嗚咽
プロローグ
鼻の辺りを横切る色があった。
蓮尾 明来は、それを目で追う。
桜の花びらが、砂利の上に落ちた。
足を止めて見上げると、
ひとひら、さらにひとひら、
肌寒い夜風に乗って舞い散っている。
彼が歩いている場所は、
山に見立てた滑り台がある公園。
まだ、おぼつかない足取りで
歩いている頃は、とても大きく見えた。
今では、軽く頂上まで歩いていける。
その他にも、鉄棒やブランコが設置されていた。
昼は、近所の子どもたちが飛び回り、
それを温かく見守る親たちで賑わっている。
桜の並木もあり、今の時季は
花見をする家族やカップルなど
吸い寄せられるように集まっていた。
今は、深夜に近い時間。
人の気配もなく、
山の塊が佇んでいる。
優美な姿を見せる桜も、この時間だけは
夜風と共に揺れて、訪れた者を
飲み込もうとする。
かろうじて、住宅から漏れる光と街灯で
その姿を映していた。
明来は、この時間が好きだった。
そして、この時季だけの刹那。
見頃を迎え、散っていく光景は
震えがくるほど美しい。
仕事を終え、軽く腹を満たした後、
スマホから流れる音楽を
ワイヤレスイヤホンで聴きながら、
この場所を散歩する。
それが、ある時から日課になっていた。
彼の自宅と公園は、気が向けば
いつでも行くことができる距離だ。
テンポの良い電子音が刻む。
パーカーのフードを深く被る彼は、
少し口ずさみながら
合わせて踏み込み、身体を揺らす。
特等席があった。
山の滑り台の奥にあるベンチ。
ここに座って見上げると、ある一本の
どっしり構えた桜が見下ろしてくる。
そのベンチに腰を下ろし、明来は
その桜の機嫌を伺う。
今夜も来たのか?
風に揺らされた枝が、
そう言っているように思えた。
―来てやっているのに、
そんな言い方ないやろ?
目で訴えるように、睨む。
この桜と明来は、
物心つく前からの付き合いだった。
彼が生まれて、彼の母親が
ベビーカーに乗せてここに訪れ、
無垢な瞳に
その姿を焼き付けた瞬間から。
彼の成長を、この桜は見守っている。
―文句なしに、綺麗だよ。
この時季の、お前は。
睨んでいたのも忘れ、明来は
その桜を見入る。
―青々と茂るお前も、
赤く染まるお前も、
裸のお前も、勿論綺麗だけど・・・・・・
この時季のお前は、何もかも
忘れるくらいに眺めていられる。
聴いていた一曲が終わり、
次の曲が流れだす。
お気に入りのプレイリストの中で
最も聴いていて、最も好きな曲。
―ああ、いいな。
いつも聴いとるけど、全然飽きない。
・・・・・・今日は、歌いたい気分。
明来は、小さく息を吸い込む。
吐き出すとともに、声が漏れた。
その声は、とても小さい。
風でかき消されるほどに、
弱々しかった。
そしてその、か細いソプラノは、
彼がとても嫌いな自分の声。
―俺の変声期って、いつなん?
彼は15歳。
とっくに変声期を迎えて、
落ち着いてもいい頃だった。
―・・・・・・まさか、
このままじゃないよな。
時々、恐怖を感じる。
このまま声変わりせず、
弱々しい声のままだったら。
仕事に支障が出ないように
筋トレを始めたけれど、
まだ始めたばかりで身体も細い。
明来は、早く大人になりたかった。
考え方も、生き方も、
自分はきっと
普通じゃない気がしている。
両親が、不慮の事故で死んだ時から。
まだ保護者が必要な年齢だから
親戚に名前だけ借り、頼らず
唯一両親が残した戸建ての家に、
一人生活しているのも。
生活するために進学せず、
働くことを選んだのも。
別に、そんな自分の人生を
呪うわけじゃない。
ただ、大人になりたかった。
低い声で、背も高くなって、
体格が良くて。
誰も、何も、心配させない程、
強い大人に。
風に大きく揺さぶられ、
ざぁ、と花吹雪が起こる。
彼には、桜が笑っているように見えた。
「・・・・・・笑うなよ・・・・・・」
流れている曲の歌詞ではない。
漏れた声は、その桜に向けられている。
不意に、肩を
とんとんと叩かれた。
自分の世界に入っていた明来は、
背後の気配を
全く把握していなかった為、
かなり驚いて振り返る。
目の前にある顔は、自分と
あまり変わらない歳に見える少年。
だが、垢抜けた顔立ちと格好は、
地元の人間とは思えなかった。
真っ直ぐ向けられる双眸に、
明来は怯む。
その少年は自分に何か喋りかけているが、
イヤホンから流れる曲に塞がれて聞こえない。
見ず知らずの者から
声を掛けられたという不安に、
その場にいられなくなって立ち上がる。
このまま逃げよう。
そう思って足を踏み出そうとした。
片腕を、掴まれる。
行動を止められ、
さらに恐怖感を覚えた。
離れようとするが、その力は強くて
びくともしない。
仕事も筋トレも始めたばかりだし、
自分の体力に自信があるわけじゃない。
その少年の力は、自分の上を行く。
手の大きさも、だ。
自分の腕を、長い指がすっぽりと掴んでいる。
背も高い。
目線が、上を向いた。
放せ。
目で訴えることしか出来なかった。
相手の口が、尚もまだ動いている。
さっきよりも、強い口調で
話し掛けられている。
明来は、仕方なく
片側のイヤホンを取った。
「お前、蓮尾 明来だろ?」
フルネームで呼ばれた。
自分は、相手に見覚えがない。
反応を見せない明来に、少年は
さらに言葉を突きつける。
「俺の事忘れた?
阿久屋 舞乃空だよ。」
「・・・・・・」
―“あくや まのあ”?
・・・・・・
明来は改めて、その少年を見据えた。
その眼差しに応えるように、
少年は真摯な目を向けている。
「・・・・・・あっ。」
頭の中に、よぎるものがあった。
「・・・・・・電車好きの?」
「それな。」
その一言で、会話が成立した。
正解だった証なのか、片腕が解放される。
―小1の頃だ。
クラスメイトの奴だった。
一緒に遊んだ憶えがある。
でも、親の転勤で
すぐいなくなったような・・・・・・
・・・・・・
イヤホンを完全に外して
パーカーのポケットに入れると、明来は
疑問に思った事を口にした。
「東京に引っ越したんだよな・・・・・・?
