“暗闇”の意図
自分自身に、何が起こっているのか。
これから、何が起こるのか。
明来は見据える。
彼が傍にいるから、もう怖くない。
12
『Migratory Bards』、青龍の間。
この部屋で行われる会合の議題は、
国の最高機密に関する事項であり、
存在する位置を知る者は、極端に限られる。
淡い青緑色の壁で覆われたその広間には
現在、僅か四人という少人数で
大きな円卓を囲み、顔を合わせていた。
「・・・・・・限界が・・・・・・
来ているという事なのか・・・・・・」
静まり返っていた部屋内に、一人が
ぽつりと言葉を落とす。
それは、独り言に近い。
その漏らした言葉に応え、一人が
穏やかな口調で紡ぐ。
「樹海は日々、生命を生んでは
死を迎え、森羅万象に基づき
広がろうとしている。
それに呼応し、綻びを見つけては
“暗闇”が侵入を試みていると・・・・・・
『我々』は把握している。」
不安げな声で、一人が呟く。
「国民が巻き込まれる事態は、
何が何でも避けなければ・・・・・・
捨て置けない問題ですな・・・・・・」
「今回のケースの発端は、
尽力を注いで調査中だ。今後も注視する。
・・・・・・例の計画だが、
屈強の者たちが揃いつつあるので、
時を見て発足させるつもりだ。
どこまで対応できるか、未知数だが。」
神妙な表情を浮かべて沈黙を保ち、
三人の会話に耳を傾ける一人。
『彼女』は、
発言する『彼』の隣で控えている。
「事後報告になるが、数日前
“暗闇”と関わりを持つ少年に出逢い、
現在コンタクトを試みている。」
「関わりを持つとは?」
「詳細はまだ、報告致しかねる。」
「それは、良い方向だと考えて
宜しいのですか?」
「今伝えられるのは、“暗闇”が残したと思われる
PCが発見され、それが
その少年の元にあるという事。」
それを聞いて、二人は驚愕している。
「今すぐ、回収すべきでは?」
「I.N.が関与する物につき、難しい。」
その単語を聞いて、今度は青ざめる。
「有力な手掛かりと言っていい代物だ。
慎重に進めている。
前件のように下手に手を出して
データ消滅という事になれば、
貴方方と『我々』の積み重ねた軌跡は、
無に帰してしまう。」
動揺を隠しきれない様子で、一人が尋ねる。
「じゃあ・・・・・・
どうすべきだとお考えで?」
「現段階では、時を重ね、様子を窺い、
対処する方法を取っている。
・・・・・・『彼女』の見解では、
約三ヶ月後に動きがあるという。」
促されたのを把握し、『彼女』は
会釈をした後に口を開いた。
「焦らず、時を待つ。
時が来たら、濁りなく見据えて、動く。
・・・・・・自然には、抗わずに。」
予言めいた言葉の意味を、
理解できるはずがない。
困惑していると、『彼』が
存在感のある声音を響かせた。
「護るべき生命の為に、『我々』は存在する。
貴方方もそれは、同様であると願う。
この地の皆を、少しでも
良き方向へ導けるように、これからも
礎を築いて頂きたい。驕りなきように。
深い悲しみを、これ以上
生み出さないように。」
響き渡る『彼』の声は、
二人の身体に染み込んだ。
そして、
『彼女』の真っ直ぐで淀みない眼は、
僅かながらも二人の心に明かりを灯す。
その議題は、着々と、前に進んでいる。
*
「初めまして!自分は、
阿久屋 舞乃空って申します!
いきなりですんませんっ、えっと・・・・・・
ゆりさんの、お祖母さんですよね?」
挽かれた、香ばしい珈琲の匂いが
ゲストルーム全体に漂っている。
尋ねられて、彼女は
顔に刻まれた皺を更に深く浮かべて
ゆっくり頷いた。
「ええ。よくお分かりになりましたねぇ。
私は、佐川 ときと申します。
ご丁寧に、どうもありがとう。」
そういえば。
ゆりが、明来の家に訪ねてきた時。
彼女からの言葉を受けた事があった。
しかし何だったか、思い出せない。
正直、難しくて
さっぱり分からなかった。
思い出せず悩んでいると、ときは
笑顔を絶やさずに告げる。
「“いずれも、現在を見据えよ。
兆しを導き、解放される。”」
「・・・ああ!それっす!
自分らの為に、ありがとうございます。
意味は・・・・・・その、正直・・・・・・」
「ほっほっ。素直で宜しい。
分からなくていいんだよ。
あなたは、自然にそうしているから。
今のままでいい。」
砕けた口調で紡がれた言葉が、肩の力を
緩やかに抜いてくれた。
「・・・・・・はい。」
「ゆりに、よろしく伝えておいておくれ。
私たちは、元気に過ごしているとねぇ。」
言葉のニュアンス的に、
日頃会っていないのだろうか。
「・・・・・・ゆりさん、『ここ』に来てますよ。
会われないんですか?」
その質問に対し、ときは穏やかな表情で
やんわりと返す。
「ようやく前を向いて歩き出し、
精一杯に歩いているところを
邪魔したくないんだよ。
・・・・・・気が向いたら、あの子から
会いに来てくれるからねぇ。
私たち年寄りは、いつでも
腕を広げて待っていればいい。
あなたも、今向き合っている事に
専念しなさい。
・・・・・・あぁ、ほら。
せっかくのコーヒーが冷めてしまうよ。」
不意に、カウンターへ目を向けて
指摘をされ、、舞乃空は同じ方向に
視線を持っていく。
カウンターテーブルに置かれた
純白のティーカップから、
柔らかい湯気が昇っている。
「・・・・・・あっ・・・・・・」
ときがいた場所に目を戻すと、
その姿は消えていた。
これ以上、後を追って呼び止めるのは、
先を行く彼に申し訳ない気がする。
舞乃空は、ゆっくりカウンター席に
座り直すと、ティーカップに注がれた
濃い褐色の液体を覗き込む。
水面には、自分の顔が映った。
“今のままでいい。”
その言葉の通り、現時点で
特別な事をしている感覚はない。
ただ、明来が大好きで。
自分にできる事があれば、喜んで
彼の力になりたいと。
そう思っているだけだ。
それでいいと、いう事か。
「・・・・・・何だ、簡単じゃん・・・・・・」
ティーカップのハンドルを持ち、一口啜る。
「・・・・・・うまっ。」
苦さは驚く程感じられず、フルーティ。
後味も、爽やかだ。
「・・・・・・へへっ。」
大人になり切れていない自分には、
このくらいが丁度いい。
自然と、笑みが零れる。
明来が部屋に戻ってきたら、
最高の笑顔で迎えよう。
自分の大好きな気持ちで、大きく包みたい。
CT検査を終えた後
『ジーン』が通した場所は、
天然木のテーブルを挟むように
座り心地の良さそうなソファーが対面する
10畳程の部屋だった。
白い壁に囲まれ、目当たる物は少ない。
エクルベージュのソファー以外に
置かれている物といえば、
折りたたみのデスクとチェアくらいだった。
それらが窓際に佇み、閉められたカーテンから
木漏れ日が差し込んでいる。
「そちらへどうぞ。」
促され、明来は会釈をして
ソファーに腰を下ろす。
向かい合う形で、『ジーン』も腰を沈めた。
「今回の検査は、先程言ったように
確証を得る為のもので、
あなたに納得してもらうのと、
今後の対策の参考にするのが目的よ。
結果の詳しい説明は、
また後日という事になるけれど・・・・・・
それでもいいかしら?」
「・・・・・・はい。」
「一先ずは、何も起こらないはずだから。
頭痛等の体調不良が起こったり、
酷くなる時は、速やかに
『小百合』に連絡してほしい。
薬を処方します。
・・・・・・今は、どうかしら?」
―・・・・・・
この、微妙に続く小さな頭痛は、
何かと関係しとるんかいな。
「・・・・・・実は、昨日の夜から
ずっと頭が痛くて・・・・・・
我慢できない程では、ないんですけど。」
「伝えてくれて有難う。小さな痛みでも、
重篤になる可能性はゼロじゃないの。
今度から遠慮なく伝えてほしい。
この後、すぐに処方するわね。」
真摯な眼差しを受けて、
明来は素直に頭を下げた。
『彼女』の雰囲気は、どこか母親に似ている。
「ここへ通したのは、
少しだけ話をさせてもらいたくてね。
・・・あなたも、私に
聞きたい事があると思う。
私の、“見えている”視界を
受け入れてもらえるのなら、その範囲の事を
出来る限り、簡素化して伝えるわ。」
―・・・・・・
この人も、舞乃空とか、ゆりさんみたいに
“見えている”ものがあるって事?
