奇跡という名の必然
二人が名前を呼び合う瞬間、
塞いでいた大きな壁は、打ち砕かれる。
寄り添い、温かさに触れ、優しい笑みが零れる。
11
そのマスターベッドルームには、
さり気なく上品なアンティーク調の家具が
置かれている。
ここに訪れる時は妙な緊張感を覚え、
ゆりは躊躇いながらも、
部屋のドアをノックした。
開かれた先には蔵野の笑顔があり、
その優しい微笑みを目に入れた瞬間、
一気に肩の力が抜けた。
束の間ではあるが、周りの目を気にせずに
彼と過ごせる時間は、これから
特別なものになるのだと、自覚する。
「・・・・・・荷物は、
どこに置いたら・・・・・・」
「好きな所にどうぞ。」
愛用の白いキャリーバッグは、
長い時間寄り添ってくれた。
クローゼットルームらしきドアを見つけて
その傍らに、そっと置く。
「申し訳ないが、仕事に必要な資料を
作っておきたくてね。
・・・・・・そこに座って、寛いでいてくれ。」
促された場所は、悠々と眠れそうな
キングサイズのベッドの側に置かれた、
飴色のテーブル椅子。
白い大理石の床に、しっかりと足を付ける
テーブルの上には、ノートパソコンが
開かれた状態で置かれていた。
「・・・・・・はい。」
読み進めている本がある。
それの時間を過ごすには、丁度いい。
ゆりは、キャリーバッグから
一冊の本を取り出して、ゆっくりと
その椅子に座る。
蔵野は隣の椅子に腰を下ろすと、
パソコンの画面に向かい合った。
幾度となく、その姿を見てきている。
書店で働いていた時は、バックヤードで
取引先との連絡、発注など、様々な業務を
画面に向かって行っていた。
今でも彼は、“あかい書店”の店長だ。
どんな経緯で携わる事になったのか
知る由はないが、自分が本好きなのと
繋がりが深いのは、今でも偶然とは思えない。
『ここ』の仕事が主になってしまった
自分は、店員を辞めざるを得なかったのだが。
それに関しては、何の悔いもない。
キーボードを打つ音が響く中、ゆりは
銀細工の栞を挟んでいたページを開きつつ、
再度蔵野の表情を窺う。
彼は、真摯な眼差しで
画面を見詰めている。
あれから、何年経ったのだろう。
気づけば、彼と一緒にいる時間は
ごく自然なものになっている。
仕事が主だったが、違和感もなく
ずっと傍に付いて過ごしてきた。
―・・・・・・あの時は、こうして
彼と時間を共有するなんて、
考えてもいなかった。
『彼』と過ごす時間が、
“必然”だと思っていた。
でもそれは、“執着”だったのだと
気づかされた。
ふっ、と息が漏れる。
「・・・・・・そんなに見つめられたら、
仕事したくなくなっちゃうよ。」
画面に目を向けたまま紡がれた
彼の言葉に、はっとして目を逸らした。
「・・・・・・ごめんなさい。」
彼女の謝罪に、蔵野は笑う。
「謝る癖、直した方がいい。」
「・・・・・・はい。すみません。」
「ほら、また。」
「・・・・・・」
指摘されて、気づいた。
謝るのが癖になっているとは、
思わなかった。
いつからだろうか。
頬が熱くなるのを感じながら、
本に視線を落とす。
「・・・・・・君は素敵だよ。」
「・・・・・・」
―さらっと、
そんな事言わないでください。
「だから、謝らずに・・・・・・
堂々と、僕の傍にいてほしい。」
鼓動が、強く叩いている。
―鎮まれ、私の心臓。
何とか抑えようと、本を持つ両手を
顔の近くまで持っていき、活字を目に入れる。
真っ赤に染まった顔を本で隠していると、
その姿を目にした蔵野は吹き出した。
「ははっ。駄目だ。仕事にならないね。」
「ほ、ほんとにすみませんっ。
黙って本読んでいますからっ。
気にしないでくださいっ。」
「・・・いい息抜きだよ。ありがとう。
君の方こそ、僕の事は気にしないで
読書の時間を楽しんでくれ。」
「・・・・・・ごめんなさい。」
「今度謝ったら、もう仕事しないからね。」
「えっ、あっ、・・・・・・」
―そ、それは、困ります。
「困るなら、自分の部屋だと思って
本を読んでいなさい。」
「・・・・・・はい。」
ゆりは息を整えて背筋を伸ばすと、
本を適度な距離に離して
膝の上に置き、向かい合う。
それを微笑みながら見守った後、蔵野は
再び画面に視線を移した。
しんと、部屋内は静かになる。
時折キーボードの打音が響くと、
より静寂さが増した。
この空間での読書は、格別だと思う。
落ち着きを取り戻したゆりは、
本の世界へと没頭した。
何も語らずとも、自然に在る時間。
それが約一時間経過した頃、急に
ゆりは顔を上げる。
「・・・・・・どうした?」
蔵野は、こちらへ真っ直ぐ向けてくる
彼女の視線を受け止めた。
「・・・・・・
“暗闇”が、現れたようです。」
漏らした言葉に行きつく事象の対策は、
前もって準備をしている。
だがそれは、一歩間違えれば
取り返しがつかない事態に陥る。
パソコンを閉じ、彼は紡いだ。
「・・・・・・『ジーン』の煽りが、
効いたようだね。」
「・・・・・・大丈夫でしょうか?」
不安の色を浮かべるのには、
万全とは言えない背景がある。
ゆりの心配は、承知の上である。
和らげるように、蔵野は告げた。
「君が行けば、状況は悪化する。
それは、僕らも同じだ。
彼らには乗り切ってもらうしかない。
これで得られるものは、かなり大きいよ。
・・・・・・二人が控えてくれているから、
心配は無用だ。」
“二人”。
それが誰を差すのか、彼女は知っている。
知っているが故に、抱える不安も
期待も、計り知れないものとなる。
“暗闇に侵害された二人”だからこそ、
打開する力を、生み出せるのだから。
「必ず、乗り切ってくれる。彼らなら。」
*
・・・・・・?
ここは、どこやろ。
見えるものが、灰色だけ。
何も、ない。
夢?
そうやな、きっと。
だって、ベッドに・・・・・・
『起きろ。』
低い、とてもいい声。
でも、舞乃空じゃない。
誰やろ・・・・・・?
『今、君の友人が苦しんでいる。
起きなければ、後悔する。』
・・・・・・起きる・・・・・・?
起きれば・・・いいと?
『護れ。君の大切な人を。』
*
首を絞める両手の力は、
普段の彼とは結びつかない。
息が、出来ない。
舞乃空は意識が朦朧とする中、
上から見下ろしてくる明来に目を向ける。
その言いたげな視線に気づいたのか、
彼は冷笑した。
【言葉が紡ぎたいか?良かろう。
心で紡げば、聞き取ってやろう。
さぁ・・・・・・何が言いたい?】
―・・・・・・“暗闇”。
こいつはきっと、それだ。
【くっくっくっ。私の事は、
そうとも呼ばれているらしいな。】
―・・・・・・
明来から・・・・・・離れろ。
【離れるのは、君の方だと思うがね。】
―・・・・・・
明来を・・・・・・返せっ!!
【返せ?・・・くっくっくっ。
どこまでも愚かしいな。
これは、私なのだ。】
―・・・・・・違う!!
“お前”はっ・・・・・・!!
【離れる気はないのだな?
せっかく、慈悲を与えてやったのに・・・・・・
良く聞く事だ。
冥土の土産に持っていくがいい。
これは、私の身体となる、器なのだ。】
―・・・・・・明来っ!!!
*
舞乃空・・・・・・?!
えっ、何で、俺が・・・・・・?!
やめろ・・・・・・
やめてくれっ・・・・・・!!
【来る時が訪れれば、私と一体化する。
・・・・・・いや、生まれ変わるのだ。
私の、新たな姿に。】
嫌だっ!!
【私の部下たちは、その時の為に
長年費やしてくれた。敬意を表する。
彼らは最期まで、私に従ってくれた。
痕跡を消し、自ら命を絶ってくれた。
これ以上の働きはない。】
・・・・・・っ!!
