雨粒少女
私と私を私とよぶ私と私をよぶあなた。
とても寒い場所にいた様な、そんな気がしていた。
頭のおかしくなりそうな浮遊感の中で、何千とも何万ともつかない兄弟たちと一緒に、ぶつかったり砕けたりを繰り返し続けながら、私はぼうっと考え続けていた。
何なんだろうなぁ。
そんな感じの事を、考えていた。
きっとこの問いに答えは無くて、そもそもこの問いは答え何か求めていなくて、結局のところはそういう事なんだろうと思った。
そうがどうなのかは、分からないけど。
そうは、そうだ。
だから、そういう事だ。
答えなんて必要が無くて、答えをただ無為に追いかけ続けているだけが、問いの答えで。
だからこそあえて問いの答えを探すとしたら、そう、なのだ。
そういう、事だ。
何て、誰よりも何よりも私が一番よく分からない事を考えている、地上が随分と近くにやってきた。
私たち兄弟の、死に場所。
何千何万体分の墓石のない墓地。
潰れて消えて、ひとつになって、大きな一つの流れとなって、大いなるカタマリの一部に混じって、そしてまたいつか姿を変えて空に昇ったのちに、またこんな風に落ちるのだろう。
私を私と呼ぶこの私はいつまでいるのかって言ったら、潰れるまでなんだろうけれど、“私”は消えない。
雨粒が、川となり、海となるだけ。
雨粒と死んでも、水として生き続ける。
そんな風に自分の“先”に思いをはせていたら、落ちる場所が、いよいよ近くなってきた。
そこで私はひとつの事実に気付く。
どうやら着地点には、一人の人間がいるようだ。
二十代初めくらいの男性だろうか。そうとう強い雨にも関わらずに、悲しそうな表情をしながら、雨を防ごうとする様子も少しもなかった。
一体どんな男だろうかと、ちょっとだけ興味がわいた。
よくよく顔を見てやろうと目を細めてみると、その男が上を向いた。その明星はまるっきり驚愕に埋め尽くされていた。
何かおかしなものでも見えたのだろうか。
偶然目が合っているように見えるという事は、私の後ろになにかがあるという事だろうか。
そう思って後ろを見ようとすると、空中で体勢を崩したせいで落下スピードが変わり、落ち方が変則的になる。
ぐるぐるとまわり、私は後ろを見る余裕もなく、体勢を戻そうとする。
着地直前で体をピンっと伸ばして、真正面から、男の人の胸に、私は飛び込んだ。
って、あれ?
……目?
…………腕……脚、胴……頭髪…………指……、胸……
「ヒトに……なってる…………?」
☆
当然の様に、スマホに答えはのっていなかった。
ヒントの様なものがあったとするならば、それはまるっきりのオカルトで、結局のところ意味不明だった。
「ラピュタかよ……」
俺は自分の家の風呂に意識を向けつつ、そんな事をぼやく。
今は一人暮らしである俺の家の風呂だが、当たり前のように、そこを使っているのは俺ではない。
つい先ほどベランダで拾った、異様なほどに軽い、奇妙な少女だ。
もし本当にラピュタなら彼女は飛行石を持っていなくちゃあの軽さには説明がつかないけれど、残念ながら透けるように白いワンピース一枚以外、何も纏ってはいない様子だった。
飛行石も、タケコプターも、筋斗雲も、魔女の箒も、空飛ぶ絨毯も、
何もなかった。
いよいよそれでもないなら、目には見えない天使の翼でもついているんだろうか。
……意外と可能性が高い気がした。
いや、これに信憑性を感じ始めたらいよいよ末期だな。
というかそもそも彼女は空を飛んでいるのとはまた違った様子だった。ベランダに落ちてきた時のスピードも、着地までの様子も、まるで自由落下だった。
それに、一旦落ち着く時間が欲しかったのもあって、問答無用で風呂に一旦突っ込んだ時も、全然重さを感じなかった。
確かに見ための年齢は十代前半ほどで、軽そうではあったが、さすがにあれは人間の体重ではない。
……いや、最近のオンナノコってのはあんなに軽いものなのか?