・・・・・・とりあえず今、特に
気になることは・・・・・・
「・・・・・・自分は、その・・・・・・
舞乃空が言っていた、
“暗闇”と、同じ身体だというのは・・・・・・
どういう事ですか?」
しどろもどろに、尋ねる。
それに対して彼女は、淀みなく告げた。
「舞乃空くんが言った事は正しいけれど、
少し異なる点がある。
同じ身体だというのは、
“暗闇”の遺伝子情報を元に
クローニングされているという事。
少し異なると言ったのは、
それを100%実現させていないところ。
そこに、“彼”の意図が含まれていると
私は考えている。
・・・・・・もっと簡単に言えば、親子よりも
限りなくその本人に近いけれど、完全に
自分そのものに作り上げなかった。
と、いう事ね。」
―・・・・・・クローンって事?
それは、人間以外で
実験されとるわけじゃなくて?
「・・・・・・
そんな事が、可能なんですか?」
「天才である、“彼”ならば・・・・・・
というところかしら。でもそれは、
禁忌に近い方法で得られたもの。
尋常ではないわね。
私たちにとって、脅威以外の
何ものでもない。弄んでいる。
勿論気づくと思うけど、
全く同じ身体、性格を存在させる事は、
時間と状況、環境を同等にしなければ
実現は難しい。倫理的にも、無理難題ね。」
それ以前に、
現実での話とは、思えない。
「・・・・・・理解し難いところは、“彼”がどうして
自分が過ごしてきた時間と同じ環境を、
作らなかったのか。
無限細胞分裂の実現を可能にした上で、
根本を捻じ曲げている。
・・・・・・目標とするものが、見えない。」
明来は、俯く。
―・・・・・・
“暗闇”は、自分自身と全く同じに
作ろうとは思っていないって事?
言われてみれば確かに、おかしい。
完全に“自分”として生まれ変わるのなら、
似た環境に持っていくのが
自然かもしれない。
「・・・・・・それでね、明来くん。
あなたに聞きたいことがあるのよ。」
その優しい声音に、自然と顔を上げる。
「舞乃空くんや他の同性同年の子と
自分は違うなと思うところは、
成長、だけかしら?」
質問の意図が、分からない。
どう言葉を返していいのか悩んでいると、
『彼女』は促すように尋ねる。
「例えば、力の入り方。筋肉の付き方。
・・・・・・思い当たるところは、ない?」
「・・・・・・えっ・・・・・・?」
それは、日頃思い悩んでいる事だ。
自分のコンプレックスを、『彼女』は的確に
把握しているように思える。
「あなたには、女性の要素があるのではと
考えていたの。検査を通して、
それは確信に変わったわ。」
言われた事に、頭がついていかない。
「両性具有、という言葉を
聞いたことはないかしら。」
「・・・・・・アンドロジニー・・・・・・?」
「心理学の言葉でもあるけれど、
身体の突然変異として、先天的に
男性と女性の要素を、
同時に持って生まれる事がある。
数千人に一人という割合だけど・・・・・・
多くのケースの中でも、
あなたは希少になるでしょうね。」
「・・・・・・」
情報が規格外すぎて、言葉が出てこない。
「仮説として、
両性具有化を、
“彼”が意図的に操作したとしたら。
・・・・・・そこに、
答えがあるのかもしれない。」
「・・・・・・そ、そんなことが・・・・・・」
できるのですか?
やっとの思いで出せた声は、掠れている。
「“彼”の考える事は独創的で、
凡人の私たちが辿り着ける領域ではない。
理解する事は、一生かけても
難しいかもしれないわね・・・・・・
でも、そこで諦めてしまったら
明来くんという、
自己同一性を
救えなくなる。“彼”の思うままで、
見過ごしていいわけがない。」
「・・・・・・せ、先生。」
息をする事も、忘れそうになる。
狼狽して、動揺している明来を、
『ジーン』は限りなく優しい眼差しで
見守っている。
言葉が紡げるようになるのを、
待ってくれているようだ。
半ば無理矢理に深呼吸して、
言葉を吐き出す。
「・・・・・・俺は、どちらでも、
あるということなんですか?」
「・・・・・・そうね。
男性としての要素は、目に見えやすいけど、
女性の要素は、隠れている事が多い。
検査しなければ気づかないのが殆どよ。」
「で、でも・・・・・・
本当に・・・・・・そんな・・・・・・」
―自分の身体が、そんな事に
なっとるなんて・・・・・・
考えたことも、思いついたことも、ない。
「今までは、自覚するにも満たないくらい
変化がなかったのかもしれないけど、
今後は著しく現れるはずよ。」
『彼女』の声音が穏やかで優しいのは、
怯えて震えている自分を
落ち着かせる為なのだろう。
「成長が滞っている要因も、
それと無関係とは言い切れない。
解明していければ幸いね。
・・・・・・
舞乃空くんに知らせる前に、まずは
あなたへ伝える必要があると考えたわ。
これからの為にね。」
考えが、まとまらない。
事実が、衝撃的すぎる。
でも、自分が思い悩んでいた事に
繋がったのは、間違いない。
ふと、頭をよぎる言葉があった。
“受け入れてしまえば、
その中で見出す幸せというのは、大きい。”
『彼女』は、
この事を言っていたのだろうか。
「・・・・・・この機会は、とても大切だと思う。
『私』は、これからも
あなたの支えになりたい。
勿論、舞乃空くんが
一番の支えになるでしょうけど、
拠り所としてもらえると嬉しいわ。
『小百合』を通してになるけれど、
いつでも『ここ』の扉は開いておくから。」
『ジーン』は腰を上げて、ゆっくり
明来の方へ歩み寄ると、そっと背中に
手を置いた。
「・・・・・・立てるかしら。」
『彼女』の手の温もりが、自分を
支えてくれているような気がした。
それに縋る他はなく、見上げる。
物心つく前から傍にいた母親と、
『彼女』の雰囲気が似ているのは、
母性と繋がっているのかもしれない。
自分が何者であるかという前に、
自分の存在を認めてくれて、
寄り添ってくれている。
だから優しく、力強い。
震える手を抑え込むように
拳を作り、明来はソファーから立ち上がる。
それを見届けた『ジーン』は、
表情を明るくして笑みを浮かべた。
「さぁ、戻りましょうか。彼の元へ。」
部屋へ戻る道のりは、早く感じた。
検査に向かう時は、長く思えたのに。
妙な緊張感を持って、明来は
部屋の出入り口ドアと向かい合う。
自分のすぐ後ろには、『ジーン』がいる。
幾分、心強い。
彼と、どんな顔を合わせればいいのか、
よく分からない。
彼は、自分に隠されていた事実が、
どこまで“見えていた”のだろうか。
それが、知りたい。
ドアチャイムを鳴らすと、直ぐに舞乃空が
ドアを開いて出迎えてくれた。
「おかえりー!」
彼の明るい声と、輝く笑顔。
それに何度も救われてきたが、今は
鼓動を高鳴らせる要因になりつつある。
「・・・・・・ただいま。」
消え入りそうな声で、返す。
「お待たせしてごめんなさいね。」
自分の背後から、
『ジーン』の優しい声音が掛けられる。
「いえいえ!いい具合に
まったりしてました!」
「少しだけ、お邪魔するわね。」
「はい!どーぞどーぞ。」
静かに部屋へ入っていく明来の後に続き、
『彼女』は軽やかに歩いていく。
「二人は、ソファーに座りましょうか。
私は、この椅子を借りるわね。」
そう告げた後テーブル椅子を引き、身体を
ソファー側へ向けて腰を下ろした。
促された通りに、明来と舞乃空は
ソファーへ歩いていくと、並んで座り込む。
「明来くんには伝えたけど、
検査結果は後日、詳細はその時にね。
大方、認知、という形になるけれど。
・・・・・・舞乃空くん、何か質問はある?」
『ジーン』が話を振ると、
彼は直ぐに口を開く。
「先生が言っていた、“暗闇”の身体と
少し異なるっていう件ですね。
それって、どういう事ですか?」
その質問に、明来の鼓動が
大きく波打った。
一呼吸を置いて、『彼女』は答える。
「100%クローニングされていないという事。
完全に、“彼”の遺伝子情報とは
一致しないという事よ。」
舞乃空の表情には、
大きな疑問符が浮かんでいる。
「・・・・・・完全一致、じゃないんですか?」
「ええ。・・・・・・あなたは、
どこまで“見えていた”のかしら?」
それを、自分も聞きたいところである。
「“暗闇”と同じ身体、という事実だけです。
俺の“見え方”は、その本人が知っている
事実だけなんで。
・・・明来は、両親が亡くなったその日に、
その事実を知ったんだと思います。
本人は、忘れているようですが。」
彼が連ねた言葉に、目を大きく見開く。
そんな話は、今までに聞いていない。
明来が凝視していると、
彼は神妙な顔で告げる。
「なぜお前が、その日の事を
思い出せないかは・・・分からないけどな。」
視線を合わせる二人の様子を
窺いながら、『ジーン』は言葉を漏らす。
「じゃあ、“彼”の意図までは
“見えなかった”という事ね。」
「・・・・・・意図・・・・・・?」
「単なる自分のコピーを作り上げるなら、
今の環境、状況下には置かない。
必要ない事項を、敢えて引き出しているのは
“彼”が狙って発生させたのだと窺える。
明来くんの成長が滞っている理由も、
範囲内の可能性が大きい。」
「・・・・・・えっ?
