瞬きせずに見据える。
白々と夜が明けるように、彼の表情は
明るく輝いていく。
それを、明来は静かに見守った。
「・・・・・・分かりました。
ありがとうございます。
親を説得して、また来ます。」
彼が発した言葉に、迷いはない。
力強く断言した舞乃空は、
松宮たちに向かって深々と頭を下げた。
「オリジナルソング、
聴きたかったなぁ・・・・・・」
時刻は、夜の9時を回っている。
流石に今から明来の家に行くことは、
松宮たちも許してはくれないだろう。
そう思って、葉音は玄関で
こはるを抱えながら二人を見送る。
舞乃空は笑顔を浮かべながら、
残念そうにしている葉音に声を掛けた。
「戻ってきたら、すぐ聴いてもらうぞー。
なー。明来。」
彼の隣にいる明来は、小さく頷く。
「・・・・・・今度な。」
紛れもなく、家に来てもいいという返事。
それに葉音は、すぐに表情が明るくなり
嬉しそうに微笑んだ。
「舞乃空くん。早く戻ってきてね。」
「ああ。ぱーっと行って、
ぱーっと戻ってくるからな。」
「明日、お見送りしていい?」
「見送りはいいよ。
・・・松宮さんたちには、本当に感謝してる。」
明日の朝、舞乃空は一旦
東京の自宅に帰ることになった。
電車で帰る為の往復の旅費を、
彼は受け取っている。
「明来ちゃん。明日も頑張ってね。」
彼女の笑顔が、とても優しい。
その優しさにつられて、顔が綻ぶ。
「ありがとう。」
「おやすみなさい。」
「ああ。おやすみー。お邪魔しましたー!」
「おやすみ。」
にゃーん、と声が上がる。
明来は応えて、こはるの顎下を撫でた。
彼女は、ごろごろと喉を鳴らす。
明来と舞乃空は葉音に手を振り、
松宮家を後にした。
辺りは暗く、電灯の明かりが
アスファルトを照らしている。
夜空には、まばらに浮かぶ星が
微かに瞬いていた。
静寂の空気が、住宅街を包んでいる。
「・・・・・・舞乃空。」
家に向かって歩こうとしていた彼を、
明来は呼び止める。
「んー?」
「公園に寄ってもいい?」
舞乃空は快諾するように笑って、
公園へと歩き出す。
「俺たちが、運命の再会をした所だろ?」
彼と並ぶように歩き出し、明来は苦笑をする。
「言い方。」
「だって、そーじゃん。
明来と会わなかったら、俺死んでたかも。」
「・・・そんなこと言うな。」
「マジで。・・・明来のお陰だよ。
こんなに楽しいって思えるのはさー。」
二人はすぐに、近くの公園へ辿り着く。
夜は相変わらず、人の気配はない。
大方花びらを落として花糸を赤く染めた
桜が佇み、涼しい風に乗って揺らいでいる。
「もう、葉桜になりそーだなー。」
奥にある大きな桜を見上げたまま、
舞乃空は静かにベンチへ腰を下ろす。
明来は何も言葉を返さず、
その隣に座った。
「・・・・・・本当は、帰りたくないけど。」
「・・・・・・ぱーっと行って、
ぱーっと帰ってくればいいやん。」
「それな。」
「・・・・・・そしたら・・・・・・」
―一緒に働けるし、一緒に過ごせる。
「そしたら?」
「・・・・・・何でもない。」
「なんだよー?気になるじゃん。」
「・・・・・・お前が戻ってきたら、
部屋を使えるようにしとく。
物置部屋じゃなくて。」
明来の言葉に、舞乃空は目を見開く。
「2階にルーフバルコニーがあるんだ。
夏は花火大会の花火も、そこで見れる。」
「ちょ、ちょ、明来!」
「え?」
「いいのか?!2階に上がっても?!」
「・・・・・・いや、別にいいやん。」
「エグっ!!」
「何で?」
「明来の部屋に、
行ってもいいってことだろ?!」
「・・・はぁ?」
「いやいやっ。それはエグい!
俺、眠れねーかもっ。」
「・・・・・・時々、お前の言っとること
意味分からんっちゃけど。」
「うわーっ。ヤバい。エグい。」
「言っとくけど、勝手に入ったら追い出す。」
「もちろんそれは恐れ多くてできねーっ!!」
両手で顔を覆って悶えている舞乃空を、
明来は冷静に見守る。
「使う部屋の掃除は、まかせるけんな。」
「もちろんっす!!責任持ってやります!!
家賃ももちろん、払わせて頂きます!!」
「・・・・・・必要な分だけでいいよ。」
「それはきちんとしないと。
親しき仲にもってやつ。
明来は優しすぎる。イケメンすぎる。」
「・・・・・・」
「あーっ。楽しみになってきた!
