破顔
舞乃空が紡いだ言葉を自覚する明来。
“寂しい”という感情を埋めてくれる存在が、
彼の沈んでいた心に光を灯す。
共に過ごしていく時間が、二人を育んでいく。
2
【二人は、
どこに出掛けようとしていたんだ?】
【行く先を知らなかったの?】
親戚に、そう聞かれた。
分からない。
そう答えるしかなかった。
【峠のガードレールを突き破って、
転落したらしい。】
【崖から落ちる程のスピードで・・・・・・
一体、何を急いでいたのか・・・・・・】
【それにしても、可哀想に・・・・・・】
【明来君。心配する必要はないよ。
僕たちと一緒に住もう。】
親戚は、そう優しく言ってくれた。
でも、今まで親戚との交流といったら、
誰かが結婚した時と、
誰かが死んだ時。
話した事は、ほとんどなかった。
自分がYesと言ったら、両親が遺した家は
売り払われて無くなるのか。
住む場所も、変わるのか。
生まれて育ったこの土地から、
離れないといけないのか。
いろいろ浮かんだ。
俺はその時、すぐに返事が出来なかった。
少し待ってください、と、
言った記憶がある。
すぐには、決められなかった。
両親が遺した物を整理をしたら、
少しは落ち着くかもしれない。
そう考えて両親の部屋に入り、チェストを開けた。
そしたら、
自分名義の預金通帳を発見した。
学生の俺にとっては、
結構な金額だと思える程貯まっていた。
多分、自分の将来の為に
貯めてくれていたお金だろう。そう思った。
これを少しずつ切り崩せば、
中学卒業するまでは暮らせる。そう考えた。
だから、親戚には名前だけ借りて、
一人で住む事を決断した。
親戚は、自分の答えを尊重してくれた。
というよりも、血の繋がりがあるとはいえ、
交流がなかった甥っ子を引き受けるのは
気が進まななかったのではないか。
少し待ってくださいと言った後、
親戚は自分の所へ様子を見に来なかったし、
連絡もして来なかった。
本当に心配しているのなら、
俺の意思に関係なく連れて行くだろう。
一人で生きる選択は、させない。
いざ進路となった時、自分は少し迷った。
進学するのには、お金がいる。
生活していくにつれて分かったのが、
両親が貯金してくれていた金額は、
その余裕がある程多くはなかったという事。
こつこつと貯めてくれていた事が分かって、
有難さと申し訳なさで
いっぱいになった。
親戚に頼り、進学するという選択肢。
そこまでして、進学する意味はあるのか。
自分には、得意だというものがない。
将来の姿とか、まだ考えられない。
それなら。
働いた方がいいのではないか。
お金を貯めて、それから
進学しても別に遅くはない。
生活力をしっかり身につけることの方が、
今の自分に必要なのではないか。
いろいろ考えた結果、ふと隣に目を向けた。
“松宮冷機”
ここの人なら、自分を働かせてくれるのでは。
自分の生き方を、受け入れてくれるのでは。
そうだ。
交流のない親戚よりも、親しい隣人。
自分としては、後者の方が信じられる。
世間での考え方としては、少数派だろう。
でも、仕方がない。
この場所を、守りたいだけなんだ。
多少の不都合は、受け入れないと過ごせない。
俺が、俺でいられる城。
今の自分には、それが必要だ。
心配される生き方は、したくない。
そう考えて出した結論だった。
*
ちゅんちゅん。
近くの公園で、いつも朝が訪れたことを
知らせてくれる一番目のさえずり。
休日は、そのさえずりで
目が覚めることはない。
なぜなら、まだ日が昇らない時間だからだ。
そんな早朝の薄暗い中、
明来は瞼を上げようとする。
―目が、開かない。
何で、だ?
・・・俺は、どこで寝とる?
・・・・・・ソファー?
最初手に触れたのは、リビングの
慣れ親しんだソファーの素材である、革。
次に手探りで当たったのは、
自分の上に掛けられた毛布。
まだ、寝ぼけてはっきりしない頭を
叩き起こすように、思考する。
―・・・・・・
公園から帰ってきて・・・・・・・
手を洗った。
・・・・・・で?
浮かんだのは、父親の部屋着。
―・・・・・・何で、父さんの部屋着が・・・・・・
そこで、明来は飛び起きた。
急に起き上がった反動で、眩暈を覚える。
頭を抱え込み、
ソファーの背に身体を寄り掛からせて
それに耐えた。
―そうだ。あいつだ。
俺は・・・・・・
泣いたんだ。ばりっばり。
だから、目が腫れて開きづらいのか。
膝の上にある毛布を、ようやく
こじ開けた瞼の隙間から見るなり、
それを掴んで床に叩きつけようとした。
だが、その手を止める。
―「とにかく、泣いとけ。思いっきり。」
まだ耳に残る、低音の響き。
それは、丁寧に築き上げていた自分の壁を、
いとも簡単に壊した。
―自覚していなかった苦しい部分を、
あいつは見透かした。
再会して、そんなに経っとらんのに・・・・・・
深呼吸をして、眩暈と
妙に騒ぐ鼓動を鎮めようとする。
―・・・・・・
あいつのエグい力、何なん?
舞乃空が自分の腕を掴む力。
抱き締める力。
その圧倒的な強さは、
自分の非力さを浮き彫りにした。
はぁ、と、明来は落胆の息をつく。
―タメなのに。
・・・・・・何もかも、俺とは違い過ぎる。
体格も。力も。背の高さも。格好良さも。
・・・・・・声の、良さも。
比べてしまったら、立ち直れない。
成長しなさすぎる自分は、哀れに思う。
―・・・・・・ばりばり泣いて、その後・・・・・・
俺は、どうなった?
全然憶えていない。
何で、俺はソファーで寝とるん?
・・・・・・
あいつ、何なん?
・・・・・・
・・・・・・
とりあえず・・・・・・
顔洗ってこよう。
眩暈と動悸が治まっていたので、
ゆっくり床に足を下ろす。
足の裏が、ひんやりとした。
それ程今、自分の身体は熱を持っている。
リビングを出て、
とぼとぼと廊下を歩きながら
明来は、ちらっと物置部屋に目を向ける。
―多分、まだ寝ている。
起きてこないはずだ。
妙な緊張感を覚えながら、足音を立てずに
洗面台に向かう。
―今、合わせる顔がない。
・・・・・・いや。
俺は何で、あいつに気を遣って
起こさないように歩いとるんよ・・・・・・
あいつに気を遣うことないやん。
ばり勝手な・・・・・・
そこで、頭を横に振る。
―いや、家に上げたのは俺だ・・・・・・
―「・・・・・・八つ当たりにもほどがあるだろ。
人のせいにすんなよ。」
―・・・・・・・その通りだ。
俺は、あいつにぶつけとる。
―「お前さ。
自覚がねーとこみると、重症だな。」
―・・・・・・そうだ。
俺は、自覚がなかった。
自分が考えていたよりも、
“寂しい”と思っていた事に。
朝の7時頃。
太陽が顔を出し、住宅街へ光を差し込む。
大欠伸をして物置部屋から顔を出した
舞乃空は、漂ってくる香ばしい匂いに気づく。
コーヒー。
目玉焼き。
パンの焼けるにおい。
それを連想し、彼は自然と笑顔になった。
洗面台で顔を洗ってリビングに向かうと、
白いダイニングテーブルの上には
連想した通りのものが並んでいた。
しかも、きちんと二人分である。
アイランドキッチンには、
スウェット姿の明来がコーヒーメーカーから
サーバーを取り出して、マグカップに
コーヒーを注いでいた。
「はよー!」
舞乃空が元気よく声を掛けると、明来は
ちらりとも目を向けずに、ぼそ、と応える。
「・・・・・・おはよ。」
「爆睡したんじゃね?」
「・・・・・・ああ。仕事で疲れとったけん。
お前は、そっちな。」
「はーい!・・・これ、いつもお前が食う朝メシ?
すげーなぁ。きちんとしてんなぁ。」
嬉しそうに笑いながら、舞乃空は
促された方の椅子に座る。
「・・・・・・ほぼ、同じメニューやけど。」
「朝メシ用意するだけでも、すげーと思う。」
この時、サーバーとマグカップを持つ
明来の手は、小さく震えていた。
舞乃空は、何事もなかったかのように
変わらない態度だ。
緊張しているのは、自分だけなのか。
震える手を必死に抑えて、
ダイニングテーブルに二つのマグカップを
置くと、舞乃空と向かい合うように座った。
「・・・・・・コーヒー飲めると?