それは、どういう・・・・・・」
「後は、明来くんから話すべきね。」
黙って話を聞いていた明来は、
『彼女』からの視線を受け取る。
「・・・・・・話せる?」
上手く、話せる自信はないが、
自分から、伝えなければ。
「・・・・・・はい。」
「じゃあ、私はこれで。
・・・・・・“声変わり”が安定するのは、
まだ先ね。三ヶ月後、くらいかしら。
それまでに、出来る限りの対策を
備えておきましょう。
明来くん。後ほど、『ラッヘン』が
部屋に訪ねてくるから、
薬を受け取って頂戴ね。」
明来が頷くのを見届けて、『ジーン』は
椅子から立ち上がると、
座っている二人に微笑み掛ける。
「また会えるのは、約二週間後かしら。
追って、『小百合』に
連絡してもらうわね。
・・・それでは、また。」
「色々、ありがとうございます。」
立ち上がろうとすると、
『彼女』は手を軽く振って制した。
「ああ、そのままで。お見送りはいいわ。」
颯爽と歩いていく『彼女』の後ろ姿を、二人は
その場で見送った。
途端に生じる、沈黙。
舞乃空が、こちらへ振り返るが
目を合わせられず、
自分の膝に視線を落とす。
鼓動が早すぎて、打つ音が、
口から洩れていないか心配になった。
―・・・・・・
上手く、話せるとかいな、俺。
どうやって話そうか悶々と考えていると、
彼の方から、吐息と共に言葉が漏れた。
「とりあえずさー、もう帰れるって事だろ?
自分的に、明来ん家がもう
帰る所ってなってるんだよなー。
普通に、ゆっくりしたいよなー。」
予想外の発言に、明来は思わず
顔を上げて、舞乃空に目を向ける。
彼の柔らかい笑顔が、焼き付いた。
「でさ、連休始まったばかりだしー、
遊びプラン立てよ。勿論さー、この件は
真面目に考えないとだけど・・・・・・
心強い大人たちが
支えてくれてるわけだし。
・・・ほら、何だっけ?えっと・・・・・・
ああ、大船に乗ったつもりで?だっけ?
息抜きしてもいーんじゃねーかな。」
ああ。
彼は。
どこまでも、優しい。
「楽しまねーと、な?」
「・・・・・・うん。」
その優しさに、自然と笑顔になる。
無理に、話さなくていい。
彼は、そう言っているようだった。
自分の様子で、
そう悟ったのかもしれない。
本当に、自分の事を
大切に想ってくれている。
でも。
「・・・・・・舞乃空。
話したい事があるんよ。」
その優しさに、甘えてばかりはいられない。
「・・・・・・うん?」
彼は、優しく相槌を打つ。
「・・・・・・」
口を開きかけたが、一旦、口を噤む。
舞乃空は、急かさずに
笑顔を湛えたまま見守っている。
待っていくれている。
「・・・・・・検査の結果は、後日だって。」
「はははっ。それ、俺も聞いてたよー?」
「また、『ここ』へ来る事になるけど。」
「そん時はまた、一緒に行こー!
今度は、アコギ持ってこよーかな。」
「・・・・・・うん。」
少し、肩の力が抜けた。
話せそうだと思って、口を開こうとしたら
今度は彼の手が、こちらに伸びてきた。
それに対して、逃げようとは思わない。
そのまま、自分の側頭部に
触れるのを許した。
触れられることに
抵抗がないわけじゃないけど、
嫌じゃない。というか、嬉しいのか。
この感覚は、実を言うと今朝からだ。
だから、自然と笑みが零れた。
自分の中で、何かが変わったのは、確かだ。
明来が浮かべている優しい微笑に、
舞乃空は堪らなく嬉しい様子で、
とろけている。
「何ー?めっちゃいい笑顔じゃん。
どうしよ。ちょーかわいーんだけど。
話聞かずに、ハグしちゃおーかな。」
“ちょーかわいー”だの、
“ハグしちゃおー”だの言われて、慌てる。
「い、いやいや、ま、待て。
かわいーって何なん。まだ、話しとらんって。
話が、先っちゃけど。」
「やば。いーね。
それ、おっけーって事だな?
じゃー、話終わったら、
ハグしていいって事だよなー?」
「そ、それは、えっと・・・・・・」
長い指で、自分の髪を梳くように
撫でながら、彼は笑顔で見つめてくる。
「ちょっ、は、話できんやん!
この手をどけろっ!」
側頭部にある手をどけようと
両手を持っていくと、
その一方の片手に指を絡ませてきた。
「あれー?いきなり拒否るのー?
嫌じゃないよなー?
嬉しそうに笑ってたしー。
でもって、かわいーから。へへっ。
ウソは良くないよー?明来ちゃーん。」
顔を真っ赤にして動揺する
自分の反応を、舞乃空は楽しんでいる。
「で、話ってー?」
「・・・・・・」
彼の待ち構えるような微笑みに、
はっとする。
―もしかして、もう・・・・・・
自分の話したい事、バレとる、とか?
あり得る。
彼が言っていた。
“俺の見え方は、
その本人が知っている事実だけ”、だと。
自分が知っていたのに忘れている、
”暗闇”との繋がりも、彼は分かっていた。
言わずとも、見抜かれている、とか。
・・・・・・
「・・・・・・じ、実は・・・・・・」
「実はー?」
「・・・・・・俺、
アンドロジニーっていうやつらしい。」
「それそれ。その言葉が見えたんだけど、
どーゆー意味の単語ー?」
やっぱり、“見えていた”ようだ。
でも、言葉の意味までは、分かっていない。
―・・・・・・そっか。
事実は見抜けても、言葉の意味を
舞乃空自身が知らないと、
何の事か、分からないのか。
ここでは、スマホも使えない。
今すぐ、調べられないという事だ。
だから、その意味を聞きたがっているのか。
純粋に問い掛けてくる
彼の視線を受け、明来は躊躇いながらも
腹を括って、吐露する。
「先生の話だと、俺は・・・・・・
男でも、女でも、あるらしい。」
「・・・・・・え。」
「だから、お前とか、タメの奴らと
成長の具合が、違ってたらしくて・・・・・・」
「え。どゆこと?」
「どっちでもあるのは、“暗闇”が狙って
操作したんじゃないかって・・・・・・」
「ちょ、えっ?そんな意味?
どっちも?そんなの、あんの?」
ようやく言葉の意味を把握した舞乃空が、
かなり驚いた様子で尋ねてくる。
「数千人に一人の割合らしくて、
突然変異として起こるらしいけど、
俺は、意図的に・・・・・・」
「どっちもってやつが?」
「・・・・・・うん。」
「えっ。待って。それって、
・・・・・・最高じゃね?」
「えっ?」
彼の発言に、今度は自分が驚く。
「すげーよ、それ!
・・・あーっ、そーかっ。やっと分かった!