こっち来たんだ?」
「ああ。・・・・・・ちょっとな。」
「・・・・・・」
明来は、少年―舞乃空の全体を
さりげなく見る。
格好も良く、背も高い。
ヘアスタイルも、気を遣っている。
こんな面影だったか
あまりぴんとこなかったが、
久しぶりの再会に少し浮き立った。
「蓮尾は、変わらずここに住んでんの?」
その質問に、明来は頷く。
「ははっ、そっか。マジ久しぶり。
・・・・・・ちょっと話さね?」
相手の笑顔に、懐かしさを感じる。
警戒心が薄れた明来は頷いて、ベンチに座り直した。
その隣に、舞乃空も
間隔を保って腰を下ろす。
「ここで遊んだよなー。
こんなに桜、綺麗だったんだなー。」
見上げて言う級友の横顔は、
とても明るい。
声も、程よく低くて響きも良い。
自分とは対照的に、
大人の青年になりつつある。
まさに、理想の姿だった。
見ない間に、友人は成長している。
自分は、時が止まっている気がした。
羨望の眼差しになる前に、
明来は舞乃空から視線を外して
砂利に落ちた花びらたちを見つめる。
「・・・・・・電車、
見に行ったことあったっけ。」
「ああ!楽しかったなー!」
この公園から少し歩いた所に
駅があり、九州最大の車両区がある。
朧気だが、確かにこの舞乃空と
見に行ったのを思い出す。
嬉しそうに笑う舞乃空は、
深夜の闇を照らす電灯のように明るい。
それを横目で見て、
明来は思わず顔を綻ばせた。
舞乃空は、カーゴパンツの左足にある
ポケットからスマホを取り出す。
「再会記念に、メアド教えて。」
自然な流れに断る理由もなく、
パーカーの左ポケットから
スマホを取り出した。
互いに登録を済ませ、各々スマホを
所定の位置に直す。
それからしばらく、間が空いた。
時間を取り持つように、桜が
風に揺れて花弁を散らしている。
それを、魅入られたように
二人は眺めていた。
「・・・・・・実はさ・・・・・・」
話を切り出した舞乃空の声は、
静かな闇の中で響く。
「家出してきたんだ。」
予想外の言葉に、明来は
目を向けざるを得なかった。
「・・・・・・ははっ。驚くよな。
久しぶりに会った奴に、
言うことじゃないよな・・・・・・」
言葉の内容と、合ってない気がする。
舞乃空の表情は、
寂しいとか、
悲しいとかの色は浮かんでいない。
どこか、楽しんでいるように見えた。
「何も考えずに飛び出して・・・・・・
気づいたら、
ここまで来てたっていうか・・・・・・
で、ベンチに座ってる奴が、
まさかのお前だったって話。
マジ驚く。」
笑いながら、舞乃空は言い放った。
―普通なら、笑うところじゃない。
でも。
なぜか、こいつが言うと
家出というより・・・・・・
「・・・・・・家の人、探しとるんやない?」
当然の質問だった。
しかしその心配は、一笑に消される。
「逆に、いない方がいいんじゃね?」
軽く吐かれた言葉。
明来にとって、それは重かった。
ベンチから、急に立ち上がる。
「?どうした?」
それに、舞乃空は目を丸くした。
「・・・・・・心配しない親はいないよ。」
ぼそっと呟いて、一瞥もせず
明来は歩き出す。
「えっ、ちょ、おい!」
それに意味が分からず、舞乃空は
慌てて明来の後を追う。
「どうしたんだよ、急に。」
「・・・・・・」
「蓮尾っ。」
「・・・・・・明日早いから、もう帰るよ。」
「早いって、用事か何かあるのか?」
「・・・・・・」
明来は、立ち止まる。
その後ろ姿を、舞乃空は
答えを待つように見据えた。
「・・・・・・働いているんだ。」
「えっ?」
「俺の両親は、一年前事故で死んだ。」
「・・・・・・」
「親戚に頼らず、一人で生活しとる。
だから、お前に構っとる暇はないんだ。悪い。」
後ろで静かになった舞乃空の方を
振り返ることなく、
明来は再び歩き出す。
「・・・・・・ごめん、蓮尾!」
謝罪する彼の声は、背中を貫いた。
「俺のやっている事なんて、
お前にとってはくだらねーと思う。
でもさ、俺にとっては大きな事なんだ。」
遠ざかっていく明来の背中に向かって、
舞乃空は叫んだ。
「・・・・・・頼む!少しの間、
お前ん家に泊まらせてくれ!」
明来は、目を見開いて止まる。
振り返ると、頭を下げる舞乃空がいた。
巻き起こった桜吹雪が、
彼のうねった髪の毛とともに
舞っている。
―どうして、そうなる?
言い返したかったが、息を飲んだだけで
声が出なかった。
「タダとは言わねーっ。
料理でも掃除でも何でもする!」
「・・・・・・い、いや・・・・・・
阿久屋・・・・・・」
やっと言葉が出たが、唐突すぎて
まだ状況が掴めない。
前屈みのまま、舞乃空は
明来の様子を窺うように少し頭を上げる。
「家賃か?・・・・・・金はねーんだ。
ごめん。ここに来るだけで
ほぼゼロ。あっ、盗んだりとか
騙されるとか、心配してる?
・・・・・・だよな。急に会って信じるとか、
できねーよな・・・・・・」
「まっ・・・待って。
そんなんやなくて・・・・・・」
「でもここで俺たちが会えたのは、
奇跡だと思う!信じろ!」
今は深夜。
静かな上に、声のトーンが大きすぎる。
明来は、半ば強制的に舞乃空の所へ戻る。
「バイト探す!それで許してくれ。
あっ、それか、お前が働いている所で
雇ってくれねーかな?頼むっ。」
「阿久屋っ!」
制した声は、裏返ってしまった。
許しを請うように、舞乃空は
上目遣いで視線を送っている。
「・・・・・・マジで、言っとらんよね?」
「マジ。大マジ。」
「・・・・・・」
普通なら、即断っている。
だがそれに至らないのは、相手が
引くほど必死だからだ。
確かに、自宅は戸建て。
一人で住むには広すぎる。
一人増えても、問題はない。
光熱費だって、食費だって、
無駄遣いしなければ何とかなる。
でも。
だからといって・・・・・・
「お前となら、楽しい気がする。」
はっとする。
だがその口説き文句のような言い回しは、
自分に向けて言うものじゃない。
「少しの間だけでいい。頼む。」
直角に近い角度で、舞乃空は
深く頭を下げる。
―・・・・・・いや・・・・・・
そんなに丁寧にお願いされても・・・・・・
しかし、断るという選択肢が
なぜか浮かばない。
「・・・・・・」
二人が固まる時間を、桜の花びらが
取り持つように散っていく。
悩んだ挙句、明来は
ぽつりと切り出した。
「・・・・・・物置部屋でいいなら・・・・・・
・・・・・・いいよ。」
その一言で、頭が勢いよく上がる。
ぱぁ、と明るい舞乃空の表情が、
明来の目に飛び込んできた。
「充分だ!ありがとな!」
とても嬉しそうに、笑う。
そんな舞乃空を、
明来は複雑な気持ちで見据える。
「電気の無駄遣いはダメやけんね。」
「分かってる!」
「メシも、贅沢できんけん。」
「食えればいい!」
「シャワーの水、出しっぱなにしたら
即追い出す。」
「大事に使う!」
「着る服どうすると?俺と合わんよ。」
「大丈夫!何とでもなる!」
それは嬉しそうに、笑って言ってのける。
負けた。
明来は笑った。
心の奥底から笑ったのは、
かなり久しぶりだった。
笑った彼を見て、舞乃空もさらに笑う。
「何かおかしかったか?」
「いや。お前が必死すぎて。」
「失礼な奴だなー。」
「お前に言われたくない。」
―こいつくらい勝手なら、
もっと気楽に生きられるだろうな。
ひとしきり笑った後、明来は言う。
「隣の家の人がさ、
俺を雇ってくれとるんよ。
空調関係の仕事。きついし、
ハンパな気持ちじゃやれない。」
「すげぇっ、工事現場?
