垣間
『Migratory Bards』の門は開かれた。
そこから吹き込む風に、とある者は均衡を失い
本来の姿を取り戻す。
待ち受ける空間は、少年たちの想像を
遥かに超えていく。
10
風。
懐かしい。
ねっとりして、暗くて。
何も、考えられなくて。
寂しくて。悲しくて。
でも、涙は出なくて。
「・・・・・・ふぐぅ・・・・・・」
痛い。
苦しい。
「・・・・・・あはははっ・・・・・・」
怒りしか、頼れるものが無くて。
腹が立つね。
こんな所に、閉じ込めやがって。
*
完全に開いた門の先へ、
蔵野が先頭を切って歩いていく。
ゆりは、ドーナツの持ち帰り箱を
そっと門の傍らに置くと、
彼の後を追うように付いていった。
舞乃空は地面に置いたリュックを背負い、
明来を見据えたままの『烏』に
お辞儀をすると、先を行く二人に続く。
隙がない程見据えられ、明来は
身を縮めながら踏み出す。
「待て。小僧。」
すぐに、呼び止められた。
彼女の方へ向くと、
情けないくらい怯えた自分の顔が
映り込む、大きな黒真珠の双眸を捉える。
気が変わったのだろうか。
やっぱり自分を、
『家』に入れる事は出来ないとか。
そう思って身を固めていると、
不穏な様子に気づいて
舞乃空が振り返り、目を向けている。
「・・・・・・名は、何という?」
容姿は幼いのに、
迫力があるのはなぜだろう。
自然と背筋を伸ばし、
掠れる声を整えるように一息ついて、答える。
「・・・・・・蓮尾 明来です。」
「心に、深く刻め。その名を。」
力強く紡いだ彼女の表情は、
妙な美しさがあった。
包まれる感覚。
これは、そうだ。
優しい眼差しを向ける、母親。
母性、というものだろうか。
明来は何も言葉を返せず、会釈をすると
ゆっくり歩き出す。
『烏』が明来から目を逸らし、
皆が中へ入った時点で
ぎいぃぃぃ・・・・・・と音を立てて、
門が閉まっていく。
完全に閉まり切るのを、明来は
立ち止まって見守った。
「明来、行こうぜ。」
ぽん、と肩に手が置かれる。
目を向ける先には、舞乃空の笑顔。
「・・・・・・ん?どした?」
返事もせず見据えているので、
彼は首を傾げている。
そう。
彼に呼ばれるだけで、自分は。
自分で、いられる。
「・・・あ。ハグしたくなったとかー?」
ニヤニヤしながら言われ、動揺して
思わず目を逸らす。
―・・・・・・少しだけ、思ってしまった。
正直、へこんでいた。
歓迎する空気ではなく。
どちらかというと、距離を置くような。
『烏』の対応を見て、自覚した。
蔵野も。ゆりも。
“暗闇”に対して、警戒が強い。
そんな中、彼だけは、いつも通りだ。
笑顔を見て、安心した。
今すぐ、縋りつきたい気持ちになる。
顔を赤くして歩き出す明来に、舞乃空は
笑顔のまま並んで付いていく。
「いつでもいいぞー。」
「・・・・・・そばに・・・・・・」
「・・・ん?」
「傍に、いてくれるだけでいい。」
強がった言葉だった。
それを、ぽそっと投げる。
短い言葉だったが、それで把握した彼は
明来の頭に手を乗せて、
くしゃくしゃと撫でる。
「ああ!ずっと傍にいるぞー!」
「うわっ、やめろっ!」
「俺はいつでも明来の味方だー!
忘れんなよー!」
「あ、ありがとっ、わっ、分かったからっ!」
「へへっ」
思うままに、ぐちゃぐちゃに撫で回して
満足したのか、舞乃空は
ほっこりした笑顔を浮かべて前を向く。
ボサボサになった髪を、両手で解しながら
明来も小さく笑った。
本当は、今すぐにでも逃げ出したい。
だけど、どこに逃げても
解決は、しないのだ。
何とか奮い立たせる。
彼が、傍にいる。
窓はなく真っ直ぐに伸びた
黒い大理石の廊下を、壁の等間隔に置かれた
淡い照明が照らしている。
廊下の真ん中に敷かれた、深い真紅の絨毯。
その上を、明来と舞乃空は歩いていく。
蔵野とゆりは、既に突き当りまで到達して
自分たちが来るのを待っていた。
その二人に目を向けながら、歩を進める。
「門のお姫さまもだけど、あの二人も本当に
お前を助けたいだけだよ。だから、
いっぱい甘えさせてもらえ。明来。」
舞乃空は片手で優しく、
明来の背中を軽く押す。
「迷惑だなんて、誰も思っちゃいねーから。」
「・・・・・・うん。ありがとう。」
彼の優しい言葉に、泣きそうになった。
―もう、自分は。
“暗闇”に怯えながら、過ごしたくはない。
蔵野とゆりは、仲良く歩いて行く
二人の少年に目を向けながら、
僅かな空気の亀裂を感じ取っていた。
それは、小さな異変。
やがて、大きな嵐に成りうる因子。
「・・・・・・蔵野さん。
今すぐ『部屋』へお戻りください。」
先に、彼女が鈴音を鳴らす。
「・・・・・・『彼女』には、
僕から伝えておこう。
君は、彼らとゲストルームへ。」
彼は、穏やかな声音を響かせた。
互いに、視線を合わせる。
短い言葉を交わしただけだが、
確かめ合うには十分だった。
地下通路を歩いていた時。
二人は、心で会話をしていた。
それを成す事ができるのは、蔵野の
“連鎖する力”があっての業である。
ゆりが見据えた、起こりうる未来。
それに対応する助言と、
最善の事象へ導く為に。
明来と舞乃空が
ゆりの元へ辿り着いた時には、
蔵野の姿は見当たらなかった。
「彼は急用があって。私たちは、
こちらの廊下に続く
ゲストルームへ行きましょう。」
今いる場所は、突き当りのT字。
ゆりが促す方向は、左側である。
途中、蔵野が右側に歩いていくのを
二人は目視していた。
「ゲストルームって・・・・・・?」
明来に聞かれて、ゆりは微笑む。
「『私』たちの休憩場所・・・って、
ところかしら。依頼主と、
話し合う場でもあるのだけど。
明来くんと会わせたい『彼女』とは、
そこで待ち合わせをしているの。
忙しい人だから、すぐには
会えないかもしれないけど・・・・・・
待つには、十分の所よ。
飲み物も食べ物も、
無料で提供してくれる。」
「へー!無料で?!心広いっすねー!
流石蔵野さんだなー!
『家』って、城みたいっすよねー。
後で案内してくださいよー。」
「ふふっ。残念だけど、
気軽に立ち入れるのは、ここまでよ。
あとは、部外者以外
立ち入り禁止区域だから。」
“立ち入り禁止”と言われると、
踏み入れたくなってしまうのは、なぜだろう。
舞乃空も同じ気持ちだったのか、
悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「そう言われると、
入りたくなっちゃいません?
もし、うっかり入っちゃったら
どうなるんっすかー?」
和やかだったゆりの表情は、
真摯に変わる。
「保証は、しないわね。
うっかり、では済まないわよ。」
「・・・・・・」
彼女が紡いだ一言は、重かった。
そう感じるのは、人柄のせいなのだろうか。
明来と舞乃空は、それ以上
何も聞く事が出来ずに押し黙る。
委縮している二人を見て、
ゆりは表情を緩ませた。
「言うのが遅くなったけど、
『家』の中での撮影、スマホ操作は禁止。
電源は切ってもらうわ。
・・・入れたところで、圏外だとは思うけど。」
“圏外”という言葉が気になり、明来は
ジーンズのポケットからスマホを取り出す。
電波を見ると、確かに圏外である。
“圏外”の文字を見るなんて、機種変し終わって
使わなくなったスマホくらいだ。
「えーっ。ガチで圏外?」
舞乃空も同じく自分のスマホで確認して、
怪訝そうにしている。
「仲間同士で連絡取り合う時、
どうするんですかー?困るっすよね?