いつもさー、明来をハグした時
何か柔らかくて気持ちいーなーって
思ってたんだよ!それって、
そーゆーことだよな??」
―そ、それ以上、言うな。
声にならず、じとっとした目で睨む。
動悸が激しくて、苦しい。
「・・・・・・へーっ。」
「・・・・・・な、何なん、その目は。」
「話、終わったよなー?」
今すぐ、離れないと。
直感的に、そう思った。
立ち上がって逃げようとすると、それを
彼は引き止めるように腕を掴む。
「どこ行くのー?」
引き留める力に、いつもながら抗えない。
「ハグする約束だろー?」
「やっ、約束しとらん!」
「逃げなくていーじゃん。襲わないって。」
「そ、そんな目しとったやん!」
「そりゃあ、するだろ。ごめんね。
・・・聞けって。俺は、
どんな明来でも、大好きだよ。
それはずっと変わんねー。」
突然の愛言葉に、身体を固める。
「例えお前が女じゃなくても、
同じようにする。っていうか、してるけど。
言っただろ?俺が明来に対する気持ちに、
性別は関係ねーって。」
恐る恐る彼に目を向けると、
上目遣いで見据える視線と、ぶつかる。
この雰囲気に、見覚えがある。
心底から抉られて、鷲掴みされるような。
掴まれて、逃げられない。
「これからも、ずっと、そうだよ。」
「・・・・・・ま、舞乃空・・・・・・」
「ラッキーだと思えば良くね?
もっと、楽に考えろって。
“あいつ”に、どんな考えがあったとしてもさ、
人生を二倍楽しめると思えば。」
「・・・・・・」
呆気に取られる。
そんな考えなんて自分には到底、出来ない。
身体中の力が、抜けた。
そのまま、すとん、と
ソファーに腰を落とすと、彼の顔が近づく。
自分の腕を掴んでいた
彼の手が緩んで、項に覆いかぶさった。
そしてもう一方の手は、自分の頬に。
「は・・・ハグ、するんじゃ、ないと?」
鼓動の波が、大荒れしている。
「今は、チューが良くね?」
彼の声は、心地好い響きで小さく弾んでいる。
抗えないのは、もう自分が。
彼の事が大好きで、どうしようもない、
という事なのだろうか。
自然に、瞼を落としていく。
ピーンポーン。
ドアチャイムが鳴った。
この、タイミングで。
「・・・・・・あーあ。
いいカンジだったのにー。」
残念そうな彼の声が、自分の耳元で
ため息と共に漏れた。
そして、温もりが遠ざかる。
ドキドキ、ドキドキと、
激しく鳴り止まない鼓動に耐えながら
瞼を上げた明来は、整えようと
大きく深呼吸する。
―・・・・・・良かった。
鳴らなかったら・・・・・・多分・・・・・・
想像以上の事が、起きたかもしれない。
いや、これから、今後。
起こっても、おかしくはない。
舞乃空が出入り口のドアで迎えた人物は、
にこにこと鉄壁の笑みを浮かべた
『ラッヘン』だった。
「どうもですぅ。
明来くんのお薬をお持ちしましたぁ。」
「どうもー。
あ、先生が言ってたやつっすか?」
「はい。出来たら、本人を
呼んでもらえると助かりますぅ。
お薬の説明をさせていただきますぅ。」
「はーい。・・・明来ー。
『ラッヘン』さんが来てるよー。」
切り替えが早い彼には、感心する。
まだ自分は、鼓動が落ち着かなくて
整えるのに必死だ。
立ち上がって歩いていくと同時に、
項に滲む汗を拭うようにして
髪をかき上げる。
そういえば、頭痛の事を
すっかり忘れていた。
思い出したように、頭の奥で小さく疼く。
「先程は、どうもですぅ。
体調にお変わりはないようですねぇ。」
にへらと笑う
『ラッヘン』の平和な笑顔のお陰で、
緩やかに鼓動が落ち着いていった。
「・・・・・・はい。」
『彼』は、自分に見せるように
手の平サイズの白い紙袋から
錠剤を取り出した。
「これは、先生から処方されたお薬ですぅ。
二種類ありまして、こちらは
食前食後関係なく、
頭痛が生じた時に服用してください。
1日1錠です。
そしてこちらは、
不安を感じて眠れないとか、
落ち着かない時に服用されてください。
食後にお願い致します。これも、
1日1錠になります。
どちらも、二週間分です。
お薬の内容詳細を
一緒に入れていますので、
ご確認をお願い致します。」
「・・・・・・ありがとうございます。」
錠剤を紙袋に戻した後
手渡され、それをじっと見ていると
ある事に気づいて顔を上げる。
「・・・・・・あの、
今更なんですけど・・・・・・
検査と、薬の費用って・・・・・・」
『彼』の笑顔が、更に灯って輝いた。
「費用は頂かないようになっていますぅ。
全て、『管理人』さまが
受け持っていらっしゃいますから、
ご安心ください。
それでは、失礼致しますぅ。」
ぺこりと頭を下げると、
ぺたぺたと廊下を歩いて遠ざかっていく。
そんな『彼』を、明来と舞乃空は
姿が見えなくなるまで見送った。
「・・・・・・ここまでしてもらって、
いいとかいな?」
ぽつりと、疑問を漏らす。
「いーんじゃね?
後で請求するような人じゃねーよ。
それに・・・・・・蔵野さんたちにとって、
明来は希望だと思うし。」
「希望・・・・・・?」
「俺には、そう見えてる。」
淀まず言ってのける彼は、とても心強い。
出入り口のドアを閉めると、舞乃空は
何かを思い出した様子で尋ねてきた。
「あ、そーだ。
明来が検査に行ってる時
掃除屋さんが来てさ、貴重品を持って
部屋を出てくださいって言われたから
お前のリュック、開けさせてもらった。」
「そうなん?別に、いいけど・・・・・・」
「ちっさいモンキーレンチ
入ってたけど、何で持ってきてたのか
気になってさー。」
「・・・・・・あぁ。」
そのアイテムを舞乃空に見つけられて、
明来は小さく笑った。
「仕事始めたての頃に、
ホームセンターで見つけて。
御守りみたいなもんかな・・・・・・
ずっとリュックの中に入れとる。
勿論、小さくても使えるんよ、それ。」
「へーっ。かわいーよなー。
俺も御守り的なやつ買おーかなー。」
“かわいー”の言葉に、どきっとする。
自分の事ではないけど、
さっきの事が、尾を引いている。
気取られないように、必死に平静を保つ。
「・・・・・・仕事、慣れてからで
いいっちゃないと?」
「願掛けって、大事かなーって。
怪我しませんよーに、とか?」
確かに自分も、そんな風に
思っているかもしれない。
「・・・・・・じゃあ、明日行く?
今日は帰りが遅くなるけん。」
「いいねー!それもプランに入れよー!」
嬉しそうに笑う彼の存在は、
何よりの癒しに、なりつつある。
「へへっ。笑ってるー。」
無意識に、表情が緩んでいたらしい。
明来は頬を赤らめて、元に戻す。
「・・・・・・笑っちゃ、いかんと?」
「逆!いっぱい笑ってー!」
舞乃空は両腕を広げて、勢いよく
自分に向かってきた。
―しまった。油断した。
避けられず、抱き締められる。
「続き、しよー!」
鼓動が急上昇するのは、言うまでもない。
「い、いやいやいやっ、薬、飲まないと!
