舞台裏
当時、勉強や運動をそつなくこなせるだけの、つまらない高校生だった私──剣持有紗には、大切な幼馴染がいた。
唐沢卓人。いつも笑顔を絶やさない、天使のような少年だった。
幼稚園から高校まで一緒に過ごしてきた私たちは、もはや家族のような親密さだった。
幼い頃は女の子の方が肉体的にも精神的にも成長が早い。
もともと世話好きだった私は、すっかり彼のお姉さん役に収まっていた。
大人からはよく、『まるで姉さん女房』とからかわれた。
けれど、そんな大人たちの言葉を、私はさめた気持ちで聞き流していた。
私にとっての彼──タッくんは、どこまでいっても世話の焼ける弟分でしかなかったからだ。
ところが、あの日、下校途中の夕焼けの道で、私は彼から恋心を告白された。
私は大いに慌てた。
「え? いやいやいや、むりむりむり。だってタッくんは弟みたいなもんだもの。恋愛対象として見れないよ」
気まずくなって、私は精一杯の愛想笑いを浮かべる。
「それよりさー、きのう、お母さんったらねー、──」
告白そのものをなかったことにしたくて、無理やり日常の話題を振る。
それまでも男子から告白されることはあった。そのときは頭を下げて『ごめんなさい』で終わりだ。
けれど、幼馴染のタッくんとはこれからも一緒に過ごすことになる。他人と同じ対応はできない。
かといって、どうするのが正解なのか、このときの私にはさっぱりわからなかった。
告白の翌日から、タッくんが私を避け始めた。
これはタッくんがすねたときの常套手段だ。私が折れるまで、この状態は続く。
だが、さすがに今回は私が折れて『じゃあ付き合おう』とはいかない。
正直なところ、異性として見るなら、タッくんは私の好みの真逆だ。
私の好みは、男らしく豪快な性格の人だ。
繊細なタッくんは、弟分としては理想だが、恋愛対象にはほど遠い。
だから無理にタッくんと付き合っても、私にその気がないことはすぐにばれるだろう。
そうなったら、お互いに気まずい思いをするのがオチだ。
最悪、幼馴染の関係すら破綻してしまうかもしれない。
本当なら、この気持ちをタッくんに説明するべきなのだろう。
でも、避けられまくっている現状では、その機会もない。
どうにかして、タッくんの恋愛対象から外れることはできないだろうか。
考えあぐねた私は、これを好機ととらえることにした。
実は前々から、タッくんに彼女ができないのは私が側にいるせいではないか、と気になっていたのだ。
これを機に、タッくんと少し距離を置くのもいいだろう。
それに、私には以前から熱心に交際を申し込んでくれている高校の先輩がいる。
今は私からの返答を待ってもらっている状態だ。
私が先輩と付き合うことにすれば、さすがにタッくんもあきらめるだろう。
後日、私は先輩に軽いお付き合いからと念を押して、交際を承諾した。
先輩は校内では人気者なので、ふたりが付き合っているという噂はすぐに広まった。
その噂がタッくんの耳にも届いたであろう頃合いを見計らって、再びタッくんに接触を試みる。
結果は惨敗。
むしろ、徹底的に避けられるようになってしまった。
正直、私にどうしろというのだ。
私はタッくんに詰め寄ったが、最終的には完全に無視されるようになってしまった。
「悪いが、三カ月後に転勤することになった」
それは父の突然の宣言だった。
転勤先は県外だ。引っ越してしまったら、おいそれとタッくんに会うことはできない。
三カ月以内に、なんとかタッくんとの関係を修復せねば。
さいわい、最近タッくんに彼女ができた。菜々緒ちゃんという可愛い子だ。
やっぱり彼女ができなかったのは、私が側にいたせいだったみたい。
ほんと、気が利かなくてごめんなさい。
でも、私に告白してから間を置かずに彼女ができたということは、タッくんが私に抱いた恋愛感情も、その程度の軽いものだったということだ。
まあ、そんな気はしていたのだ。
姉のような立ち位置の私に本気で惚れるなんておかしいもの。