専用のヤツがあるとか?」
「・・・・・・詳しくは言えないけれど、
特別な無線がある、と言っておくわね。」
スマホが、使えない。
それだけで、命の半分を削られたような。
物心つく前から、身近にあるものだから
生活の一部なのだが。
「音楽、聴けないじゃないっすかー・・・・・・」
ぼそっと不満そうに舞乃空が呟くと、
ゆりは小さく笑って歩き出す。
「極上の音色は、聴けると思うけど。」
意味深の言葉を、理解できるわけがない。
そんな彼女の後を付いていくしかなくて、
明来と舞乃空は顔を見合わせ、渋々
スマホの電源を切って歩き出した。
等間隔に置かれた照明が淡い為、遠くまで
はっきり見通す事が難しいが、
古めかしい扉が見える。
青銅、というものなのか。
くすんだ青緑色のそれは、
歴史の教科書に載っていた出土品を
連想させた。
「入るの、勇気いるなー。」
舞乃空の意見は、一般的だと思う。
扉の向こう側が、どんな空間なのか
想像もつかない。
「ようこそ、ゲストルームへ。」
凛と、ゆりの声が響く。
扉が開くと同時に、溢れ出す音色。
吹き込む空気の流れに乗り、繊細な音の粒が
耳を通して身体中を駆け巡る。
「・・・・・・えっ?嘘だろっ?」
舞乃空は、驚愕している。
淡い照明の中、明来は
広がる空間に目を凝らして、
音色の源を辿った。
溶け込む漆黒の光沢は、グランドピアノ。
それに向かう、
独特なヴェネツィアンマスクを付けた者。
それによって、顔を窺い知ることは出来ない。
しなやかな、白く細い腕から
女性の可能性が高いという事くらいしか、
判断出来なかった。
「・・・・・・“HARU”だ・・・・・・」
彼が紡いだ名前に、なぜか
異議を唱えようとは思わなかった。
先程まで車内で聴いた、自由な旋律。
それが、こんなに近くで響いている。
「“HARU”・・・だよな。ゼッタイ。」
受け入れられないのか、彼は
同意を求めるように投げ掛ける。
それに応えるには、自分の耳と知識では
不十分な気がした。
「さぁ二人とも、中に入って。」
出入り口付近で突っ立っている
明来と舞乃空を促すように、
ゆりは声を掛ける。
「ゆ、ゆりさんっ!何でここに
“HARU”がいるんっすか?!」
堪らず舞乃空が尋ねると、彼女は
人差し指を口に当てた。
「しっ。声が大きい。」
「だ、だって・・・・・・!」
「ここにいるのは、私たちだけじゃないのよ。
声のトーンを落として。」
舞乃空が聞きたくなる気持ちは、
明来も同じだった。
「・・・・・・そっくりさん、とか?」
「ああ、それかも・・・・・・って!
俺の耳は誤魔化せないって!
間違いなく本人だよっ!」
ごにょごにょと二人が小声で話す中、ゆりは
カウンターで静かにこちらを窺っている
バーテンダーに話し掛ける。
「・・・・・・奥の、テーブル席は
空いていますか?」
バーテンダーも、
普通の出で立ちではない。
目元を覆う、銀色のヴェネツィアンマスクが
印象強い。
「・・・・・・ご用意しております。」
会釈をして、彼は答える。
「・・・・・・何か、見えた?」
その質問に対し、彼は首を横に振って
言葉を紡ぐ。
「・・・・・・お前の、言う通りだな。
繋がっているが、意識を保っている。
でも、自分たちが知っている“共鳴”とは、
全く違う気がする。」
敬語ではなく、対等の言葉遣い。
それにゆりは、訝しがることなく頷く。
「・・・・・・そうね。
それは、感覚で分かっていたの。」
「無理矢理“切って”しまったら・・・・・・
彼に影響が出るだろうな。
多分、かなり深刻な。
先生の見解に従って、慎重に
実行した方がいい。」
的確な意見に、尚も彼女は頷いた。
「・・・・・・うん。ありがとう。」
礼を言い残し、
奥のテーブル席へと歩いていく。
それに気づいて、明来と舞乃空は
ゆりの後に付いていった。
彼女にとって、バーテンダーの彼は
唯一の理解者であり、信頼できる存在である。
苦楽を共に味わい、
支え合って育ってきた兄妹。
何者も得難い絆が、二人にはあった。
ゆりが向かったテーブル席は、
自由な旋律を奏でる彼女の目の前である。
間近で音色が迫る空間に、
明来と舞乃空は半ば呆然と
重厚のソファーに座り、リュックを下ろす。
デバイスで聴くのとは、全然違う。
彼女の息遣いまで、聞こえてきそうだ。
「・・・・・・やべー・・・・・・
俺、もう泣きそうなんだけどー・・・・・・」
ピアノの音色に、心を打たれている舞乃空。
彼の横顔を見ると、
目が潤んでいるのが分かる程
淡い照明に反射している。
分かる気がする。
優しくて、温かい。
音の粒に包まれる感覚は、初めてだった。
目元はマスクが覆っていて窺えないが、
潤った唇から白い歯が覗き、
笑っているように見えた。
純粋に、弾くのを楽しんでいる。
そうとしか、思えない。
「・・・・・・
ほぼ毎晩彼女は、この場で演奏を
提供してくれているの。」
音色に浸る二人を遮らないように、
向かい合って着座したゆりは
さり気なく言葉を添える。
しばらくの間、皆は
空間いっぱいに広がる音の粒に
耳を傾けていた。
明来は、高い天井に描かれた絵に気づく。
美術の授業で、見たことがあるような。
神々しくて、圧倒される。
「・・・・・・変装しているのは、やっぱり
身元がバレないようにですか?」
ぽつりと、舞乃空が疑問を投げ掛ける。
それにゆりは、穏やかに答えた。
「それもあるけど・・・・・・彼女は、
真っ直ぐな髪と“想ちゃん”に憧れていてね。
この仮装のコンセプトが、
とても気に入っているみたい。」
「えっ?」
「ふふっ。・・・彼女とは、
ちょっとした知り合いなの。
私の兄とも、親交があって。」
多彩な交友関係に、二人の少年は
只々驚くばかりである。
「ゆりさんって・・・・・・実は、
めっちゃすごい人だったりします?」
そう聞かれて、ゆりは笑うばかりだ。
「凄いっていうのは、どうかしらね。
・・・・・・この仕事をしていると、
自然と縁が生まれるの。」
三人の所へ、バーテンダーが現れる。
「宜しければ、何かお持ち致します。
何なりとお申し付けください。」
そう言われて、舞乃空が笑って応える。
「えー?メニューないんっすか?
何でもいいんっすかねー?
炭酸が強めのグレープジュースとか、
ありますー?」
「はい。承りました。」
「あ、あるんだ。」
ゆりも、にこやかに言葉を返す。
「私は、アイスレモンティーで。」
自然と注文する二人に対し、
明来は戸惑い気味で
バーテンダーに目を向けた。
マスクで目元は窺えないが、
微笑んでいるように見える。
―・・・・・・どうしよう。
思いつくのっていったら、
一択なんやけど・・・・・・
「・・・・・・えっと・・・・・・
じゃあ、アイスコーヒーにします・・・・・・」
「承りました。」
会釈をして、バーテンダーは去っていく。
「こんな特等席、普通じゃ取れねーよ。」
ピアノを奏でる女性を眺めながら、
舞乃空は寛ぐように
ソファーの背に身を預けている。
「彼女のピアノを聴くだけの為に、
このゲストルームに訪れる仲間も
多いわね。」
「無料ですよねー?ちょーいいっすよね。
・・・例えばっすけど、俺も
なろうと思えばなれるんですか?」
「・・・・・・もし、なれるとしても
止めた方がいいわ。」
ゆりの目は、
ピアノに向かう女性の姿を映す。
「死と、隣り合わせだから。」
「・・・・・・」
「これだけの、極上の憩いがなければ
正気を保っていられない程に。」
どうして彼女の言葉は、こうして
重く響くのだろうか。
経験の積み重ねが、言葉に
上乗せされているのかもしれない。
流石の舞乃空も、言葉を返せない様子だ。
「・・・・・・あの、ゆりさん。
聞いてもいいですか?」
投げ掛けると、彼女は自分に目を向けた。
切れ長の目は強い印象を与えるが、
瞳に浮かぶ光は、温かく優しい。
「待ち合わせをしている人って・・・・・・
どんな人ですか?」
「・・・・・・『医者』と呼ばれる人よ。
心の、ね。
私も、幾度となく助けられているの。
・・・『彼女』も、“見える”力を持っている。
目で見える物ではなく、深い部分を。」
「俺の見え方、みたいな感じっすかねー?」
「そうね。私とあなたの力と同じ。
ただ、私たちの見える範囲よりも、
『彼女』の視界は、もっと深い。
・・・普通では、到底理解できないところね。
かなり苦労して、『ここ』に
辿り着いた人なのよ。」
「・・・・・・そ、そーなんですねー。」
―絶対、分かってないやろ?