俺、頭痛いっちゃけど?!」
「えー?そうなの?大丈夫ー?」
近距離で覗き込まれて、更に動揺する。
「そ、そんなに痛くないけん、大丈夫!」
「はははっ。落ち着けー。」
優しく、頭を撫でられる。
落ち着ける、わけがない。
「ゆ、ゆりさん、戻ってくるっちゃない?」
「かもなー。」
「だから、普通に待っていよう。」
「よしよし。」
「だ、だから・・・・・・」
「離れたくありません。」
「・・・・・・」
「でも、頭痛は気になるなー。
薬飲んで、ゆっくりしとこーな。」
そっと寄り添う彼の声が、心地好い。
素直に、頷く。
ピーンポーン。
メインベッドルームに戻ろうとしたら、
自分たちを引き留めるように
ドアチャイムが鳴った。
「・・・明来。薬、飲みに行っていいよ。
俺が出るから。」
肩を抱くようして促されて
背中を押され、それの流れに乗って歩き出す。
急に大人のような包容力を出す彼に、
自分は弱いのかもしれない。
とくん、とくん、とリズム良く高鳴る。
朝も思ったが、
凛とした雰囲気とパンツスーツが、
とてもよく似合っている。
舞乃空は笑顔で、訪ねてきた
ゆりを迎えた。
「お疲れさまっす!」
「滞りなく、終わったみたいね。」
彼女の微笑みは、清々しい風を生む。
「もう、家に帰れるんっすかねー?」
「ええ。そのつもりよ。身支度した後、
ゲストルームに来てもらえる?」
「はーい!・・・あっ。」
その風を受けて、思い出した。
「ゆりさん。明来を待ってる間、
ゲストルームに
コーヒー飲みに行ったんですけど、
お祖母さんとお祖父さんに会いましたよ。
よろしく伝えておいてくれって。」
「・・・・・・そう。」
彼女の表情に、少し明るさが増す。
「お祖母さん、ゆりさんと
めっちゃ似てますね。」
「ふふふっ。逆よ。
・・・お母さんよりも似てるって、
よく言われるわね。」
薬を服用して
出入り口のドアに戻ってきた明来は、
ゆりに向かって会釈する。
「明来くん、お疲れさま。」
彼女の優しい微笑みは、
労いの言葉と比例して心を和ませた。
「ゆりさんこそ、お疲れさまです。
・・・あの、蔵野さんにお礼を言いたくて。
会っていきたいんですけど・・・・・・」
「彼は次の仕事に行って、もういないの。
あなたたちに会っていきたかった
みたいたけど・・・・・・時間の関係で。
私からお詫びするわね。」
「い、いえ、お詫びだなんて・・・・・・
色々と、良くして頂いて
本当にありがとうございました。
俺たちだけじゃ、
何も出来なかったと思います。」
深々と、頭を下げた。
舞乃空も自分と合わせるように、
お辞儀をする。
ゆりは首を横に振り、
長くて綺麗なまつ毛を瞬かせて告げた。
「まだ、これからよ。あなたを、
“暗闇”から解放させるまでは・・・・・・
これからも、寄り添わせて。」
真摯な意思表示を受けて、
心から安堵の息を漏らし、微笑んだ。
「・・・・・・ありがとうございます。」
「・・・ふふっ。
明来くんの笑顔、とても可愛い。」
「ですよねーっ!分かってくれますー?!」
「えっ、いや、ゆりさんまでっ。」
皆が笑顔を浮かべるこの空間は、
とても明るくて心地好かった。
その中に、自分も含まれている事が。
何よりも、嬉しかった。
身支度といっても、着替えた衣類を
リュックに収めるだけで、
あまり時間は掛からない。
特別に増えたのは、
“HARU”のサイン色紙くらいだろうか。
舞乃空は大事そうに、それを収めていた。
一泊だけだったが、
この部屋で過ごした時間は、とても濃かった。
現実を忘れるくらいに穏やかで、
彼と向き合い、自分とも向き合えた気がする。
部屋を出た後、明来と舞乃空は
ゲストルームで待っていたゆりと合流した。
彼女は、パンツスーツ姿のままだった。
キャリーバッグが側にあると、
これから出張に行くような印象だ。
服装が違うだけで、雰囲気が変わる。
三人はゲストルームを出て、
『Migratory Bards』の門に差し掛かった。
ぎいぃぃぃ・・・・・・と、古びた音を立てて
開いた先から、日差しが漏れる。
完全に開ききった後に、
存在感のある門番の少女が
ひょこっ、と顔を出した。
「何だ、もう帰るのか?慌ただしいな。」
「お騒がせして、申し訳ありません。」
門の外に出ると、
仁王立ちする『烏』に
ゆりが会釈をして、詫びの言葉を入れる。
今日の『彼女』が身に纏う
オーバーサイズのパーカーには、
足の裏に憑依して笑う赤い唇が描かれている。
「お前も帰るのか、『小百合』。
恵吾が寂しがるぞ。」
「・・・・・・そ、
それは大丈夫だと思います。」
「つれないな。恵吾が、あんなに
嬉しそうで幸せそうな姿は、初めて見たぞ。
お主たち、結ばれたのではないのか?」
「あ、え、その・・・・・・
まだ、正式には・・・・・・」
「もどかしい。気に食わぬ。
早く籍を入れろ。」
「・・・・・・その時が、来たら・・・・・・
はい・・・・・・」
年長者の野暮のような『彼女』の口ぶりは、
ゆりの平常心を乱している。
顔を赤らめて声を小さくする様は、
普段とのギャップがあるせいか、可愛い。
「またねー、門のお姫さまー。」
舞乃空が満面の笑顔で、手を振る。
それに対して、『烏』は
距離を取るように身を引いた。
どうやら『彼女』は、彼が苦手なようだ。
「ぶ、無礼者が。近寄るな。」
「今度何か、手土産持ってきますよー。
何がいいっすか?」
“手土産”と聞いて、ぴくっと耳を動かす。
警戒するように、じっと
舞乃空を見据えた後、ぼそっと漏らした。
「・・・・・・ぱんけーき。」
「パンケーキっすね!はははっ。かわいー。
りょーかいっす!」
「必ず持参しろ。
お主の場合は、それが通行手形だ。」
「つうこうてがたー??なにそれー??」
彼の“かわいー”は、誰彼に対しても
頻繁に出るものなのだろうか。
何か、モヤモヤする。
明来は、『烏』からの視線を感じて
目を向けた。
綺麗で大きな黒い双眸が、自然と
姿勢を正すように促す。
「・・・・・・ふむ。良い顔色になったな。
今度はいつ、『ここ』へ訪れるのだ?」
「・・・・・・えっと、多分・・・・・・
二週間後くらいだと思います。」
「承知した。待っているぞ。」
何気ない言葉だったが、
とても温かく感じた。
肩の力が抜け、緊張気味だった表情も緩む。
「・・・・・・はい。
ありがとうございます。」
感謝の言葉を返して頭を下げると、『彼女』は
袖に隠れた右手を高く上げる。
ぎいぃぃぃ・・・・・と、門が鳴きながら
ゆっくりと閉まっていった。
「今、『ここ』の周りは物騒だ。
帰りの道中、心していけ。良いな?」
「はい。」
綺麗に背筋を伸ばして返事をする
ゆりは、パンツスーツ姿ということもあって
とても勇ましく見えた。
それこそ白いキャリーバッグに、
武器が収められていると錯覚し兼ねない。
鮮やかな青空が、広がっている。
雨じゃなくて良かった。
生い茂る深緑が、目に優しい。
地下通路へ向かって、そよ風に揺れる
草原を歩いていると、舞乃空が
ぽつりと疑問を漏らす。
「物騒って・・・・・・
ここに、一般人入れないんっすよね?」
「・・・・・・ええ。」
それに答えるゆりの表情には、隙がない。
「現れなければいいけど・・・・・・
こればかりは、私でも予測不可能なの。」
「・・・・・・現れる?」
まるで、脈略もない所から
湧いて出てくるような言い方だ。
モンスターでも、出てくるのだろうか。
「経路不明で“世界”に足を踏み入れ、
“暗闇”に操られた人間が・・・・・・
『ここ』へ侵入してくるようになったの。」
「えっ。それって・・・・・・
心霊スポット的なやつっすか?」
冗談交じりに舞乃空が尋ねると、
ゆりは答えず
前方を見据えて歩いている。
それが、発言の信憑性を
物語っているような感覚に襲われた。
「・・・・・・ちょ、ゆりさん?