勝手に入れたけど。」
「ああ、好き。いつもブラックで飲むよ。」
自分は、ミルクと砂糖が必要だ。
飲み方に大人とか子どもとか、ない。
明来は近くに用意していた
ミルクとコーヒーシュガーを入れ、
コーヒーマドラーでかき混ぜる。
明来の瞼は、まだ腫れぼったい。
その様子を見て、舞乃空は顔を綻ばせる。
「思いっきり泣いて、スッキリしただろ?」
「・・・・・・」
笑顔で聞いてくる彼に
目を合わせることなく、明来は
テーブルに置いていた
ケチャップのチューブを手に取る。
「いつでも、俺のスペシャルな胸板
貸してやるぞ~。」
手を広げてアピールする舞乃空に対して
何も反応せず、目玉焼きの黄身周辺に
ぐるっとケチャップを出す。
「珍しいな。お前ケチャップ派?」
「・・・・・・
目玉焼きには、何も味付いとらんけん。」
「俺、しょうゆ派~。」
舞乃空は楽しげに、ソース差しと
並んで置いていた醤油差しを手に取り、
目玉焼きに少量掛ける。
「・・・・・・いつもなら、これに
コーンスープがあるけど・・・・・・
ストック切らしとる。」
「これだけで充分っす!」
「・・・・・・いただきます。」
「いっただきまーす!」
対照的な二人の、
ささやかな朝食の時間が始まる。
「うんま!」
醤油が掛かった目玉焼きの白身を
切り分けて箸で掴み、口に運んだ直後
舞乃空は声を上げる。
「・・・・・・焼いただけっちゃけど。」
「焼き方うめーな!」
「・・・・・・褒めるのって、お前のクセ?」
「褒めるのにクセもねーだろ?
思っていること言うのフツーじゃね?」
―お前は気にしなさすぎで、言い過ぎだ。
「・・・・・・うわっ。お前、黄身崩すヤツ?」
「こーしてパンに付けて食べるの、
ちょーうまくね?」
「乗せて食べるやろ。」
「あっ。伝説の食い方。
それには、かなわねーな。」
トーストした食パンを
絶妙な半熟加減の黄身に付けて
かじりつき、美味しそうに頬張る舞乃空。
そんな彼を、明来は薄目で眺めながら
話を切り出す。
「・・・・・・あれから、俺は寝たと?」
聞き方がおかしいかもしれないが、
言葉のままだった。
その時の記憶が、思い出せない。
舞乃空は、その質問の意図を把握したのか
首を傾げることなく頷いた。
「寝た。ぐっすり。
俺のひろーいむねのなかで・・・・・・」
「あーっ!!」
その予想は、していた。
していたけれど、受け入れられない。
―泣き疲れて寝るとか・・・・・・
しかも、こ、こいつの・・・・・・
「眠ったお前を姫だっこして、
ソファーに、大事に運んだぞ・・・・・・」
「わーっ!!」
―キモすぎっ!!
頭を抱えて悶える明来を、舞乃空は
にやにやしながら眺めている。
「まー、俺に惚れても仕方ないよな。」
「冗談でも言うな!キモい!
俺もキモいが、お前もキモい!」
「キモくねーし。別におかしくな・・・・・・」
だんっ、と、言葉を遮るように、
明来は箸を持った手でテーブルを叩く。
「俺は葉音が好きなんだ。」
潔い暴露に、舞乃空は
おぉ、と声を上げる。
「いいねぇ。」
「かわいすぎて、ヤバいんだ。」
「いいぞー。」
「今日のカラオケだって、
葉音の歌声が聴けるから行くんだ。」
「ほぉ。」
「お前の歌声とか、いっちょん興味ない。」
「言ったな。」
「葉音の歌を聴いたら、歌えんくなるけん。」
「それは楽しみだなー。」
「葉音は、プロを目指しとる。」
「はいはい。
葉音愛は、よぉーく分かったから。
俺も結構、上手い方だぜ?
マジで惚れるぞ。」
「言うな!」
明来の反応を楽しむように、舞乃空は笑う。
「葉音、葉音言って、
お前マジで葉音が好きなんだなー。」
「お前は呼び捨てで呼ぶな!」
「いーだろ。明来。」
「はっ・・・」
「舞乃空でいいから。明来。」
息が止まりそうになるのを堪えて、
何とか踏ん張る。
「ほら、言えよ。まーのーあ。」
「・・・・・・」
「明来って、良い名前だよなー。
俺の名前と合わせるとかっこよくねー?」
「意味分からん。」
「あっ。間に葉音を入れたら、ちょーいい!」
「分からんっちゃけど!
ってかお前っ・・・そうだっ。
家出の理由、話せよ。
くだらねーとか言ってたけど・・・・・・」
「・・・・・・聞く?マジ、くだらねーけど。」
そう言った、舞乃空の表情が変わる。
ほんの今まで見せていた
明るさも笑顔も、天候の変化のように陰った。
この移り変わりは、
昨晩葉音が見せた変化とよく似ている。
どうしてこうも、表情豊かなのか。
向けられた真摯な目に、
明来の視線は囚われる。
「両親離婚すんの。で、
どっちに付くか言われてさ。
どっちも嫌だって言ったら、
他に選択肢はないみたいなこと言われて。
じゃあ、俺、いなかったことにするから
家出ていくって言って、出てきた。」
「・・・・・・は?」
「ありえねーだろ?どっちも選べねーし。
っていうか、選べっていうのもおかしいし。
・・・・・・微妙な歳だろ?俺たちって。
世間では子どもとして扱われてもさ、
中身はもう、判断できるじゃんか。
大人が考えているよりも、
冷静に考えられる。そーだろ?」
「・・・・・・」
舞乃空はマグカップを持ち、
コーヒーを一口含む。
「父さんと母さんがいて、俺がいるわけ。
離婚するってことは、
俺はいらねーってこと。
どっちを選ぶのか、とか、おかしくね?」
訴えかけるものに、明来は
すぐ答えられなかった。
何も纏わない、彼の本心。
それを受けたからだ。
―自分の想像していた範囲とは、全然違った。
それを、少しも見せなかったこいつは・・・・・・
じっと、舞乃空を見据える。
彼は、表情を変えない。
自分の意見を待っている。
同じように、マグカップのコーヒーを
一口含むと、甘さとまろやかさが
固くなっていた身体を解してくれた。
「いらないとか・・・それはないと思う。
そんなこと言ったら、お前の両親は
悲しむと思う。」
「・・・・・・」
「お前の気持ちは、もちろん分かる。
俺だって、そう思うかもしれない。
大人の事情に振り回されるのは嫌だ。」
―でも、そうだからといって・・・・・・
こいつの起こした行動は、極端すぎる。
「・・・・・・親から、連絡は来た?」
「・・・昨日、ちょー連絡入ってた。
流石に捜索願とかされたら困るから、
連絡したけど・・・・・・」
「何て言ったと?」
「ダチんちに泊まってるって言ったら、
安心してた。・・・・・・上辺だけの心配だろ。」
「・・・・・・違うって。」
―連絡があるってことは、心配してる証拠。
「これでも少し、頭冷やせたんだ。
お前んちと、お前に感謝だな。」
「・・・・・・お前さ、進学は?」
「離婚するって分かったのが、
入試試験の前日で良かった。受けてねー。」
「・・・・・・」
「これで良かったと思ってる。
どっちの世話も受けたくないし。
・・・・・・俺もお前みたいに、働いて、
生活しようと思ってさ。
何もかも持たずに、出てきたってやつ。
あ、スマホはさ、必要だろ?
これだけは、隠れてバイトして
稼いだ金から払ってたから、いいかなって。
でも、名義は親なんだよなー。
この時点で甘いよなー。俺。
・・・・・・お前と会わなかったらさ、
正直どーなってたか分かんね。
生活するって、いろいろ大変だよな。
それをやってるお前、
マジすげーよ。ほんと。」
「・・・俺は・・・・・・」
―そうするしか、なかったから。
俯く明来を見て、舞乃空は告げる。
「俺はいい方だ。両親は生きている。
怒りもぶつけられるし、愚痴だって言える。
今まで育ててくれたことの、
感謝も伝えられる。
お前は、それがもうできねーじゃんか。
泣くしかない。」
「・・・・・・やんか。」
「ん?」
「くだらなく、ないやんか・・・・・・」
―こいつは、分かっとる。
自分の立場も、自分の心も。
置かれた状況も。
全然くだらなくないし、
しっかり考えとる。
こいつは、自分を客観視できている。
見据えてくる明来と視線を合わせ、
舞乃空は破顔した。
「優しーなぁ。明来って。」
「・・・・・・え?」
「真面目に聞いてくれて、ありがとな。」
明るく振る舞っていた彼の、
心底に隠れていた陰の部分。
それを目の当たりにして
この柔らかい微笑みを見ると、
自分の見方が全く足りなかったと
思い知らされた。
見極める目を持つには、まだ遠すぎる。
武装していない舞乃空の笑顔に、明来は
どう対応したらいいのか分からず、
こんがり焼けたトーストに視線を落とす。
「・・・・・・これからどうするのか、まだちょっと
考えたいんだ。お世話になります。」
頭を下げる姿は、再会したあの時と重なる。
でも、彼に対する
自分の今の見え方は、少し変わった。
明来は、ぼそ、と呟く。
「・・・・・・別に、いいよ。」
小さな呟きでも、舞乃空にとっては
満面の笑みにさせる効果があった。
頭を上げ、嬉しそうに言う。
「ありがとな!」
感謝の言葉は、ダイレクトに伝わる。
明来は、トーストから目を離さず
それを片手で持つと、既に柔らかくなった
マーガリンを塗り始める。
「そういえば、松宮んとこのメシ
ちょーうまかった。
うますぎて、全部食っちまった。わりぃ。」
「・・・・・・」
何も答えず、トーストの上に
箸で目玉焼きを滑らせて、乗せた。
「お前が作ったカレーも、ちょーうまい。」
これには、答えずにはいられなかった。
「・・・市販のルー使っとるだけやけん。
褒められるようなもんじゃない。」
「ただ野菜切って、煮込んで、
ルー入れただけじゃないだろ?