明来は、分かった風な相槌を打った
舞乃空に、そう言いたげな視線を送る。
「『彼女』が生きていて、
『ここ』にいるという事が奇跡なのよ。
・・・・・・『彼女』がいるだけで、
大勢の心、命が助かる。」
ゆりは、淀みなく言葉を紡いだ。
「だから、明来くんも助かる。
そう思っているわ。」
揺るぎない、自信。
いや、言い聞かせているのか。
これだけ強い意思を持って
見据える事が出来るのは、
多くの苦しみと経験を
乗り越えているからなのだろうか。
自由な旋律が、優しく舞う。
これからの、近い未来を祝福するように。
病床エリア・地下4階。
「夕食の時間ですよぉ。」
ノックと声を掛けた後、
黒縁眼鏡を掛けた『看護師』の男性は、
IDカードでロックを解除して
部屋の中へ入る。
彼は、この部屋の担当を任されて間もない。
食事以外の身の回りの世話は、
患者が女性なので
他の『職員』が受け持っていた。
健康状態を窺うのも兼ねて、
食事の時間には必ず訪れている。
ぺたぺたと、狭い歩幅。
その度に、さらさらと
綺麗なマッシュボブの黒髪が揺れる。
奥に入っていくと、ベッドの上で
膝を抱えて蹲る女性が目に入った。
傍には、
何も描かれていないスケッチブック。
そして、多彩なクレヨンが散乱していた。
「ここに置いておきますねぇ。」
所定のテーブルに、
食事が乗ったトレーを置く。
前『看護師』の引継ぎによると、彼女は
食事には反応を見せている。
“食べてもいい”と判断したら、
一心不乱に食べ進めていた。
今朝も昼も、その様子を窺えた。
しかし、夕飯の今時は
蹲ったまま、何も反応がない。
少し違和感を覚えて様子を窺っていたが、
目を閉じて眠っているようだった。
彼は部屋を出ようと、彼女に背を向ける。
その瞬間、蹲っていた女性は
身体を起こした。
口端を上げて、笑う。
その間、10秒。
『看護師』の男性は、
後頭部に強い衝撃を受けて意識を失う。
何が起こったのか把握も出来ずに
膝が落ち、床へ倒れ込んだ。
女の両手には、パイプ椅子。
少し息切れをしながら
気絶をした『看護師』の男性を見下ろし、
動かないのを確認すると、
男性の首に掛かっていたIDカードを奪った。
用済みだと言わんばかりに、
パイプ椅子をベッドに放り投げる。
部屋を出ようと歩き出すが、
足元がふらついた。
原因は、分かっている。
隔離されたこの狭い空間で、数年。
歩く事も身体を鍛える事も忘れていた。
女は、舌打ちをする。
「・・・・・・あいつ、何してんのよ。」
唯一、言葉を紡ぐことは普通に出来た。
今、床に倒れている『看護師』ではなく。
ずっと傍にいた、あの男。
なぜ、急にいなくなったのか。
そういえば、姿を見せなくなる前。
自分を抱きしめ、様子が変だった。
もしかしたら、自分のように。
思い出したのかもしれない。
とにかく、考える時間はない。
女は、IDカードを手にして部屋を出る。
―何やろ。急に呼び出しやなんて。
一昨日きちんと挨拶して、
離れたばかりやのに。
オレンジ色のスクラブを着た
『看護師』の男は、不思議に思いながら
呼び出された場所へと向かっていた。
その場所は、一昨日まで担当していた
病床エリア・地下4階の医局室。
担当医だった『ジーン』に、
“渡したいものがある”と言われて、
呼び出されたのだ。
―ご褒美やろか。・・・・・・ちゃうな。
せやったら一昨日、渡すはずや。
医局室は、地下4階下りてすぐ左に曲がった、
長い廊下の突き当りだ。
階段とエレベーターで行き来するには、
担当医の許可がないと使用できない。
そして、各所の出入り口には
セキュリティシステムが設置されている為、
IDカードで解除しなければ
病床エリアは行き来できないのだ。
基本、『看護師』は階段を使う。
地下4階へ下り立ち、セキュリティ解除して
病床エリアへと入った。
左に曲がり、長い廊下へ差し掛かると、
あり得ない光景が目に入る。
人影。
担当の『ラッヘン』ではない。
その人影は、『患者』衣を着ている。
長い、黒髪。
毛先は、緑色に染まっている。
男は、この上なく目を見開いた。
―・・・・・・み、見間違い、やないわ。
何で、ここにおんねん。
勿論、顔見知りだ。
一昨日まで担当していた、『患者』の女性。
男が固まって立ち尽くしているのを、
直ぐに女は気づいた。
じっと彼を見据えながら、
目の前まで歩いていく。
―『ラッヘン』は、どうしたんや?
混乱する頭で、女を凝視する。
近づくにつれて、違和感を覚えた。
目つき。
まず、それが今までと違う。
そして、纏う雰囲気。
病床で見てきた、弱々しい彼女ではない。
女は立ち止まると、口端を上げて言い放つ。
「その格好、似合ってないってば。
あんたって、ほんと服のセンスないね。」
はっきりと言葉を紡ぎ、
強い意思表示する、その女。
頭の何処かで、誰かが叫んでいる。
―・・・・・・なんや、これ。
何かが、おかしいで。
「・・・・・・ちょっと。何とか言いなさいよ。
いつまで、ふざけてるつもり?
ねぇ。無駄に話してる時間ないんだけど。」
「・・・・・・あかん・・・・・・」
―知っとる。
この女を、俺は、知っとんのや。
「脱出するから、手を貸して。」
「・・・・・・ふっ、ぐわあぁぁぁぁっ!!」
頭が、割れそうなくらい痛い。
不敵な笑み。
見下すような、目つき。
拒絶は許さない、自己中女。
「・・・・・・
・・・・・・
思い出したわ・・・・・・」
―完全に、思い出した。
自分は、気を失ったんや。
気絶させられて。
気づいたら、ここにおったんや。
「・・・・・・ふん。やっと思い出した?
話してる暇ないんだってば。
また捕まったら、何されるか分からない。
想像もしたくない。」
「・・・・・・俺は・・・・・・」
「嫌とは、言わせないよ。」
女は、男を睨みつける。
―こいつも、や。ここに、隔離されとった。
・・・・・・一体、何で・・・・・・
「・・・・・・」
「ちょっと。寝ぼけてんの?」
「あかん。頭の整理せんと。
・・・・・・俺たちは、捕まったんやな。」
「・・・・・・無様にね。
『あいつ』のせいで、抑え込まれてたのよ。
『ここ』で仕事してた時の記憶を、ね。」
―・・・・・・せや。
この数年間、俺も、こいつも。
『剥奪』、されとったんや。
男は、女が左手に握っている物に
視線を落とす。
IDカード。誰の物かは、想像がつく。
「・・・・・・もう、昔の俺と、ちゃうで。」
「・・・・・・はぁ?」
「弟はもう、俺とは何の関係もあらへん。
あんさんに従ったのは、
弟の治療費と入院費払う為に
金が必要やったからや。
それが今は、もうない。
新しい『職』を貰って、生活しとる。
ってことはや。あんさんの組織に
縛られることはないって事や。
てか、組織は壊滅しとんのちゃうか?
頭が捕まって、破綻しとんの聞いたで。
・・・・・・俺は、『ここ』の人たちに恩がある。
滅多な事できひんし、
俺のやりたいようにやる。」
「・・・・・・」
女は、明らかに不機嫌そうな顔になる。
「恩って何?勝手に抑え込まれて、
言い様にされて、隔離されて?