オンナノコは重いと言ったら怒るというが、確かにあれで重いとは、まかり間違っても口にできまい。もし言ったとしたら、確かにそれは侮辱に違いない。
なるほど、最近のオンナノコだからあんなに軽いのか!
勿論、そんなわけはないが。
それにそもそも、もしも万が一、億分の零の可能性でもしもそうだったんだとしても、なぜ今どきのオンナノコが空から降ってくるんだ。
天使じゃあるまいし。
……やっぱ天使か?
「おふろ、ありがとうございます」
だんだん思考が泥沼にはまってきた辺りで、背後から声がかかる。
歳相応の、若々しく澄んだ、水音のような声だ。水琴窟というのは、こんな音がするんだろうか。
俺はとりあえず礼儀として、というか人間的な返答として別に気にしなくていいよ、的な事を言おうとして少女の方を振り返った。
そして俺は、絶句する。
「…………ッ」
言葉を失ったまま動けない俺に、その少女は怪訝そうな表情をうかべる。
「どうかしました? 体調でも悪いんですか?」
「……いや……、お前。……そのカッコ……」
え?
と呟いてから、やく一拍、やっと自分が一糸まとわぬ姿である事に気付いたように慌てて火照った体を隠して、弁明を始める。
少女が慌てだすのにつられて、俺もやっと、頭が体に追いついてきた。
やっと、やっとこさ我に返って、俺は目を抑えた。
ナニヲマジマジトミテイルンダオレハ……!?
「す、すみません! 知識としては知ってたんですけど、その、知識と体験は違うっていうか何かその、うっかりしてて、」
「いいからどうでも、とにかく服を着てくれ! 服を!」
「え、ええ!」
少女は困惑した声を上げる。
そうか、そう言えば一張羅なのか、あのワンピース。
体はキチンと拭いていたようだし(何を見ているんだ俺は)、床を汚さないようにという配慮をしているのかもしれなかった。
そんな配慮をするぐらいなら恥じらいを優先させてほしかった。
「と、とにかく! だったらもう服はいいから、一旦風呂場に戻ってくれ!」
「あは、はい!」
ぺたぺたと裸足で走る音の後に、ちょこっとだけ乱暴にドアが閉められる音が聞こえてきた。
どうやら着替え場には戻ってくれたようなので、俺は顔をあげて、一息つく。
当たり前だけど、落ち着けるようになったらじゃあない。溜め息だ。
空から降って来るわ、以上に軽すぎるわ、人間離れした水みたいな髪をしているわ、色素が薄いわ、日本語は流暢だわ、人間の知識はあるのに常識が無いわ、常識が無いのにマナーはあるわ、
全くもって、
「何なんだよ、あの小娘は」
シャツは俺のを貸したけど、さすがに少女用の下着は無かったので急遽雨の中、し○むらで買ってきた。
彼女に勧められるので俺も軽くシャワーを浴びて、今は彼女と小さな丸テーブル越しに向かい合っている。
そんな俺の頭の中に今ある言葉はただひとつ、『未成年略取罪』であった。
「親御さんは?」
「突然ヒトになってしまったので、人間の肉親はいません」
「学校は?」
「突然ヒトになってしまったので、学校は」
「友人は?」
「突然ヒトになってしまったので、知り合いというのは」
「住所は?」
「突然ヒトになってしまったので、居住地は……。というか、なぜ何度も同じ質問をするんでしょうか?」
そんなの決まっている。
現実を受け入れたくないからだよ。
事実がどうであろうと、はたから見れば『妄言』『住所不特定』『戸籍不明』『日本人離れ』『異常体質』。完全にアウトなレパートリーだ。
雨粒が人間になっただなんて、誰が信じるというのだ。
そもそも、信じられたらそれはそれで問題だ。
怪しい研究所に連れられて研究を……なんていうのはいくら何でも幼稚な発想が過ぎるけど、それでも人権の対応内に入るのどうかからして、だいぶ怪しい。
俺が抱きとめて、会話して、衣服まで用意してやったヤツがあっさりモノとして放置されて飢え死ぬ未来だなんて、想像しただけでも怖気がする。