【最も頼りとする者を失えば、
これの亀裂が生じ、繋がりやすくなる。
・・・・・・順調なのだよ。
君がいなければね。】
・・・・・・
舞乃空・・・・・・!!
嫌だっ!!
やめてくれっ!!
“・・・・・・明来っ!!!”
ダァンッ!!!
*
【・・・・・・!】
銃声らしき音が、響き渡る。
同時に、舞乃空が心の中で強く
彼の名前を呼んだ瞬間、
首を絞めていた両手の力が緩む。
それを、見逃さなかった。
渾身の力を込めて明来の両手を外し、
彼の項を掴んで、翻す。
「げほっ!!ごほっ!!」
急に酸素を多く取り入れた事で、
眩暈が生じ咳き込む。
だがそれに構わず、明来の両手を抑えつけて
馬乗りになった。
形勢逆転、である。
【・・・・・・横槍を入れるとは・・・・・・
小賢しい・・・・・・】
「はぁっ、はぁっ・・・・・・」
―自分の声が、届いたのか?
・・・・・・届いたんだ。
呼び続けたら、きっと届く。
「明来っ!戻ってこいっ!!」
呼び掛けると、冷たい眼差しを送ってくる
“彼”は、小さく息を漏らした。
【・・・・・・どう足掻いたとしても、
止める事は出来ないというのに。
覆す事は、無に等しいのだよ。】
「ふざけんな!!明来は、
“お前”の思い通りにはならねーよ!!」
【・・・・・・くっくっくっ・・・・・・】
“彼”は喉を鳴らし、
哀れな者を見るような目をして言葉を紡ぐ。
【君は、分かっていたのではないかね?
これが、私の・・・・・・】
「明来は、“お前”じゃない!!
明来は、明来だ!!
弄ぶんじゃねーよっ!!」
【くっくっくっ・・・・・・】
笑い続ける“彼”の瞼が、下りる。
それと同時に、電池が切れたかのように
がくんと頭がベッドに落ちた。
息を乱しながら、舞乃空は
明来の様子を見守り続ける。
気を失ったのか、動かない。
しかしそれは、“暗闇”の気配が消えたのだと
悟ると、一気に脱力して
彼の上に倒れ込んだ。
「はぁっ・・・・・・
はぁっ・・・・・・・
・・・・・・あっぶねー・・・・・・
ダメかと思った・・・・・・」
絞め付けられていた首元に
手をやりながら、息を整える。
―・・・・・・何か、銃声みたいな音が
聞こえた気がするけど
・・・・・・何だったんだろ・・・・・・
分かんねーけど・・・・・・
手の力が緩んで、助かった。
しばらく明来の身体の上に覆い被さって
ぐったりしていると、
自分の身体に回される両腕があった。
とても弱々しい力だが、抱き締められる。
舞乃空は驚いて、顔を上げた。
「えっ・・・・・・?明来・・・・・・?」
「・・・・・・ごめん、舞乃空・・・・・・
ごめんっ、うぐっ、うぅっ・・・・・・」
しがみつくように自分を抱き締め、
明来は泣きじゃくる。
嗚咽しながら彼は、“ごめん”と
自分の名前を連呼している。
間違いなく、自分の知っている明来だ。
でも今までは、何らかの形で
“暗闇”に触れた後、意識を失って
何時間か眠り続けていた気がする。
今回は、直後だ。
しかも、この様子を見ると・・・・・・
何が起こったのかを、
しっかり理解しているようだった。
舞乃空は、嗚咽する彼を優しく包む。
「・・・・・・いいよ、謝まらなくて・・・・・・」
「ごめんっ・・・・・・
俺のせいでっ・・・・・・」
「お前の、せいじゃないよ・・・・・・」
悪いのは、“あいつ”だ。
言葉にはしなかったが、心で強く思う。
「謝っても・・・・・・済まんのは
分かっとるけど・・・・・・うぅっ。
こんなことになるなら・・・・・・
お前は、俺から・・・・・・」
言い終わる前に、遮る。
「何言ってんだよ!それこそ、
“あいつ”が喜ぶだけだろーがっ!」
明来の頭を懐に抱え込み、
強く抱き締めた。
「ゼッタイ離れねーぞ!!何があっても!!
・・・・・・お前もだ!!
死ぬこととか、考えるんじゃねーぞ!!」
“死ぬ”というキーワードに、明来は
びくっと身体を震わせる。
心に思っている事が、悟られていた。
「お前がいない世界で生きるなんて、
もうできねーからな!!」
「うっ・・・・・ふぐぅっ・・・・・・」
「分かったか?!」
「・・・・・・ううっ・・・・・・・
・・・・・・んっ・・・・・・」
号泣する明来を、
ひたすら舞乃空は抱き留める。
なりふり構わなかった。
今は、包む事しか頭になかった。
応えるように、彼の両手が
自分の背中を掴む。
弱々しい力だ。
先程の力とは、比較にならない。
でも確かに、彼の意思だった。
それに、しがみつくように、
自分に抱きついている。
明来の視界には、丁度
舞乃空の首元が映り込む。
赤紫色に変色した指形の痕が、付いている。
それを目にして、震えた。
自分が、彼を殺そうとするなんて。
考えただけでも、震えが止まらない。
震えて、嗚咽する明来を
舞乃空は何も言わず包み続けた。
彼の気持ちは、痛いほど分っている。
分かっているからこそ、
“暗闇”に対して憤りを覚え、
怒りを抑える為に、強く抱き締めていた。
抱擁じゃ、どうにもならない事も。
勿論分かっている。
でも。互いの体温を感じることで、
生きている証になるなら。
それを、掴まずにはいられない。
そんな時間が、長らく続いた。
ようやく落ち着いたのは、
深夜を過ぎた頃である。
腹が、ぎゅうっ、と鳴った。
こんな時でも、身体は正直だ。
明来の腹の音を聞いて、舞乃空は吹き出した。
「よしよしっ。俺も腹減ったなー。
何か食べよー。」
「・・・・・・でも先に、先生呼んだ方が・・・・・・」
この部屋に入る前、バーテンダーから
『ジーン』に繋がる内線の番号が書かれた
プレートを渡されている。
腹を満たすよりも、舞乃空に残された痕の
治療を優先したかった。
「大丈夫だよー。全然元気だって。
・・・・・・そんな顔すんなー。」
あー、もう。
そう言葉を吐いて、自分の頭を撫でながら
顔を綻ばせる舞乃空は、確かに
いつもの調子に戻っている。
でも、心配せずにはいられない。
見つめていると、ぽんっと軽く
頭を手で弾かれた。
その流れで彼は自分から離れて、
ベッドを下りる。
「何にするー?」
温かさがなくなって
急に肌寒さを感じた明来は、
ゆっくり身体を起こして、ぽつりと呟いた。
「・・・・・・きつねうどん。」
「うどんかー。いいねー。
でも俺実は、そば派なんだよなー。
俺は、きつねそばにしよ。」
内線電話の受話器を取り、舞乃空は
手際よくルームサービスを取る。
目が、腫れぼったい。
身体のだるさを覚える。
そして、頭の奥に感じる、鈍痛。
「・・・・・・舞乃空。」
「んー?」
「・・・・・・本当に、ごめん。」
彼は、明るく笑う。
「もういいって。」
「・・・・・・」
こうして、何気ない会話が出来ている事に
とてつもなく安堵感を覚える。
何度謝っても仕方がないのは
分かっているが、伝えずにはいられない。
舞乃空は、何事もなかったかのように
接してくれている。
その心遣いに、申し訳なさと
どう償えばいいかという気持ちで
一杯になった。
そんな思いで見つめていると、
彼はニヤニヤして言う。
「そんなに見つめられたら、
勘違いして押し倒しちまうぞー。」
それは、いつもの冗談だったのだろう。
普段なら言い返すところだが、
今の心境は、複雑でよく分からない。
彼の望み通りになればと、考える程に。
「・・・・・・」
「・・・・・・えっ?明来ちゃん?