何、いい人ぶってんの?
・・・・・・ねぇ、あいつ死んだんでしょ?
もう誰も、私を縛る奴はいないって事。
誰も、何も言わせない。」
男は、じっと女を見据える。
煮えたぎる感情を抑え、
くぐもらせた声で言葉を吐く。
「・・・・・・どこまでも、勝手な奴や。
あんさんの兄ちゃんは、俺の弟を
助けてくれたんや。
あんさんの事もやで。ずっと
傍におったの、忘れたんか?
悪く言うのは筋違いやで!
・・・・・・縛るものは、ないやと?」
「もういい。あんたと話してると、胸糞悪い。
私一人でも、ここから脱出する。」
女は、男の横をすり抜けようとする。
だが、男は止めるように
彼女の片腕を掴んだ。
その拍子に、握っていたIDカードが落ちる。
「放せっ!!」
「大概にしぃや。・・・・・・
数年呆けた身体で、俺の力に勝てると
思っとんのか?」
実際のところ、女の足元は
ふらついているし、もがく力も
発する言葉より、ずっと弱い。
普段身体を鍛えている彼にとって、
彼女の力を制するのは簡単だった。
「あぁ、もうっ!!くそっ!!!」
「そんなに、逃げ出したいんか?
逃げ出して、どないするんや?
何もできひんで。」
「また抑え込まれるなんて、嫌っ!!!
私の邪魔をする奴ら全員、
殺してやるっ!!!」
叫びに近い、彼女の声。
その中に、何かの感情が混じっている。
「あんたもそうよっ!!!大っっ嫌い!!!」
―こいつは。
ほんまに。
どこまでも、勝手な奴やっ。
「・・・・・・放さへんわ。
あんさんの指図は、もう聞かへん。」
「あんたも結局っ!!奴らと同じ!!
偽善者がっ!!!」
「はぁ?おかしなこと言うで、ほんま。
俺は、やりたいようにやるだけや。」
―そうや。
もう、抑える必要は、ないんや。
「放せってばっ!!!」
「うるさいわ。」
遮る言葉と同時に、女は片腕を引かれて
抱き込まれる。もう一方の手は、
女の項を捉えた。
「・・・・・・っ!!」
言おうとして口を開きかけた女の唇を、
男の唇が覆い被さる。
もがいていた女の力が、一瞬止まった。
しかしすぐに、男の懐から
逃れようと、もがく。
男は、びくともしない。
圧倒的な力の前で、女は次第に
抗うのを止めた。
瞼を閉じ、強く被さる彼の熱に浸る。
ゆっくり離れると、女は
まだ間近にある男の顔を睨みつける。
「・・・・・・何なの、溜まってんの?
こんなことで言う事聞くなら、別に
いくらでもしてやるけど。」
返された言葉に、男は
大きなため息をついた。
「そんなんちゃうわっ!
・・・・・・あのなぁ。どうかと思うで。
ちょっとは自覚しぃ。」
「はぁ?」
「・・・・・・もうええ。
ここから逃げて、どないする気やって
言うとんのや。どこに逃げても、
捕まるのは時間の問題やで。」
「せっかく取り戻したのに、このまま
また捕まって抑え込まれるなんて、
絶対に嫌。邪魔をする奴は・・・・・・」
「もう俺の前では、誰も殺らせんで。」
「あんたも、例外じゃないって言ってんの。」
「殺れるもんならの話やなぁ。
そないにひ弱になって、よう言うわ。
ほんまに、笑けてくるわ。」
「銃さえあれば、あんたなんて一発よ。」
「出来たらの話やなぁ。
・・・・・・俺の『力』、忘れたんか?
俺を倒さんと、ここからは出られへんで。」
女は、目を見開く。
男の、『力』。
“空間を隔離する力”。
それが今、発動しているというのか。
だとしたら、各所出入り口に
厳重なセキュリティシステムがある故の
隔たれたドアが、空間の区切りになる。
廊下から先には、行けないという事だ。
「・・・・・・何してくれてんのよ。」
「しゃあないやろ。あんさんが悪いで。
殺すのなんやの言うからや。」
「解放しろ。」
「『ラッヘン』を、どうしたんや?」
「・・・・・・気絶させて、IDを奪っただけ。」
「ようやるわ、ほんまに。」
「解放しろってば。」
「指図は受けん。せやけど、条件付きで
解放してもええで。」
「・・・・・・条件って、何よ。」
―これで分からへんかったら、
こいつは相当、鈍感やで。
「俺の嫁さんに、なってくれへん?」
「・・・・・・は?」
「冗談やなくて、ほんまに。」
男は出来る限り、
真面目に告げたつもりだった。
しかし、女は堰を切ったように笑い出す。
「・・・・・・あ、あははははっ!!
何を言うかと思ったら!何それ?!
何で、そんな流れになるのよっ?!
冗談は顔だけにしなさいよね!」
笑い飛ばしているが、
動揺しているようにも、
見えないこともない。
―こいつの場合、具体的に言うた方が
ええのかもしれん。
手応えを感じた男は、
さらに突き付ける。
「ひどい奴や。旦那さんになろうとしとる
男の顔、けなしたらあかんで。」
「いや、ほんとに、馬鹿じゃないの?!
あんたがそんな風にふざけてるから、
あの時捕まったのよ?!」
「何言うとんのや。
捕まって良かったやないか~。
捕まってなかったら、
こんな熱~いプロポーズなんて
できひんかったで?」
女は心底呆れている様子だが、
先程までの殺気は、消え失せている。
「俺しかおらんで。あんさんみたいな
凶暴な女をもらおうって言う奴は。」
「・・・・・・ちょっと、あんたね。」
「俺にしとき。幸せにしたるから。」
「離れてよ。気持ち悪い。」
「傷つくわ~。せやけど、
何言われても嬉しいで。」
「いや、あんたの思考回路、
訳分かんないんだけど。」
【・・・・・・ふふふっ。】
突然、笑う声がした。
男からでも、女からでもない。
辺りを見回すが、誰も見当たらない。
【邪魔して、ごめんなさいね・・・・・・
ふふふっ。悠生くん、本当に面白いわ。
思わず出ていくタイミング、失っちゃった。
だから、声だけで失礼するわね。】
この声に、男は聞き覚えがあった。
一昨日まで毎日聞いていた、
馴染みのある声。
「・・・・・・『ジーン』先生か?」
【ええ。】
「俺の『力』、発動しとんのに
どうして・・・・・・」
“空間を隔離する力”が働いている間、
外部からの干渉は
何ものも受けないはずだった。
なのに、聞こえるという事は?
【この声は、私の心の声。
心は、永遠の海。
海を隔離することは難しいでしょ?
その原理なら、可能なのよ。
『当代』さまの力を借りて、
会話を可能にしている。】
「・・・・・・」
「何言ってるか分かんないんだけど。」
女は、機嫌悪そうに言う。
【どうも、初めまして。私は、『ジーン』。
よろしくね。】
「初めまして、じゃないでしょ?
解放されたら、あんたを殺しにいくから。」
【あら、素敵。
・・・・・・私を殺してくれるの?
ふふふっ。それは有難いわね。】
「せ、先生?!何言うとんのや!」
【でも、残念。悠生くんがいるから、
それは実現しないと思うわよ。
彼は全力で、あなたを阻止するから。】
女は、誰もいない空間を睨みつける。
【悠生くん。渡したいものがあるのよ。
私の提案を聞いてくれないかしら。
あなたも、彼女も、
生きられる方法がある。】
「・・・・・・提案?」
“生きられる方法”。
その言葉に、男は期待した。
【『看護師』としてのあなたは、
本当に素晴らしかった。もっともっと、
伸ばしてやりたかった。
だけど・・・・・・あなたらしさを、
抑え込んでしまっていたのも事実。
あなたの成長が嬉しくて、それを
見落としていた。私の反省すべき点よ。
・・・・・・この数年という時間の経過は、
あなた達を変化させた。
今の経緯を見て、それを悟った。
それならば、生きられると。
そして、あなた達が生きる為に培ってきた
スキルを、伸ばす方がいいと考えた。】
「・・・・・・
『剥奪』、せぇへんのですか?」
【ええ。あなた達が、そのままで
生きられる方法。
二人、一緒にいられる道よ。】
「騙すんだろ?あんた達のやり方は、
面倒くさいのよ。」
『ジーン』の意見に、女は疑惑しか持たない。
それに対し、彼女は気分を害さず
言葉を続ける。
【勿論、楽じゃないわよ。でも、
いつでも『ここ』に帰ってきていい。
好きなだけ探索して、調査結果を
持ち帰ってくれれば。】
「・・・・・・探索?調査?」
聞き慣れないキーワードに、
男は首を傾げる。
【樹海の調査をしてほしいの。
屈強のあなた達に、適役と思って。】
思わぬところからの提案に、
二人は驚かざるを得なかった。
「はぁ?馬鹿言わないでよ。
樹海に入って、生き延びる奴は
いないっていう話でしょ?