かっけぇな!鍛えられそうだし。」
「・・・・・・まだ俺は入ったばかりで、
道具運びとか後片付けとか、
お前の想像しとる感じじゃない。」
「じゃ、俺もそこからだな!」
「え?いや、お前働くの?」
「タダで置いてもらうわけにはいかねーよ。
俺の働いた分、全部お前にやる。
それでどーだ?」
「・・・・・・い、いや。まだ、
雇ってもらえるかどうかも
聞いてないっちゃけど・・・・・・」
「人手は多い方がいいって。」
―マジで勝手なやつだな。
そう思いながらも、
可笑しくて堪らなかった。
公園から明来の自宅まで、
歩いて3分もかからない。
白を基調とした戸建ての前に立つと、
明来は隣にある
事務所と戸建てが併設した場所に目を向ける。
「松宮って知っとる?同年の。」
並ぶように立つ舞乃空は、首を傾げながら
同じ方向を眺める。
「んー・・・・・・クラスメイトの奴?」
「いや。」
「クラスメイトで、
遊んだ奴らなら知ってるけど・・・・・・」
「その子のお父さんに、
ばり世話になっとるんよ。」
「“松宮冷機”・・・・・・へー。」
「そのお母さんも。時々、
メシ食わせてもらっとる。」
「いーなー。ほぼ家族じゃね?」
「・・・・・・マジで、恩しかない。」
自分がこうして好きな時間を持てて、
生活できて、働いて生きている
実感を持てるのは。
親切な隣人のお陰である。
明来は、常日頃から
この松宮家に感謝しつつ仕事に励んでいる。
いつか、恩が返せる時を
迎えられるように。
「お前ん家に上がったこと、
一回だけあったよなー。」
玄関でスニーカーを脱ぎながら、
舞乃空は言う。
「・・・・・・そうだったっけ?」
先に家に上がり、パーカーのフードを取った
明来は首を傾げる。
「オムライス食わせてもらった。」
「・・・・・・」
―・・・・・・言われてみれば、
そんなこともあった気がする。
「おじゃましまーす!」
楽し気に断りを入れ、舞乃空は家に上がる。
「蓮尾、マジありがとな。」
感謝の言葉と眩しい笑顔をぶつけられ、
明来は苦笑する。
「・・・・・・お礼を言われるような事、
しとらんけど。」
「何言ってんだよ!久しぶりに会った奴に
ここまでしてくれるって、マジないって。」
「泣きつかれたけん。」
「泣きついてねーし。」
笑いながら舞乃空は
廊下のフローリングに立って、周りを見回す。
「キレーにしてんなー。」
「廊下と階段だけな。
部屋の掃除は休みの時だけやから、
綺麗じゃない。」
「充分だろ。」
廊下と二階に続く階段の掃除は、
毎朝の日課にしている。
だが、今日は寝坊して出来ていなかった。
「上がっていきなり悪いけどさ、
トイレ行きたくって。」
「ああ。廊下の突き当りにある
ドアんとこ入って、左。」
聞くなりフローリングの上を
滑るように歩いて、舞乃空はトイレに向かう。
そんなに我慢していたのかと、
明来は笑いながら見送った。
―今のうちにリビングに脱ぎっぱなの部屋着、
片付けておこう。
玄関のすぐ傍にあるドアは、
リビングに通じている。
ドアを開けて中に入ると、
ソファーに脱ぎ捨ててあった
部屋着のスウェットを手に取る。
―・・・・・・家に人が入るって、
久しぶりだ。
明来以外の人間がこの家に入るのは、
彼の両親が亡くなって以来だった。
―・・・・・・変やな。
親戚じゃなくて、
世話になっている松宮の人たちでもなくて、
偶然に再会した阿久屋とか。
スウェットを、二階にある
自分の部屋に持って行こうと
リビングを出たところで、トイレから出てきた
舞乃空と鉢合わせする。
「あー、スッキリした!ずっと我慢しててさー。」
「・・・・・・とりあえず
リビングのソファーに座っといて。」
「はーい。」
笑顔で返事をして、素直に舞乃空は
スマホを取り出しながら
リビングに入っていく。
―・・・・・・明るくしとるけど、訳あって
家出しとるんよね。
明来は、二階に続く階段を上がっていく。
―こっちから聞きづらいし、
あいつから話すのを待とう。
1
プルルルル・・・・・・
プルルルル・・・・・・
耳元で騒ぐ着信音が、
鼓膜を突き抜けて覚醒させる。
スマホに叩き起こされた明来は、
画面を見てベッドから飛び出した。
「うわっ・・・・・・」
掛かってきた電話に、急いで応答する。
「すんません!すぐ行きます!」
《連続はまずいぞ~、明来~。》
「はいっ、すんません!!」
見えない相手に何度も頭を下げて
通話を切ると、明来は素早く
ハンガーに掛けてあった作業着に着替える。
ひどい寝癖を、気休めの手櫛で解しながら
ばたん、とドアを開け、
一階に駆け下りると洗面台へ直行した。
「ふわぁぁ・・・・・・なんだー?」
慌ただしい音に、一階にある物置部屋から
舞乃空が顔を出す。
アルバムや季節の服類、小物など
普段使うことのないものを置く部屋だ。
明来の両親のものが、ほとんどである。
布団を敷くスペースは充分あったので、
そこに舞乃空を泊めた。
物置部屋にあるものは、絶対触るな。
そう伝えている。
あと、二階に上がるのも禁止。
二階には、自分の部屋とルーフバルコニー、
そして両親の部屋がある。
入ってきてほしくない領域なのだ。
急ぎ足で廊下を行く明来に、
寝ぼけた様子で舞乃空は声を掛ける。
「はよー。どうしたー?」
「寝坊した!」
「えー?まだ7時だぜー?」
玄関に行った明来は、安全靴を履きながら
舞乃空に言葉を投げる。
「お前、今日はとりあえず待機な!」
「はー??」
「よく考えたら、説明すんの難しい!
正直に話したところで、松宮さんだったら
きっとお前を家に送り返すと思う。」
「・・・・・・だよなー。分かった。
上手い言い訳考えとく。」
―諦めてほしいっちゃけど。
内心そう思いながらため息をついた後、
ドアノブに手を掛けて言い放つ。
「家の鍵は、リビング入った所の
カウンターに置いとるから!一応な!
俺の持ってるやつと2つしかないから、
絶っっ対に失くすなよ!
今日は極力家で過ごせ!」
「お、おう。」
「行ってきます!」
「あっ。冷蔵庫開けていいかー?」
「カレーとご飯入れとるけん、
それで良かったら食っとけ!」
「おー!あれ最高にうまかったもんなー!
無限に食えるかも。」
昨晩、あれからリビングで
舞乃空が“お腹すいた”と言ってきたので、
晩御飯だったカレーを食べさせた。
『すげー!うめー!』を連発しながら
カレーをかき込む彼に、明来は
得も言われぬ嬉しさを覚えた。
親の気持ちが、ちょっと分かった気がした。
一週間に2回カレーを作って小分けにし、
米も一度に5合炊いておにぎりを作って、
冷凍庫に保管している。
晩御飯はそれをアレンジしながら、
メニューをこなしていた。
「マジ神だな、お前。
気をつけて行ってらっしゃい!」
―・・・・・・
何か変な気分。
舞乃空の方を振り返らず、
明来は玄関のドアを開けた。
少しひんやりした風が吹き込んだ。
日の出を迎えて、優しい日差しが注がれる。
雲一つない青空が広がっていた。
―・・・・・・一階の廊下の掃除くらい、
頼めばよかった。
舞乃空の笑顔に、曇りはない。
心も、明るい。
―・・・・・・何で、家出したんだろ。
特に何も聞かず、
深い話もせず、普通に就寝した。
そして普通に、朝を迎えて言葉を交わす。
違和感なく喋ったことは、自分でも驚いた。
高い声を気にせず、だ。
いつもは、声を出すのに気を遣う。
なるべく低くして発している。
その事を、忘れるくらいに。
玄関の門扉を開けて路地に出ると、
ちょうど一人の少女と鉢合わせした。
「あ、おはよぉ。明来ちゃん。
うふふ。すごい寝ぐせ~。」
ソフトな高音の声と、
木漏れ日のような笑顔。
ふんわりした雰囲気に包まれ、
明来は目を逸らして、ぼそ、と低く声を吐く。
「・・・・・・おはよ。今から?」
「うん。えへへ。続いとるよ~。」
「・・・・・・すごいやん。」
「褒められたぁ。」
少女の笑顔が、さらに明るさを増した。
この少女の名前は、
松宮 葉音。
4月上旬には、県立の高校に入学する。
彼女が早朝ランニングをし始めたのは、
中学校を卒業してからだった。
その高校には有数の合唱部があり、
葉音はそこに入部したいのが目的で
難関の入学試験を乗り越えた。
明来とは幼稚園の頃からの知り合いで、
幼なじみである。
それ以上、特に何も言葉を発することなく
行こうとする明来に、
葉音は手を振って言葉を届ける。
「気をつけて行ってらっしゃ~い。
今夜は家に来てね~。
お母さんとハンバーグ作るけ~ん。」