じゃあどうするべきかっていうと……何度選択肢をあらっても、結局一つの結論にたどりつくのが恐ろしいところだ。
まあ確かに金銭的余裕は無いでもないし、この家は二人住む余裕はあるし、割と騒いでも音が階下や隣室に伝わりづらい建物ではあるし、この子は聞きわけはいいみたいだし、家に頻繁に訪れる人間なんてものにもう心当たりはないが……
そうなんだが、しかし……、
しかしなあ…………、
俺がそんな風に悩んでいると、彼女が、ちょいちょいっと近づいてきた。
ちょいちょいっと近づくって何だよ。
何でそんな擬音がしっくりくる移動法なんだよ可愛いなこの小娘。
「あのー、私は来ていた服が乾いたらすぐにでも出て行きますから、気にしないでください」
「え、いやその、気は使わなくていいから!」
何故か必死になる俺だった。
しかし少女は申し訳そうにうつむいて、
「いえ、そういう訳にも行きません。服にお風呂に下着にお茶にと、本当にお世話になって……」
「だから気にしなくていいって、ね!」
「これ以上貸しを作る訳には……」
「いや、貸しなんていつか返してくれりゃいい訳だし……」
「返せないから言ってるんですよ」
「返せないなら返さなくてもいいし……」
「いえ、貸しは返すものですから」
律儀な雨粒もいたものだ。
しかし向こうも俺が折れる様子は無いのを察したようで、方向性を変えてきた。諦めろよ、方向性を変えるんじゃなくて。
……いや、諦められてもどうしようもないっちゃないんだけど……、
「私がここから出て行ったあとの心配をしているなら、それは無用です。私はいくらでも人間のふりをできるみたいですから」
「いやだから、それは無理だろう。その日本人離れした髪、肌、眼。何より、体重」
「だから、それをごまかせる。って言っているんです」
は?
えっと、いやいやそれはさすがにないだろう。
擬人化までは許そう。後ずさっているだけで人生終わりそうなくらい譲らなきゃだが、まあ、とりあえず30億歩くらい譲ってよしとしよう。
超能力と、それはアウトだろ。
ホントの本当に、理解の範疇を超えてしまう。
それは何か、心理的にというか、本能的に。
アウトだ。
そんな事を頭の下で――水面下で、思っていたら、少女がずいっと近くによってきた。そしてそのまま、俺にまたがろうとする。
って、おい。
「ちょっと、お前。何を」
「えっとその、言っても信じてもらえないと思うので、カラダで確かめてもらおうと」
「カラダで!?」
それはつまりあのそのどういう、
童貞みたいに青臭く慌てる俺に若干申し訳なさそうにしつつ彼女を無理にどかそうとしたが、いくら少女とは言っても一人の人間。
腹筋の力だけではさすがに押しのけられず……て、アレ?
重いな、確かに。
いや、あいかわらず人間とは比べ物にはならないほど軽いし、腹筋だけでは押しのけられないというのも冗談だけれど、でもさっきに比べたら、格段に重い。
あの時はお姫様だっこで運びこそしたものの、その重さは本当に比喩抜きで、羽毛のようだった。
それなのに……、
「お風呂で少し確かめさせてもらったんですが、水を吸ったらそのぶん重くなるみたいで。お湯を少し吸収しておいたんです。そして、」
そう言って彼女は馬乗りのまま丸テーブルの上のお茶を手に取り、それを口に含む。そうすると見る見るうちに、髪が薄い茶色へと変化したのだ。
お茶の色が、髪に移ったように。
いや、ように、ではなく、実際にそうなんだろう。
超能力では無く、実に水らしい、雨粒らしい特徴の様だった。
というか、なぜ馬乗りを維持するんだろう。
なんて思っていたら、彼女も僕の上からのいた。
「まあ、こんな感じなんです。だからあなたが心配する事は、全然ないんですよ」
「え。いや、でも……」
「心配しないでください」
そう言って、彼女はすっくと立ち上がったそのままに、玄関の方へと歩いて行く。
「え、ちょっと!」
「すみません。ずっとここにいたら甘えたくなってしまいそうですから。服は、返しに来ますから」