切り方とか火加減とか、何回も作って
覚えて上手くなったんだろ?」
「もういいって!」
―何でも褒めやがって。
声が裏返ったことなど、気にならない。
舞乃空と話していると、
声のコンプレックスの事を忘れてしまう。
彼は、知ってか知らずか
その事を、さらっと口にする。
「そーだ、お前さぁ。
わざと低い声作って出してるよな?何で?」
「・・・・・・いいやん。別に。」
―この悩みは、お前には分からん。
「お前の高い声、俺は好きだけど。
無理に作んなよ。」
予想外すぎる言葉である。
明来は、トーストを食べようと
口を開いたところで、固まる。
それを見て、舞乃空は吹き出して笑った。
「何で固まんの?」
やっとの思いで、口が動いた。
「お、お前が変な事言うからやろうもん!」
当然、声が裏返る。
「変な事言ってないけどー?」
「ほんっとお前さ、そういうこと普通に言って
恥ずかしくないと?マジキモい。」
「キュンとした?」
「するか!!」
ケチャップ付き目玉焼き on the トーストを
勢いよく口に運び出す。
リスのように咀嚼して
驚異のスピードで食べていく明来を、
舞乃空は笑顔で眺めている。
コーヒーで流し込み、食べ終えると
椅子から立ち上がって、
空になったプレートとマグカップを
シンクへ持っていった。
「片付け任せるけんな!」
「あれ?どこ行くの?」
「筋トレ!」
そう言って、明来はリビングから
素早く去っていく。
コーヒーをゆっくり飲みながら
それを見送る舞乃空の表情には、
優しい微笑みが浮かんでいた。
朝の10時頃。
空にはひつじ雲が広がり、
春の陽気が目に見える程漂っている。
近くの公園は、山の滑り台で遊ぶ子どもたちと
その保護者たちの集まりで賑わっていた。
ほとんどの親たちは、桜をバックに
我が子をスマホで撮るのに夢中である。
夜は特等席である奥のベンチも、今は
ベビーカーから小さな両手を上げて
花びらを掴もうとする赤ん坊を
優しく見守る母親が座っている。
その光景を、明来は懐かしそうに眺めた。
あの頃から、
あの桜は語り掛けてくれた。
おはよう。
こんにちは。
今日もいい天気ね。
元気?
咲き乱れるこの時季は、とても明るくて
優しく包んでくれる。
辺りを、きょろきょろ見回す
舞乃空の視界の中に、
目を惹く人物が入り込んだ。
「明来、あの子?」
回想に浸っていた彼は、
その呼び掛けで現実に戻る。
聞かれた方向へ目を向けると、
横髪をくるりとまとめた
ショートパンツ姿の少女を捉えた。
明来は、目を見開く。
―・・・・・・葉音?
お前、そんなに足を出すコーデ・・・・・・
今までに・・・・・・
「おはよぉっ。
ごめんね、ちょっと遅れちゃって。
・・・・・・やっぱ、おかしい?」
食い入るように見つめてくる明来の様子に
葉音は戸惑い、自らの格好をチェックし出す。
「試しのコーデなんやけど・・・・・・」
「ちょーかわいい。」
言いたかった言葉を、舞乃空に
するりと言われた。
いや、言えなかったから、
言ってくれてありがとう。
と、軽く頭がパニック気味で
明来は彼に視線を送った。
初対面の舞乃空から急に声を掛けられ、
葉音は、びくっ、として
明来の横に並んで立っている
背の高い彼に目を向ける。
「どーも。俺は、阿久屋 舞乃空。
よろしく~。」
ニカッと笑う彼に対し、彼女は
明来を挟むようにして半身を隠し、
小さくお辞儀をする。
「・・・・・・松宮 葉音です。」
それは、完全に人見知りモードだった。
―えっ?昨日の勢いは・・・・・・?
あれだけ呼んでいいよって、
言っとったのに・・・・・・
意外な葉音の姿勢に、明来は
さらにパニックに陥る。
自分の服の袖を小さく握る彼女の手が、
軽く手に当たっている。
ドキドキと、パニックが
ぐるぐる回っていた。
寄り添う小さな二人に、舞乃空は
ニヤニヤが止まらない様子だった。
「俺って、軽くお邪魔じゃねーかな?」
そう声を掛けると、二人は
ぱっと離れて顔を真っ赤にする。
「そんなことないっ。」
「大丈夫ですっ。」
必死にそう言って、ぷるぷる首を横に振る。
「そう?俺どう見ても、
デートの邪魔をするヤツじゃん?へへっ」
「で、デートっ?!」
「ち、違いますっ。」
「二人とも、かわいすぎてヤバいなー。」
舞乃空は、シンクロする二人を
楽しそうに眺めながら言う。
「松宮。俺の事、明来から聞いてる?」
「は、はい。」
「んじゃ、敬語ナシね。あと、
舞乃空でいいよ。俺も葉音って呼ぶから。」
「・・・・・・うん。」
「いきなりって・・・・・・」
「いいんじゃね?」
「・・・・・・私はいいよ。明来ちゃん。」
「・・・そ、そうなん?」
「カラオケ、誘ってくれてありがとな。」
にこっ、と笑う舞乃空は、
とても爽やかだった。
自然で飾らない彼の立ち振る舞いに、
葉音は少し肩の力を抜いて
ぺこりと頭を下げる。
「ほんとは遠慮しようと思ったけどさ、
明来が、葉音の歌声ちょーかわいくて
ヤバいから聴けって圧が強・・・・・・」
「あーっ!!」
「えっ?」
明来が堪らず声を上げて舞乃空の声を遮り、
彼の腕を掴んで耳打ちする。
「それ言うなっ。」
「ほんとのこと言っただけだろー。」
小声で話す明来と、可笑しそうに笑って
彼の様子を楽しむ舞乃空。
そんな二人に、葉音は目を丸くする。
明来が声を張り、
感情をむき出してしゃべる姿を
久しぶりに見たのだ。
あの時から、見なくなった彼の姿を。
本当に、偶然に再会したばかりの二人なのか。
まるで、親友のような二人ではないか。
それが、彼女を焚きつけた。
「・・・・・・あの。舞乃空くんって、いつまで
明来ちゃんの家に泊るの?」
いつもなら、誰とでも
輝かんばかりの笑顔で話す彼女なのに、
今日ばかりは少し様子が違う。
その異変を感じていた明来は、向かい合うと
身長差が大人と子どものように違う
二人の行方を刮目する。
メラメラと燃え盛る大きな瞳を向けられ、
舞乃空は柔らかく微笑んだ。
「しばらくは、いるかも。」
それを聞いた葉音は、ぐっと口を結んで
出そうになった言葉を飲み込む。
一呼吸置き、彼女は口を開いた。
「・・・・・・明来ちゃんを、困らせないでね。」
紡がれた言の葉は、意味深である。
「・・・・・・もちろん。」
舞乃空は、それを汲み取った様子で
やんわり言葉を返す。
―・・・・・・何なん、二人とも。
視線をぶつけ合い、意味不明の言葉を交わす
舞乃空と葉音は、自分の事について
語っているには間違いない。
だが、言わんとする内容が全く読めず、
理解不能に陥る明来だった。
三人の目指す目的地は、
公園から徒歩約10分という近距離である。
歩いていく際、会話という会話もない。
明来を挟み、並んで歩く葉音と舞乃空は
視線を合わせることもなかった。
葉音の人見知りモードは続いているし、
舞乃空は物思いにふけっている様子だ。
仲を取り持とうと思える程、
明来は言葉が巧みではない。
到着したカラオケ店は個人経営であり、
葉音の行きつけである。
敷地の規模は小さく建物の造りは古いが、
一時間ごとの部屋代さえ払えば
何人でも入れるという、破格の料金制。
しかも持ち込みが出来るらしく、
地元の学生たちの間では、
有名な穴場になっていた。
店長の桜庭 輝義は、
松宮家と旧知の仲であり、
このカラオケ店のエアコンは、
松宮冷機が施工している。
前髪が後退した為スキンヘッドにした彼は、
見た目と反して人当たりが良く、心優しい。
明来自身も顔見知りである。
「やぁ、いらっしゃい!
葉音ちゃん!明来くん!」
「桜庭さん、おはようございまぁす!」
「おはようございます。」
「あれ、葉音ちゃん?