ガチって思ってる?冷たく言い返して?」
ピンポーン、と
ドアチャイムが鳴る。
「お待たせ致しました。
ルームサービスでございます。」
内線して、3分過ぎた程だろうか。
それにしても、早い。
舞乃空が出入り口のドアを開けると、
サービスワゴンとともに
スーツ姿の若い女性が立っていた。
彼女は、にこやかにお辞儀をする。
「失礼致します。」
一言告げると、サービスワゴンを押して
部屋へと入り、テーブルに
二つの器と割箸を置いていく。
「それでは、良い夜をお過ごしください。」
まるで、そよ風が吹くように
女性は柔らかい物腰で去っていった。
ほんわりと湯気が立ち昇る
二つの器を、明来と舞乃空は眺める。
「・・・・・・食べよっか。」
「・・・・・・うん。」
何とも言えない空気になりかけたが、
出汁の良い香りで、食欲が勝る。
二人は、器に吸い寄せられるように
テーブル椅子に座ると、箸を手に取った。
透き通った出汁の中浸かる、白く太い麺。
きつね色のふっくらお揚げが、
黄金色の海に浮かんでいる。
「うまそーっ。いただきまーす!」
「・・・・・・いただきます。」
互いに手を合わせて、箸を綺麗に割る。
舞乃空の方は蕎麦だが、
そちらも美味しそうだった。
箸で掴んだ蕎麦を持ち上げて、
息を吹きかけている様子を眺めていると、
彼は笑って声を掛ける。
「食べるかー?」
「・・・・・・いや、いい。」
改めるように自分の器と向き合い、
箸を持ちながら両手に持った。
温かさが、手の平へ伝わっていく。
出汁を一口啜ると、じんわりと
身体に染み渡った。
「・・・・・・美味い。」
「あーっ、美味い!」
ずるずると麺を啜る音が、部屋内に響く。
今は、どんな豪華な料理でも
この優しい温かさには敵わない。
慣れ親しんだ味と、素朴さ。
それが、疲弊した二人の心身を温めた。
食べ終わって、“ごちそうさま”を唱えると、
明来は椅子から立ち上がる。
「・・・・・・やっぱり、先生に連絡しよう。」
内線電話に向かって歩き出そうとしたら、
同じように立ち上がった舞乃空に
片手を掴まれた。
彼は、呆れている。
「ほんと、お前って頑固だなー。
いいって言ってるだろー?
もう夜中だし、先生呼ぶの朝でいいよー。
ほら、この通り、元気だって。
蕎麦も無事食べれて、美味かったしー。」
「・・・・・・何か、
塗り薬もらえたらと思って。」
消えてほしい。
その痕も、“暗闇”も。
ショックが、大きすぎる。
舞乃空は、首を横に振った。
「これは、名誉の負傷・・・ってことで良くね?
それよりもさ、明来。
話を聞いてくれるか?」
「・・・・・・」
小さく頷き、彼に手を引かれて
テーブル椅子に座り直す。
向かい合った後、真摯な眼差しで語り出した。
「“あいつ”が現れたって事は、
結構ギリだったと思う。
『ここ』の人たちに睨まれて、しかも
明来の傍にいる俺の存在が、
邪魔っぽいカンジだったし。
・・・・・・こうなった事は、
良い方向だったと考えていいんじゃね?」
「・・・・・・?」
舞乃空の言っている事が、
あまり理解できなかった。
こうなった事が、良い事であると?
首を傾げていると、
彼は不敵な笑みを浮かべて告げる。
「多分さ、“あいつ”を引き出す為に、
先生たちが仕掛けたんだと思う。
きちんと俺たちを助けられるように、
準備万端だったって事。」
「・・・・・・えっ?」
舞乃空の話が本当なら、“暗闇”が現れるのを
ゆりたちが想定していたという事になる。
「そこまで考えてくれてたって事だよ。
・・・何か、銃声みたいな音が聞こえてさ。
よく分かんねーけど、それの後
“あいつ”の力が緩んだんだよ。」
「銃声・・・・・・」
―確かに、聞こえた気がする。
「眠っとった俺を、
起こしてくれた人がいて・・・・・・
姿は見えなくて、声だけやったけど・・・・・・」
「きっとその声の人は、
『ここ』と関係ある人だよ。
・・・何とかしてくれたんだと思う。」
彼の仮説は、正しいのかもしれない。
「まー、死に損なったお陰でって言うのも
おかしいけどさー。“あいつ”、
かなり深い情報くれたと思わね?」
“暗闇”が言っていた内容は、
目を覚ましたところから
刷り込まれたかのように憶えている。
それを辿っていくと、
気になるフレーズがあった。
―【私の部下たちは、その時の為に
長年費やしてくれた。敬意を表する。
彼らは最期まで、私に従ってくれた。
痕跡を消し、自ら命を絶ってくれた。
これ以上の働きはない。】―
「うん・・・・・・
“私”の部下っていうのは・・・・・・」
「それな。“あいつ”の部下って、
明来の両親の事じゃね?」
「・・・・・・そうだと思う。」
「“自ら命を絶った”っていうのは、
その通りの言葉だけど・・・・・・
死ななければならなかった理由が、
“あいつ”の為だとしたら?」
明来は、目を見開く。
「・・・・・・えっ?じゃあ・・・・・・
父さんと母さんは、“暗闇”の為に
自殺したって事?」
「そう。だから、
自殺といえば自殺だけど、
他殺だといえば他殺なんだよ。
・・・・・・“あいつ”の企んでいる事は、
明来と深く関わっていると思う。」
途中、“暗闇”が言っている内容が
分からなかったのも事実だ。
「・・・・・・俺って、何なんやろう。」
ぽつりと、疑問を漏らす。
「俺は、何かの実験体なんやろうか・・・・・・
“暗闇”と一体化するって・・・・・・」
「・・・・・・」
―そう考えた方が、自然かもしれない。
自分は、一体・・・・・・
「明来は、明来だよ。」
強い言葉が掛けられた。
「明来の身体は、明来のものだ。
・・・・・・“あいつ”が、
好き勝手にしていいわけがねーだろ。」
「・・・・・・」
彼が言う事は、正しいのだろう。
しかし、違和感を覚える。
口調を強めて言う舞乃空は、まるで
自分が何なのか分かっていて、
それを隠しているように思えた。
何も口を開かず見据えていると、彼は
椅子から腰を上げて歩み寄ってきた。
ふわりと、包まれる。
「もう寝ようぜ。疲れちまった。」
「・・・・・・舞乃空。」
“ハグされた”事が、
“はぐらかす”事に繋がる気がした。
「・・・・・・俺と“暗闇”について、
何かまだ、分かっとるんやないと?」
「はー?何言ってんだー?」
「“暗闇”が、最後に
言っとった言葉が気になる。」
―【君は、分かっていたのではないかね?
これは、私の・・・・・・】―
「知らねー。」
「舞乃空。」
「明日、先生に報告だな。“あいつ”が現れて、
有力情報を吐いていったって。」
明来は、彼の両肩に手を置いて
身体を離すと、真っ直ぐに見上げた。
「・・・・・・お前は優しいから。
俺が傷つかんように、嘘ついとるんやろ?」
「・・・・・・」
「何を、隠しとるん?
開かずの部屋の時も、そうやろ?