上手い事言って、私たちを
消そうとしてるんじゃないの?」
【特殊なGPSを付けてもらうから、
迷ったとしても
こちらから居場所が把握できて、
ナビゲーションも可能。
あなた達の部屋も用意するわ。
勿論、美味しい食事付きよ。
好きなだけ仲良くしていいし、
好きなだけ調査してくれていい。】
「ちょっと、何でこいつと
一緒にいる前提で・・・・・・」
「ほんまか?先生?
引き受けたら、俺らは
このままでええんか?
追われることもなく、『ここ』で
暮らしてええんか?
それが叶うなら、言う事ナシや!
結婚生活も、出来るっちゅうことやな?!」
【その通りよ!流石ね、悠生くん!
飲み込みが早いわ!】
「あんたたち、何勝手に話を・・・・・・」
女は呆気に取られるばかりで、話に
ついていけなかった。
それを、明るい表情になった男は
言い聞かせるように告げる。
「あんさんは、先生がどんな人か
知らへんやろ?
先生が提案を持ち出す時は、
筋が通っとる証拠なんや。
万が一、『ここ』を逃げ出せたとしても、
俺たちは生きられへん。
今度は、ほんまに地を這うで。」
【そう。『私たち』は、
『ここ』を深く知るあなた達を、
放ってはおかない。
厳しい規則があるのは、
皆を守る為でもある。
・・・・・・それを、悠生くんは理解した上で
『力』を発動し、時間稼ぎをした。】
「先生には敵わへんわ。お見通しやなぁ。」
【咄嗟とはいえ、良い判断だった。
ふふふっ。愛の力って、未知数ね~。】
「へへっ。やめて~な、先生!
照れるわ~!」
口を開こうとしていた女は、
言葉を飲み込む。
二人が交わす意見の前で、
押し黙るしかなかったのだ。
【人を消そうとするより、
生かそうとする方が、
何倍も幸せになれるから。
・・・・・・あなたには、その素質がある。
だって、悠生くんという
素敵な人が傍にいるから。
勿論、過去は消えない。でも、
乗り越える為には必要な礎。
彼の為だけに、再構築したらどうかしら?
お嫁さんになれるなんて、羨ましいわ~。
ふふふっ。】
「いや、その、へへっ。先生。恥ずかしいわ。
まだ、答え聞いてないんやで。」
【ああ、そうだったわね!
つい先走っちゃった!ふふふっ。】
「・・・・・・“あいつ”が、黙ってはいない。
“黒い風”が・・・・・・」
ぽつりと、女は口にする。
“その気配”を感じたから、抜け出せた。
近くに、いるはずだ。
【“暗闇”は、もう
あなたを必要としていないのに?】
その言葉に、女は唇を嚙んだ。
薄々と、勘付いていた。
“彼”からの声が、ない。
それを意味するのは。
自分は、もう
用済みなのだという事。
静かになった彼女を見つめながら、
男は言葉を紡ぐ。
「縛りがない事なんて、生きとる以上
おかしな話やで。縛りがあるから、
生きられる事の方が多いんや。
考えてみぃ。
こんな好待遇、他にないで?
素直に受けとくのが、ええのんちゃう?
・・・・・・あ、ああ。
俺の嫁さんが嫌とかなら、話は別やで。
うん。それは、自由や。うん。」
【悠生くん。大丈夫だから。
弱気にならないで。】
「・・・・・・
・・・・・・
何なのよ・・・・・・」
漏れた言葉は、呆れに近い。
しかし女の目に浮かんでいた
怒りの灯火は、他の光に変わりつつある。
形は、どうであれ。
自分を必要としている人間がいる。
ならば。
描けるのかもしれない。
暗闇しか広がらない世界に、彩る未来を。
ゲストルームに満ち溢れる、自由な旋律。
鳴り止むことはなく、弾かれる音色は
聴く者の心を癒している。
明来たちが訪れてから、
約一時間が経過していた。
硝子のテーブルには、
各々のグラスが置かれている。
炭酸が強いグレープジュースは飲み干され、
氷が溶けて水になっていた。
アイスコーヒーは、まだ半分残っていた為
水と分離した状態である。
アイスレモンティーのグラスは、
果実が沈められて
小さくなった氷が残っていた。
寄り添うように重厚の牛革ソファーに座って
眠りにつく、明来と舞乃空。
その向かい側には、
ソファーの背に身を預けて
本を読み進めるゆりがいる。
そこへ訪れる、
白衣を羽織った一人の女性がいた。
背中まである赤みがかった茶髪は、
髪留めで緩やかに後方で纏められている。
彼女を目にして、ゆりは
眠る少年たちに声を掛けようとしたが
片手を上げて、止める。
明来と舞乃空に目を向けながら、
その女性は顔を綻ばせて
ゆりの隣に腰を下ろした。
「・・・・・・道は、開かれたようですね。」
囁くようにゆりが言葉を紡ぐと、女性は
小さく溜め息をついた。
それは、安堵からくるものだ。
「・・・・・・紙一重、というところだった。
貴女の助言と、
『当代』さまの配慮がなければ、
どうなっていたか。」
ゆりは、手にしていた本を
ソファーに置いて、女性を見据える。
「先生の巧みな交渉とお心遣いがなければ、
実現しませんでした。
最善の道へ導いてくださった事、
深くお礼を申し上げます。」
頭を垂れるゆりに、
女性は首を横に振った。
「私は何も。
彼の機転に救われた。それだけよ。
・・・・・・こちらこそ、ありがとう。
貴女には、いつも助けられているわ。」
互いに微笑んだ後、ゆりは
明来に視線を移す。
「・・・・・・『ジーン』先生。如何ですか?
何か、垣間見えたものはありますか?」
女性―『ジーン』は、しばらく
明来を見つめたまま、
その質問に答える事はなかった。
表情を変えることなく、右手を頬に置いて
じっと彼を見据えている。
『ジーン』の様子に、ゆりは
今、声を掛けることは妨げになると理解する。
何も言葉を発さないまま、二人は
明来に視線を注いでいた。
「・・・・・・なるほど。」
小さく漏らした『彼女』の声は、穏やかだが
悲哀の色を帯びている。
「苦しい思いをしたのね、この子は。」
「・・・・・・そうですね。」
相槌を打つゆりは、表情を曇らせる。
「それが、“暗闇”と繋がる
きっかけになったようです。」
「これは、一筋縄ではいかないわね。」
「はい。なぜ、“暗闇”と繋がったまま
意識を保てるのか。それが分かれば・・・・・・」
「その原因は、かなりの難題にぶつかる。」
『ジーン』の一言で、ゆりは目を見開いた。
「“見えた”のですね。原因が。」
「調べるには、彼の許可がいるわね。
・・・・・・確証が得られた場合、
本人にとって残酷な告知になるけど。」
「・・・・・・その時は、隣にいる彼が
支えになるのではないかと。」
明来の頭を肩に乗せて眠っている
舞乃空へ、『ジーン』は視線を移す。
「・・・・・・彼は、逸材ね。
偶然かしら?それとも・・・・・・」
「必然だと思います。」
「はっきり言うのね。」
「明来くんを救う為に、彼は寄り添っている。
隠された事実が、彼には既に
“見えて”いたようです。」
「・・・・・・そう。」
理知を灯した『彼女』の瞳には、
幾重の考察が浮かんでいる。
「ならば・・・・・・彼にも、
乗り越えてもらわなければね。」
ゆりの、話す声が聞こえる。
それに、知らない声が混じっている。
優しい声音の、女性だ。
注がれる、視線。
それに気づき、明来は瞼を上げた。
「・・・・・・待たせてしまって、ごめんなさい。
起こすのは、あまりにも勿体なくて。
ふふふっ。天使みたいに、
可愛い寝顔だったから、つい。
・・・初めまして。『ジーン』と申します。」
視界に飛び込んできた、見慣れない女性が
自分に向かって会釈をしている。
白衣を羽織っているのと
名乗られた事で、ようやく明来は
状況を把握して、舞乃空の肩から頭を上げる。
いつの間にか、
彼に寄り掛かって眠っていた。
それを眺めていたのかと思うと、
じわじわと恥ずかしさが襲う。
動揺しながらも、背筋を伸ばして会釈をした。
「・・・・・・蓮尾 明来です。」
「明来、くん。とても良い名前ね~!」
『彼女』が顔を綻ばせると、
空気が一気に和む感じがした。
ほうれい線や骨ばった手の感じから見て
40代だろうとは思うが、
瞳に宿る理知の光の強さなのか
一般的に見ると若く見える。
「・・・・・・んー・・・・・・?