今日はいつもよりオシャレしとらんね?
・・・・・・もしかして、その背の高い子・・・・・・
彼氏かいな?」
見知らぬ舞乃空を見て、桜庭は尋ねる。
思わぬ言葉に、葉音は
顔を真っ赤にして否定した。
「ち、違いますよぉ!
明来ちゃんのお友だちです!」
「なんだぁ。てっきりそうかと・・・・・・」
「どーもー。明来のダチの舞乃空っす。」
「まのあ?またえらい変わった名前やねぇ。
ハーフかいな?」
「ちょー日本人っすよ。」
「ほぉー。イケメンやけん、
てっきりそうかと思ったばい。」
「あざっす!」
聞きにくい事をさらっと言う
桜庭に対し、舞乃空は難なく
柔軟に受け答えている。
その対応力の高さに、明来は感心した。
それは、葉音も同じだったらしい。
「いつもの部屋にしとくけんねぇ。」
にこやかに言う桜庭に、葉音は
ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございますっ。」
このカラオケ店には、
唯一のVIPルームが存在する。
開放するのは、お得意様か
顔見知りの葉音たちだけらしい。
「すげっ。
カラオケでこんな広い部屋入るの、
大人数で行った時しかねーよ。」
VIPルームに入るなり、
三人では有り余る程広い空間に、
舞乃空は嬉しそうに見回している。
「そうよね。」
人見知りモードが緩和したのか、
葉音は小さく笑って相槌を打つ。
大きな画面には、
アーティストたちの宣伝が流れている。
造りが古いとはいえ、
機器は最新のものが設置されていた。
大画面を囲むように
コの字に置かれたソファーへ
明来と舞乃空は腰を下ろす中、葉音は
部屋の出入り口付近に備え付けてある
インターホンの傍に立つ。
「ドリンク何がいい?」
そう聞くと、舞乃空が逸早く答える。
「俺、水のピッチャーで。」
「・・・えっ?」
明来と葉音は、同時に声を上げた。
―ピッチャー・・・・・?
そんな頼み方出来るん?
「他の飲み物だと、具合悪ぃんだよなー。
もちろん、明来と葉音も飲んでいいからな。
あ。それと俺、
食べながら歌うのは、出来ねーんだ。」
舞乃空が放った言葉に
共感するものがあったのか、
葉音は頷いている。
「私も、食べながら歌うのは無理。」
「みんなで騒ぐ時は、合わせるけどさ。
今日は遠慮なく歌えそうだから。
・・・いーかな?」
「全然いいよ。・・・明来ちゃんは?」
この流れで、ポテトを頼むとかできない。
明来は二人の意見を尊重し、頷く。
「・・・・・・俺も、飲み物だけでいいよ。
アイスティーで。」
「私も、それかなぁ。」
葉音はインターホンの受話器を取って
ドリンクをオーダーした後、
明来と舞乃空が座るソファーの並びとは
別の位置に、ちょこんと座った。
「トップは誰が歌う?」
カーゴパンツに入れていたスマホを
取り出して、カラオケ楽曲検索を始めながら
舞乃空が聞く。
葉音も、肩に掛けていたバッグを
膝の上に置き、サイドポケットから
スマホを手に取る。
聞かれた事に、答える気配はなかった。
明来は我関せずといった様子で、
大画面に流れる宣伝を眺めている。
二人が黙って選曲している間に、桜庭が
部屋のドアをノックをして
ドリンクが乗ったトレーを持ってきた。
広いテーブルに各ドリンクを置いていくと、
“ごゆっくり~”と明るく声を掛けて
去っていった。
「・・・・・・んじゃ、俺がいくか。」
「どうぞぉ。」
舞乃空が言ってくれるのを待っていたのか、
葉音の反応は早かった。
やっぱり、いつもの様子とは少し違う。
緩和しているが、
人見知りモードは、まだ続いている。
そう感じながら、
明来は葉音に目を向けていた。
選曲を送信すると、舞乃空は立ち上がって
カラオケ機器の元へ歩いていき、
マイクを取る。
同時に、マスターとマイクの音量、エコー、
キーを操作した。
その動作は手慣れていて、
目の当たりにした二人は目を見開く。
大画面に、楽曲のタイトルが出る。
それを見て、さらに明来は驚いた。
最近メジャーデビューをした
ロックバンドの、バラード。
このバンドの曲は、
明来のプレイリストに入っている。
そしてこの楽曲は、
一昨日自分が歌っていた、大好きな曲。
なぜこの曲を選んだのか。
意図が分からず、明来は舞乃空を見据える。
彼はグラスに注いだ水を一口含むと、
大画面に向き合った。
このボーカルの原曲キーは、高い方だ。
しかもこの曲は、サビの所で
かなり高域になる。
それを、わざわざ低くして選曲している。
というより、自分の声質を知っていて
変えている。
歌っていなければ、できない動作だ。
歌い出しが、部屋に響き渡る。
マイクのエコーは、無いに等しい。
マイクの音量も、
普通に歌うには足りないかもしれない。
だがその声は、よく通った。
真っ直ぐ伸びる、安定した声。
それだけじゃない。
歌詞に籠められた意味まで、心に届く。
圧倒的な存在感だった。
舞乃空の歌声は、波動になって
自分の全てを震わせる。
―・・・・・・なんだ、これ。
瞬きもできない。
彼の歌う姿に、釘付けになる。
葉音も、明来と同様で
大きな瞳に焼き付けていた。
『歩いていけば、見つかる。
歩いていけば、出逢える。
嘘みたいな現実を、
お前の色で塗り替えろ。』
この歌詞の部分に辿り着いた時、
鳥肌が立った。
この曲の中で、最も好きな言葉。
貫かれる感覚に、
明来は思わず涙が出そうになった。
しかし、必死で留める。
ここで、泣いてしまうわけにはいかなかった。
葉音に目を向けると、はっとした。
その大きな瞳は潤んでいる。
触れれば、涙が零れそうだった。
そして、彼女の表情。
今まで見たことがない色が浮かんでいる。
それを見て、なぜか胸騒ぎがした。
曲が終わり、歌い終わった舞乃空は
ふーっ、と長く息をつく。
「広い部屋だと、
全開で歌えて気持ちいーな!」
嬉しそうに言った後、彼は
満面の笑みを浮かべながら、
明来と葉音に目を向ける。
「お前ら、いつもこの部屋使ってんだろ?
桜庭のおっさんに感謝しろよー?」
“思いっきり歌わねーと、申し訳ないぞー。”
そう言いながら、立っていた舞乃空は
ソファーに腰を下ろして
グラスの水を飲み干す。
「明来。言ってなかったけどさ、
俺もこの曲、大好きなんだよ。」
そう告げて笑う舞乃空は、まるで
悪戯が見つかったかのように無邪気だ。
その眩しさから
思わず視線を逸らして、明来は
微動だにしない葉音に声を掛ける。
「・・・・・・葉音。」
その呼び掛けに、彼女は
はっとして瞳を向けてくる。
その表情に、どきっとした。
現実に戻って来た彼女の頬は、ほんのり赤い。
「・・・えっ、あっ・・・・・・
はぁ・・・・・・驚いたなぁ・・・・・・」
そう呟く葉音は、桜色が浮かんで
ふわふわしている。
「舞乃空くん、とっても良い歌声やねぇ。」
「へへっ。どーも。」
素直に評価する彼女に、もう
人見知りモードは見受けられない。
その瞳には、きらきらと光が灯っている。
明来は、胸の中で膨れ上がる
何かを感じながら、アイスティーを口に含む。
「実は、バンドやってたんだ。
今は事情があって、やってないけど。」
テーブルの上に設置してあった
ウェットティッシュの容器から
一枚取り出し、マイクを拭きながら
さらりと漏らした彼の言葉に、
葉音の目はさらに輝き、明るい笑顔になる。
「すごい!バンドしてたんやね!
だから声量すごいんだぁ。」
舞乃空も、その笑顔につられて
嬉しそうに笑う。
「歌うの好きなんだー、俺。」
「うん!私も!」
意気投合する二人を、
明来はアイスティーを飲みながら眺める。
「・・・すごいなぁ・・・・・・
私は全然、まだまだやなぁ・・・・・・」
「歌う前から弱気じゃね?