片手を上げて、それに応える。
「あっ、それと~、話したいことあるけん、
夕ご飯食べた後お家に行ってもいい~?」
―えっ。
それには急ごうとした気持ちが負けて、
明来の足が止まる。
―阿久屋の事は勿論やけど・・・・・・
少し悩んだ後、葉音の方に振り向いた。
「・・・・・・公園ならいいよ。」
その返答に、葉音は間を置いて頷くと
にこっ、と笑った。
「ありがと~。」
大きく手を振って見送ってくれる彼女に、
明来は小さく笑って手を振り返す。
物心つく前から
葉音の事は知っているが、いつからか
彼女の前で自分の声を出すことに
躊躇うようになった。
話す時は、なるべく
低く発するようにしている。
そして、彼女の顔を
まともに見ることも出来なくなっていた。
自分の心の中には、
彼女の笑顔が住んでいる。
それを自覚した瞬間、
彼女が表情豊かに話す姿、仕草、
生み出されるもの全てが輝いて見えた。
自分とは違う、光そのもの。
手に届かない存在。
両親が生きていたら、自分も学生で
普通に会話しながら通学していただろうか。
彼女は、今の自分とは
何もかも違う世界に住んでいる。
だから、彼女に対する想いを自覚した時
彼は苦しくなった。
気持ちを口にすることは、これから先
できないかもしれない。
でも、今の距離感は充分幸せだった。
新緑の木漏れ日のように笑う彼女を、
ずっと見ていたい。
気持ちを打ち明けて、
今の関係が壊れるのは怖かった。
と、いうよりも・・・・・・
壊す勇気が、今の自分にないのだ。
“松宮冷機”と刻まれた看板を掲げた入り口を
通り抜けると、明来の到着を待ち受けるように
3人の男性たちが立っていた。
「今日は大事な案件の最終日だ。
遅れたら先方に悪い。」
「すんません!」
深く頭を下げる明来を、
厳しい目で見据える男性。
しかしその視線には、
底知れぬ優しさが含まれている。
この男性の名前は、
松宮 翔太。
“松宮冷機”の社長である。
請負の事務や経理は、妻である
松宮 陽菜が
専務として就いている。
「明来の寝坊は常習もんやな。」
その松宮の隣で、電子タバコを吸いながら
苦笑いしている40代前半の男性。
作業服の上からでも、
体格の良さが際立っている。
彼の名前は、
水野 孝輔。
松宮と肩を並べる職人である。
二人は、この会社を立ち上げる前からの
知り合いだと、話を聞いている。
立場上、常務でもあった。
頭を下げて小さくなる明来の背中を、
ぽんぽん、と叩いて顔を上げさせる
20代前半の青年がいた。
「みんな優しくて良かったなぁ。
でも、それに甘えるなよ。」
「はい。」
「現場に行く準備をするのは、
段取りを覚えられる大事な時間だと思え。
明日から30分早く来い。」
「はいっ。」
その青年は、明来に仕事を
一から教えてくれている先輩である。
彼の名前は、
寺本 大創。
高卒で“松宮冷機”に就職し、今では
会社を支える大事な戦力になっている。
大家族で育った彼は、
その長男という生い立ちのせいか
面倒見も良く、気さくに話し掛けてくれる。
顔立ち、体格、性格、
明来が目標とする理想像に、ほぼ近い。
「今日も安全第一で。行くぞ。」
松宮の一声で、皆動き出す。
今日は、一ヶ月前から
配線、配管のルート確保をしていた
新築店舗の冷機設置である。
車は、2台で移動する。
1台は、クレーン付きの大型トラック。
このトラックはレンタルなので、
案件が終わり次第すぐ返される。
業務用エアコン、天井カセット形内機4台と
外機1台が積まれている。
荷崩れしないように、ラッシングベルトで
しっかり固定されていた。
この準備は、昨日の内に終わっている。
このトラックには、松宮と水野が乗り込む。
もう1台は、皆の腰道具と
冷機設置に必要な機器が積んである。
これには、寺本と明来が乗り込んだ。
“松宮冷機”には、2台の社用車がある。
明来たちが乗り込むバンと、軽トラック。
ルームエアコンなど小型冷機を乗せる時は、
この軽トラックを使う。
今日は大型冷機でレンタル車が出動する為、
待機である。
今回の現場は、“松宮冷機”にとって
稀に見る大きな案件である。
他業者との兼ね合いもあるので、
工程はそれに応じて進められていた。
今日の工程で設置が終了するが、
試運転などの微調整で現場へ行くことは
今後も続く。
新設の現場は様々な職人たちが関わるので、
全体の進み具合で
工程の日時が決まる事が多い。
普段の出勤時間は8時なのだが、
今回は県外ということもあり
高速道路を使っての移動になるので、
1時間早く集合することになっていた。
現場に移動する時間の事も、
頭に入れておかなくてはならない。
現場へ行く前、決まってコンビニに寄る。
そこで朝御飯と飲料を買って、
移動する際に補給するのが日常だった。
「おっ、これうまそ。新発売やん。」
寺本が手にしたのは、
生クリームたっぷりのふわふわパン。
「好きっすねー。」
明来は小さく笑いながら、ハムとチーズの
ホットサンドイッチを手にする。
「お前そればっかやん。」
またそれ?みたいな表情を浮かべて、
寺本は笑う。
「なぁ、明来。聴いた?“くるぶし”の新曲。」
「もちろんっす。」
「ばり良かったろ?」
「良かったっすね。」
会話しながら飲料コーナーに行き、
明来は水のペットボトル、
寺本はブラックコーヒーの缶を手にする。
松宮と水野は、サンドイッチとおにぎり、
お茶のペットボトルを手にして
先にレジに並んでいた。
「移動中、聴こうぜ。」
「いいっすね。」
寺本と二人で移動する時は、
互いに好きな音楽を掛け合っている。
彼らの、ささやかな楽しみであった。
ふと明来は、
自宅にいる舞乃空のことが気になった。
―・・・・・・昼にメールしてみよう。
*
息を弾ませながら、
葉音は軽快に走っていく。
公園の外周は、約400m。
それを5周走るのが日課である。
早朝ランニングを始めて、約2週間。
走り抜いた後の爽快感が、
好きになりつつある。
ワイヤレスイヤホンで、
音楽を聴きながら走る。
スマホポーチは必需品になっていた。
好きな曲で作成したプレイリストは、原動力。
走るテンポに合うものを選んでいる。
―明来ちゃん、明日、
お仕事お休みやったよね。
カラオケ誘っていいかなぁ~。
・・・・・・お話、聞いてもらえるといいなぁ。
明来ちゃん、歌うまいのに
いっちょん歌ってくれんもんなぁ・・・・・・
ばり良い声なのに。
隣の家に住む明来とは、幼なじみ。
物心つく前からの付き合い。
彼女にとって、彼は親友である。
仲良しの友だちはいるけれど、
何でも気軽に話せるのは、彼だけだ。
彼の両親が亡くなってから、
彼は変わってしまった。
無理もない。
自分が同じ立場だったら、耐えられない。
―明来ちゃんはすごい。強いと思う。
父の会社で一生懸命働いている彼を、
彼女は心の底から応援し、尊敬している。
―特大ハンバーグ作っちゃうもんね~。えへへ。
今回のお仕事、やっと終わるもんね。
大変そうやったもんなぁ。
お父さんも明来ちゃんも、いつも疲れて
帰ってきとったもんね。
たくさん食べてもらって、
元気になってもらお~。
今日も頑張れーっ!おとーさ~ん!
明来ちゃ~ん!
その大きな瞳は、汗とともに
きらきらと輝いている。
彼女の応援を見守るように、
朝日が降り注いでいた。
地面に重なった桜の花びらが、通る度に
ふわりと舞っている。
―桜、ばりキレ~。
今年のが一番キレ~かも~。
毎年同じように思っているが、
歳を重ねる毎にその美しさが心に響く。
彼女は少しずつ、確実に成長している。
ランニングを終えた葉音は、
クールダウンする為に息を整えながら、
しばらく歩いていた。
ハンドタオルで軽く汗を拭きながら、
自宅に向かって歩き出す。
ふと明来の家を、ちら、と見て足を止めた。
彼の両親が亡くなってから以後、
家に上がらせてもらえなくなった。
知れた仲なのに、遠ざけられた気がして
彼女は寂しかった。
だから今朝、駄目元でお願いしてみた。
やはり、受け入れられなかった。
明来以外の人が出入りしているのを、
見たことがない。
―前は、普通に
上がらせてもらっとったのになぁ・・・・・・
・・・・・・?
気になったその窓は、
テラスからリビングに続く所だ。
カーテン越しに影が通った気がして、
葉音は目を凝らす。
―・・・・・・えっ?!
そのカーテンが開き、窓が開いた。
そこから顔を出し、
テラスに出る少年の姿を捉える。
葉音は慌てて門扉を盾にして隠れた。
―・・・・・・誰?