おおっ?綺麗な、おねえさん発見・・・・・・」
目を覚ました舞乃空が、背を伸ばしながら
『ジーン』に目を向けている。
「あら、お上手。」
「お世辞じゃないっすよー。」
「ありがとう。ふふふっ。
初めまして。『ジーン』と申します。」
「阿久屋 舞乃空です!
よろしくお願いします!」
彼は、満面の笑みを浮かべて
片手を差し出す。
「あなたも、とっても素敵な名前ね~!
よろしくお願いします。」
それに、『彼女』は笑顔で応えて、
躊躇いなく差し出された手を握った。
「めっちゃ忙しいところ、本当に
ありがとうございます。
お世話になります。」
握った『ジーン』の手を、
さらにふわりと両手で包む。
「ふふふっ。ご丁寧に、どうも。」
浮かべる微笑みは、とても柔らかい。
その光景を、明来は呆然と眺める。
―何でそんなに、自然に握手ができると?
自分の自己紹介とは、大違いだ。
舞乃空特有の雰囲気もあるが、
壁を感じさせない対応力は、羨望でしかない。
『ジーン』もまた、
不思議な雰囲気を持った女性だった。
葉音のような、無邪気さ。
陽菜のような、母性の優しさ。
ゆりのような、凛とした美しさ。
今まで会ってきた女性の雰囲気を、全部
兼ね備えたような。
温かく、優しい光。
舞乃空との握手を丁寧に終わらせると、
にこやかに『彼女』は言う。
「彼女のピアノ、最高でしょう?」
それに彼は逸早く反応し、
目を輝かせて返事をする。
「はい!最高すぎっす!
ずっと、漂いたいというかー。
上手い言葉が見つからないんっすけどー。」
「そうそう!分かるわ~。
私も同じ事思った!
言葉に出来ない心地好さなのよね~。」
静かに見守っていると、『彼女』は
自分に笑顔を向けてきた。
「明来くんは、どう思った?」
「・・・・・・はい。
とても、素敵だと思いました。」
「そうよね~!」
会話に参加していないが、
ゆりも優しく微笑んでいる。
「今夜はね、このゲストルームの裏方に通じる
部屋で、一泊してもらおうと思うわ。
遅れてきて、大変申し訳ないんだけど
・・・・・・急用が入ってしまって。
お話するのは、
明日でも構わないかしら?」
何か検査させられると思って
身構えていた明来は、緊張を解くように
息を漏らし、頷いた。
「・・・・・・はい。」
「彼女のピアノを堪能して、今夜は
ゆっくり休んでね。
また、改めて伺わせてもらうわ。」
『ジーン』は、申し訳なさそうに告げる。
そんな『彼女』に、舞乃空は
期待した様子で尋ねた。
「部屋って、豪華なカンジっすかねー?」
「豪華ではないけれど、二人で
広々と過ごせる一室になっているわ。
ああ、そう。『小百合』は勿論、
『当代』さまの寝室に行って頂戴ね。」
一室。
ということは、舞乃空と同じ部屋。
その事に明来は動揺していると、
向かい側に座るゆりは、もっと動揺して
頬を赤らめていた。
「・・・・・・他に部屋は、ないのですか?」
「何言っているの。ふふふっ。
恥ずかしがっちゃって、可愛いわね~。」
追い打ちのように言われて、彼女は俯く。
一方舞乃空は、
ニヤニヤしながら言い放つ。
「明来ー、一緒の部屋で良かったなー。
添い寝しちゃおーかなー。」
「えっ。」
それは、問題発言でしかない。
『ジーン』は微笑みながら、
彼の言った言葉に付け加えた。
「ふふふっ。悠々と眠れるように、
ベッドはキングサイズよ。」
「豪華じゃないっすかー!」
―いやいや、ガチで、一緒のベッド?
傍らで動揺する自分の反応を、『彼女』は
和やかに見守っている。
その双眸の奥には、理知の光が窺えた。
舞乃空と自分が抱えている事情を、
見透かされているような、気がする。
「やばっ。楽しくなってきたーっ!」
勝手に盛り上がっている彼を、
明来は横目で見る。
スマホがない上に、気軽に外出もできない。
そんな状況で、二人きりだなんて。
色々と、まずい。
心中穏やかではない明来に、ゆりは
真っ直ぐ目を向けて言葉を告げる。
「明来くん。全ては、明日を迎えてからよ。
・・・あとは、道を切り開けるか。
それに辿り着けるか。
迎え入れる、心の準備をしてほしいの。」
凛とした彼女の声音と眼差しで
我に返り、身を引き締めた。
そして、『彼女』が自分を見据える
理知の光は、奥に潜むものを
捉えるように、強かった。
怯みそうになるが、持ちこたえる。
「二人が見据える未来に、光が溢れるように。
・・・色々と制限があって
不自由な思いをさせてしまうけど・・・・・・
私たちに少しだけ、
時間を預けてほしいの。」
ゆりの言葉には、謝罪も籠められていた。
明来は、静かに頷く。
「・・・・・・ありがとう。」
その後、感謝の言葉が告げられる。
「さてと、もう私は失礼するわね。」
すっと立ち会がり、『ジーン』は微笑んだ。
「それでは、良い夜を。」
一歩踏み出した矢先、『彼女』は
思い出したかのように振り向く。
「そうそう。部屋の鍵は、バーテンダーから
受け取って頂戴ね。
いつでも構わないから。」
そう笑顔で言い残すと、
踵を返して去っていった。
風が通り過ぎる感覚だった。
自然体、というべきか。
短い時間だったが、飾らない『彼女』は
壁を感じさせずに、
寄り添ってくれた気がする。
気づけば、
ピアノの音色が鳴り止んでいた。
ステージへ目を向けると、
一礼をする“HARU”の姿が目に入る。
周りから、拍手が沸き上がった。
明来と舞乃空も、すかさず拍手を送る。
二人に揃って拍手を送った後、ゆりは
ソファーから立ち上がった。
彼女の姿を目にした“彼女”は
口元を緩めて、こちらへと歩いてくる。
「えっ?」
舞乃空は、目を丸くしている。
明来も、驚きを隠せず
ゆりの隣に腰を下ろす“HARU”を凝視した。
拍手が鳴り止むと同時に、
妙な静けさが襲う。
まさか、“彼女”が自分たちのテーブル席に
来るとは、夢にも思っていなかった。
「お疲れさまです。・・・これ、
使っていませんから、どうぞ。」
ゆりは顔を綻ばせて、”彼女”に
ハンドタオルを差し出す。
「わぁ、ありがとう!タオル、
楽屋に置いてきちゃって。助かったぁ。」
ふんわりと、優しい声音だった。
出で立ちの艶やかさとは、結びつかない。
“HARU”は嬉しそうに
ハンドタオルを受け取ると、
首元などに浮かぶ汗を拭いていく。
「・・・・・・ど、どーしよ。明来。
目の前に、“HARU”がいるよー。」
ぼそぼそと小声で言う彼は、珍しい。
“彼女”が座って間もなく、バーテンダーが
綺麗な琥珀色をしたアイスティーのグラスを
トレーに乗せて、運んでくる。
「ありがとう、マナくん。」
そう告げて、“HARU”は
トレーからグラスを手に取ると、
すぐに口を付ける。
バーテンダーは会釈をして、
静かに去っていった。
美味しそうに飲む“彼女”を、
明来と舞乃空は釘付け状態で見守る。
「今夜も、素晴らしい音色を
届けてくださって、有難うございます。」
丁寧に感謝を伝えるゆりに、“HARU”は
小刻みに首を横に振って笑う。
「そんな。こちらこそ、
自由に弾かせてもらってるから。
・・・・・・聴いてくれて、ありがとね。」
ヴェネツィアンマスクがある故に
目元を拝見する事は出来ないが、
潤った唇が嬉しそうに動くのを見て、
二人の少年は、ほっこりする。
―マスクは、取らんとかいな。暑いやろ。
席に座ってるし、この明るさなら
バレないとは思うけど。
ハンドタオルで汗を拭き取る際に、
マスクを脱ごうとはしなかった。
“彼女”の正体は、既に分かっている。
「あの・・・・・・俺たち、正体、知ってます。」
舞乃空も同じ事思ったのか、
躊躇いながら告げる。
「えっ?あれーっ・・・・・・?