今度は葉音の番だ。全力で頼む。」
「・・・うんっ!」
彼女の中に、何かが芽生えている。
それを感じると、もやもやする。
どう吐き出したらいいのか分からず、
ひたすらアイスティーを飲むことしか
出来なかった。
葉音は選曲を送信すると、立ち上がる。
舞乃空から受け取ったマイクを手にして、
大画面と向かい合った。
明来の視点からだと、彼女は横向きになる。
いつもと格好が違うせいなのか、
舞乃空の歌に感化されたのか、
彼女の横顔は、とても綺麗だった。
流れてきたイントロは、彼女の定番。
カラオケ来たら、いつも最初に歌う曲である。
ポップで明るい曲調は、ふわりとした彼女に
とても良く合っていた。
彼女がこの曲を歌うのは、何度も聴いている。
いつもより、声の通りもいい。
ソフトな彼女の声は、
サビの部分で乱れる時がある。
だが、今日はそれがない。
可愛らしさと、
彼女らしさが歌声に乗っていて、
とても心地好く響く。
明来は、半ば呆然と聴き入れていた。
いや、魅了されていた。
この時間が終わりたくないと思う程、
今、この部屋は
彼女のステージになっていた。
葉音は、とても楽しそうに歌っている。
そんな彼女の歌声を、舞乃空は終始
微笑みながら聴いていた。
「あーっ、楽しかったぁ!」
歌い終えた彼女の顔は、ご満悦だった。
「ちょっとエアコン点けていい?」
「ああ。歌い出すと、熱くなるよなー。」
人見知りモードの彼女は、もう
ここにはいない。
「声を張るところ、弱いなー。
複式が甘いかも。」
「そうなんよぉ。それ頑張ってるとこ。」
「でも、良い声してる。曲と合ってるし。
聴いてる俺も楽しくなった。」
「えへへ。嬉しいっ。聴いてくれる人も、
楽しくなってもらえるように歌うのが
目標なの。」
「いーじゃん。葉音なら出来るよ。」
「ふふっ。ありがとぉ。うれしいっ。」
良い雰囲気だ。
それは見てすぐに分かった。
弾けんばかりの、彼女の笑顔。
それを引き出すような、優しい彼の微笑み。
二人とも、良い雰囲気。
からん、と音がする。
アイスティーはもう、飲み干してしまった。
何もしていないのに。
「明来ちゃん、どうだった?」
声を弾ませて聞いてくる彼女は、
とても可愛いくて、眩しかった。
まともに見れず明来は、空になったグラスを
テーブルに置いて答える。
「・・・・・・うん。いつもより良かった。」
「やったぁ!うれしいっ!」
自分が吐き出した言葉に、彼女は素直に喜ぶ。
嬉しいはずなのに、苦しい。
「よし、今度は明来の番だな。」
その舞乃空の声に、首を横に振る。
「明来ちゃん。歌って?お願い。」
袖からちょっと出た手を合わせて言う
葉音のお願いにも、応えない。
―二人とも俺の事、そんな目で見て。
お前たちの後に、歌えって?
「・・・・・・水、もらう。」
舞乃空が頼んだピッチャーに手を掛け、
明来は空になったグラスに水を注ぐ。
こぽこぽと音を立て、氷が躍った。
勢いあまって少し水が床に零れたが、
気にしない。
それ程、明来の中で膨れ上がるものがあった。
水をたっぷり注いだグラスを
口に向かって傾け、ごくっ、ごくっ、と
喉を鳴らす。
その様子を、舞乃空と葉音は見守っていた。
勢いよく水を一気に飲み干す彼は、
もしかしたら、応えてくれるかもしれない。
そんな期待の眼差しを向ける。
―二人とも、楽しそうでいいなぁ。
・・・・・・俺は、
お前たちみたいに歌えないんよ。
「・・・・・・舞乃空。」
明来に呼ばれ、彼は身を乗り出す。
「お前がさっき歌った曲、
もう一度送信しろ。」
「きたっ!まかせろっ!」
舞乃空は笑顔で、すかさず操作して送信する。
状況を見守っていた葉音も、
ぱぁ、と笑顔になった。
歌ってくれるんだ。
言葉にしなくても、それが分かるような
満面の笑み。
それを目にしながら、明来は
彼女からマイクを受け取った。
―本気で歌うのは、
声のコンプレックスを感じ始めて以来。
両親が亡くなってからも、
まともに歌っていない。
だから、二人のようには歌えない。
その前は、葉音じゃないけど
歌手になる夢をちょっと見ていた。
歌に対して、舞乃空じゃないけど
素直に好きだと思えていた。
コンプレックスのせいで。
いや、そのせいにして、止めていた。
・・・・・・違う。
好きだから、歌う。
それだけでいいのに。
それを、忘れていた。
明来は、二人の歌を聴いて
その気持ちを蘇らせた。
もやもやする原因は、別のところにもあるが
気にしない。
今は、それどころじゃない。
―好きで歌うのに、理由はない。
流れ出したイントロは、原曲のキーのまま。
それでいい。彼はそう思った。
自分の高い声なら、造作もない。
明来は、夢中で歌った。
何百回も聴いてきたバラード。
どこで息継ぎをするのか、ためるのか、
歌詞の意味とか、抑揚とか。
技術なんて分からないが、耳を通して
身についている。
身体を楽器にして、共鳴させる。
眩暈が生じたが、気にしない。
今まで歌ってこなかったブランクのせいだと、
それを受け入れた。
身体中に響き渡る感覚が、
重い現実から引き離してくれる。
『歩いていけば、見つかる。
歩いていけば、出逢える。
嘘みたいな現実を、
お前の色で塗り替えろ。』
―塗り替えろ。
そうだ。塗り替えろ。
歌い終わり、曲が終わると、
明来は大きく息を吐いた。
汗が滲み、程よい脱力感を覚える。
声量を抑えず振り絞ったお陰で、
言い様のない心地好さが取り巻いていた。
「・・・・・・エグっ。」
短く漏れる声。
発せられた方に目を向けると、
舞乃空の表情が飛び込んだ。
彼の目から、涙が零れている。
えっ、と声を上げそうになったが、
横から葉音の大きな溜め息が耳に入る。
「やっぱ、明来ちゃんの歌声、
ばりすごい・・・・・・」
溜め息とともに流れる、大粒の涙。
彼女の頬にも流れている。
二人が涙を流す状況に、明来は動揺した。
「な・・・何で泣いとるん・・・・・・?」
「ヤバい。エグい。」
「歌声、録っとけばよかった・・・・・・
もう一回歌って?」
「い、いや。お前ら、おかしいって。」
「録ろう!聴きたい!もう一回頼む!」
「明来ちゃんお願い!」
「ちょっ・・・・・・」
「すげーよ・・・見ろ!鳥肌立ちっぱな!」
「私もっ。今までで、
いっちばんすごいの聴いたぁ!」
「明来。歌の配信しろよ。
ここで終わらせるのもったいないって。」
「私もそう思った!ね、そうしよ!」
エスカレートしていく二人。
呆気に取られた明来は、無理矢理
マイクを舞乃空に渡す。
「もう歌わん!」
「何で?どーして?明来さま!」
「明来ちゃん!」
異常な盛り上がりを見せる舞乃空と葉音に、
明来は戸惑うしかなかった。
その反面、心のどこかで喜ぶ自分もいる。
自分の歌声が、
聴いてくれた二人の心に響いた。
それだけで大満足だった。
ただ、涙を流すまでのものだったのか
明来自身、受け入れられずにいた。
それから、断固として歌わなかった。
その一曲きりである。
舞乃空と葉音は不満をぶつけてきたが、
それも構わなかった。
一曲に、完全燃焼した。その一言である。
カラオケで過ごした時間は、3時間。
歌合戦のように飛び交った二人の歌は、
聴いているだけでも充分楽しめた。
素直に評価し合う場面もあり、
舞乃空と葉音は完全に打ち解けていた。
明来の中で燻っていた
もやもやは、なぜか消え失せていた。
二人が、歌うことを素直に楽しんでいるのが
分かったせいなのか。
何にせよ、歌ったことで
自分の中に余裕が生まれていた。
明来にとって、この3時間は
現実を忘れられる時間になった。
終わる際、再度歌ってくれと
二人に頼みこまれたが、聞き入れなかった。
心底残念がりながら、
ピッチャーの水を飲んでいた二人の姿が
印象的だった。
へとへとになっていた彼らに、
お疲れさまという意味を籠めて
歌っても良かったかも。
ほんの少しだけ、そう思った。
「はーっ、疲れたー。」
ポテトを口に運びながら、
舞乃空は椅子の背にもたれかかる。
「疲れたけど、楽しかったよぉ。」
期間限定の
ハニーレモネードジュースを飲みながら、
葉音は至福の溜め息をついている。
満足げなのが、赤みを帯びる頬に表れていた。
三人はカラオケ店を出た後、
近くのファーストフード店に足を運び、
テーブルを囲んでいた。
店内はランチタイムのピークを過ぎて、
少し落ち着いた様子である。
「桜庭さん、舞乃空くんの歌声
ばり褒めとったよぉ。
“カラオケルームから漏れる程の
大きな歌声聴いたの久しぶりだ~!”って。
おかげさまで無料券ゲットしちゃったぁ。
ありがとぉ。」
「ははは。一曲目は全開だったからなー。
無料券ゲットできたの、俺のお陰じゃなくて
葉音のかわいさじゃね?」
可愛いと言われて、葉音は動揺する。
「ち、違うよぉ。
・・・あ、あの曲、かっこいいよねぇ~。」
二人が楽しそうに話す中、明来は黙々と
チーズバーガーを頬張っている。
助けを求めるように、葉音は
隣に座る彼に言葉を掛けた。
「明来ちゃんの歌、
久しぶりに聴けて良かったなぁ。
ほんとすごかったぁ。
あれだけ歌えたら、まだまだもっと
上手になるよぉ。」
「・・・・・・大げさだって。」
―1曲歌っただけなのに、かなり体力使った。
急激に、お腹が空いていた。
がっつく明来に、舞乃空は視線を送る。
「エグかった。マジで。泣いちまったもん。」
「明来ちゃんの歌声、ほんとに綺麗。
かっこいい。」
かっこいい。
その言葉は、聞き流せなかった。
彼の中で、リフレインする。
「なんて言ったらいいんだろなー・・・・・・
叩き起こされる?的な?