もう、教えてくれてもいいっちゃないと?」
舞乃空は、見上げてくる明来に
視線を落としたまま、黙っている。
「はぐらかすのは、もう・・・・・・」
言おうとしたら、身体が浮いた。
自分が、彼に抱き上げられている。
これは、いわゆる、“お姫様抱っこ”だ。
「ちょ、まの・・・・・・」
突然の出来事に、戸惑うしかない。
「お前が泣き疲れて眠った時も、
窓から逃げようとして気を失った時も、
こうやって運んだんだぞー。」
彼は、こちらに目を向けず
ベッドへ向かう。
「今回は、起きてるけど。」
「舞乃空。話を・・・・・・」
「疲れただろー?もう寝よ。
俺も疲れちまったし。
・・・・・・眠るまで、見届けてやるから。」
明来の身体をベッドの上に下ろすと、
舞乃空は横に寄り添って寝転がる。
寝かしつけられる幼児のような気分だ。
じっと、彼を見据える。
「・・・・・・また、はぐらかすと?」
「明日でもいいんじゃね?」
真剣な表情をして言葉を紡ぐ舞乃空は、
今まで誤魔化してきた姿とは違う。
「はぐらかしは、しないって。
嫌でも、分かっちまうんだ。それなら
今はもう、何もかも忘れて寝とこー。」
少しでも、休んどけって。
低音の囁きが、耳に届く。
この距離間で見つめられ、普段なら
目を合わせられない程
鼓動が騒がしくなるところだが、
今はなぜか落ち着いている。
だから、冷静に言葉を返した。
「・・・・・・じゃあ、歯磨きする。」
「・・・・・・あー。だよなー。忘れてた。」
彼も、穏やかに言葉を返す。
特に、気まずいわけではない。
でも、この静けさは何だろう。
嵐が去った後の、凪。
いや。違う。
嵐の前の、静けさ。
そっちの方が、合っている気がする。
互いに並んで歯磨きをしている間、
何も会話はなかった。
でも、それが嫌だとは思わない。
生活感があるこの時間は、
緩やかな現実に戻してくれた。
そんな心情を察しているのか、舞乃空は
目の前にある大きな鏡に目を向けて
歯ブラシを動かしていた。
しゃこしゃこと、歯を磨く音だけが響く。
そういえば、彼はバスローブ姿だ。
今まで気にならなかったのは、
似合いすぎていて
違和感を覚えなかったのだ。
胸元が、はだけている。
程よく逞しい胸板を目に入れないように、
明来は鏡に映る自分の顔を見据える。
ひどい顔だった。
瞼が腫れて、顔色も悪い。
洗面台は二基設置されていたので、
互いのタイミングで口を濯いだ。
メインベッドルームに戻ると、
二人は自然にベッドへ向かい、寝転がる。
舞乃空が、ベッドの近くにある
コントロールパネルで
照度を調整してくれた。
真っ暗にはせず、
互いの姿が確認できる程度の明るさだ。
ふと、表示されている時刻を見ると、
1時を過ぎたところだった。
二人の間隔は、人ひとり分空いている。
仰向けに寝転がる舞乃空は、目を閉じずに
高い天井を見つめていた。
明来も同じように、仰ぐ。
しんと静まり返る、部屋の中。
眠れそうにない。
寝ろと言われたが、正直眠れる心境ではない。
また、“暗闇”が現れるかもしれないと思うと
怖くて、震えそうだった。
言おうか。
言うまいか。
「・・・・・・明来。」
葛藤していると、声が掛けられる。
彼に目を向けると、
こちらに身体を向けて両腕を広げていた。
何も聞かず、
ゆっくり彼の懐に入り込む。
すると、何も言わずに包んでくれた。
毛布で包まれるような
優しい温かさの中で、安堵の息をつく。
「・・・・・・良かった。」
彼の温もりがあって、本当に。
「・・・・・・止められて、本当に良かった。」
胸の奥が締め付けられる。
彼の存在を掴んでおきたくて、両腕を回す。
何度も、何度も。
確かめたくなる。
じわ、と涙が浮かんだ。
「・・・・・・こんなんで、離れるかよ。」
囁きと共に、
ぎゅっ、と、彼の包む力が強くなった。
「“あいつ”は多分、
しばらく出てこれねーと思う。
・・・・・・そんな気がする。」
“出てこない”という根拠は、どこにあるのか。
「明来んちの、あの部屋にあるPC。
アレを開く時だ。
“あいつ”は、それを待ってる。」
「・・・・・・?」
「ゆりさんは、
それを恐れていたのか・・・・・・
あれが何なのか、
教えてくれなかったのは。」
「・・・・・・」
彼は、何かを納得したようだった。
だから敢えて、聞き返さなかった。
「・・・・・・とりあえず、今は大丈夫だよ。
俺を脅す為に、“あいつ”は
無理して出てきたんだ。
・・・結果、俺が死んでも問題はないって
思ったんだろーな。」
“死んでも問題はない”
その言葉が、突き刺さる。
涙が溢れ、頬に伝い、嗚咽をする。
舞乃空は、しまったと顔を曇らせて
明来の身体を放し、
頬に流れる涙を拭き取るように
手を置いた。
「あー・・・ごめん。寝ろと言っておいて、
余計な事喋っちまって。ないよなー。」
小刻みに、首を横に振った。
温かさも、声も、何もかも。
彼の全てが、自分を満たしてくれる。
無事で良かったと、心底から思う。
よしよし、と自分の頭を撫でる彼は
困った表情を浮かべていた。
「そんなに泣くなよー。お前が泣くと、
めっちゃ苦しくなるんだって。」
「・・・うぅっ・・・・・・」
「んー・・・・・・
あ、そーだ。明来ー。
新しい歌、できそーなんだよ。
家に帰ったら作ろうと思ってて。
聴いてくれるかー?」
「・・・・・・うん・・・・・・」
「これからはさー。作った歌は、
明来に聴いてもらうからなー。
覚悟しろー。」
「・・・・・・聴き、たい・・・・・・」
「ああ。明来だけに、だからなー?」
屈託なく笑う彼の顔を、
明来は見つめた。
太陽のように、明るい。
光が当たらない自分には、眩し過ぎる。
でも、構わない。
手を伸ばせば届く位置に、在る。
「よしっ、おやすみ!」
ぽんぽん、と明来の頭を手で弾くと、
舞乃空は抱擁を解いて離れていく。
待ってくれ。
今夜は、傍で・・・・・・
両手を伸ばし、舞乃空の両頬に添える。
引き留められたその動作に、
彼は目を見開いた。
「・・・・・・傍で、寝よう。舞乃空。」
紡いで、近づくと、柔らかく重ねる。
軽く触れる程度のキスだったが、
彼にとっては顔をくしゃくしゃにさせる程、
大きな効果があった。
「・・・・・・ちょ、明来ーっ。」
彼は堪らない様子で、再び自分を包み込む。
「何してくれてんのー?我慢してたのにっ。
いいのー?お言葉に甘えちゃうよー?」
好き。大好き。
耳元で、彼の声が響く。
無意識に近い程、自然に出来た。
自分は、こんな事が出来るのか。
恥ずかしさよりも、歓心の方が大きかった。
言葉にするよりも、
伝えたい温かさがあって。
そう思ったら、身体が動いたのだ。
しかし、今になって鼓動が騒ぎ出す。
大胆な事をしてしまった。
「・・・・・・
・・・・・・俺・・・・・・ちゃんと、
お前と向き合えとるかいな・・・・・・?」
消え入りそうな声で、伝える。
もう、溢れていた涙が止まっていた。
ドキドキと、大きく鳴っている。
拙い言葉でも、
彼には全部伝わっているようだった。
零れそうなくらい笑って、ぎゅーっとされる。
「はははっ、ありがとーっ!
十分だよ、明来っ。すげー嬉しいっ。」
早すぎる、大きな一歩。
こんなにも早く、彼の方から
自分に触れたいと思う時が来るなんて。
“暗闇”の出現は、皮肉にも
大きな壁を壊してくれたのかもしれない。
そう思いながら舞乃空は、
恥ずかしそうに身を縮めている明来を
愛でるように抱き締める。
愛おしくて、堪らない。
「俺から、もいっかいチューしていい?」
「・・・・・・それは、ちょっと。」
「ええーっ?!何でー?!