ゆ、ゆりちゃん。これって、大丈夫?」
戸惑う“彼女”に、ゆりは温かく微笑む。
「ふふっ、はい。蔵野さんから
了承を得ています。」
それを聞いて安堵したのか、
白い歯を覗かせた。
「良かったぁ・・・・・・
えっとね、これ、一度脱いで
また付けるってなったら、大変なの。
あと、まだ弾こうと思ってるし、
外しちゃダメって言われてるから・・・・・・
このままでいてもいいかな?」
「は、はい!構いません!全然!」
話し掛けられて、舞乃空は
かなり嬉しそうだ。
口調からすると、“彼女”は
ゆりよりも年上だろうか。
雰囲気の印象は、同世代に見える。
“HARU”は急に、制止した。
いきなり訪れた間に、
明来と舞乃空は戸惑いながら
動くのを待つ。
「・・・・・・あの、もしかして・・・・・・
会った事あるかな?
“Calando”で、会わなかった?」
その言葉に、彼は顔を輝かせる。
「はい!まさか、憶えてくれてたなんて!
“Calando”で、“HARU”さんが
ピアノを披露してくれた時に、一度だけ!」
「・・・・・・うんうん!あの時の!
うふふっ。めちゃくちゃ泣いて、
聴いてくれてたから・・・・・・
ずっと、記憶に残ってたの。」
「うわーっ。マジで嬉しいっ。
あの時、言えなかったんっすけど・・・・・・
後で、サインくださいっ!」
「えっ?私の?」
サインと言われて、
彼女は驚いた様子である。
今まで、沢山書いてきたと思うのだが。
「はははっ、そーですよ!宝物にします!」
「どうしよう。君くらいの世代から
言われた事、初めてかも・・・・・・
嬉しい。えっと、じゃあ、演奏が終わったら
プレゼントします。」
「よっしゃあーっ!!」
「舞乃空くんっ、声抑えて。」
「あぁ、すんません、ついっ。」
大きな声を出して
はしゃぎたくなるのも、分かる。
目の前にいるのは、日本だけではなく
世界に名が知れるピアニストだ。
舞乃空のように
聴いて泣く程のファンではないが、
そんな“彼女”と話せてサインをもらえるなら、
自分も声を上げて喜びたい。
「これからまた、弾こうと思うんだけど
・・・・・・聴いてもらえる?」
「勿論です!」
「ありがとう。じゃあ、君たちが
好きな曲を教えてくれるかな?」
「・・・・・・もしかして、
弾いてくれるんですか?!」
「うふふ。うん。」
明来と舞乃空は、顔を見合わせる。
浮かぶ曲は、一致していた。
「『Called,“Remove and add.”』で!」
曲のタイトルを聞いて、
直ぐに“HARU”は大きく頷く。
「私も大好き!了解しましたっ。
・・・・・・ゆりちゃん、このハンドタオル
借りておくね。」
「はい。」
「ありがとう!」
アイスティーを飲み干してテーブルに置くと、
“彼女”は元気に立ち上がる。
大好きと言われて、舞乃空は
とても嬉しそうだった。
彼が作った曲。
その事実は、自分だけが知っている。
だから、自分の事のように嬉しかった。
ステージに向かう“HARU”の後姿は、
言葉には表せないくらい格好良くて、
とても綺麗だった。
見つめる、温かい風。
それに、“彼女”は目を向けて、微笑む。
その風も、応えるように微笑んだ。
ピアノ椅子に座ると、鍵盤に向かい合う。
ゆっくり深呼吸して、
ふわりと両手を置いた。
自由な旋律は、
目が覚めるようなグリッサンドで始まる。
その一瞬で心を奪われ、鳥肌が立った。
この時間、この光景。
自分の中で、一生
残り続けるものとなるだろう。
“見えない表記法”が、刻み込まれる。
「やべー・・・・・・
これって、現実だよなー?」
両手に色紙を持ち、眺めている舞乃空は
まだ、夢見心地だった。
彼が腰を下ろしているソファーは、
手触りの良いファブリック素材である。
明来は、そのソファーから
少し離れた所に置かれた
テーブル椅子に座っていた。
バーテンダーに鍵を貰い、案内されて
向かった部屋の扉を開けた瞬間、
自分と舞乃空は目を疑った。
用意された一室は、ホテルだとしたら
上位クラスになると思う。
豪華ではないと言われたが、
内装が落ち着いているだけで
十分贅沢な空間だった。
部屋を探索せずには、いられなかった。
空調の施しが気にならないように
お洒落な化粧で、さり気なく隠されている。
窓は開かないようになっているが、
大きな窓から樹海の木々が窺える。
夜なので、暗闇の塊に見えてしまった為
直ぐにカーテンを閉めた。
朝になれば、とても綺麗な新緑だろう。
舞乃空は、洗面所とバスルームを見て
テンションが上がっていた。
タオルは勿論、アメニティも
バスローブも備えられていて、
リュックで持ってきた物は、
使わなくても良さそうだった。
でも、バスローブは
流石に恥ずかしくて、羽織れない。
バスルームには、
大きなシャワーヘッドと広い浴槽。
水捌けの良い床材は、
自宅に欲しいくらいだ。
いつかこれに、リフォームしたい。
普通に旅行して、
このクラスに泊まるとなると
一体、いくらになるのか。
バーテンダーが言っていたが、お腹が空いたら
部屋に備え付けられている内線で、
ルームサービスが頼めるらしい。
そのメニュー表が、すぐ側に置かれていた。
その内容は、豊富すぎて
怖いくらいだった。
日本食を始め、洋食に中華。
イタリアンにフレンチまで。
流石に、頼めないと思った。
部屋に入る前に、ルームサービスに
料金が掛かるのか尋ねたところ、
本当に無料だという。
舞乃空が確かめたから、
それは間違いないとは思うが・・・・・・
このおもてなしは、快適すぎる。
自分が怖気づいているのに対し、
彼は何を頼もうかと、楽しそうに
メニュー表を吟味していた。
そうこうして、今に至る。
目の前には、言われていた通り
キングサイズのベッド。
2回転がっても、落ちないだろう。
しかも、ベッドメイキングは完璧だ。
ふんわり膨らんだ大きな枕が、二つ。
本当に、これは、現実なのか。
「何もかも、楽しい1日だったなー。」
ほくほくして、舞乃空は
色紙を抱きしめてソファーに転がる。
完全に、“HARU”の虜になっている彼を
明来は無言で眺めた。
また彼の、知らない一面を見た気がする。
モデルだった彼は、芸能人と接する機会が
あっただろうに、この熱狂ぶりは
一般人と大差ない。
この様子なら、大丈夫かもしれない。
“彼女”に感謝だ。
「・・・・・・先に、風呂入るけん。」
「はーい!ごゆっくりー!」
幸せそうに寝転がっている彼の後ろ姿を
明来は、じっと見据える。
―・・・・・・うん。
覗かれる心配も、なさそう。
安堵の息をつき、椅子から立ち上がると
リュックから着替えを取り出して、
バスルームへと歩いていった。
頭の天辺に当たるシャワーの勢いは、
程よく、気持ちがいい。
―稼げるようになったら、
家のシャワーヘッド、変えよう。
日々の疲れが、癒される。
広い浴槽に湯を張ろうと思ったが、
何となく落ち着かないので、やめておく。
シャンプーもトリートメントも、
とても良い香りで、上質だ。
全身を洗い流す、ボディソープも。
十分にシャワーを堪能した後、
バスルームから出て
脱衣所のバスマットに下り立つ。
ふかふかだ。
そして、たっぷり水を含みそうな
バスタオルを両肩に掛けて、拭き取る。
脱衣所の壁の半分には、
全身を映す鏡が貼られていた。
自分の裸を一目見た後、すぐに明来は
目を逸らして、バスタオルを頭に被る。
自分の貧相な身体は、理想と
かけ離れている。
鍛えて初めて、二カ月くらいしか
経っていないのもあるが、全然
目だった所は見受けられない。
深い、ため息をつく。
成長という言葉は、自分の身体を
否定しているように思えた。
焦るばかりで。
受け入れたくない現実ばかりで。
生きている事が、本当に
嫌になる時がある。
舞乃空がいなければ・・・・・・
今頃自分は、どうなっていただろう。
Tシャツとスウェットパンツ姿で
明来がメインベッドルームに戻ると、
ソファーに寝転がっていた
舞乃空の姿が消えていた。
“HARU”の色紙が、お洒落な
ソファーテーブルの上に置かれている。
トイレだろうか。
きっとそうだと思い、ソファーへ歩いていくと
腰を下ろそうとする前に
目に入ったものがあった。
―・・・・・・何か飲もうかな。
冷蔵庫の中に、確か・・・・・・
ワンドアの白い冷蔵庫が、
ソファーの近くに置かれている。
部屋の探索をした時に、
何が入っているのかは確認済みだ。
ドアを開き、サイドポケットに入っている
水のペットボトルを取り出す。
トイレの方から、水が流れる音がした。
しばらくしてから、その部屋のドアが開いて
舞乃空が姿を見せる。
「トイレも、すげーな!