もったいねーよ、明来。
配信して、みんなに聴いてもらえよ。」
「私も、舞乃空くんに大賛成。
たくさんの人に聴いてもらった方が
いいと思う。」
自分が歌うことに対して、
かなりの意気投合を見せる二人。
頷き合って意見を交わす舞乃空と葉音は、
もう何年も前から
友人のような雰囲気だ。
「・・・・・・いいよ、それは。
二人に聴いてもらえて、満足だ。」
「ほんっと頑固だな、お前。」
「そうなんよ。明来ちゃんは、
こうと決めたら折れないんよ。
だから・・・・・・何でか分からんけど、私を
家に上げてくれないし・・・・・・
何か理由があるっちゃんね。」
頬を膨らませながら
ぽつりと漏らした葉音の言葉に、
明来は何も言い返さず、ポテトを貪る。
ぴんときた舞乃空は、ニヤニヤしながら
彼女に言葉を投げた。
「葉音。自覚しろよ。
それは、気づかないお前が良くない。」
「え?」
「舞乃空。」
制するように、明来は舞乃空を睨む。
「・・・・・・どういうこと?」
答えをくれそうな舞乃空の発言に、
葉音は身を乗り出すように前傾して
強い眼差しを送った。
彼女の大きな瞳に、きらりと光が灯る。
双方から熱い視線を注がれて、
舞乃空は小さく息を漏らして笑う。
「・・・・・・おもしれーなぁ。二人ともオンチかよ。」
「・・・は?」
「音痴?えっ。うそ。」
「言うのやめとく。」
笑いながら照り焼きバーガーに食らいつく
舞乃空に、明来と葉音は身を乗り出す。
「どういう意味だ?」
「音痴ってどういうことなん?どの曲?
音程良くなかったと?えっ?それで?
・・・・・・分からんよぉ。」
「はいはい。」
「おいっ。」
「舞乃空くんっ。」
「進むの大変だろーなー。」
熱心に聞いてくる二人に、
彼は聞く耳を持たず、あしらう。
ファーストフード店での
ひとときは、まったりと過ぎていった。
ただ気になったことは、舞乃空が
家出の事に触れなかった事だった。
葉音にも話すのかと思っていたが、
それをしなかったのは、なぜか。
明来は、楽しそうに葉音と話す
彼を見ながら考えていた。
「これからどうする?」
店を出たところで、舞乃空が声を掛けた。
朝、空に浮かんでいたひつじ雲は
とっくに繋がっている。
しかし覆ってはいるものの、
雨が降るまでには至っていなかった。
「夜は家族と出掛けるから・・・・・・
私はこれで帰ろうかな。」
そう告げる葉音は、少し寂しそうだった。
まだ一緒にいたい。
言わずとも、表情に浮かんでいる。
「また行こうぜ。」
その様子を察知した舞乃空が言うと、
彼女は嬉しそうに笑った。
「うん!是非!」
「なぁ、明来。」
話を振るように呼び掛けられ、
彼は小さく笑う。
「・・・・・・ああ。」
「ほんと?やったぁ!今度は明来ちゃんも、
たくさん歌ってよぉ。」
「・・・・・・どうかなぁ。」
「もぉっ。」
葉音は不満そうに頬を膨らませるが、
すぐに笑顔になる。
「明来ちゃんたちは、これからどうすると?」
聞かれた事に、舞乃空は何も言わず
明来に目を向ける。
「・・・・・・そうだな・・・・・・買い物かな。」
休日の日曜日は大抵、
一週間分の食料を買い溜めする。
平日は仕事で疲れて、
行くのが億劫になる為である。
「・・・そっか。お母さんがね、
いつでも食べにおいでって言っとった。
・・・・・・遠慮することないけんね。」
「・・・・・・ありがとう。」
「ふふっ。うん。今度何が食べたい?」
「うーん・・・・・・焼きそば。」
「焼きそば?」
「この前、ホットプレートで作ってくれた
焼きそばが、ばりうまかったけん。」
「分かった!お母さんに伝えておくね!」
笑いながら話す明来と葉音を、舞乃空は
口を挟まず優しく見守っていた。
「じゃあ、またねぇ。」
「ああ。」
大きく手を振って離れていく葉音を、
明来と舞乃空は手を振って見送る。
彼女の姿が見えなくなるまで、
二人はその場に立ち尽くした。
「・・・・・・いい感じじゃん。」
そう言われた明来は、
ちら、と彼に目を向ける。
「・・・・・・何が?」
「お前たち、いいよ。」
「だから何が。」
「頑張れよ。」
「だから、何を?」
顔を綻ばせて、舞乃空は歩き出す。
「なー、明来。買い物の前に
久しぶりに行ってみよーぜ。車両区。
ここからかなり近いじゃん。」
つられるように、明来も歩き出す。
「・・・・・・ああ、いいけど。」
駅に向けて、二人は歩き出した。
車両区に向かうルートの途中に、
大きな車道がある。
夜間以外、交通量が常に多い場所だった。
横断歩道の信号が赤になり、立ち止まると
二人は行き交う車を眺める。
「・・・・・・舞乃空。」
「ん?」
「何で、バンドやめたん?」
何気ない質問だった。
楽しそうに歌う舞乃空を見ていて、
明来は疑問に思ったのだ。
歌うことが好きなのに、
バンドを止めた理由。
それが、知りたかった。
「・・・んー・・・・・・」
信号が青になる。
二人は並んで歩き出し、横断歩道を渡る。
渡り終わったところで、舞乃空は
明来に目を向けて言った。
「俺にキスしてくれたら、話してもいいよ。」
思わず、立ち止まる。
止まらず進んでいく舞乃空の後姿を、
明来は見ることしか出来なかった。
「・・・・・・明来ー。冗談だよー。固まるなー。」
投げらけた声が、
立ち止まっていた明来の足を動かす。
だが舞乃空と並ばず、
間隔を空けて歩いていき、その背中を捉える。
「そのくらい、話すの難しいってことだよ。」
彼は振り返らず、言葉を送る。
少なからず鵜吞みにした明来は、
安堵の息を漏らした。
「・・・・・・聞かなかったことにする。」
「それがイチバンだな。」
どことなく、
舞乃空の背中は寂しそうに見えた。
こちらを振り返らないし、
笑っているようにも見えない。
「話せる時が、来るのかなー。
来るといいけどなー。・・・・・・あ。
さっき言ったやつナシでな。安心しろー。」
独り言のように呟いて、歩いていく。
「その時俺は、お前んちいるのかなー。」
陸橋の下を抜けると、
右手側のフェンス越しに線路が見える。
それを眺めながら、尚も舞乃空は言葉を紡ぐ。
「俺も、働きたいなー。松宮んとこで。」
「・・・・・・」
ようやく明来は、
彼の横に並んで言葉を返す。
「・・・・・・どうしてもって言うなら、
話してみるよ。」
「・・・・・・マジで?!」
断られると思っていた舞乃空は、
明るい表情で明来を見る。
「でも、どうなるか分からん。
松宮さんが、どう判断するか。
俺はお前の話を聞いたまんま正直に話すし、
家出の事を隠すつもりはない。
・・・・・・強制的に帰らされるかもしれん。
知ってもらった上でいいのなら、
俺は協力する。
松宮さんは、マジですごい人なんよ。
言葉数少ないけど・・・・・・
俺たち従業員の事、家族同様に
大切に思ってくれている。
・・・そんな人に、嘘はつきたくない。」
明来は、真剣に伝えた。
「俺んちにいるのは、別にいいけん。
お前がいいって思うまで、いていいから。」
「・・・・・・」
舞乃空は、そんな彼を見据える。
浮かべる笑顔は、溢れて止まらない。
「お前のエグい力は、冷機運びの役に立つ。」
「ははっ。何だそれ。うれしいけど。」
「何か、筋トレしとると?」
「かるーくな。」
「軽く・・・・・・」
―それは、不公平だ。
「明来は、どんな筋トレしてんの?
俺は歌う為の体力づくりだったからさ。
使う筋力も違うだろーし。」
「・・・・・・とりあえず、
筋力が付けばいいかなって。」
「仕事で必要な部分を、
筋トレしたらいいと思うけど。
しなくてもさ、わりと自然に
良い身体になりそうだけどなー。」
「・・・・・・」
―それが出来れば、言うことないっちゃけど。
「まだ、始めたばかりなんだろ?