「そういう問題じゃなくて!」
肩をつかんで無理に引きとめると、彼女は、酷く困惑した表情をしていた。
俺の行動に対してでも、人格に対してでもなく、ましてや肩をつかまれた行動なんかでも無く、全てに困惑しているような。
暗い場所に取り残されたみたいな、そんな顔をしていた。
でも、その顔は……
その顔は何となく、全く違う意味にも見えて、やっぱり俺は踏み止まれなかった。
違う。
踏み止まったら、ダメな気がした。
法律違反。
金や、倫理。
そんな問題は、あとで考えればいい。
今を悔やむくらいなら、先々で過去を悔やんだ方が、ずっとましだ。
だから俺は、ふりほどこうとする彼女の手を握って、離さなかった。
これが恋人だったら、キスでもするのだろうか。
粘膜接触で精神接触の問題が解決できるだなんて、そんなの幻想だ。
だからこそ、偶然で――なんの意思も何もない出来事が出会いだったのなら、それを繋ぎ止めるのも、偶然が引き起こした事件何かなのかもしれない。
偶然事件に巻き込まれたりして、成り行きで一緒にいる事になる事が正しいのかもしれない。
でもそれが望めないならば、粘膜接触も精神接触もダメならば、意思しかないだろう。
詭弁は、要らないと思った。
だから、思ったまま言った。
「行かないで」
その後も彼女は多少、もとい沢山抵抗したが、俺が頼みこんで、彼女にはこの家に残って貰える事になった。
自分でも何でこんな事になっているのか、よく分からなかった。
純粋に、人肌恋しかったのかもしれない。
愛しいほどに、人肌が恋しかったのかもしれない。
それとももっと単純に、物珍しさと手放したくない気持ちがごっちゃになったのかもしれない。
本当も、実はよく分からないものなのかもしれない。
だったらこれは、俺の意思だという事で、それでいい。
それでいい事にしておけば、彼女を繋ぎ止める理由になるかもしれないから。
☆
(寝る、って。どんなものなんでしょうか)
答える人はいない。
ヒトになると、いろいろなものが変化した。
心の底の方の声と、心の浅い部分の声と、実際に言い表す声が違うだなんて、初めて知った。自分の声がちぐはぐになる感覚なんてものがあると、ヒトになって初めて知った。
初めて、体験した。
体験、という感覚を、体験した。
そしてヒトになって初めて、他人という概念を、実感した。
触れるという事を、した。
彼は、私をよびとめてくれた。
嬉しい、のかな。
鬱陶しかったんだと言われてしまったら、何だかその様な気すらしてしまう。
大丈夫だと言った私が信用されなかったんだという悲しみを感じていなくもない様な気もするし、純粋に必要とされる喜びを感じていたとも、思えた。
自分以外の存在が、いるということ。
新鮮だった。
たった数時間しか雨粒としては存在していなかったんだろうし、それはつまるところ私を私と呼ぶ私はもうすでに人間であった時間の方が長くすらあるという事なんだろう。
だがそれでも、確かに、全く違う生物になったんだという、確かなそれがあった。
それというのは多分、実感であり、感覚であり、感情だろう。
露ほどもかぶらない、全くのベツモノに変わってしまったのに、私を私と呼ぶ私は、私のままだ。
私は、異常なんだろう。
エラー。
特別。
変。
だけど格別なら、それを満喫するまでだ。
「……寝られませんね」
しばらくベッドの中で寝転がってたけれど、一向に眠れそうな気配がありません。
眠れそうな方法は幾つか心当たりはありますけど、アレを、試してみましょうか。
そんな風に考えて、私はダブルベッドの上から立ち上がり、ソファーで寝ている彼の方へと行く事にします。
☆
――…………。
少しだけ小柄な体躯に、少しも小さく見えない芯の通った心身。癖のない、質の悪いくすんだ茶色の髪。
ジャージなのにお洒落な部屋着。
口がさびしいと言ってよく噛んでいた小枝。
こんな変な格好をした成人女性を、俺は一人しか知らない。