この流れで拒否るかー?!」
互いに、笑う。
「お前は、キスだけじゃ
終わらんやろうもん。」
「あ、明来ちゃん?な、なんてことを。」
「そうやろ?」
「・・・・・・そーですね。」
ドキドキ。
同じように、彼からも聞こえるだろうか。
明来は、舞乃空の胸に耳を当てて
瞼を閉じる。
彼の鼓動は、とても速くて
力強く聞こえた。
一昨日、こうやって彼も
自分の鼓動を聞いていた。
その気持ちが、今なら何となく分かる。
彼から生まれる音は、とても心地好い。
鼓動の音を聴いていると、
彼の嬉しさが伝わってくる気がした。
「・・・・・・はははっ。やべー。
聞かれたー。どうしよー。」
そう言いながら舞乃空は、笑みを零して
明来の頭の天辺に顔を埋める。
「・・・・・・眠れる?」
「・・・・・・眠れん!」
「ははっ。」
「面白がってんなー?襲うぞー。」
「それは、ちょっと。」
まだ、想像がつかない。
「どうしてくれんのー。おあずけくらって、
眠れるわけないじゃん。」
「・・・・・・ごめん。」
素直に謝ると、舞乃空は慌てて言い返す。
「あ、謝んな。じょ、冗談だってー。
すぐガチだと思うんだからー。
明来からのチューが嬉しすぎて、
調子に乗っただけだって。」
―いや、ガチやろうもん。
言葉にはせず、明来は笑った。
優しい嘘をつく彼は、心から
自分の事を大切に想ってくれている。
いつかは、それに応えられたらと、
ほんのわずかに思う。
明来が笑っているのを胸元で感じて、
舞乃空は嬉しくて堪らずに笑う。
滅多に笑わなくなった彼が、こうして
自分の傍で笑っている事は、
この上なく幸せだと思う。
こんな時間が、
これからも生まれたらいいなと、
願わずにはいられない。
「・・・・・・おやすみ。」
「おやすみー!」
互いに、挨拶を交わす。
今は眠れないかもしれないが、
寄り添って温もりを感じていれば、
いつの間にか寝落ちしそうだった。
安堵できる場所がある。
それは、今までも、これから先も、
当たり前に得られるものではない。
どんな環境にいても、
それに気づかなければ・・・・・・
心から笑う事はできないのだ。
それを、二人は改めて実感した。
この夜に起きた出来事は、二人にとって
かけがえのない時間として刻まれる。
今後の彼らを、
大きく変えるものとなった。
*
プルルルル・・・・・・
部屋内に響き渡る、内線電話のコール音。
その音で、舞乃空は目を覚ました。
片腕にある温かさに目を向けると、
柔らかい明来の髪を捉える。
プルルルル・・・・・・
彼は、ぐっすり眠っているようだった。
起こさないように、そっと離れると
ベッドから下りて歩いていく。
「・・・・・・はい。」
《おはよう、舞乃空くん。》
この声は。
通話相手の穏やかな挨拶に、微笑む。
「おはようございます、ゆりさん。」
《一時間後に、
部屋を訪れようと思っているわ。》
ふと、コントロールパネルに表示された
時刻を見ると、8時前だった。
「りょーかいです。」
《・・・・・・ありがとう。》
何に対してのお礼なのか。
他の者なら首を傾げるところだろうが、
自分には、それが分かっている。
「こちらこそ、ありがとうございます。」
《・・・・・・理解しているのね。》
「はい。お陰さまで、助かりました。」
《・・・・・・明来くんは?》
「ぐっすり寝てます。」
《・・・・・・そう。良かった。》
彼女の受け答えに間があるのは、
自分たちの無事を確かめる為だ。
「俺、何があっても大丈夫なんで。」
強がった言葉に捉えられても仕方ないが、
これに対しての確信は、揺るがない。
《ふふっ。そうね。
あなたなら、切り開いてくれるわね。》
「切り開くのは、明来自身っすよ。」
《ええ。明来くんも、あなたも。
二人なら、きっと。》
静かに、受話器を置く。
ベッドの方へ目を向けると、明来が
横になった状態のまま
こちらに顔を向けて、自分を見ていた。
まだ眠たそうな様子である。
「おはよー、明来。」
舞乃空は笑顔で、挨拶の言葉を掛ける。
だがそれに何の反応もせず、彼は
無言のまま自分に視線を送っている。
「・・・・・・んー?どした?」
首を傾げて近寄ると、明来は
ようやく身体をゆっくり起こした。
「・・・・・・おはよ。」
「よく眠れたっぽいな。よしよし。」
頭を撫でようと、手を近づける。
普段なら、ここで拒絶される。
しかし彼は、頭に手を置かれても
逃げようとはせず、じっとしている。
嫌がる様子はない。
思わず、くしゃくしゃと撫でた。
―うわ。明来の髪、やっぱ気持ちいー。
実を言うと、欲望に負けて
彼の意識がない時と眠っている時に
何度か、彼の髪に触れてしまった。
いつか、懺悔しようと思っている。
でも今は、堂々と、触れる事が出来ている。
喜びで、顔のにやけが止まらない。
「・・・・・・舞乃空は、眠れた?」
明来は、ぼそ、と尋ねる。
「あー。このまま死んでもいいかもって
思うくらい!」
温もりを感じて、一緒に眠れて。
そういう意味だったのだが、彼は
違う意味に捉えたのか、じっと見上げて
真面目な表情で告げる。
「・・・・・・冗談でも言うな。」
「へ?・・・あ、あー。ごめん。」
―そーいえば、俺、死にかけたんだっけ。
へらへらしていると、
明来の表情が険しくなった。
「笑い事やない。」
「そだな。うん。」
にやけを抑えるように、舞乃空は
きりっとした顔を作る。
「・・・・・・ゆりさん、何て?」
「一時間後に来るってさ。」
「・・・・・・分かった。」
「朝メシ、モーニングセット的なやつ
頼もー。」
「・・・・・・うん。」
明来はベッドから下りて、
舞乃空と向かい合うように立つ。
ちらっと彼の首元に目を向けると、
まだうっすらと指形の痕が残っていた。
「・・・・・・舞乃空。」
「んー?」
「おはようのハグ、しよう。」
「・・・・・・えっ?」
彼は、両腕を広げる。
その所望に、舞乃空は
歓喜の声を上げそうになるが、抑えた。
「・・・・・・さっきまで、くっついてたけどー?」
「・・・・・・それとは、別。」
ほら、と言わんばかりに
見つめてくる彼に、ドキドキする。
「いーんすか?抑えませんよ?
思いっきり、しますけど。」
彼は、頷く。
「じゃあ、お言葉に甘えて!」
待ち構える明来を、舞乃空は嬉しそうに
がばっ、と抱き締めた。
ふわりと香る髪の匂いと、温もり。
一緒に寝ている時、心行くまで堪能した。
彼の両腕が、自分を包む。
優しい抱擁に、心も、ぎゅっとされた。
改めて、こうしてハグすると、
ふつふつと実感が湧く。
「あー・・・・・・幸せすぎ。」
低音の囁きが、耳元をくすぐる。
鼓動が高鳴るのを感じて、明来は
恥ずかしさを紛らすように呟いた。
「・・・・・・お腹空いた。」
「俺もーっ!」
互いに少し離れると、視線が合う。
舞乃空が微笑み返すと、
明来も頬を緩ませた。
この距離で、見つめ合いが保てた事は、
今までにない。
吸い寄せられるように舞乃空は
顔を近づけると、明来は反射的に逸らす。
やっぱり駄目かと思いきや、
避けるのではなく、
片頬に軽く唇を当ててきた。
「・・・・・・うわ。」
これには、驚く。
明来は顔を赤く染めつつ、彼から離れて
洗面ルームの方へ歩いていく。
「やばっ、なに今の。
いきなりレベル高くね?」
落ち着いていられない舞乃空は、
ニヤニヤしながら彼の後ろを付いていく。
「打ち抜かれたんですけどー?」
「・・・・・・」
「いつでもしていいからー。待ってるー。」
「今のは、事故やけん!」
そう言い返して、早歩きをする。
明らかに嘘をつく彼に、
ニヤニヤせずにはいられない。
「確実にアプデしてんなー。いいねー。
俺も負けていられねー。」
「・・・・・・」
―何の対抗心なんよ?
心で言い返して洗面台に立つと、
蛇口レバーを上げて水を出す。
今は、冷たい水で顔を洗いたい。
顔の火照りもあるが、泣きすぎて
腫れぼったい目は、今でも熱を持っている。
蛇口から勢いよく出る水を掬って
バシャバシャと顔を洗っていると、
それを眺めている舞乃空は
可笑しくて堪らない様子だった。
「いつも通り、洗顔雑だなー。」
彼の言う事を無視して、洗う。
冷たくて、気持ちがいい。
色々クールダウン出来て、丁度いい。
「そーだ。思ったんだけどさー。
スマホ扱わなくても、
フツーに過ごせるもんだなーって。」
そう言った後、舞乃空は
明来の隣にある洗面台の蛇口レバーを上げた。
彼は、ぬるま湯になるのを待つ。
「明来といる時だけかもしれねーけど。
へへっ。
・・・でも、音楽は聴きたいかなー。」
その意見に、同意するように頷く。
―確かに、音楽は聴きたい。
日常の隙間を埋めているのは、
デバイスから再生される音の時間だ。
仕事前に聴いたりすると
テンションを上げてくれるし、
ゆったりしている時に聴くと
世界に浸れて、現実を忘れさせてくれる。
水がぬるま湯になると、舞乃空は
勢いを緩めて掬い、顔を洗う。
「ゲストルームって、
いつでも開いてんのかな?