違うって言ってくださいよー。」
待てずに彼は、声を掛ける。
「・・・・・・そうね。
あなたたちには、そういう言葉が
ピンとくるのかもしれない。」
「・・・・・・ガチっすか?」
まさか、本当に肯定されるとは
思いもしなかった。
驚くしかない明来と舞乃空は、
堪らず目を合わせる。
正直、信じられない類だった。
「・・・・・・世の中には、
言葉で表せられないものの方が多いのよ。
全部、答えがあるわけじゃないの。
それを知っておいて。」
ゆりの言葉には、妙な重みがあった。
淀まない彼女からの発言は、確かな
現実味を帯びている。
「・・・・・・ん?」
舞乃空が、何かに気づく。
彼が見据えている方向に目を向けると、
人影らしきものが揺らめいた。
ゆりも、それを目に捉えている。
「二人とも、止まって。
・・・私の後ろに、下がっていて。」
その一声が空気に乗って、
ピリッと肌を刺した。
すぐさま明来と舞乃空は足を止め、
ゆりの背後へ引き下がる。
「舞乃空くん。これ、預かっていてくれる?」
「は、はいっ。」
落ち着き払う彼女の声音は、
有無を言わせず従わせる力を持っていた。
白いキャリーバッグのハンドルを
舞乃空に手渡すと、前方を鋭く見据える。
ふらふらと揺らめいて歩いてくる人影は、
かなり大きい体格の男だった。
弛んだお腹。そして、
首の付け根が分からない程の
脂肪の塊で覆われている。
近づくにつれて、その目が虚ろで
感情が読み取れないくらいに
生気がないのに気づいた。
「・・・・・・な、何か、ヤバくね?」
彼に、甚く同意する。
これは、非常事態なのでは。
「ゆりさん、
大丈夫なんかいな・・・・・・?」
「だよな・・・・・・」
開かずの部屋を隔てるドアの鍵を
開錠した話は、舞乃空から聞いている。
実のところ明来は、
彼女が戦える程強いとは、信じられなかった。
しかし、それを裏付けるように
ゆりの背中は凛々しくて、
怖気づく様子は微塵も感じられない。
「・・・・・・立ち止まりなさい。」
彼女の警告に、
男が足を止める気配はない。
声が、届いていないのかもしれない。
そう考えざるを得ない程、
反応がない上に様子が変だ。
「・・・・・・『烏』さま。現れました。
手配を、お願い致します。」
発せられた独り言は、
『彼女』へ向けられている。
ここから門まで、結構歩いてきている。
その声量では、届くはずがないのに。
明来は疑問に思いながら、固唾を呑む。
5mくらいの距離まで近づいた瞬間、
男の目が、ぎょろっと
ゆりの姿を捉えた。
すると、両腕を前へ突き出して
彼女に飛び掛かっていく。
その勢いは、凄まじい。
男の豹変ぶりに、二人は危険を感知して
身体を強張らせた。
「ゆりさん!!」
思わず、叫ぶ。
男の両手は、ゆりの頭上を掴んだ。
彼女は既に膝を柔らかく折って、
地面に近い所まで体勢を低く落としている。
ふわりと両腕を広げている様は、
鳥が羽ばたき、
低空を飛んでいるようだった。
「・・・はっ!!!」
掛け声とともに、彼女は両手を
男の鳩尾に突き当てる。
巨漢が、後方へ吹き飛ばされて
宙を舞った。
どすん、と空を仰ぐように倒れた男は、
意識を失ったのか
ぴくりとも動かなくなった。
スーツのジャケットを両手で正すと、
ゆりは短く息をつく。
一部始終を、瞬きもせずに見届けた
明来と舞乃空は、ようやく
動く自由を得たかのように
開いた口を塞いで、息を飲んだ。
同時に、感動が押し寄せる。
パンツスーツ姿の綺麗な女性が、
大の男を一撃で倒してしまうという、快挙。
そんな光景は、
アクション映画かドラマでしか
目にした事がない。
それが目の前で、現実に起こったのだ。
「・・・・・・エグっ。」
舞乃空が吐いた言葉は、
称賛に値するものだ。
「・・・・・・うん。エグい。」
自分も、同等である。
ゆりは二人の方へ振り向くと、
息も乱さずに言葉を紡いだ。
「彼はもう、大丈夫。荒療治だけど
今のところ、この方法が最善・・・かしら。
意識を手放せば、正気に戻るわ。
・・・・・・物騒というのは、こんな感じで
“暗闇”に操られた人が現れる事よ。」
しかし、彼女がやってのけた事は、
自分たちや普通の人間には難しい。
「・・・・・・で、でも、何で・・・・・・
こんな事に?」
出来事に疑問だらけで、舞乃空は
どう質問していいかも分からない様子だ。
明来も、同じである。
どこから現れたのかも、全く分からない。
しかも、自分が操られていた時と
少し違う気がする。
仰向けに転がる男に視線を落として、
ゆりは呟く。
「・・・・・・挑発としか、思えないわね。」
「・・・・・・ゆりさんが言う、
その“世界”というのは・・・一体・・・・・・」
「あなたたちには、その事を
話すべきかもしれない。・・・すぐに、
彼を運んでくれる人たちが来るから、
このまま私たちは
地下通路へ向かいましょう。
・・・歩きながら、話を聞いてくれる?」
自分たちには、首を縦に振るしか
道は残されていなかった。
心霊という類は、目に見えない分
ある事ない事脚色されて、
それを聞く者が楽しんだり怖がったり、
信じたり疑ったりするものだと思っていた。
ゆりの話を全て理解するには、
自分に知識も価値観も足りない気がする。
でも、“暗闇”に深く関係する事なのだと、
それだけは再確認できた。
湿った空気に肌が、ひんやりとする。
「明来くんは昨晩、“『彼』”に会ったと思う。
“意念を持つ幽霊”に。」
ガラガラとコツコツという音が、通路に
こだましている。
自分たちの靴の音も、それに続いて
反響していた。
「・・・・・・もしかして、あの時
俺を起こしてくれた“声”が・・・・・・」
「“『その人』”は、『私たち』と同じ
『Migratory Bards』の一員だった。
“暗闇”の手に掛かり、
命を落としてしまったけど・・・・・・
それが、“彼女”との出逢いだったの。」
「・・・・・・“彼女”・・・・・・?」
「えっ、いや、まさか・・・・・・」
舞乃空は、何かが“見えた”のだろうか。
ゆりを凝視している。
それに応えて、彼女は頷いた。
「『私たち』の間では、“I.N.”と呼ばれる
秘密事項に関係している。
“暗闇”が研究している“素材”・・・・・・
それが、全ての始まりなの。」
「“彼女”の名前、出さない方がいいっすか?」
「そうしてもらえると、助かるわね。」
自分には分からなくて気になったが、
この場は、スルーした方が良さそうだ。
「なるほどな・・・・・・
あの時の銃声って・・・・・
その“『人』”が、明来と“暗闇”を
切り離してくれたんっすね。」
「残念ながら、一時的だけど・・・・・・
それが、きっかけになってくれたと思う。
・・・その辺は、私の兄が詳しいの。
今度、聞いておくわね。」
一息ついた後再び、ゆりは
静かに語り出す。
「明来くんの家にある
ノートパソコンの、集積回路。
多分、その“素材”が使われている。
“声”に反応して起動するのが主で、
恐らく明来くんの“声”を感知すると思う。」
「疑問なんっすけど・・・・・・
“声変わり”した声って、
予測できないっすよね?収録も出来ないし。
起動、出来るんですかね?」
「・・・・・・一般的なPCだと、
その疑問が出てくるわよね。
でも、常識を外す必要がある。
その“素材”は、生きていると考えるべきね。」
「生きている・・・・・・?」
「“声”だけで、“蓮尾 明来”そのものを
認識するのよ。」
「・・・・・・??」
舞乃空と顔を見合わせるタイミングは、
打ち合わせしたかのように一緒だった。
「今のところ話せるのは、ここまで。