「お前、なんで……」
口の端が緩むのを隠しきれないままに数歩彼女に近づいて、そこでやっと、俺は彼女の正体に気付いた。
なんだ、と。
呆れてしまえる下らない結論。
まあでも、そうでも無けりゃこんな事は起こらないんだろうけど。
夢だ。
どうせ夢なら、こんな女々しい夢は見たくなかった。
そうじゃないなら、夢だとも気付けない最高の夢を見たかった。
例えばさ。
バイト帰りの彼女と一緒にたまの贅沢と言ってご飯を食べる様な、お風呂より暖かくて、シルクより肌触りが良くて、子供の笑顔よりもむずがゆい。
そんな夢を、どうせなら、見たかった。
なんて、そんな事を言っているところが一番、俺の女々しい所なんだろう。
別れた彼女との日常の日々を夢に見たがるって、あーもうホント、女々しいなぁ。
何となく、大した意味もなくそんな事を考えてつつ、ポッケから煙草を取り出す。
俺は今は禁煙中なのだし、そもそも入れた覚えもないけれど、そういう云々は夢の中なのだし、どうでもいいだろう。
咥えて火をつけ、深呼吸で煙を吸い込む。
「……あ、なんだコレ」
信じられないほど味が無かった。
さすが俺の夢、再現クオリティーは最悪だ。
味がしなければただ煙たいだけで、吸っていられたものじゃない。ペッと吐きだすと、吸いかけの煙草はカーペットに焦げを作る前に煙になって消えて、気付いたらライターも箱も消えてた。
手持無沙汰になってしまって、いやでもすぐそばに立ってる彼女が頭の中に入り込む。
好きだった彼女。
――今はもう好きじゃないの?
後ろの方からそんな声がした。
そちらを見てみると、何と鏡がしゃべっていた。
何でもありだな。
まあ、そりゃそうか。
なにせ、夢なんだから。
鏡の方を向いてぼんやりとそんな事を考えていたら、俺の隣にストンと、彼女が腰掛ける。
そしてコラージュ画像みたいな違和感をはっつけたまま、彼女は俺にささやく。
――私の事、もう、好きじゃない?
トンネルの中みたいに、声がエコーする。
羽虫みたいに、声が頭の中を飛び回る。
なんでこいつは、そんな事を聞いてくるんだろうか。
夢の中なんだろう?
だったらもしかして、この質問は俺が望んでいるんだろうか。俺は彼女に、こう聞いてほしいんだろうか。
それとも、絶対に聞いてほしくないのか。
どっちにしたってヤなものだ。
だって、もう終わった関係なんだ。
もうすでに終わっている訳で、つまりそれは枯木だ。酸化しきってる。腐り落ちてる。崩れ去っている。
だから、そんなの聞くまでもない事だ。
枯木は咲き誇らない。
錆は光沢しないし、腐った林檎は食べちゃダメ。崩れた遺跡に住めはしない。
答えなんて、決まっている。
ああ、そうだよ。俺はもうお前のことなんか好きじゃ――
――私の事、もう、好きじゃない?
「好きだよ。決まってんだろ」
そっとささやく彼女の言葉に、俺は至極あっさり、折れた。
ああ、そうだよ。好きだよ。
何が腐った林檎だよ。
何年も好きだったんだから、好きで当たり前だろ。
忘れられなくたって、当たり前だろう。
ずっと隣にいたんだ。ずっとずっとずっと、隣にいると思っていたんだ。
いきなり好きじゃなくなるなんて、無理に決まってる。
喧嘩別れだ。
些細な事が始まりだったとは、言わない方がいいかもしれない。
相性だとかなんとか、どういうふうに転がったって、いつしかはたどり着いた結論だと思うから。
どれだけ上手くやっているつもりでいたって生じてしまう、どうしようもない、ズレみたいなものが、多分あったんだと思う。
恐らくきっとたぶんもしかしたら、あったのかもしれない。
……あったのか?
自分の言葉の全部が言い訳じみているような気がしてきた。
それに実際、言い訳なんだと思う。
片や、高校中退学歴中卒止まりのフリーター。
片や、一応私大を出てる平々凡々とした社畜。
釣り合うとか釣り合わないとかじゃなくて、噛み合わないってそう言う事なんだろうか。
そう言う事なんだろうか?