また“HARU”のピアノ聴きたいなー。」
蛇口レバーを下げて水を止めると、明来は
吸水性の良い備え付けのタオルで、
顔の水気を拭き取る。
昨日は本当に、夢のような時間を過ごした。
心地好すぎて途中、眠ってしまったが。
家から持ってきたであろう
洗顔フォームの蓋を開け、彼は手の平で
泡立てていく。
彼の洗顔は、とても丁寧だ。
そして、その後のスキンケアも。
それにゆっくり時間を掛ける事を
知っていたので、言葉を投げる。
「ルームサービス、頼んどく。」
「ありがとーっ!」
きめ細かい泡を、
顔全体に伸ばしていく様子を見届けた後、
メインベッドルームへ戻った。
内線電話の直ぐ側にあるメニュー表を
開いて眺めていると、
トーストとハムエッグにスープ、
サラダとコーヒーが付いたセットを見つけた。
受話器を取って、それを二つ頼む。
初めての事なので緊張して
嚙んでしまったが、簡単に終わった。
部屋にいながら食事を待つというのは、
とても贅沢だと思う。
一人になって、それが分かるようになった。
遮光カーテンの隙間から、光が差している。
それを開けると、朝日に照らされて風に躍る
新緑が目に入った。
とても、綺麗だ。
都会の中にあるとは思えない。
地元でさえ、こんな立派な樹々は
見掛けた事がない。
しばらく眺めていると、
一羽の小鳥が飛んできて
間近の樹の枝に留まった。
小さな頭を動かし、辺りに目を配らせている。
伽羅色の羽毛と、丸く大きい目。
雀とは違う愛らしさがあった。
―・・・・・・見たことない鳥やな。
その小鳥は直ぐに、どこかへ飛んでいく。
穏やかに流れるこの空間は、日常の喧騒から
かけ離れて存在している。
たまにはいいが、ずっとここにいると
何もかも置いていかれそうな気がする。
―・・・・・・家に、帰りたいな。
急に、そう思った。
―・・・・・・何もかも忘れて、
舞乃空と日常を過ごしたい。
ルームサービスの朝食セットが
部屋に来たのは、
頼んで10分後くらいだった。
洗顔とスキンケアを終えた舞乃空が
戻ってきた頃と、ほぼ同時である。
昨晩頼んだ時よりも時間が掛かっているのは、
淹れたてのコーヒーと
絶妙な焼き加減のハムエッグ、
綺麗に焼けたトーストのせいなのだろう。
とても美味しそうな見た目と匂いに、
腹の虫も最高潮に騒いだ。
明来と舞乃空は、話をしながら
食事を進めていった。
仕事をしてみて気づいた事とか、
使う道具の事とか。
職場の皆の話とか。
あと、他愛ない話題が続く。
家にいる時と変わらないが、敢えて上げれば
家事をしなくていい事だろうか。
こうしていると、今回の目的が
ぼやける程、穏やかな気持ちになった。
それが生まれるのは、
目の前にいる彼のお陰だ。
屈託のない笑顔を見ていると、
悩み苦しんでいる事も吹き飛んでしまう。
和やかに過ごしていると、一時間経つのは
あっという間だった。
ピンポーン、と、ドアチャイムが鳴る。
「はーい。」
舞乃空が返事をして席を立つと、
出入り口のドアを開ける。
現れたのは、パンツスーツ姿のゆりだった。
「あれ?かっこいいっすね。」
笑顔で迎えると、彼女は小さく笑って
部屋の中へ入る。
「蔵野さんに仕事が入っていてね。
急遽私も付き添う事になったの。
午後には戻れると思うわ。
しばらく離れることになるけど・・・・・・
先生が、この部屋に
来る事になっているから。」
「忙しいんっすねー。そんな中、
俺たちに付き合ってくれて
ありがとうございます。」
「何言ってるの。私たちが無理言って、
『ここ』に来てもらっているのよ。
こちらこそありがとう。」
舞乃空の首元にある指形の痕を一瞥し、
ゆりは真摯な眼差しを向ける。
「・・・・・・少し話を、してもいいかしら?」
「勿論っすよ。どーぞ中へ。」
促された先に、テーブル椅子から立ち上がった
明来の姿を目にして、ゆりは微笑んだ。
「おはよう、明来くん。」
その挨拶の言葉に、会釈をして返す。
「おはようございます。」
「・・・・・・具合は、どう?」
質問に対して、素直に答える。
「・・・・・・少し、頭が重いですが・・・・・・
大丈夫です。」
昨晩ほどではないが、
頭の奥の鈍痛が続いている。
それを、舞乃空には伝えていない。
しかし彼には、分かっていたようだ。
「大丈夫そーだから言わなかったけど、
ヒドくなったら言えよー?」
明来は、気遣う彼に向けて頷く。
ゆりをテーブル椅子に促した後、
舞乃空はベッドに腰を下ろした。
テーブル椅子は、二脚だけである。
自動的に彼女と向かい合って、座り直す。
「先に俺から、手短に話しますね。」
彼が率先して、口を開いた。
「昨晩“暗闇”が現れて明来を操り、
俺を脅してきました。
・・・これは、その痕なんっすけど。」
「・・・・・・ええ。」
「その時に“あいつ”が言ったのは、
“明来と一体化する”って事で。
“あいつ”は、明来の両親を使って
その準備をしていたみたいです。」
「・・・・・・」
「ゆりさんは、そこまで“見えて”いて
あの時何も話さなかった。それは、
部屋にあったPCに
関係するからなんっすよね?」
「・・・・・・そうね。」
的確な指摘を受け、ゆりは素直に紡ぐ。
「あのPCには、
“暗闇”のデータが残されている。
それを開いた瞬間、
明来くんに繋がる可能性が高い。
それは、“声変わり”と同時だという事。
・・・でも、普通の“声変わり”ではない。」
「えっ?どういう事っすか?」
黙って話を聞いていた明来に、
ゆりは目を向ける。
「詳しく調べてみないと確証がないけど・・・・・・
明来くんの成長が滞っているのには、
“暗闇”の手が掛かっている可能性が高い。」
「・・・・・・えっ?」
思わぬ意見に、二人は目を見開く。
彼女は二人に視線を配った後、語り出す。
「私の祖父も、その被害者。
頭の中に、特殊な記録媒体が
埋め込まれていた。
それを通じて彼は意識を失い、
“暗闇”の思うままに操られていた。」
ゆりがあの時、口を噤んだ訳。
それが、今紡がれているのだと
舞乃空は把握した。
「その他にも、同じ特殊な素材で造られた
記録媒体を目にしたことがある。
それを起動するには、
専用の機器が必要になるのだけど・・・・・・
パスワードと声紋の一致が必要で、
データを閲覧するには至らなかった。
無理に開くと、
データが抹消してしまう仕組みで。
・・・・・・あのPCと明来くんは、
何かしらの繋がりがあるとしたならば。
無闇には触れないと、あの時判断したの。」
「・・・・・・じゃあ、明来の“声変わり”を
迎える瞬間・・・・・・それを、
“あいつ”は待っている?」
「そう考えて、間違いないと思う。」
「・・・・・・」
明来は、項垂れる。
まさか、自分の成長と関わっていて、
しかもそれが、“声変わり”にも
影響しているなんて・・・・・・
そう考えたら、息をする事が苦しくなった。
本当に、自分は、一体何なのだろう。
「・・・・・・明来くん。」
凛とした声が、掛けられる。
その力強さのい陰で、
顔を上げることが出来た。
「あなたが舞乃空くんと出逢えたことは、
奇跡ともいえるけれど、
必然だったと私は思うの。
自然の摂理が、
“暗闇”の横暴を咎めようとしている、と。
だから・・・・・・
これから迎える真実を、
しっかり見据えてほしい。」
吸い込まれそうな瞳に、
呼吸する事を赦された気がした。
「あなたに眠っている未来を、否定しないで。
切り開こうとする思いを、忘れないで。
明るい方向へ導かれると・・・・・・
信じて、真っ直ぐ歩いて。」
彼女は真っ直ぐに、
自分の未来を見据えている。
それは、幾多にも及ぶ中で
光が差す方向の道へ、迷わずに。
「私たちが、全力で支えるから。」
一筋の光を、見出そうとしている。
ゆりが部屋から去るのを見送った後、
二人は出入り口のドアを見据えたまま
立ち尽くしていた。
動く事も忘れる程、頭の中は
考える事で一杯だった。
“暗闇”が自分と一体化して、
何をしたいのか。
両親も、巻き込んで。
「・・・・・・明来。」
舞乃空が、呼び掛ける。