結局のところ、なかなか彼女ができないタッくんが、近場ですまそうと私に告白した、というのが真相なのだろう。
私が先輩と付き合い出した後に、タッくんがますます不機嫌になったのも納得だ。
なにせ自分の彼女作りをさんざん邪魔していた私が、あっさりと先に彼氏を作ったのだ。
これは腹を立てても仕方ない。
いずれにしろタッくんにも彼女ができたのだから、私はタッくんの恋愛対象から完全に外れたはずだ。
あとは以前のような幼馴染に戻れば、すべて丸く収まる。
引っ越した後でも、連絡を取り合えるくらいには関係を修復したい。
「別れよう」
突然、先輩に振られた。
「あんだけ渋ってたのが、急に付き合ってもいいなんて、なんかおかしいと思ってたんだ。それが厄介な幼馴染を遠ざけるためなんて下らない理由なのは我慢ならん。俺をダシに使うな!」
怒られた。
付き合ってみて知ったのだが、先輩はとても気位が高い。
「ちが……ごめんなさい」
誤解を解こうと思ったが、交際のきっかけがタッくんであったのは紛れもない事実だ。
「チッ。最低だな、お前」
捨て台詞を残して、先輩が去ってゆく。
ショックだ。
私、先輩のことは結構本気だったのだ。
それでも、タッくんの恋愛感情から逃れるために先輩を利用したのは事実だ。
そのタッくんだって、私が側にいることで彼女ができなかった。
うん。私、最低だ。
全部、私が悪い。
ああ、最低だ。
昔から私が落ち込んでいると、タッくんが頭をなでて『よしよし』ってしてくれた。
でも、今は側にタッくんがいない。
数日後、私は再びタッくんに接触を試みた。
まだ先輩に振られたショックから立ち直ってはいなかったが、当初からの予定を変えることはできなかった。
その日は、タッくんと菜々緒ちゃんの初デートの日だったのだ。
デートの日取りは菜々緒ちゃんから直接聞いた。
菜々緒ちゃんとタッくんが付き合い出した後、私から声をかけ、菜々緒ちゃんとはお友達になっていた。
デートの帰りで機嫌が良いであろうタッくんと、仲直りをするつもりだった。
心強いことに菜々緒ちゃんも口添えしてくれる約束なのだ。
「……タッくん」
菜々緒ちゃんを連れてご機嫌のタッくんの前に、私はおずおずと姿を現す。
私を見たタッくんの表情は、一気に不機嫌なものへと変わった。
「行こう、菜々緒ちゃん」
「え? でも」
とまどう菜々緒ちゃんの手を引いて、タッくんが私の横を通り過ぎようとする。
私は混乱した。
なんでまだ私を避けるの?
もう彼女ができたんだから、すねる理由なんてなくなったはずでしょ?
私は慌てて、通り過ぎようとするタッくんのそでを掴んだ。
「タッくん! わたし、先輩と別れたの! だから……明日からまた、一緒に登校しよう?」
先輩のことを持ち出したのは、タッくんが先輩に遠慮して私を避けようとしているのではないか、という考えがよぎったからだ。
彼女のいる男子と一緒に登校するなら、彼女の方にも承諾を取れ、なんてことは女子の間では不文律だ。
もちろん、私はすでに菜々緒ちゃんから承諾を得ている。
「触るな!」
タッくんが私の手を振りほどいた。
私をにらみつけるタッくんの目は、まるで親の仇でも見ているかのようだ。
私は完全に固まってしまった。
今、私の目の前にいるのは一体誰?
私の知るタッくんは、女の子の手を振りほどくような乱暴なことはしないし、人をそんな目で見るような子でもない。
「もう二度と、僕に構うな!」
タッくんに怒鳴られた瞬間、反射的に涙がこぼれ落ちた。
私は慌てて両手で涙を隠す。恥ずかしい。
私の涙腺はとてもゆるい。大きな声で怒鳴られただけでこのザマだ。
このときになってようやく、私はタッくんをひどく傷つけてしまったようだと悟った。
「ごめんね。わたし、タッくんのこと傷つけちゃったね。全部わたしが悪いの。タッくんとの関係が変わるのが怖くて……。下手にそういう関係になって、気まずくなったどうしようと不安になって……。本当に……ごめんなさい」
私はひたすら謝る。
私はどうすればよかったの?