・・・その“素材”の研究は、日々
更新しているようなものなの。
“暗闇”の足元にも及ばない。」
ゆりは、自分たちに目を向ける。
その表情には、母性を思わせる
優しさが浮かんでいた。
「及ばなくても、あなたたちは
深い想いで結ばれている。
それは、何ものも敵わない。」
「あはっ。バレちゃってますねー。
俺たちが、一線超えた関係だってことー。」
「はっ?お、お前またそんな・・・・・・
ゆ、ゆりさん。勘違いしないでください。
一線超えた事なんて、してませんから。」
「チューしてるくせにー。」
「ちょ、い、言うなっ!」
「明来ちゃんは、どこからが
一線超えたと思うんですかねー?」
「・・・・・・」
何も、言い返せない。
顔を赤くして押し黙っていると、
ゆりが窘めるように言い返してくれた。
「舞乃空くん。大事にしてね。
そんな発言を続けていると、明来くんから
嫌われちゃうわよ。」
「・・・えっ。」
彼女から言われると、
重く受け止めてしまう。
舞乃空は慌てて、明来の顔を覗き込んだ。
「お前の反応が、かわいーからさー。
つい意地悪したくなっちゃうんだよー。
ごめん。嫌だった?」
眉を下げて申し訳なさそうな
彼の顔を見上げて、明来は
ぼそっと漏らす。
「・・・・・・ちょっとだけ。」
「これからは、気をつける!」
「・・・・・・いいよ、もう。」
必死すぎる彼に、頬を緩ませる。
それを見届けた舞乃空は、
ほっとした表情に変わって微笑んだ。
そんな二人の様子を温かく見守り、
ゆりは鈴の音のような声を響かせた。
「行きは蔵野さんが送ってくれたけど、
帰りは『ことり』さんという人が
駅まで送ってくれるから。」
「かわいー名前っすね!」
出た。
明来は心の中で、彼の“かわいー”発言を
密かにカウントする。
今さっきのも加えて考えると、
そのハードルは低いように思える。
だが、確かな事は。
自分に向けられた“かわいー”は
特別だと、信じていいのだという事。
しくしくと、胸が痛む。
これは、多分。
彼に、もっと言われたいと、
思っているからだ。
今まで言われる事に抵抗があったけど、
自分の中で、少しずつ
受け入れているのかもしれない。
この、自分の姿を。
地下通路から抜け出すのは、
あと僅かである。
舞乃空の要望で、昼食は
東京駅で駅弁を買って、帰りの新幹線の中で
食べるという事になった。
巡る景色を眺めながら
ゆったりと車内で食事するなんて、
今までに経験がないし、機会もなかった。
若者らしくないと言われそうだが、自分は
静かな空間を好む習性があるらしい。
彼の提案は、いつも
自分の好みに合っている。
合わせて、くれているのだろうか。
ゆりも自分と同じ傾向らしく、
静かに書籍を読み進め、小休憩で
景色を眺めて満喫していた。
そして、スマホ復活。
電源を入れて画面を見るのは、一日ぶりだ。
溜まった通知を目にするなり、
現実に戻ってきた感が、押し寄せる。
北海道に旅行中の葉音から、
たくさんメールが届いていた。
撮りまくったであろう景色の画像やら、
ソフトクリームを始めとする
食べ物の画像など。
北海道が、一杯詰め込まれていた。
そんな中、全く既読も付かないという事態に
彼女は心配になったのだろう。
届いていた最後のメールには、
“連絡くださーいぃぃ・゜・。(ノД`)・゜・。”
と、残されていた。
それには、悪いが吹き出して笑う。
彼女は、いつも通りだ。
今まで距離が近すぎて分からなかったが、
本当に、かけがえのない存在だ。
彼女が泣けば心が痛いし、
笑えば、とても嬉しい。
恋愛という距離感では、保てない。
それも、少し分かった。
今まで通りの関係が、一番いい。
幼なじみとして寄り添い、
彼女の夢を応援する方が。
そして、落ち着いた頃に。
自分に隠された事実を、話そうと思う。
親友として。
快速する新幹線の揺らぎに、
うつらうつらと舟をこぐ。
隣の席に座る舞乃空は、既に目を閉じていた。
耳元にあるデバイスは、
どんな音楽を届けているのだろう。
とても穏やかな表情に、
少しだけ見入ってしまった。
自分も聴こうと思い、リュックのポケットから
デバイスのケースを取り出す。
周りの席には、観光で疲れて眠っている
家族連れとか、ひそひそと楽しそうに
話しているカップルなどで埋まり、
満席状態だった。
自分たちのいる席は
車両の先頭で、目の前は車内の壁だ。
通路を挟んで同じ並びの席にいる
ゆりは、相変わらず
書籍に視線を落としている。
デバイスを装着して、
プレイリストを再生した。
一気に周りと遮断され、
自分の世界に浸ることが出来た。
舞乃空は、膝の上に手を置いている。
その長い指を、じっと見つめた。
自分が理想とする手だ。
憧れはあるけど、今はこの手が
傍にあるという事で、満足しつつある。
目を離そうとしたら、
その彼の手が、ふわりと動いた。
自分の手に、絡みつく。
驚いて見上げると、彼は
目を閉じたまま微笑んでいた。
手を、繋ぎたい。
そう思っていた事が、伝わったのだろうか。
彼も、繋ぎたいと思ったのだろうか。
そのタイミングが、同じだったのか。
どんな理由でも、嬉しかった。
博多駅へ着く頃には、
車窓の景色は夜を迎えて
電灯が、街並みを淡く照らしていた。
構内は、行き交う人々で
ごった返している。
三人は、銘菓の広告が掲示されている柱まで
避難するように身を寄せた。
小さく息をついて、ゆりは微笑む。
「二人とも、お疲れさまでした。
気をつけて帰ってね。」
「楽しかったです!・・・って言うの、
おかしいかもしれないっすけど。
色々ありがとうございました!」
「ゆりさんこそ、お疲れさまです。
本当に、ありがとうございました。」
二人揃って頭を下げると、微笑みが
さらに優しいものになりつつ、
彼女は頭を垂れる。
「こちらこそ、ありがとう。
お陰で、良い兆しが見えつつある。」
告げられた言葉は、とても心強い。
「今回の事以外でも、
気が向いたら連絡してね。
天神にお店を構えているの。
祖母から引き継いで、易をね。
不定期の、予約制なんだけど。」
初耳で驚いていると、舞乃空は
知っていたのか笑顔で頷く。
「知ってました!
こっそり調べちゃいましたよー。
恐い程当たるのに、鑑定料が安いって
口コミ凄かったっすよ。評価も。」
「土日開店にしてたんだけど・・・・・・
広がり過ぎちゃって、殺到して
追いつかなくなって・・・・・・
有難い事なんだけど、
片手間には出来なくて。」
「いいと思います!マイペースで!」
「ふふっ。ありがとう。
・・・それでは、またね。」
手を振り、雑踏の中を
颯爽と歩いていく彼女の後姿を、
明来と舞乃空は見送った。
「現時点の予約は、
ほぼ取れないらしいぞー。」
「・・・・・・凄いね。」
「“見る力”が、汚れていないというか。
シンプルに本物だからなー。
・・・それで稼がないところが、
ゆりさんらしいというか。」
「・・・・・・うん。」
彼女のような大人に出逢うのは、
初めてだった。
真っ直ぐに物事を見据え、淀まない。
それが、容姿にも溢れて美しい。
あっという間にゆりの姿が
見えなくなると、舞乃空が
満面の笑みで声を掛けてきた。
「家に帰ろー!」
それに応えて、明来も笑みを浮かべる。
「うん。・・・晩メシ、どうする?」
気が緩んだら、バターの香りが
鼻腔をくすぐった。
駅構内で有名なクロワッサン屋の、
生地を焼いている匂いだ。
「俺が作るー!」
「えっ。作ると?疲れてないと?」
「全然!だって俺、
寝転がってただけだぜー?はははっ。
有り余ってんだって。
帰りに、スーパー寄って帰ろう!