すぐには付かねーよ。あせるなって。」
「・・・・・・焦っとらんけど。」
「俺にはそう見えたぜー?だいじょーぶ。
すぐ、俺に勝てるようになるって。ははは。
・・・おっ。見えてきたー。
ここに来た時、正直泣きそーになったよ。」
舞乃空が視線を向ける方へ、明来も向いた。
車両区自体は、
当時から何も変わっていない。
だが、規模は小さく見えた。
こんなに狭かったのか。
もっと広く感じたのに。
―まだ小さかった俺たちは、
停まっている電車を見るだけで楽しかった。
ただ格好良くて、綺麗で、大きくて。
「・・・・・・そんなに時間は
経ってないかもしれないけどさ、
いろいろあって、また今
ここにいるんだよなー・・・・・・」
舞乃空の横顔は、
再会して初めて見る表情だった。
寂しげで、どこか遠くを見ている。
電車を捉えているというよりも、
追憶を巡らせて、浮かべているようだった。
大人びている彼に、
小さかったあの頃の面影はなかった。
「・・・・・・舞乃空。」
明来に名前を呼ばれ、彼は笑顔で振り向く。
「んー?」
「・・・・・・何があったか分からんけど、
歌うこと、止めるなよ。」
その言葉に、舞乃空は目を見開く。
「お前の歌声、マジで良かった。
また聴きたいと思うくらい、良かった。
だから、止めるな。」
するりと出た自分の言葉に、明来は驚いた。
素直に思った事を、伝えられた自分に。
躊躇わず、吃りもせず、
声も作らずに。
「・・・・・・なんだよー。」
そう吐き出した彼の表情には、
くしゃくしゃの笑顔が浮かんでいる。
「めっちゃうれしいじゃん。」
「お前こそ、配信しろよ。」
「してたけどな。やめた。」
「・・・・・・また、したらいいやん。」
「へへっ。」
舞乃空は、さらに笑う。
破顔しながら、嬉しそうに告げた。
「明来。抱きしめてもいい?」
両腕を広げた彼に言われ、
明来は思わず後ずさりする。
「そ、それは無理。」
「いーじゃん。」
「く、来んなっ。」
やってくる舞乃空から、
明来は逃げるように早歩きし始める。
「買い物行くぞ!」
「ハグは挨拶だろー。」
「お前の場合は、何か違う!」
「あ。バレた?」
「・・・・・・」
「明来なら、何言われてもいいよー。」
「冗談やろ?」
「冗談だと思うか?」
「お前の冗談は、どこまでが冗談なん?」
「どこまでが冗談ってーのは、
何のことを言ってるのかなー?」
「分からん。お前の考えとること、
いっちょん分らん。」
「ははは。」
明来からすると、舞乃空の行動は
不可解だった。
冗談と言いながら、
本心が隠れている気がする。
「夕メシ何にすんのー?」
「ミートソースパスタ。」
「めっちゃ好きなやつー。」
「ソースは作れんけん、レトルト。」
「俺も手伝うからさ、ソースも作ろうぜー。」
「ストック用のカレーも作るけど。」
「だいじょーぶ。二人なら早く作れるって。」
「・・・・・・」
日曜日の広告で、ミートソースのレトルトが
安かった記憶がある。
それを買い溜めしようと思っていたが・・・・・・
「・・・・・・その方が味変しやすいし、
たくさん作って冷凍しとけばいいか。」
「よしっ、決まり!」
いつの間にか、二人は並んで歩いている。
掛け合いは、止まらない。
買い物に行く道のりは、明るい。
明来と舞乃空は、
エコバッグを取りに一旦家に帰った後、
近くのディスカウントストアへ歩いていった。
地元では、よく見掛ける
チェーンストアである。
この店独自のカードがあり、
現金をチャージして買い物をすると
ポイントとして還元される。
貯まれば現金として使うことが出来て、
消費者として有り難いシステムだ。
食料品に関しては、
ショッピングモールで買うよりも
こちらの方が断然安く大量に購入できる。
日曜日ということもあり、人の出入りが多い。
沢山揃えてあるショッピングカートも、
残り少なくなっていた。
ミートソースを作るのは、
家庭科の授業以来である。
必要な食材をスマホで調べ、明来は
カートを押しながら難なく揃えていく。
カレーの具材も忘れず
ショッピングバスケットに入れ、
お菓子コーナーでは
舞乃空と好みを討論しながら吟味していった。
重宝する卵、米、食パン、水。
明来が悩まず手にしていく様子を、
舞乃空は深く感心しながら眺めていた。
買い物を済ませた後、
家に戻った二人の両肩には
はち切れそうなエコバッグが下げられていた。
食料の直す所を、てきぱきと
舞乃空に教えながら明来は動いていく。
家全体の掃除は
カラオケへ行く前に済ませてあるので、
あとはストック用のカレーと
晩御飯になるミートソースを作るだけだった。
「改めて言うけどさー。
お前すげーよ、ほんと。感心する。」
迷いなく家事をこなしていく明来の姿を
午前中から見ていた舞乃空は、
素直に言葉を伝える。
「何回も言うけど、これが普通なんだよ。」
シンク横の作業台に、洗った後並べた
じゃがいも、人参、玉ねぎの中から
明来は玉ねぎを一つ取り、舞乃空に手渡す。
「家庭科の授業以外で、
野菜切ったことある?」
「ないなー。」
「じゃ、練習。」
アイランドキッチンの下にある引き出しから
三徳包丁を取り出し、立てかけてあった
木製まな板を敷きながら置いた。
「はーい。」
舞乃空は楽しそうに、玉ねぎと包丁を持つ。
「頭とヘタの部分を切って、皮をむく。」
「指切りそー。」
「添える指は丸める。教わったやん。」
「あー。そんなこと言ってた気がするー。」
明来のアドバイス通りに従い、
舞乃空は危なっかしい手付きながらも
包丁を使い、玉ねぎの皮をむく。
「くし切りにする。」
「なにそれ。」
「4等分に切った断面が、櫛みたいな感じ。」
少し首を傾げた後、4等分にザク、と切って
明来に見せる。
「これ?」
「それな。5mmくらいの間隔で、
繊維に沿って切る。」
玉ねぎを無事に切り終えた舞乃空は、
明来が用意したステンレスバットに
両手で入れ、達成感の笑みを浮かべる。
「楽しーかもー。」
「人参、じゃがいもは乱切りでいいよ。」
「乱切りって?」
「テキトー。」
「あーね。」
「でも、大きさは揃えろよ。
火の通りがバラバラになるけん。」
「りょーかい。」
「人参の皮はむく。
じゃがいもは、皮をむいた後芽を取る。
ピーラー使っていい。」
「はーい。」
「皮はこの中に入れといて。
もったいないけん、何かできないか調べたら
これでスープ作ると美味いらしい。
試してみよう。レシピ調べる。」
「いーねー。」
料理に向き合う二人の表情は、とても明るい。
BGMとして、明来のスマホから
プレイリスト内の曲が流れていた。
明来の家はオール電化住宅なので、
IHクッキングヒーターが設置されている。
対応の鍋を天板に置き加熱した後、
明来はサラダ油を注いで
豚肉の小間切れを入れた。
ジューッ、と焼ける音が広がり、
香ばしい匂いが漂っていく。
塩胡椒を振り、木製のヘラを使って
手際よく炒めながら
横で人参とじゃがいもを乱切りしている
舞乃空に声を掛ける。
「舞乃空。
残りの玉ねぎを、みじん切りにしといて。
ミートソースに使うけん。」
「みじん切り?」
「あー、動画見た方が早い。」
「・・・・・・これね。はーい。」
スマホで検索して動画を確認した彼は、
すぐに玉ねぎの皮をむき始める。
明来の一声で、素直に動く舞乃空。
息が合った調理は、想定していた時間よりも
早く終えることに繋がった。
無事に、鍋いっぱいのポークカレーと
ミートソースを作り終えた明来は、
使用した道具をシンクで洗っている
舞乃空に言葉を掛ける。
「明日も早く起きるから、
朝メシは用意して置いとくけん。」
「んー?朝メシは俺が作るよ。」
「・・・・・・起きれると?」
「当り前だろー?俺、家にいるだけだぜ?」
「・・・・・・作れるん?」
「・・・って言っても、パン焼くだけじゃん。
目玉焼きも、失敗したら
スクランブルにすればいーし。」
「・・・・・・助かるけど。」
意外そうな明来の様子に、舞乃空は
当然の事だと笑みを返す。
「そのくらいはしないと、だろ。
一緒に働くってなったら、分担しよー。
だから、今のうち教えといてくれ。」
仕事が決まって働く前提で話す
彼に対し、明来は苦笑しながら言い返す。
「働けるか、分からんのに?」
「働かせてもらえそうな気がする。」
「その異常なポジティブさって、何なん?」
「明来が話してくれるなら、
だいじょーぶだって・・・・・・
あーっ、いいにおい!腹減ったー!