混乱して、整理できないままの言葉を吐く。
「知るか! そんなの僕には関係ない」
「そうだよね。馬鹿だなぁ、わたし。怖くなって先輩に逃げちゃった。だけど、すぐに先輩にも呆れられちゃった。『俺をダシに使うな』って振られちゃった」
私はなんて馬鹿なんだろう。
ただ、タッくんとの関係がこじれるのが怖くて、先輩を利用するなんてひどい方法に逃げてしまった。
本当は、タッくんに避けられてもめげずに、食い下がり、タッくん本人と話し合うべきだったんだ。
そうすれば、私の何がいけなかったのか、何がそんなにタッくんを傷つけたのか、知ることができたのに。
「振られたから、僕のところに戻ってきたのか!? 最低だな、お前!」
「うん。最低だね」
ああ、また『最低』って言われた。
ほんと、つくづく自分が嫌になる。
「……それでも、わたし、タッくんの側にいたい」
もうすぐ私は引っ越してしまう。
ここで食い下がらないと、本当にタッくんとの縁が途切れてしまう。
「僕はもう、側にいたくない。二度と僕の前に現れるな!」
それは絶縁宣言だった。
すとんと、私は足から崩れ落ちた。
生まれて始めて、腰が抜けるという状態を体験した。
足腰にまったく力が入らない。なにこれ、怖い。
「お願い……。お願いだから……」
地面に座り込みながら、私は懇願した。
お願いだから私の話を聞いて。怖いから大声を出さないで。いつものタッくんにも戻って。
自然と肩が震える。
このときの私はとてつもない恐怖を覚えていた。
「行くよ、菜々緒ちゃん」
「待って! 剣持さんが……」
「行くんだ!」
菜々緒ちゃんが口添えしてくれる余地すらなかった。
タッくんが菜々緒ちゃんを引きずるようにして、歩き去ってしまう。
その後ろ姿を見て、あれは誰だ、と私は恐怖する。
女の子を乱暴に引きずってゆく、あの怖い男の人は誰?
「タッくんが……壊れちゃった」
どうやら私はタッくんの中の天使を殺してしまったらしい。
その現実に、私は恐怖した。
それから私はタッくんを見張ることにした。
菜々緒ちゃんが乱暴されないか心配になったのだ。
いまだに何がいけなかったのか、よくわからない。
けれど、私が天使なタッくんを壊して、ただの乱暴者にしてしまったのは間違いない。
その罪を私は償わなくてはならない。
隠れて尾行なんて芸当は私には無理だ。
菜々緒ちゃんからの情報を頼りに、タッくんの行く先に待ち伏せする。
そして一応、すれ違うときに小声で『ごめんなさい』と謝る。
普通に声をかけるとまた怒鳴り返されそうで、怖くてできない。
実際、あのときのトラウマは拭えないままだ。
今の私は、タッくんを目の前にすると自然にうつむいて、少し震えてしまう。
そして私は時折、タッくんの家の前に立つ。
やりすぎだと自分でも思う。
それでも、タッくんが元の天使に戻って、もう一度、幼馴染に戻れるのではないかという淡い期待を捨てられない。
どうせ引っ越したら、こうやって近づく機会もなくなる。
だから、それまでは、なるべく接点を増やす努力をしようと決めた。
ある日、タッくんの家の前で立っていると、小雨が降ってきた。
少し濡れる程度なら構わないが、さすがにずぶ濡れは勘弁してほしい。
そろそろ帰ろうかと思った矢先、タッくんの部屋の方からカーテンを引く音が聞こえた。
タッくんに悟られまいと、顔を動かさずに視界の隅で盗み見る。
タッくんだ。私を見ている。
雨が強くなってきたが、タッくんとの繋がりを絶ち難く、私はその場で耐える。
雨に濡れている私をみて、タッくんが心配になって声をかけてくれるのではないかという、ずるい考えもあった。
そうするうちに、雨が激しくなってきた。
さすがに、もう引き上げるしかない。
薄暗くなってきたので、もう直接見てもばれないだろうと思い、最後に私は窓の方に視線を向けた。
そこに悪魔がいた。
とても楽しそうに、そして、とても残忍な笑みを浮かべて、悪魔が私をあざ笑っていた。
私は凍りついた。
足がすくむ。また腰を抜かさなかった自分を褒めてやりたいほどだ。
雨が激しくなる中、私は蛇ににらまれたカエルのように、微動だにできずにいた。
翌日から数日の間、私は風邪で寝込んだ。
なにやら警察沙汰になったようだったが、両親の方で説明してくれたようだ。
それ以降、私は怖くなってタッくんに近づけなくなった。
タッくんに会いにいことすると、目の前に悪魔の嘲笑が浮かぶのだ。
引っ越しと転校の準備で忙しく日々が過ぎてゆく。
そして引っ越しの当日。
遠ざかってゆく住み慣れた街を視界に収めながら、私は大切な幼馴染を永遠に失ったのだと痛感した。