そっと、気づかれないように
顔を少し出して覗く。
決して見間違いではなかった。
その少年は大あくびをして、
背伸びをしている。
―・・・・・・知らない子やけど・・・・・・
妙な緊張感に包まれた。
―・・・・・・親戚の子?
そう考えて、頭を横に振る。
―違うよね。
明来ちゃん、親戚の人に頼りたくないって
言っとったし・・・・・・
交流も避けてる感じだった。
・・・・・・じゃあ、誰?
その少年は、しばらく青空を堪能して
風に当たった後、再びリビングに戻って
窓を閉めた。
葉音は息を飲む。
―・・・・・・空き巣・・・・・・なわけないよね。
あんなに、まったりしとるわけないもん。
・・・・・・
・・・・・・
明来ちゃんにメールする?
・・・・・・うーん。
頭を抱える。
自分の想像力じゃ、追いつかない。
―・・・・・・うん。
夜、聞いてみよう。
・・・・・・
聞いて、いいよね?
*
「メシにしよう。」
松宮の一声が掛かった時点で、
全ての室内機設置は終了していた。
化粧パネルの蓋を開けたままの状態で、
電線がすぐに繋げるようにしている。
「外機にいる水野を呼んできてくれ。」
「はい。」
明来は、手に持っていた銅管の切れ端を
一箇所に固めて置き、
水野のいる屋上へ上がっていく。
午前中は、内機4台を
天井に打ったアンカーから吊るした
寸切ボルトに設置し、ルート確保していた
銅管とドレン
(結露などを排水する塩化ビニル管)を繋げた。
先日現場に来た時は
天井のボードが張られておらず、
軽天がむき出しになっていた。
電線を繋げるのは電気工事の管轄になる為、
這わせただけで、そのまま放置する。
普段なら電線も繋げるのだが、この現場では
その工程もきちんと決められていた。
午後からは、繋げた銅管の中を
真空にする作業である。
集中管理の為、4台とも
1台の外機と繋がっている。
銅管を溶接した箇所、繋げたフレアから
漏れがないかも同時に確認する。
真空引きをして数日置く為、
今日の作業はそれで終了になる。
「常務。昼メシっす。」
「おう。」
屋上に行くと、水野は
外機の周りに広げていた道具を
片付けているところだった。
「明来、昼から
真空ポンプとマニホールド持って上がれ。」
「はい。」
ようやく、道具の名前と記憶が
一致するようになった。
淀むことなく返事をしたのに対し、
水野は感心したように笑う。
「真空ポンプ、重いやろ?」
「やばいっすね。」
明来も小さく笑って、相槌を打った。
真上にある太陽の日差しは強いが、
吹き抜ける風はとても心地好い。
水野は腰道具を外してその場に置くと、
明来と並んで歩いていく。
「大創が感心しとった。
今朝段取りの事言っとったやろ?」
そう言われて、ぴんと来なかった。
―でも、あれは寝坊で・・・・・・
「新築アパートの案件が入っとる。
寺本とお前でさせようと考えとるから、
そのつもりで覚えろ。」
「えっ。マジっすか?」
「腰道具、用意せんといかんなぁ。」
笑いながら歩いていく大きな背中を
見送るように、明来は呆然と立ち尽くす。
込み上げる高揚感。
認められた嬉しさ。
様々な思いが、小さな身体に駆け巡る。
にやけそうになるのを堪えて、
明来は水野の後を追うように歩く。
「真空ゲージも、忘れずに持ってこないかんぞ。」
「はい。」
「馬力がでかい外機は初めてやろうから、
よく見とけよ。」
「はい。」
今、何言われても嬉しい。
現場から少し離れた所に、業者用の
駐車スペースが設けられていた。
そこに停めていたバンへ、明来は歩いていく。
水野は、先にトラックに戻っていた
松宮の所へ歩いていった。
今日は日差しも強く、汗ばむくらいに暑い。
今の時季はまだいいが、夏になると
現場は地獄と化す。
明来はまだその中作業したことはないが、
過酷さは言うまでもない。
昼食は、車の中で食べることが多い。
周りに飲食店があれば、
皆で入って食事を摂ることもある。
その時は大抵、ラーメン屋だった。
この現場の周りには、コンビニはあるものの
目指しい飲食店はない。
各々弁当を持参しており、車内で
食事を摂っていた。
しかし明来は、今日も寝坊で
昼食のおにぎりを持参できなかった。
「ちょっと行ってきます。」
「あー、明来。ついでに
シュークリーム買ってきてくれ。」
運転席側の、開いている窓から声を掛けると、
寺本は既に弁当を広げて食べていた。
ケチャップ付きの卵焼きを口に入れた後、
明来に500円硬貨を手渡す。
「お前の分もな。」
「あざっす。」
先程水野に言われた事を噛みしめていた
明来は、嬉しそうにお礼を言う。
寺本の持参している弁当は、
現在付き合って同棲している彼女が
作っているものらしい。
それを口の中にいっぱい頬張る彼は、
とても幸せそうに見えた。
明来は、目の前にあるコンビニへ歩いていく。
昼食は大抵、おにぎり2つ。
それで足りるのかと、よく言われるが
個人的には充分だった。
コンビニの入口付近で立ち止まると、
作業服の胸ポケットからスマホを取り出して
通知を確認する。
ウェブニュースや、チャンネル登録している
動画の情報がほとんどだ。
通知に目を通した後、明来は
舞乃空に迷わずメールを送信した。
《いまどこ?》
すると、すぐに既読がつく。
《お前んち♪》
何か、イラッときた。
《二階に上がるなよ》
《上がんないって》
《廊下掃除しといて》
《おー》
《ワイパー階段下に》
《あるけん》
《はーい》
《はやくかえってきて♡》
その後、自撮りしたであろう
舞乃空の笑顔が貼り付いてくる。
ふざけた相手に、明来はイラッとしながらも
吹き出して笑った。
―マジで、ふざけとる。こいつ。
貼り付けてきた画像の背景に、
見慣れたリビングのソファーがある。
それを確認して、ほっとした。
同時に、このふざけた画像は
相手の配慮なのではと、はっとした。
―リビングにいるから安心しろ、的な?
・・・・・・そこまで考えて?