マジ、早く帰って来よ。」
「・・・・・・あ。それと。」
「んー?いいよー。何でも言ってくれ。」
「・・・・・・ハグ。」
「えっ?」
「ハグしたがるのって、お前のクセ?」
「く、クセ?クセっていうかー。
したいからするだけなんだけどー。」
「誰でも?」
「誰でも、というかー・・・・・・」
「あれ、あまりするな。」
「えー。ダメ?」
「誰でもとは、するな。」
「へっ?」
「・・・・・・」
明来は、立ち上がる。
「帰るぞ。」
「えっ。ちょっと、明来?」
さっさと歩いていく彼の後を、
舞乃空は慌てて追う。
―俺は何を言おうとしたんやろ。
フードを被り、両手をポケットに突っ込む。
自分が何を言い掛けたのか、
明来は信じられなかった。
その為、妙な動悸が起こる。
「どーしたの。」
「何でもない。」
「何でもなくないじゃん。気になる。」
「しつこい。」
「まさかとは思うけどー・・・・・・
風雅とハグしたの見て、嫌だったとか。」
「・・・・・・嫌とか、思うわけないやん。」
「嫉妬したとか。」
「・・・・・・そんなわけないし。」
「えーっ?まさかマジで?」
「違う!」
「明来ー。」
「勘違いにも程がある。」
「・・・・・・ごめん!俺が悪かった!」
「・・・・・・は?」
「これから、誰でもとはしないからさ。
明来だけにするから許して。」
不意に、腕を引っ張られる。
声を上げる間もなく、明来は
舞乃空の懐へ吸い込まれた。
ぎゅっと強く包まれて、
この上なく目を見開く。
「は、はなせっ!!」
必死でもがくが、舞乃空の両腕は
びくともしない。
「言ってくれればいいのにー。
俺のハグを独り占めしたいってー。」
満面の笑みを浮かべながら、
明来の頭に頬ずりする。
「や、やめろっ!
・・・変なこと言うな!!」
「ごめんなー。もう浮気しないからさー。」
「は、はなせってばっ」
「何言いかけたんだよー?
教えろよー。・・・あ。
もしかして明来って、ツンデレ?」
「・・・・・・っ」
自分の無力さに、悔しくなる。
明来は顔を真っ赤にしながら、尚も
舞乃空の懐から逃れようとする。
「認めようよー。」
「何も認めん!」
「へへっ。言おうとしたよな?
“俺だけにしろ”って。」
「ち・・・違う!」
「よしよーし。」
「はなせっ・・・・・・」
「どうしよっかなー。
はなしたくないけどなー。」
「・・・・・・」
どうすることも出来ず、明来は
もがくことを止めて、黙り込む。
おとなしくなった彼に、
舞乃空は笑みを浮かべながら
しばらくの時間、浸った。
ざぁっと強い風が吹き、桜たちが揺れる。
夜風の肌寒さなど、微塵も感じない。
両腕の力が緩んだのに気づいて
明来は直ぐに離れると、距離を保って
舞乃空を睨む。
そんな彼は、不敵な笑みを湛えながら
言い放った。
「俺のハグは、明来のものだぞー。
いつでもどーぞ。
何なら今夜抱きまくらにでも」
「するかっ!!」
出すのを躊躇わず、張り上げる。
早歩きで公園を出ていく
明来の後ろを、舞乃空は難なく付いていく。
「俺がいない間、さびしーだろ?」
「寂しくない。」
「何なら、キスしよっか。」
「おっ・・・・・・」
「キスの仕方、教えてやるぞー。
これから必要だろ?
葉音と仲良くするだろ?」
「お前はっ・・・・・・」
―何も知らんで!
堪らず立ち止まり、舞乃空の方に振り返って
目で訴えるように睨んだ。
彼は、笑っている。
「女の扱い方も、教えてやるよ。」
「あのな、お前に言おうと思っとったけど・・・・・・」
「大人の女と付き合ってたんだ。俺。」
「・・・・・・え?」
「いろいろ教えてくれた。
甘いことも、苦いことも。」
舞乃空の表情が、暗くなっていく。
それは昨日、車両区に行った時
彼が見せた色。大人びた姿。
だが真っ直ぐにぶつけてくる眼差しからは、
何も窺えない。
「・・・・・・もう、終わったけどさ。」
「・・・・・・」
「女って、怖いよな。一生分かんねーかも。」
「・・・・・・舞乃空。」
「心配すんな。もう吹っ切れてる。」
「・・・・・・」
「あー。この話はナシね。
そんな時もあったってやつ。」
話を打ち切るように言って、
舞乃空は笑顔を作る。
それに対し、明来は何も言い返せなかった。
聞き返せる勇気は、なかったのだ。
暗くて深い色を見せた舞乃空は鋭くて、
危険な気がした。
下手に触れることは、赦さない。
触れるなら、それ相応の代価を。
彼の眼差しは、それを訴えていた。
「俺はねー。
初恋を大事にすることにしたから。」
「・・・・・・初恋?」
「へへっ。・・・なー、明来。
戻ってきたらさ、行ってきますのハグと
ただいまのハグをするようにしよ。」
「・・・・・・断る!」
「えー?何でー?
“俺だけにしろ”って言ったくせにー。」
「言ってない!」
明来は再び、家に向かって歩き出す。
それを追うように、舞乃空は
笑いながら付いていく。
「明来ちゃーん。」
「お前のことは、一生分からん。」
「俺には分かるよー。」
「お前に何が分かる。」
「俺のハグが忘れられないってー。」
「忘れたい!」
「あ。やっぱ良かったんだ?」
「良くない!」
「認めようよー。」
「何も認めん!」
いつの間にか、夜空には
食べ尽くされたスイカの皮のような月が
浮かんでいた。
暗闇の中でも、二人の足取りは軽い。