「・・・・・・大丈夫か?」
視線を移すと、心配そうな表情で
自分を窺う彼を捉える。
彼に“見えて”いなかった部分が、
ゆりの話にはあった気がする。
彼女の見解に、驚いていた。
だとすれば。
彼には別の、何かが
“見えていた”のだろうか。
「・・・・・・舞乃空。
ゆりさんの話、聞いてどうやった?」
「・・・・・・正直、びっくりした。
お前の成長に関わっているとか、
そこまで“見えて”いなかったから・・・・・・」
「お前が“見えていた”事って、何なん?」
その質問に直ぐ、彼は答えをくれない。
「教えてくれ、舞乃空。」
「・・・・・・先生が、来てからにしよう。」
「今、聞きたい。」
「・・・・・・」
「頼む、舞乃空。」
これ以上、先延ばしにされたくない。
目を逸らし俯いている彼に、懇願する。
“見えていた”事とは、一体何なのか。
「・・・・・・
俺が、“見えていた”のは・・・・・・」
ピンポーン。
ドアチャイムが鳴り、二人は
出入り口のドアへ目を向ける。
恐らく、訪れたのは・・・・・・
「おはよう、二人とも。『ジーン』です。
開けてもらえるかしら?」
明るめの、落ち着いた声音。
ドアを開けようと舞乃空が動こうとすると、
それを明来は片腕を掴んで止めた。
彼は、困惑した目を向ける。
「明来・・・・・・」
「お前の口から聞きたい。
開ける前に、教えてくれ。
・・・・・・お前が“見えていた”事。」
―この距離ならドア越しでも、
先生に聞こえる。
・・・・・・聞いてもらう。
「・・・・・・」
根負けした舞乃空は、明来に目を向けて
重い口を開く。
「・・・・・・お前の身体は、
“暗闇”の身体と同じだって事だよ。」
「・・・・・・えっ?」
ようやく彼が紡いだ事を、
直ぐに理解するのは、難しかった。
聞き返そうとしたが、舞乃空は
引き止めていた自分の手を
静かに除けて、出入り口のドアを開ける。
「正確には、少し異なっているけれどね。」
開いた先に立っていた『ジーン』の言葉は、
彼が紡いだ言葉を肯定して、
付け加えているようだった。
「確証を得る為に、
今から調べようとしているの。
・・・彼を責めないであげてね。
隠しながら出来る事を考えて、
あなたの力になろうと
寄り添っているのだから。」
彼女の後ろに立つ、黒縁眼鏡を掛けて
白いスクラブを着た男性。
その彼の存在が気になり、
二人は目を向ける。
「彼は、『看護師』の『ラッヘン』よ。
私の心強い相棒と言っていい存在ね。」
「わぁっ。せ、先生。嬉しいですぅ。」
ぱぁ、と笑うその彼は、青年のように見える。
キューティクルが保たれた
マッシュボブの黒髪は、お辞儀をすると
柔らかく揺れた。
「初めましてぇ。今回お世話になりますぅ。」
「明来くんの採血とCT検査を
実施したいと考えているけど・・・・・・
問題はないかしら?」
舞乃空が告げた言葉と、
それに付け加えた『ジーン』の言葉が
気になって、今にも問いたいところだったが、
抑えて明来は、頷く。
「検査の後、お話しましょうか。
・・・聞きたい事があるのでしょう?」
その気持ちを汲み取っているのか、
『ジーン』の声音は優しかった。
申し出に対して、さらに深く頷く。
「・・・・・・まずは、二人とも。
無事で何よりよ。」
母親のような眼差しを向けられ、
二人は静かに彼女へ視線を返す。
「現実は、思っている程優しくはない。
けれど受け入れてしまえば、
その中で見出す幸せというのは、大きい。
・・・・・・あなたたちがそれを
理解できた時、“暗闇”を退けられると
私は考えている。」
さぁ、行きましょう。
背中を優しく支えるように、彼女は促す。
それに抗う気は、もうない。
全てが分かればいいと。そう思った。
『ジーン』と『ラッヘン』に連れられて
歩いていく途中、同じような廊下と同じ扉を
何回も通っていった。
来た方向を覚えていない程に。
案内されなければ、
決して辿り着けないだろう。
『ここ』に訪れて、ずっと傍にいてくれた
舞乃空は今、部屋で待機している。
自分に隠された事実を知りながら、
ずっと支えてくれていた。
なぜ、そこまで。
度々そう思ってきたが、それが、彼なのだ。
彼だから、ここまで大切に想ってくれて、
支えになってくれている。
ようやく、それに気づけた。
彼じゃなければ、いけなかった。
自分には、彼が。
この気持ちが、今にも溢れそうだ。
彼と一緒に時間を重ねれば重ねる程、
人としての必要な何かが、生まれる。
しばらく歩いて辿り着いた場所は、
しんと静まり返る、人気のない
病院の待合室のような所だった。
白い壁に、落ち着いた深緑とベージュが
チェック柄に構成されたタイルカーペット。
その廊下が、多岐に伸びている。
『ジーン』と『ラッヘン』は、その内の一つに
曲がって歩いていく。
明来も間隔を空けて、後を追った。
「このエリアまで入った部外者は、
あなたが最初になるでしょうね。」
口を開かず歩いていた空間に、
ようやく『彼女』が言葉を発する。
「私の主な専門は、心療内科。
だけど、専門という壁を作らず
全ての科を網羅すべきだと考えて、
様々な専門分野を渡り歩き、経験を経て
技術を身に付けているわ。日々、勉強中よ。
・・・他にも勿論『医者』はいるけど、私は
医療エリアを総括する権限を
任されている。」
とある扉の前まで歩いていくと、立ち止まる。
「私はCT検査の準備をするから、一旦
ここでお別れね。」
「あなたは、僕とともに
こちらへどうぞぉ。」
柔らかい笑みを浮かべた『ラッヘン』が、
さらに奥へと促すように歩いていく。
明来は言われた通りに、再び
廊下を歩き出す。
『彼』は、ぺたぺたと音を立てて歩く。
極端な内股が、先程から
とても気になっていた。
『ジーン』が離脱して入った扉から、
二つ目の扉の前で止まって、中に入る。
「目の前の丸椅子に、お掛けくださぁい。」
柔らかい物腰に、肩の力が抜けた。
舞乃空とはまた違った、リラックス効果が
『彼』の笑顔には備わっている。
小さい頃、風邪で熱を出した時に
連れられていった、病院の処置室に似ている。
独特な匂いと、無機質な空間。
その時と違うのは、
自分たち以外の人間がいない事だ。
促された丸椅子に座ると、採血台が
すぐ側に置かれていた。
『ラッヘン』は、ステンレスの器械台を
移動しながら声を掛ける。
「利き腕じゃない方の腕を捲られて、
ここの肘置きに出してくださいね。」
言われた通りに、
着ている服の袖を捲り、肘を置く。
すると『彼』は、駆血帯を手際よく巻いた。
「今まで採血した際に、手が痺れたり
気分が悪くなった事は
ありませんでしたか?」
先程までの柔らかな雰囲気から、
しっかりと包み込むような、
安心感をもたらす空気に変わっている。
「・・・・・ないと思います。」
採血した事が、
あったかどうかも分からない。
「アルコールで被れたりする事は、
ありませんか?」
「・・・・・・はい。」
アルコール綿を、肘の内側に塗られる。
ひんやりと、冷たい。
「ちくっとしますが、
すぐに終わりますからね。
親指を中にして、軽く握ってください。」
『ラッヘン』は器械台にある採血管を
側に置き、注射器を手に取る。
注射は、どうってことはない。
ただ、その形状がいけないと思う。
平気だろうが何だろうが、
針で刺される行為は、誰だって少しは
身構えてしまう。
だから、それを見続ける勇気はない。
明来は、自分の腕から目を逸らす。
「明来、というお名前なんですねぇ。
とても素敵な名前ですぅ。」
「・・・・・・はぁ。」
急に、何だろう。
「僕は、お菓子を作るのが大好きで
毎朝作って、先生たちや同僚に
食べてもらっているんですぅ。
喜んでもらえるのも、嬉しくて。
良ければ、もらってくれませんか?」
「・・・・・・はい。
ありがとうございます。」
甘いものは、嫌いじゃない。
「今日は、レモンピールをアクセントにした
チョコブラウニーを作りましたぁ。」
―・・・・・・お菓子、かぁ。
いつか、作ってみたいとは思う。
「はい、終わりました。お疲れさまですぅ。」
え?