まさか、な。
舞乃空は、何か事情があって家出している。
でもそれは、
重い事情で起こした行動ではない気がする。
彼なりに考えて、行動したことなのではと。
『逆に、いないほうがいいんじゃね?』
あの時は、自分の境遇のせいで
重く受け止めてしまった。
明来は改めて、
この舞乃空の言葉を考え直す。
憤り。
理解してもらえないという悔しさ。
それのあまりに、出てしまった言葉。
―・・・・・・話、聞いてみるか。
松宮たちが会社に帰ってきたのは、
夕方の6時頃だった。
後片付けをし終わって事務所に入ってきた
彼らを、一人の女性が笑顔で迎える。
「みんなお疲れさま。」
その女性からの一言は、彼らにとって
無事帰ってきたという安堵感を得られる。
「お疲れさまっす。」
寺本が一同を代表して言葉を返し、
皆頭を軽く下げた。
女性―松宮 陽菜は明来と目を合わせ、
手招きをする。
昨日も同じ事をしたので、明来は
申し訳なさそうに陽菜のいるデスクへ
歩いていった。
「すんません。」
謝って深々と頭を下げると、
陽菜は一枚の紙を渡して微笑む。
「たくさん食べて、ゆっくり休みなさいね。」
寝坊でタイムレコーダーに通さず
現場に向かった為、
日報を書かなければならなかった。
他の3人は、順々に
備え付けられたタイムレコーダーへ
カードを通していく。
明日は日曜日。
基本、会社も作業も休みである。
あとは月に3、4回、業務と希望に合わせて
休日を取るようになっていた。
皆で軽く打ち合わせをして、解散する。
明来は、自宅の玄関前に立つ。
リビングの窓のカーテンは閉まっているが、
そこから漏れる光を目にして、
とても複雑な気持ちになった。
いつもは、仕事から帰宅した時に
明かりが灯っていることはない。
誰かが家にいるという、忘れていた感覚を
久しぶりに思い出した。
玄関のドアを、少し息を整えて開ける。
すると、すぐにリビングから
舞乃空が姿を見せた。
「おかえりー。」
笑顔で迎えた彼の格好は、
昨日やむを得ず引っ張り出して貸した、
父親の部屋着。
以外にも、サイズが合っていて驚いた。
ただいま、と言いそうになるが、
息を漏らしただけで靴を脱ぐ。
「昼メシ、カレーもらって食ったぜ。」
「・・・・・・ああ。」
廊下に上がると、明来は舞乃空に目を向けず
そのまま洗面台に向かった。
「晩メシどうする?」
後ろから付いてきた舞乃空は、
ハンドソープで丁寧に手を洗う明来に
声を掛ける。
洗い終えた後、備え付けのタオルで
水気を拭き取りながらその質問に応える。
「松宮さんとこに呼ばれとるんよ。
いつも、食べきれない分を
多めに持たせてくれる。
ハンバーグもらえると思うけん、
待っとって。」
「ハンバーグ!?やばっ」
ハンバーグと聞いて、ぱぁっと
舞乃空の表情が明るくなる。
ご飯を巣に運ぶ親鳥を待つ、雛鳥。
明来はそれを感じて小さく笑うと、
舞乃空に目を向けた。
「掃除、ありがとな。」
「何でも言ってくれ。」
ドヤ顔する相手を、
真っ直ぐ見据えて告げる。
「帰ったら、話聞かせてくれ。
・・・・・・お前が家出した理由。」
「・・・・・・」
それを受けて、舞乃空は真摯な表情になる。
しばらく明来を見据えた後、
彼は破顔した。
ふざけた様子ではなく、どちらかといえば
不敵にとれる笑みだった。
舞乃空は、口を開く。
「聞いてくれるのか?」
その問いに、明来は頷く。
「・・・・・・ありがとう。」
気にかけてくれて。
発しはしなかったが、
その言葉が聞こえた気がした。
舞乃空の表情は、優しさへと変化している。
それがどことなく大人びていて。
とても格好良く見えた。
やっていることは勝手なのに。
遠くから遥々ここまでやって来た彼は、
何かを決意している。
それが、明来にとって眩しかった。
目を逸らし、逃げるように
二階へと上がっていく。
自分にはない光。
葉音も、舞乃空も、眩しいほどに綺麗だ。
それを避けるように、
自分は現実にしがみついている。
認められたいと、貪っている。
そんな自分が、嫌いだ。
ただ、もがいて生きているだけの、自分が。
外は日が落ちて薄暗く、
電灯が付き始めている。
散歩時にいつも羽織るパーカーと
履きこなしたジーンズに着替えた明来は、
“松宮冷機”と掲げた看板を通り過ぎて
隣の一戸建てに歩いていく。
明来の自宅よりも、横にゆったりと広い。
今は閉まっているが、ガレージには
洗練されたバン1台と
フルカウルバイク1台が眠っている。
松宮の趣味で、休日はよくこのガレージで
メンテナンスしている姿を見掛ける。
月一で、バイク仲間と
ツーリングに出掛けているらしい。
門扉のすぐ近くの壁に備え付けられている
インターホンを鳴らすと、
すぐ玄関のドアが開いて葉音が出てきた。
「お疲れさま~!」
門扉を開き、満面の笑みで出迎える。
そんな彼女の温かい光に、
明来は自然と笑みを浮かべた。
「ご馳走になります。」
丁寧にお辞儀をして言う彼に対して、
葉音は落ち着かない様子で笑う。
「え?急にどうしたと?」
「・・・・・・いつもありがたいなと思って。」
「ふふっ。
もうごはんの準備できてるよ~。」
そう言って、飛び跳ねるように
玄関のドアに向かう彼女の後を、
明来は一歩下がって歩いていく。
背丈は、自分が頭一つ分高い。
同年の子たちに比べると、彼女は小さい方だ。
そのお陰でというか、
背が伸びない劣等感を覚えずにいられる。
玄関に入ると、とても
良いにおいがした。
そのにおいで、急に
お腹が空いていることに気づく。
「おじゃまします。」
そう言って、スニーカーを脱いで
玄関を上がると、すぐに
にゃーん、と甘えた声が迎えてくれた。
「ふふっ。こはるが出迎えてくれるの、
明来ちゃんだけだよ~。」
ゆっくり明来の足元に歩いてくる、
小さな松宮家の家族。
明来が手を近づけると、嬉しそうに
しっぽをピンと立てて
小さな頭をすり付けてくる。
“こはる”というのは、一年前から
この松宮家に住んでいる子ネコである。
陽菜の知り合いが飼っている
キジトラが産んだ、5匹の内の1匹を
譲り受けたらしい。
綺麗な毛並みと大きな瞳が、
彼女のチャームポイントだ。
「明来兄ちゃん!こんばんは!」
葉音に似た顔の少年が、階段から下りてくる。
彼の名前は、
松宮 風雅。
葉音の5歳下の弟である。
「こんばんは。」
挨拶を返すと、風雅は
弾けんばかりの笑顔を返す。
「あとでゲームしよ!」
「だーめっ。明来兄ちゃんは忙しいと。」
「んだよ~。ねーちゃんに聞いとらんし。」
「とにかく今日はダメ。」
「じゃあ、今度ぜったいやけんね!」
「はいはい。」
ふて腐れる風雅の背中を押すように、
葉音はリビングへと追いやる。
その光景を、明来は
小さく笑いながら見守った。
風雅とは、ゲーム仲間である。
大抵、アクションシューティングゲームだ。
松宮家に行った時は、
こうしてゲームに誘われていた。
いつもはその流れに乗るのだが、今日は
葉音の意思表示が強い。
松宮家のリビングは、とにかく広い。
それにふさわしい大型テレビと、本革L字ソファー。
食卓をゆったり囲む、
無垢材ダイニングテーブル。
今そこには、様々な料理が準備されていた。
ポテトサラダ、ほうれん草のお浸し、
里芋と鶏そぼろの煮付け、
ねじり蒟蒻のピリ辛炒め。
どれも大皿に盛られていて、
大きな取り分けスプーンがある。
各自用意されたワンプレート皿に、
好みの分を乗せて食べるのが松宮家流。
そのプレートには、既に
ハンバーグのみが鎮座していた。
小鉢には冷奴。
かつお節と生姜、葱が乗っている。
「いらっしゃい。」
温かみのある木製のお椀に
春キャベツのスープを注ぎながら、陽菜が
にこやかに声を掛ける。
「明来くんの席はいつもの所ね。
葉音、お父さん呼んできて。」
「はーい。」
元気よく返事をして
リビングから出ていく葉音を、明来は目で追う。
こはるは相変わらず、
足元に寄り付いて離れなかった。
「明来兄ちゃん!これ見て!」
風雅は、明来を押すように
ダイニングテーブルの席へ促して
自分もその隣に座ると、
手に持った携帯型ゲーム機を差し出す。
画面には、ブロック形のパンダが映し出されていた。
「お~、すごいやん。」
「えへへ~。」
「風雅、ご飯の時はゲーム禁止。」