そう言う事じゃないだろう。
でも、結果論だ。
実際に今現在は俺の隣に彼女はいないし、彼女の隣にも、俺はいない。
だったら、噛み合わなかったってことなんだろう。
喧嘩別れ、か。
寂しくなって、悲しくなって、心の中が嫌なもので満ち満ちる。
隣へと手を伸ばす、その手はカラぶった。
いつの間にか彼女はたちあがって――姿を変えていた。
明らかにそれは成人女性のそれでは無く、まるで、十代前半くらい。肌荒れとは全くの無縁の、真の意味で瑞々しい肌。
そして、水そのもののような、彼女より少し短い、髪の毛。
紛れもなく雨粒の少女のその姿で、彼女は僕をじっと見ていた。
僕が言葉を失っていると、彼女が口を開く。
雨粒の少女の唇で、彼女の気配で。
『代わりを見つけるの、早いね』
妙に皮肉った様な、彼女の声。
雨粒少女の声紋。
『やっぱ、私じゃなくてもいいんだね』
違う。
彼女を拾ったのは、引き止めたのはそう言う理由じゃない!
そう言えばよかったのに、言葉も出ない。
俺はコレが夢だってことも忘れて、頭をぐるぐるとひっかきまわす。
否定できないのは、図星だからだ。
そんな分かり切った事にたどり着きたくなくて、頭の中を必死に回り道していた。
下らない、俺のそんな姿を見ながら、彼女はいじいじと髪の毛をいじり始める。
雨粒少女はきっとやらない、彼女のくせ。
でもどちらも、オンナノコだ。女子だ。
だから、代わりにした?
した。
『 』
「違う!」
つい、叫んでしまった。
ああうん、そうだ。そうだよ。
確かに俺はあの少女をお前に重ねた。空っぽになった隣の席を埋めたくて、あいつを引きとめた。
でもな、それは違う。
それは、違うんだよ。
俺はそう訴えかけて、掴みかからん勢いで彼女に詰め寄る。
彼女はもうとっくに元の姿に戻っていて、傍らには件の雨粒少女をかかえていた。
それが答えなんだろうか?
どうなんだろうか。
俺には分からないし、答えなんてないと思う。
でも、あれが正解なのなら、そんなに素敵な事は無いと、そう思った。
結果論だ。
結果的に別れているから俺と彼女は噛み合わなかったという事なら、結果的に仲直りができれば俺と彼女は相性がいいって事にきっとなるんだろうし。
それに。
それに、あれを実行すれば、実現できれば。
きっとそれが正解だったという事になるんだろう。
☆
人間抱き枕作戦は今後一切、禁止されてしまいました。
「ごちそうさまでした」
「うん。ごちそうさま」
雨粒なのにご飯を食べるのはおかしいんでしょうか。それとも、身体が在るのにご飯を食べないのは異常なんでしょうか。
何はともあれ、おいしい物はおいしいです。
ホットサンドメーカーにノーベル賞を捧げたい。人類栄誉賞でも構わない。世界文化遺産の方が適切だろうか?
人の体になったからなのか、気性なのか。
馬鹿馬鹿しいと分かり切っている事を考えるのは、少し癖になりますね。
私は、馬鹿馬鹿しいついでに少し、頭を回します。
私と彼が使っているお皿、カップ、等々はペアもの……では、ありません。でもこの家には、それら全部が、ペアで揃っています。
可愛らしく色違いが並んでます。
彼が使っているのはそれの片方だけれど、私が使っているのは、奥の方から引っ張り出してきたらしい、ペアものでは無い物。
これって……、
うーむ。悩みます。
居候の分際でそんな無粋な詮索をするのは躊躇われます。
まあ、いいでしょう。そんな事を考えてまで聞くべき事じゃないですしね。いつかいい機会があったら、その時に聞く事にします。
「あ、そうだ。今日は留守にするんだけど……」
「お仕事ですか」
「あー。いや、今日は休み」
「休日出勤ですか」
「ううん、プライベート」
「そうですか」
個人的な用事、ですか。
正直に言うと詮索してみたい気持ちもありますけど、まあ、それは無粋でしょう。粋じゃ無い。せっかく人になったなら、粋な人生を生きて行きたいものです。
そう思ったのですが、彼の方から話し始めてくれました。
コーヒーを口に含みつつ、彼は言います。
「まだどうなるかは分からないけど、もしも、もしかしたらさ、この家にもう一人増えるかもしれなくて……」
「彼女さんですか」
「エッッ!!?」
あれ? 違いましたか?