リラックスしすぎて、眠りそうだったー。」
明来がソファーに腰を下ろして
ペットボトルの蓋を開けていると、
それを見た彼も冷蔵庫へ歩いていき、
水のペットボトルを手に取った。
「やっぱ、水が落ち着くよなー。」
「・・・・・・うん。」
舞乃空は、スンスンと鼻を鳴らして
笑顔を向けてくる。
「おーっ。明来、すげーいいにおい。」
顔を近づけてきたので、反射的に
水を飲んで、肘を盾にする。
「お前も、入ってこい。」
「そうするー!
・・・・・・先に寝てていいぞー。」
彼はニヤニヤしながら言うと、
水のペットボトルを持って
バスルームへ去っていった。
内心ドキドキしながら、舞乃空を見送った。
“彼女”の魔力が、切れてしまっている。
―寝るかっ。絶対、起きとくけんな。
ソファーで寝るという、手もある。
でも、それは勿体ない気もする。
キングサイズのベッドで眠るなんて、
これから先、ないかもしれない。
明来は水を一口含んだ後、蓋を閉めて
ペットボトルをソファーテーブルに置く。
ゆっくり立ち上がると、ベッドに向かった。
マットに、そっと手で触れて
跳ね返りを確かめると、うずうずした。
倒れ込みたい。
―でも、それをすると、
綺麗なベッドメイキングが・・・・・・
でも・・・・・・
衝動が抑えられず、明来はベッドに
身体を投げた。
大きくバウンドして、余韻でバウンドする。
バネが、とてもいい。
楽しくなって、また繰り返す。
―ヤバい。やめられない。
何度か繰り返していると、両親の寝室、
今は舞乃空の部屋に置かれている
クイーンサイズのベッドを思い浮かべる。
―そういえば、小さい頃
ベッドの上で飛び跳ねとって、
父さんに怒られた事あったな。
今は、それを止める者はいない。
思う存分できる。
そう思ったら、急に萎えた。
ごろんと転がり、天井を仰ぐ。
広くて、高い天井。
一人じゃなくて、よかった。
一人だったら、このまま落ち込んでいた。
目を閉じて静かにしていると、
バスルームの方から
水が流れる音が聞こえる。
彼は、自分とは真逆だ。
順調に成長して、気ままに生きている。
苦しい思いを乗り越えて、頑張っている。
羨ましいと、いつも思う。
自分の悩みとは、無縁だ。
唯一、声変わりの兆候があるのは、救いだ。
低い、声がいい。
舞乃空のような、心地好い低音の声。
自分は、きっと、彼に憧れている。
だから、好きなんだと思う。
この気持ちも、きっと。
彼に近づきたいから、あるのだと。
こんな自分を、舞乃空は本当に
好きなのだろうか。
それも、いつも疑ってしまう。
彼は、そんな自分に気づいて
ハグを求めてくるのかもしれない。
過去、普通に女性を好きだった彼が、
出来損ないの自分を・・・・・・
明来は、首を振った。
―・・・・・・ダメだ。
もう、考えるのやめよう。
ベッドの心地好さに身を預けていたら、
次第に眠気が襲ってきた。
―・・・・・・あいつが、
戻ってくるまでは・・・・・・
そう思っても、瞼が開かない。
「お待たせ―!
久しぶりに長風呂しちま・・・・・・」
メインベッドルームに
バスローブ姿で戻ってきた舞乃空は、
ベッドの上で仰向けになっている
明来を見て、言葉を止めた。
そっと彼に近づくと、瞼は閉じられていて
微かに寝息が聞こえる。
―あれー?
ゼッタイ寝ない的なカンジだったのに。
小さく笑って、寝顔を見下ろす。
性別を超える、想いがある。
これは、彼だけに赦される。
出逢った時から、ずっと、
心の何処かにいた。
―今まで、いろんな女性に恋をしたし、
本気の恋愛もしたけど・・・・・・
明来ほどに、踏み込んで
大好きだとは思えなかった。
言葉にすると、どれにもハマらない。
何て言えばいいのか分からないけど・・・・・・
ただ。
彼の傍に。
支えになりたいと、考えるばかりだ。
それって、“好き”を通り越してるよな。
ベッドに腰掛けると、舞乃空は
明来の寝顔を覗き込んだ。
長いまつ毛に、サラサラの髪。
―触れても、いいかな。
葛藤する。
―無防備すぎるぞ、お前。
顔を、近づける。
「・・・・・・」
そして、思い留まる。
彼には、自分程の欲求は、ない。
葉音への想いに蓋をして、
自分と向き合ってくれているだけで。
何かの拍子で、彼女への想いが
溢れるかもしれない。
現実、結ばれる可能性があるのは、
葉音の方だから。今は、互いにダメでも。
ハグは許してくれているが、
それ以上は、多分、これから先も
難しいだろう。
この間のキスだって、
勢いと流れで出来たようなものだ。
奇跡としか、言い様がない。
―きちんと、見つめ合って。
確かめ合いたい。
明来は・・・・・・
そう思う時が、来るのかな。
辿り着くには・・・・・・何もかも足りないし、
リアルに難しい気がする。
深い、ため息をつく。
ベッドから腰を上げようとした、その時。
腕を、引っ張られた。
不意打ちだったので、そのまま
ベッドに倒れ込む。
自分に馬乗りする、明来がいた。
この状況でも驚愕するのだが、
自分の首を掴む両手の力が、
尋常じゃなかった。
「・・・・・・っ!」
堪らず彼の両手首を掴むが、外れない。
【そこまで分かっているのなら、
離れるべきではないのかね?】
上から降ってくる、掠れた無機質な声音と
見下ろす彼の冷たい視線が、自分を刺す。
【死にたくなければ、離れることだ。
これ以上、踏み込むべきではない。
・・・・・・今からでも、間に合う。】
「・・・・・・っ・・・・・・」
明来、じゃない。
思い当たるのは。
【愛する者に、殺されたくはないだろう?】