早く食おー!」
リビングいっぱいに広がるスパイシーな香りと
煮込まれた甘いトマトの匂いに、
我慢できず声を上げる。
その気持ちは、明来も同じである。
「あともう少しでパスタが茹で上がるけん、
皿用意しといて。」
「なぁ、明来。どっちも食いたいけど。」
「俺も食べたい。」
「だよなー!」
「でも、カレーは少しだけな。
ストック用だから。」
「充分っす。」
「スプーンとフォークを、引き出しから取って
テーブルに持っていって。」
「はーい!」
晩餐の準備は、順調に整えられていく。
その時間の中
明来のプレイリスト曲は、BGMのように
流れ続けていた。
二人は所々口ずさみながら、
流れていく時間を楽しんでいた。
「うまそーっ!!」
ダイニングテーブルに並んだ軌跡を眺めて、
舞乃空は声を上げる。
大盛りのミートソースパスタ。
ミニサイズながらも
存在感のあるカレーライス。
野菜の皮を煮込んで出汁を取り、
コンソメで味を調えたオニオンスープ。
「あっ。粉チーズ買うの忘れた。」
ミートソースパスタを眺めて、
明来は残念そうに呟く。
「なくてもうまいと思うぜ。」
がっかりしている彼の様子を見て、彼は
宥めるように笑って言う。
「・・・・・・そうやろうけどさ・・・・・・」
「ははは。明日買ってきてやるって。
ストックのやつ、
まだめっちゃあるじゃん。」
「・・・・・・頼む。」
「まかせろっ!
んじゃー、いっただっきまーす!!」
手を合わせた直後、二人は食らいついた。
流れていたBGMは止められ、
二人は会話をしながら食事を進めていく。
「うんま!やばっ!」
「まぁまぁかな。」
「自分で作ったやつって思ったら、
ハンパなくうめぇ。」
「パスタ、ちょっと湯がき過ぎたかも。」
「そーか?うめーけど。」
「お前は何でもうまいんやろ。」
「あ。そーいうことを言う。」
「全部うまい言いやがって。」
「うまいもんはうまいの。」
「・・・・・・嫌いな食べ物ないと?」
「ない!」
「・・・・・・俺は、結構ある。」
「だからじゃね?育たないの。」
「・・・・・・」
「あ。悪ぃ。気にしてたんだっけ。」
「お前は育ち過ぎだ。」
「へへっ。褒められたー。」
「褒めてない。」
会話をしながらも、食卓の御馳走は
素晴らしい勢いで
二人の口の中に吸い込まれていく。
「カレーは間違いない。うまっ。」
「・・・・・・スープ、うまいな。」
「・・・・・・おー。いいねー。」
「今度作った時は、違う味にしてみよう。」
「からだによさそー。」
「・・・あ、そうだ。食い終わったら、
風呂先に入って。」
「公園行かねーの?」
「・・・・・・今夜はいい。」
「そっか。じゃあ先に入る。あ。一緒入る?」
「入らん!」
「ははは!即答ー。」
カレーのご飯粒も残さず、
パスタが無くなった後の皿に残った
ミートソースの細かい挽き肉も綺麗に食べ、
舞乃空は手を合わせた。
「うまかったー!ごちそーさまーっ!
・・・洗い物まかせていいの?」
「ああ。俺がしとく。」
「ありがとなー。」
食べ終わった食器を重ね、
グラスに注がれた水を飲み干して
彼は立ち上がる。
シンクに運び終わった後、
笑いながら言葉を投げた。
「後から入ってくるのもアリだぞー。」
「入らん!」
「ははは。」
楽しそうにリビングから去っていく舞乃空を、
明来は小さく息をついて見送った。
夜の9時を過ぎた頃。
風呂から上がった明来は、リビングへ直行して
冷蔵庫から2リットルのペットボトルを
手に取った。その中身は、水である。
水切りラックに置いていたグラスを
もう片方の手で取り、作業台に置くと
蓋を開けて水を注いでいく。
冷たい喉越しが、気持ちいい。
グラスの水を一気に飲み干し、
至福の息を漏らす。
微かに残るスパイシーな香りと、
トマトの甘い匂い。
それに少し頬を緩ませ、グラスを洗って
リビングを後にした。
廊下を歩いていくと、
物置部屋の前に差し掛かる。
明来は躊躇いつつも、軽くノックをした。
「あまり夜更かしするなよ。おやすみ。」
そう言い残し、階段を上ろうとしたら
物置部屋のドアが開いて
舞乃空が顔を出す。
「明来。ちょっと。」
手招きする彼に、じっと目を向けた後
明来は渋々歩いていく。
「何?」
「この部屋のものって、
明来の両親のものだよな?」
「・・・・・・ああ。」
「最初からさ、
ずっと気になってるものがあって・・・・・・
立て掛けてあるギターケースなんだけど。
開けてもいいか?」
頭の片隅に追いやられていた
単語を紡がれ、明来は目を見開いた。
「・・・・・・ギターケース?」
「アコギの。」
「・・・・・・」
記憶から、一生懸命引っ張り出す。
朧気しか浮かばない、フォルム。
はっきり思い出せず、物置部屋へ入っていく。
重ねられたショーケース。
舞乃空が寝れるように布団を敷いたスペース。
そして、ショーケースの裏に隠れて
ギターのハードケースが立て掛けられていた。
それを目にした途端、頭の中で
ぼんやりしていたフォルムが
はっきりと浮かび上がる。
「・・・・・・これ、父さんのギターだ。」
物心つく前から、耳に届いていた。
リビングのソファーに座り、
父がギターを抱えて弾いている傍に
自分は寄り添っていた。
弾き語る声と、優しく繊細な音色。
その時間は、深く刻まれている。
「中身、入ってるよな?」
背後から舞乃空に質問され、
回想に浸っていた明来は
間を置いて答える。
「・・・・・・多分。」
「多分?」
「俺が中学生になってからは、
弾くところ見てないんよ。」
―・・・・・・そうだ。
いつも響いていた音が、
いつの間にか無くなっていた。
明来はギターケースの元へ歩いていくと、
手に取って持ち上げる。
「・・・・・・中身、入っとる。」
ぼそ、と呟き、それを寝かせると
ロックに手を掛ける。
ぱちん、と音が鳴り、難なく開けられた。
真っ黒いボディ。
飴色に塗装されたネックはマホガニー材質で、
フィンガーボードはローズウッド。
6本の弦は、まだしっかりと張られている。
浮かび上がったフォルムと一致し、
懐かしさが溢れ出す。
艶やかな暗闇は、
追いやられていた記憶を蘇らせた。
「うおぉっ。」
舞乃空が、声を上げる。
「やべぇ。いいやつじゃん。」
そのリアクションに、振り返る。
「・・・・・・このギター、知っとるん?」
座り込んでいた明来と目線を合わせるように、
彼は膝を折って床に付ける。
「知っとるも何も、一流のギターだ。
黒いやつ、かっけぇーっ。
・・・・・・触ってもいい?」
目を輝かせている彼に、断る理由もなく
明来は頷いた。
舞乃空は、そっとネックに手を掛けて
持ち上げると、優しく抱え込む。
その姿と、父の姿が重なった。
「うわー。やべーっ。弾きたいなー。
弾いてもいい?」
「・・・・・・弾けると?」
「ああ。家にあるんだけどさ・・・・・・
アコギで作曲してたよ。もちろん
エレキも好き。時間があれば触ってた。」
彼の長い指が、弦を弾く。
その振動は、明来の心を包み込んだ。
―・・・・・・この音だ。
温かくて、優しい音。
浸るように、瞼を閉じる。
「・・・・・・んー、
やっぱちょっとキーが狂ってるなー・・・・・・
チューナーあんのかな・・・・・・
でも、流石だなー・・・・・・めっちゃいい音・・・・・・」
舞乃空は音色を確かめるように
弦を弾きながら呟くと、明来に目を向ける。
音色に集中しているのか、
瞼を上げようとしない。
舞乃空は弦を弾くことを止めずに、
真っ直ぐ見据える。
止めてしまえば、その瞼は開かれるだろう。
思い出に浸る時間も、覚めてしまう。
それを出来ずに
日常を過ごしていたであろう彼の、
ささやかなご褒美になっているのでは。
貴重な音色が作り出す空間は、
彼の心を癒してくれている。
そう感じて、それを見つめた。
ただ同時に、湧き上がるもの。
今なら、赦されるのかもしれない。
そう思い、舞乃空は明来の顔を覗き込む。
触れなくてもいい。
触れられなくてもいい。
そう言い切れる程、自分は純粋じゃない。
だけど彼が嫌だというのなら、
いくらでも抑えられる。
彼が穏やかに、幸せだと思えればいい。
自分へ向けられなくても。
彼が見つめる先に、
心から愛する人がいるのなら。
それは、この上ない歓びに変わる。
そう信じている。
弾かれる音色は、二人の間を埋めていくように
部屋の隅々まで響き渡る。
今、何も。
隔てるものはなかった。