明来は驚いて、自分の腕を見る。
いつ始まったのか分からない程、
ちくっとはしなかったし、痛みもなかった。
既に、止血バンドが巻かれている。
「今日一日、腕を掻いたり
激しい運動は避けてくださいね。
はい。これをどうぞぉ。」
にこにこしながら差し出されたそれは、
紙のワイヤータイで口を結んで
透明の小袋に入った、
二切れのチョコブラウニー。
ぽかんとして、それを受け取る。
「そちらのソファーに座って、
少しお待ちくださいね。
・・・あ。それ食べていてもいいですよぉ。」
促されるままに立ち上がり、
右手側にあるベンチソファーに腰を下ろした。
『彼』は、部屋の奥へ姿を消す。
チョコブラウニーは、
一口サイズに切られている。
手の中にあるそれを、明来は眺める。
ワイヤータイを丁寧に取り、袋の中から
一切れ取り出すと、口に含んだ。
程よい生地の甘さ。
レモンピールの甘酸っぱさと、皮のほろ苦さ。
全体が褒め合って、
笑い合っているようにバランスが良い。
―・・・・・・美味い。
これ、寺さんが食べたら喜びそうやな。
ふと、職場の上司である
寺本の顔が浮かんだ。
その後に、水野と松宮の顔が浮かぶ。
自分は無事、日常に戻れるのだろうか。
やっと現場で思うように動けるようになって、
仕事が楽しくなってきたのに。
「・・・・・・」
明来は、首を横に振った。
―いかん。こんな事考えとったら、
舞乃空に申し訳ない。
“受け入れてしまえば、
その中で見出す幸せは、大きい。”
受け入れる事。
それが一体、何なのか。
ちゃんと見て、分かっていかないと。
ピンポーン。
ドアチャイムが鳴る。
ベッドに寝転がっていた舞乃空は、
首を傾げて出入り口のドアへと歩いていく。
「どちら様っすかー?」
「おはようございまーす。
『掃除屋』でーす。
お部屋のお掃除を、させていただきたいと
思いまーす。」
その声を聞いて、訝しげに思う。
声が、幼い。
ドアを開けて姿を確認しようとすると
視線が、かなり下を向いた。
白い三角巾と白いエプロンを
身に付けた少女。
つぶらな瞳は、自分の姿が映る程
綺麗に澄んでいる。
発した声の通り、自分よりも若すぎる。
「お部屋をお掃除している間、どうぞ
ゲストルームでお過ごしくださーい。
『バリスタ』さまの、美味しいコーヒーが
堪能できますよー。」
にこにこ。
笑顔が、とても眩しい。
つられて、舞乃空は笑みを浮かべた。
どうであれ彼女は、プロだ。
「ありがとーっ。お言葉に甘えまーす。
・・・どのくらいで終わるー?」
「15分ほどで完了しますが、
余裕を持って30分と見ていただいて
お戻りくだされば、有難いでーす。」
「ははは。ご丁寧にどーも。
りょーかい。よろしくお願いしまーす。」
「はーい。」
少女は、丁寧に頭を下げる。
その所作は、ひどく大人びていた。
彼女の後ろに控えているワゴンには、
使用済みのタオルやゴミを回収する袋が
取り付けられている。
様々な掃除道具も、備え付けられていた。
「鍵は、お持ちください。
完了して部屋を出た時、
鍵を掛けますので。」
「はーい。」
快く返事をして、舞乃空は
メインベッドルームに戻ると、
ルームカードキーを手に取る。
「貴重品も、お持ちくださーい。」
出入り口で待機している、
少女の声が飛んでくる。
彼女には、盗みを働く気は全くないだろうが
トラブル防止の為でもあるのだろう。
「はいはーい。」
部屋のソファーに置いていた
自分のリュックから、
財布とスマホを取り出す。
スマホは電源が入れられないが、
立派な貴重品だ。
ちらっと、ベッドの上に置かれた
明来のショルダーリュックに目を向ける。
―明来のも、預かっておくか。
・・・ごめん。勝手に開けるぞー。
心の中で断りを入れて、
ショルダーリュックのチャックを開ける。
彼のスマホと財布を取り出す際に、
奥底にある意外な物を見つけた。
―・・・・・・モンキーレンチ?
しかも手の平サイズで、小さい。
―ちっさ。かわいー。
・・・・・・何で持ってきてるんだろ?
後で聞いてみよ。
小さく笑って、中に戻す。
彼に、ずっと隠していた事実。
それをようやく、伝えた。
あまり上手く言えなかった気がする。
実際、なぜ“見えた”のか、
自分でもよく分からないのだ。
嘘のような、真実。
それが本当に可能なのかと、
疑わざるを得ない。
だが。どうであれ。
―・・・・・・あいつは、あいつなんだ。
誰のものでもない。
それが、分かっていれば。
自分は真っ直ぐに、彼を見つめられる。
ゲストルームの照明は、明るい。
照度が変わると、雰囲気も変わる。
昨晩見上げた天井絵も、はっきり見える。
そして、香ばしい珈琲の香りが
鼻腔をくすぐる。
一気に、肩の力が抜ける気がした。
「おはようございます。」
落ち着いた、低い声が掛けられる。
白髪交じりの黒髪は綺麗に整えられ、
微笑んだ目尻に刻まれた皺は
深くて、年輪がある。
「お好きな席へどうぞ。」
静かに促されて、空間全体を見渡す。
すると、テーブル席には誰もいない。
カウンター席に並んで座っている、
歳を重ねた男女の姿だけだった。
後ろ姿からでも、趣がある。
この男女が何となく気になって、舞乃空は
二つ空けてカウンター席に腰を下ろす。
「・・・・・・あの、コーヒーください。」
「かしこまりました。」
物腰は柔らかく、動作に無駄がない。
恐らく、あの少女が言っていた
『バリスタ』とは、この男性の事だろう。
「行きましょうか。」
女性の方から、声が上がる。
歳を重ねた故の、独特な響き。
しかし基礎となっている声音は、
誰かに似ていた。
思わず、視線を向ける。
彼女の声掛けに反応して、男性は
ゆっくりと席を立った。
―・・・・・・夫婦、だな。
距離感と、雰囲気。
空間を共有して、過ごしている。
女性の方も席を立ち、
『バリスタ』に向けて微笑む。
「ごちそうさま。今日も美味しかったわ。」
「また、お待ちしています。」
彼も微笑み、ゆっくりと頭を垂れる。
―・・・・・・あっ!
女性が誰なのか分かって、
舞乃空は目を見開いた。
男性が、ゆっくり歩き出すと
女性も、三歩遅れて後を付いていく。
彼女と、目が合った。
微笑み返され、会釈をされる。
呼び止めようか。
迷っていると、女性が男性に向けて
声を掛ける。
「先に行っていてくださいな。」
その声に彼は反応を見せず、歩いていく。
背中で、“分かった”と言っているようだった。
舞乃空は、席を立って深々と頭を下げる。
それを目にして、彼女は柔らかく微笑んだ。
この出逢いは、偶然か、必然か。