「見せとるだけ~。」
間もなくリビングに、松宮と葉音がやってくる。
部屋着姿の松宮は、仕事時とは別人のように
柔らかい雰囲気を持つ。
特等席に座ると、対角線上に座る明来に
目を向けて、ふわりと微笑む。
「今日もお疲れさま。」
「お疲れさまっす。」
明来は、軽く頭を下げて言葉を返す。
松宮が座った時点で、いつの間にか
風雅はゲーム機をソファーの上に置いていた。
葉音は、その彼の隣に座る。
「豪華だな。」
「大きな仕事も一段落ついたしね。
早いけど、ちょっとした打ち上げよ。」
「あ~!お父さんと明来兄ちゃんのハンバーグ
ばりでかっ!!」
そう言われて、
改めて目の前のプレートを見る。
確かに、プレートに区切られている敷地を
無にする程、大きい。
「葉音ちゃん特製のハンバーグだからね~。」
得意げな顔をする時の彼女は、無敵である。
「これは嬉しいな~。」
鎮座する特大ハンバーグを見つめて、松宮は
ほっこりしている。
迫力のあるそれに動じないのは、
流石父親と言えるべきだろう。
食べきれるかな。
明来は内心、ちょっと心配になりながらも
葉音の心遣いが嬉しかった。
陽菜がキャットフードを所定の皿に注ぐと、
こはるの耳がピンと立つ。
またあとでね。
そんな風に明来の方を何度か見た後、こはるは
そっと離れていった。
彼女も、大人になりつつある。
スープを注いだお椀と
茶碗に盛られた炊きたてご飯が
各自の前に行き渡ると、陽菜も特等席である
松宮の隣の席に座る。
皆、席に着いたところで、顔を見合わせた。
「それじゃ、いただきまーす。」
「いただきまーす!」
松宮家の夕食は、みんな揃って始まる。
その中に時々、明来も加わっている。
何の違和感もなく。
松宮家の人たちは、明来を受け入れている。
それが彼にとって、有り難くもあったが
申し訳なくもあった。
何も心配されないように。
強い大人にならなければと、常に考えていた。
松宮家の人たちは、
そんな明来の思いを知っている。
彼を、間近で見守っている。
いつでも、彼が自分たちを
頼りにしてくれるように。
夕食を終え、明来は一旦自宅に戻った。
小分けにされた調理済みのハンバーグ5個と、
パックいっぱいに詰められた総菜を
持って帰る為である。
玄関先でそれを舞乃空に手渡すと、
予想以上に喜んでいた。
ちょっと出掛けてくる。
そう言うと、にやにやしながら
言葉を投げてきた。
『カノジョと散歩?』
葉音の事を詳しく教えてはいなかったが、
そう解釈したのだろう。
それに対して、明来は何も動揺しなかった。
すぐ戻る。
短く告げて、自宅を後にする。
明来は足早に、近くの公園へ歩いていった。
この時間、彼女とここに来ることは、
憶えている限りでは一度もない。
特別な時間に、特別な子と過ごす。
それは、憧れだった。
自分の想いを告げていないのに、
付き合ってもいないのに、
それが叶う。
家に上げられない事情があったにせよ、
願ってもない時間だった。
明来が公園に辿り着くと、葉音は
とある桜を見上げていた。
奥のベンチの側にある、大きな一本だ。
夜桜の圧倒的な美しさに囚われたのか、
彼女は彼が来たことに気づいていなかった。
「キレー・・・・・・」
小さく漏れた声は、ため息混じりである。
その、葉音の気持ちがよく分かる明来は、
あえて声を掛けなかった。
特等席である奥のベンチへ、
そのまま歩いていく。
桜が覆う中に立つ彼女の横顔は、
いつに増してとても可憐だった。
写真を撮って収めたい気持ちが、浮かび上がる。
でも、それをしない。
瞳のファインダーで、脳裏に刻む。
それで、充分だった。
満足したのか、葉音は桜から目を離す。
そして、ベンチに座る明来の姿を捉えて
目を見開いた。
彼女は頬をほんのり赤く染めて、
同じベンチに距離を保って腰を下ろす。
「来たんなら、声かけてよ~。」
「声かけたら悪いなと思って。」
電灯の光が頼りの暗い中でも、
恥ずかしそうな葉音の表情が分かる。
「・・・・・・夜来るの、アリだね~。
こんなに夜桜がキレーだなんて、
知らんかった~・・・・・・」
「・・・・・・俺は、よく来とるよ。」
「え?教えてよ~。」
―秘密の時間だったから。
明来は小さく笑う。
「・・・・・・話って、何?」
「・・・・・・え~っとね・・・・・・」
葉音は、深呼吸している。
言いにくい事なのだろうか。
「・・・・・・知っとると思うけど、
私、歌うの好きなんよ。」
「・・・・・・うん。」
「で、高校の合唱部とは別に、
個人的に歌を習おうと思っとるんよ。」
「・・・・・・それは、初めて聞いた。」
「歌う人に、なりたい。」
「・・・・・・それは、プロとして?」
「うん。」
「じゃあ、たくさん頑張らないとな。」
「明来ちゃんはどう思う?
私の歌声、聴いとるよね?なれると思う?」
「・・・・・・」
そう質問してきた彼女の表情は、
とても真剣だ。
これは、きちんと答えなくてはならない。
自分は勿論、その道のプロじゃない。
彼女はきっと、自分が友だちの誰よりも
本気の歌声を聴いてきているから、
お世辞抜きの本音が知りたいのだろう。
「葉音の声は、ソフトで、優しい。
癒される歌声だと思う。
専門的な事は言えないけど・・・・・・
それに向ける姿勢が大事なんやないかな。
技術とかはこれから磨くとして・・・・・・・
葉音の歌声だったら、
俺は毎日聴きたいと思う。」
言われた彼女の表情は、
今まで至上の輝いた笑顔だった。
「明来ちゃん、ありがとう!
そう言ってもらえて、ばりうれしいっ!
私、頑張るけん!」
その笑顔に釘付けになって、
なかなか目を逸らすことが出来なかった。
いつもとは少し違う、彼女の笑顔。
心から嬉しいと、聞こえる程だった。
「明日用事ある?カラオケ行かない?
もっと分析してほしいなぁ~。」
分析。
なぜかその響きが、いかがわしく聞こえた。
1ミリでもそう思った自分を戒めるように、
明来は葉音から目を逸らす。
「カラオケ・・・・・・かぁ・・・・・・」
「会社のお得意さんがね、無料券くれたらしいんよ。
いつも行ってるあのカラオケ店の。
あ、もちろん部屋代だけね。えへへ。
それもらったから、一緒に行こ!」
「うーん・・・・・・」
「ねっ。行こ?」
彼女に頼み込まれたら、断れない。
「・・・・・・いいよ。」
「やった!」
「・・・・・・歌わなくていいなら。」
「なんでぇ?」
葉音は不満げである。
歌うことは、嫌いじゃない。
だが彼女の前では、歌いづらい。
「明来ちゃん、いつもそうやん。
久しぶりに聞きたいのに~。」
「・・・・・・俺はいいの。その分、葉音歌えよ。」
「も~。」
頑固な明来に、葉音は頬を膨らませながら
ぽつりと言葉を零す。
「じゃあ・・・・・・
良かったら、お友だちも誘っていいよ。
それなら歌いやすい?」
「・・・・・・えっ?」
「明来ちゃんちに今、泊まってるお友だち。」
耳を疑った。
その一言で、明来は動揺した。
「私の歌声、
知らない人の意見も聞きたいし・・・・・・」
「・・・ちょ、ちょっと、葉音・・・・・・」
「ん?」
「見たのか?」
あいつの姿を。
言わずとも、葉音は
にこっと笑って答える。
「今朝ランニングし終わって帰ってるとこ、
明来ちゃんちのリビングから、男の子が
テラスに出てきたの見ちゃって・・・・・・」
それは、防ぎようがない。
「そのこと、誰かに言った?」
「言っとらんよ・・・・・え?お友だち、よね?」
「・・・・・・小1ん時、すぐ引っ越したけど
俺と遊んでいたやつ。クラスメイトやった。
葉音は知らないかも。
昨日、そいつと偶然ここで会って・・・・・・」
家に、泊らせました。
これで通じるものなのか。
葉音の表情は複雑だった。
「・・・・・・偶然会ったお友だちは家に入れるのに、
私は入れてくれないのって・・・・・・
どうして?」
「えっ?」
まさか、そんな質問が来るとは
思っていなかった。
「私のこと、ほんとは嫌いなん?」
今にも、泣きそうな顔になっている。
さっきまで、あんなに
輝いた笑顔をしていたのに。
「ち、違うよ。」
「じゃあ、どうして避けると?」
堰を切ったように、
彼女から言葉が溢れ出す。
それは漏れなく、自分の心にぶつけられた。
「最近の明来ちゃん、変だよ。悩み事があると?