作れそうなやつ、もうサーチ済みー。」
いつの間に、調べたのか。
「・・・・・・そうなん?じゃあ、まかせる。」
「よっしゃあ!」
「あ。クロワッサンは、買って帰ろう。」
「それな。さっきから良い匂いすぎて、
さらに腹減っちまってー。」
そうと決まれば、という感じで
店に連なる行列の最後尾に歩いていく。
家に帰るのが、こんなに楽しいのは
いつぶりだろうか。
電車を降りて、見慣れた地元の住宅街を
目にした途端に、旅疲れというか
脱力感が押し寄せた。
帰路は夜道でトンネルも暗く、
若干怖かったが、彼と話しながらだと
気にならなかった。
直ぐに近所のスーパーへ辿り着く。
舞乃空が率先して食材を購入し、
エコバッグは持参していなかったので
互いのリュックに詰め込んで、
自宅に帰った。
「ただいまーっ!!」
誰もいないのに叫ぶ舞乃空に、
明来は苦笑する。
「誰もおらんって。」
「いるかもしんないじゃん?」
「・・・・・・怖いこと言うな。」
ゆりの話を思い出して、少し怯む。
“幽霊の世界”があると聞いて、
まだ信じられないが、身構えてしまう。
「大丈夫だってー。流石の幽霊さんも、
俺みたいなのがいたら逃げてくって。」
「・・・・・・」
「あ。納得したな?」
「何も、言っとらんけど。」
「明来。リュック貸してー。
戦利品は俺に預けちゃって、
先に風呂入っていーよ。
俺は、晩メシの用意するー。」
「・・・・・・いいと?」
「まかせろー!」
その元気は、どこから来るのだろう。
にこにこ顔の彼へ、素直に
ショルダーリュックを手渡す。
「・・・・・・じゃ、よろしく。」
「はーい!」
靴を脱いで玄関から上がると、
足を滑らせるようにして廊下を歩き、
舞乃空はリビングへ消えていった。
―・・・・・・
何、作ってくれるんやろ。
小さく笑って、明来は玄関を上がる。
―教えてくれんかったっちゃんね。
食材を見たら、
何となく分かりそうやけど・・・・・・
楽しみにしとこう。
彼は、サプライズが大好きらしい。
分かってきた事の一つだ。
洗面所で手を洗った後
二階へ上がっていき、廊下の電気を点ける。
いつも真っ先に目に入るのは、
突き当りの、元開かずの部屋。
鍵が壊れたままなので、いつでも入れる。
ゆりが修理の事を気に掛けてくれたが、
そのままにしておきたかった。
また鍵を掛けてしまうと、踏み入れるのに
抵抗が生まれそうで。
逃げずに、向き合いたいと思う。
自分の部屋に入ると、ほっと息をつく。
ただいま、と小さく呟いた。
ここは、自分の城だ。
今回泊まった部屋よりも
ずっと狭いけど、唯一安心できる場所。
明来は、ルームハンガーに掛かっている
松宮冷機の制服を眺める。
所々、洗濯しても落ちない汚れがある。
でもそれが、自分としては
勲章のように思えた。
この分だけ、努力している。
自分の足で、立っている。
―早く、一人前になりたいな・・・・・・
小さな願い。
だが、生きる為の力だ。
支えてくれる松宮冷機の人たちと一緒に、
歩いていきたい。
こう思えるようになったのは、
傍にいる舞乃空のお陰かもしれない。
一人だったら、毎日ずっと
生活の為だけに働いて、
淡々と過ごしていたかもしれない。
―・・・・・・明日、どこに行こうかな。
休みは始まったばかり。
葉音の、満喫した北海道旅行に
負けてはいられない。
良い連休にしたい。
どこに行っても人が多いかもしれないけど、
それも、彼がいれば楽しめそうだ。
考えていると、自然と笑えた。
楽しい気持ちが、湧き上がる。
忘れていた、時間だ。
塗り替えよう。
沈んで、光が届かない現実を。
自分の色に。
舞乃空が作ってくれた晩御飯は、
ピーマンの肉詰めと、
根野菜と葉野菜が共演した味噌汁だった。
ピーマンの肉詰めは定番の料理だが、
味噌汁の方は、ネットで紹介されていたものを
アレンジして完成させている。
これが、絶品だった。
大鍋に、大量に作っていたのだが
二人で殆どの量を平らげてしまった。
米を三合炊いていたけど、
それも空になってしまう。
自分の食べっぷりに、彼は
とても嬉しそうだった。
ごちそうさまして、美味しかったと告げると
彼は更に喜んでいた。
料理が大成功して大満足の舞乃空は、
率先して後片付けまでしてくれた。
自分がやろうと思っていたのに、
それを止められてしまった。
腹が一杯で心地好くて、ソファーで
背中を預けて休んでいると、
コーヒーの香りが漂ってきた。
食後のコーヒーまで
用意してくれるなんて、抜け目がない。
博多駅で買ったクロワッサンは、我慢できずに
電車を待つ間に食べてしまった。
コーヒーと一緒に食べたら、
また一段と美味かったに違いない。
ちょっとしまったな、と思う。
そういえば。
鈍く続いていた頭痛が、
いつの間にか治っている。
薬が効いたのだろう。感謝しかない。
コーヒーが注がれたマグカップが2つ、
ソファーテーブルの上に置かれる。
「明日、映画でも観に行こっか。」
隣のソファーが、沈む。
自分の隣に座った舞乃空へ、目を向けた。
「今、どんな映画やっとるかな。」
「面白そうなのは、これじゃね?」
彼はスマホを持ち出して、
長い指で画面をスクロールする。
止まった所を見て、明来は頷いた。
「・・・・・・うん。
これ、全シリーズ観とる。」
「面白いよなーっ!」
「いいよ。観に行こう。」
「決まりー!」
互いに、笑い合う。
何気に距離が近い事に気づいて、
少し胸が疼いた。
気取られないように身体を起こして、
マグカップのハンドルを手に取る。
「コーヒー、ありがとう。」
お礼を言って、口を付けた。
思ったよりも熱々で、思わず
あつっ、と声を漏らしてしまう。
「はははっ。気を付けろー。」
悠々と、舞乃空は
マグカップのハンドルを持って、
コーヒーを啜る。
「んーっ、美味い!」
何となく、そわそわして
明来は、マグカップを両手に持って
立ち上がった。
「・・・・・・これ、
部屋に持っていって飲むけん。」
「・・・・・・そっか。
じゃあ俺も、そうしようかなー。」
背を伸ばした後、彼も
マグカップを持ったまま腰を上げる。
「また明日ー。おやすみー。」
そう笑顔で言い残して、彼は
リビングを出ようと歩いていく。
明来は少し、違和感を覚えた。
そういえば、帰ってきてから
ハグの要求がない。
何もないのが普通だろうけど、
彼の場合は違う。
「・・・・・・舞乃空。」
だから、呼び止めてしまう。
「・・・・・・んー?」
彼は立ち止まると、
こちらに振り返って、首を傾げた。
呼び止めたものの、
言うのはどうかと、思い直す。
こんな日も、あっていいのかな。
「・・・・・・おやすみ。」
ぼそ、と告げると、舞乃空は
爽やかな笑顔で応えた。
「ああ、おやすみ!」
そして、リビングを出ていく。
見送る事しか出来なかった明来は、
マグカップに視線を落とした。
透明度がない褐色の液体に浮かぶ、
自分の顔。
その顔は何だと、コーヒーを啜る。
ほろ苦さと、酸味を強く感じた。
しくしくと、痛む。
このまま、部屋に戻って、いいのか。
とんとんとん、と二階へ上がる
彼の足音。
それを追うように、リビングを出た。
「舞乃空っ。」
階段の途中まで上がっていた彼は
立ち止まって、目を見開いている。
「どしたー?」
鼓動が急に、煩く鳴る。
今まで、彼の要求があったから
応じてきた、ハグ。
気を遣って、言った事もあった。
でも。
今は、自分が欲しがっている。
「・・・・・・ハグ、せんでいいと?」
だから、強がってしまう。
「帰ってきて、まだ一回も、しとらんけど。」
「・・・・・・」
舞乃空は、じっと明来を見つめている。
なぜ、いつものように来ないのか。
それが、より一層
動悸を激しくさせた。
苦しくて、堪らくなったと同時に、
ようやく言葉が落とされる。
「・・・・・・俺、多分な。
今、明来をハグしちまったら・・・・・・
抑えられなくなっちまう。」
その言葉の意味は。
鈍感な自分でも、理解できた。
「それでも、いいなら・・・・・・
遠慮しないけど。いいの?」
そう問い掛けられて、
何も言葉が出なかった。
彼の眼差しは、
自分を貫くように注がれる。
これは、冗談では、言っていない。
小さく、頷く。
自分の顔は今、
どんな風に映っているのだろう。
彼から、小さく息が漏れた。
おもむろに階段を下りて、
自分に近づいてくる。
逃げずに待っていると、
覗き込むように顔が近づいた。
摺り寄せられるように、
額同士が、くっ付く。
「・・・・・・無理すんなって。
ありがと。うれしーけどな・・・・・・
ゆりさんに言われて、気づいたんだ。
大事にしたいなって。
・・・・・・ハグは当分、
おはようの時だけにしようかなーって。
完全にやらないのは、ちょっと、な。」
「・・・・・・無理してるのは、
お前やないと?」
何で自分は、素直に言えないのか。
「ハグしたい時に、すればいいやん。」
彼は、微笑む。
「違うんだよ。明来。」
優しく、頬に唇が触れた。
そして、囁かれる。
“お前が俺の事、もっともっと
好きにならねーと・・・・・・分からねーかも。”
「おやすみ。」
瞳に焼き付く、微笑。
素手で、心臓を撫でられた感覚だった。
ふ、と彼は自分から離れて、
再び階段を上がっていく。
たんたんたん、という足音のリズムと、
ドキドキドキ、と煩く高鳴る鼓動が、
ひどく重なり合った。
今までの彼とは、違う。
落とされたキスの部分が、熱い。
そっと、手で覆う。
囁かれた方の耳には、余韻が。
舞乃空の対応に、明来の心は
ぎゅうぎゅうに締め付けられた。
ふらっ、として、壁に背を付ける。
何かに寄り掛からないと、
立っていられない。
出逢って間もない時にも、
この感覚は、一度あった。
でも、比じゃない。
あの時よりも、強く、深い。
ハグを、していないのに。
いや、されたのかもしれない。
心で。
―・・・・・・もっともっと、って・・・・・・
どれだけ、好きになればいいんよ?
彼が思うよりも。
自分はもう、かなり落ちていると。
そう、思っているのに。