私には話してよ。隠さずに。」
葉音の大きな瞳から、涙が零れる。
彼女の豊かな感情に、
明来は戸惑うしかなかった。
「・・・・・・」
しゃくり上げる声が、響く。
どうしたの?と、桜は
彼女を慰めるように揺れていた。
―違うんだ。
逆だよ。
お前が好きで、女として見てるから
家に入れないんだよ。
・・・・・・んなこと言えるかっ。
「・・・・・・
家に、入らせないのは・・・・・・
どんなに仲良くっても・・・・・・
その線引きは、大事やから。」
絞り出すような彼の声を、
葉音は泣きながら聞き取る。
「・・・・・・?」
「今、意味分からんくてもいい。
それだけは知っといてくれ。
決して、葉音を嫌いなわけじゃない。」
「・・・・・・」
「その、そいつ・・・・・・
家出してきたらしくて・・・・・・しばらく
泊まらせてくれって言われたんだ。」
「・・・・・・家出?」
「時期的に、あいつも入学前だろうから・・・・・・
本当に少しだけ家出したんやろうと思う。
多分、親とケンカしてキレたみたいな。
詳しくは、今夜聞くつもり。
成り行きで泊まらせることになっただけ。
・・・・・・だから、お前を避けてるとか、
全く違うから勘違いしないでほしい。」
「・・・・・・
そうなんやね・・・・・・」
頬に流れた涙を袖で拭い、
葉音は明来を真っ直ぐ見据える。
「明来ちゃんがまだ隠しとることは、
いつか聞かせてもらうけんね。」
「・・・・・・」
―いつになるか、分からんけど。
その眼差しから逃れるように、
地面へ視線を落とす。
昨日よりも、桜の花びらが敷き詰めている。
「そのお友だちも、カラオケに呼ぼう。
私もお話聞きたいけん。
お父さんたちに見つかった時は、
同級の友だちが泊まってるって
言えばいいだけやん。
家出しとるって、
言わなければいいだけやろ?」
自分よりも、度胸が据わっている。
ベンチから立ち上がった葉音は、
なぜか勇ましく感じた。
「明日、ここに10時ね。明来ちゃん。」
その勢いのまま、彼女は歩いていく。
後を追っていいのか、明来は迷った。
力強い足取りで去っていく葉音の後ろ姿は、
いつものふんわりした彼女ではない。
声を掛けることすら、躊躇われた。
彼女との特別な時間は、
30分も経たずに終わる。
この時彼は、彼女の複雑な心境を
理解することが出来なかったのだ。
明来が自宅に戻ると、リビングから
舞乃空が口を動かしながら顔を出す。
「おかえり!このポテサラ、ちょ~うまっ!」
「・・・・・・ああ。」
それは良かった。
力なく言って洗面台に向かう明来を、
舞乃空は、じっと窺う。
咀嚼して飲み込んだ後、その後を追って
手と顔を洗う明来に声を掛ける。
「帰ってくんの早くね?」
「・・・・・・」
「フラれた?」
その一言で、出していた水を止めて
舞乃空を睨みつける。
「コクってもない!」
「コクってもないんかーい!」
「お前さ、テラスに出たところ
葉音に見られとるんよ!」
「えっ。マジ?」
「それはしゃーないけど、お前のせいで
変な感じになっとることは間違いない!」
「はー?何だよそれ。」
「明日!葉音からカラオケに誘われとる!
お前も一緒に!」
「・・・なぁ。葉音って、松宮のことだよな?
やっぱ女だったんだ?
出ていく時のお前の感じ、分かりやすかったし。
何かあった?」
「・・・・・・ああ。
お前の思っとる関係やないけどな。
行かなくてもいいけん。無理して。」
タオルで顔を拭い、
洗濯機の中に投げ捨てると
明来は舞乃空の横を通って廊下に行く。
「家出の理由、明日聞く。今日は疲れた。
容器の片付け、きちんとしろよ。」
「待て、蓮尾。」
舞乃空の手が、二階に上がろうとする
明来の片腕を掴む。
昨日、同じことがあった。
びくともしない、相手の圧倒的な強さ。
外せない、憎らしさ。
一日じゃ、どうにもならない。
明来は強制的に止められ、
舞乃空を睨み上げるしかなかった。
視線をぶつけ合ったまま、固着する。
「・・・・・・八つ当たりもいいとこだろ。
人のせいにすんなよ。」
切り出したのは舞乃空だった。
「・・・・・・偉そうに・・・・・・」
「偉そうに、じゃねーよ。
お前が起こした事は、お前のせいだろ?
何で俺のせいなんだよ?」
「・・・はなせっ!」
「お前がその子に、俺の事どう説明したか
知んねーけど・・・・・・それとお前の事情が
何で関係あるんだよ?
・・・・・・怒る意味が分かんねー。」
「・・・・・・もういいって。だから放せ。」
「よかねーよ。・・・・・・ったく。
言わないでおこうと思ってたけど・・・・・・」
「・・・・・・何を?」
「お前さ。自覚ねーとこみると、重症だな。」
「・・・・・・は?」
「長いことお前を見てるその子とか、
その子の家族には敵わねーだろうけど・・・・・・
俺にも分かった。」
「さっきから何言っとると?
意味分からんっちゃけど。」
「いいよ、もう。その子たちには悪ぃけど、
俺は踏み込む。お前とは、
上辺だけの付き合いはしないって決めた。」
「だから一体何を・・・・・・」
それから、何が起こったのか分からない。
なぜか、自分は舞乃空の腕の中にいた。
「泣きたいのを、ずっと我慢してるのって
つらいよな。」
意味が分からなかった。
逃れようとするが、当然力で抑えられる。
「な、何言って・・・・・・はなせよっ!」
当然、声が裏返る。
「今にも泣きそうな声で歌ってただろ。」
その言葉に思い当たる出来事。
昨日、舞乃空が自分に声を掛けた時。
自分は歌っていた。
聴かれていたのか。
それはいいが、なぜ今、自分が舞乃空に
抱きしめられているのかが分からない。
「泣きたいんだろ?いーよ。
俺のひろーい胸、貸してやる。」
「・・・お・・・・・・」
お前、何言っとるん?
そう言いたいが、言葉が出ない。
「泣いていいから。誰にも言わねーよ。
あ、もちろんその子にも。
秘密にしといてやる。
弱いとこ見せらんねーよな。うんうん。
だから、いーから今、一度泣いとけ。」
「・・・い・・・・・・」
意味分からん。
そうとも言いたかった。
「お前が、どれだけ周りの人に気を遣って、
迷惑かけないようにして、
踏ん張っているか、全部分かったから。」
「・・・・・・」
「でもな、まだ子どもなんだよ。
どうあがいても。どんなに頑張っても、
すげーことやっても、心だけは無理なんだ。
まだ親に甘えたいんだ。
でも、お前にはいない。
それだけは、他の誰かじゃ埋められない。」
「・・・・・・」
「だからさ、弱い部分を見せられる存在に
なってやるよ。俺も見せる。
・・・・・・俺が家出した理由とか、別に
くだらねーの一言で終わってもいい。
聞いてくれるだけで、ありがてーし。
お前が聞いてくれるって言った時は、
マジうれしかった。」
彼が紡ぐ言葉の一つ一つが、
触れている頬から響いて伝わる。
「子どもでいられるのは、今のうちだって。」
「・・・・・・」
「とにかく、泣いとけ。思いっきり。」
明来の目に、涙が溢れる。
力でねじ伏せられてどうにもならない、
悔し涙なのか。
流れるものがどこから来ているのか、
何も分からず溢れ出る。
―上がり込んで、入り込んで、
言いたいことぶつけてきて、
ばり勝手なのに、
どうしてこいつに、抗えない?
嗚咽する。
泣くのは久しぶりで、忘れてかけていた。
そして、ふと思い出した。
両親が死んだ時、自分は泣けなかった。
突然いなくなったという、そんな感覚だった。
自分の知らないどこかで生きているような、
そんな認識だった気がする。
今思えば、その時から
おかしいのかもしれない。
ずっと、もがいていたのかもしれない。
おかしいと思う気持ちでさえも、
気にしていなかった。
ただ、もがいて。
もがき倒して。
強くなればと。
ただ、それだけで。
逃れようとしていた明来の力は、もうない。
それを感じて、舞乃空は片腕で
明来の肩を抱く。
もう一方の手は、宥めるように
彼の頭に置かれた。
この状況は、おかしい。
そう思う事よりも、舞乃空の訴えた言葉は
明来の心に響いた。
流れだした涙は、止まるはずもない。
我慢していた月日の分が、一気に溢れ出す。
明来は、何もかも忘れて泣いた。
偶然に再会して、詳しいことも
心の内も話さなかったのに、
どうして分かったのだろう。
自分が、泣きたくて仕方なかったことを。