彼は布巾でテーブルを拭きつつ、口を開く。
「いや、その……何で知ってるの?」
「え……だってその、ダブルベッドでしたし、食器はペアものばっかりだし、写真立てが伏せられてるし、あと……」
あと、何かありましたっけ。
そうそう、カレンダーに女の子の誕生日が記入されてました。と、そんなところまで言ったあたりで、彼が私を止めます。
大きなため息をひとつ。
憂鬱というよりは、切り替え。
「まあ、バレてるならもういいかな。うん、彼女、つい数日前に別れたんだ」
「そうですか」
「だから復縁してくる」
「……」
そうですか。
としか、言いようもない。
他に何て答えればいいんでしょう、こんなの。
「そりゃまた、妙なタイミングですね」
「あー、うん」
そう言って彼は言い難そうに、顔を俯ける。
それにしても、復縁。復縁、ですか……。ついこの間まで同棲していた相手との、復縁。
本当に、妙なタイミング。
というより、タイミングは最悪なんじゃないだろうか。だってなんせ私がいるのだ、今のこの家には。彼女との愛の巣にできる状態ではあるまい、よその他人がいるというのは。
勿論、私としては追い出されたって構わないんだけれど、彼がそうするとは思えない。
もしかしたら彼は私をあっさりと追い出すのかもだけれど、昨日のあの彼が、伸ばした手がそんなに軽いものだったとは、思えない。
いや、違うか。
それは正確じゃない。
そんな風には、私は十分とても、思いたくない。
だから今はそれは、考えない。
まあつまり、私がいたら彼女も呼び戻すに呼び戻せないだろうという事だ。
勿論、それは復縁が成功したらという話なのだけど、そこはそれ、どうせ私の事ではないのだし、楽観視していく事にしよう。
なんて、そんな事を考えていたら、彼が顔をあげた。
「ねえ、もしも。もしもの話なんだけどさ……いい?」
「べつにかまいませんよ」
私は普通に答えたつもりだけれど、彼は少し口を開くのをためらっていた。だけれどあんまり時間はかけずに、話し始める。
「もしも俺がさ、もしも、君にもしも……――」
もしもが多いです。
そんなに、言いづらい事なんでしょうか。私はそんな風に思ったけれど、聞いてみたら、確かに迷うのも仕方ないと納得できた。
彼は、口を開く。
「――『家をくれる人がいれば、別に俺は要らないんだね』って言ったらどうする」
えっと。
どうする……ん、でしょうか。
うーん。
正直に言ってしまうと、実際、その通りではあるんです。
というか、そもそも、私はこの家から出て行こうとしてそれを彼に止められただけ、何ですよね。君に居て欲しいと、そう言われたから、ここにいるだけんですよね。
だから勿論、答えは『ええ。そうです』と。
そうなるんでしょう。
そうなるべきなんでしょう。
でも、
でもなんだか。何だかそれは、癪です。
もっと言葉を選ばなくたっていいんだったらば、それは。何となく――、
「――ちょっと。ムカつきます」
「うん。そっか」
そういうふうに、彼は頷いた。
どうやら、納得できる返答だったらしい。よかった。
「そういうふうにね、言われたんだ。だから、違う、って。言いに行かなきゃって」
「ん。そうですか」
それは、
それはきっと独りよがりな事だろう。結果がどうあれ――向こうも彼を忘れられていなかったとしても、――そう思った彼は、独りよがりだろう。
でも、それでいいんだろう。
独りよがりでも。
例えそうでも、独りだったら、独りよがりしかできないんだから。
そうやって二人になろうとするのは、きっといい事だろう。
そう思って。私はふと、言ってみます。
「それじゃあ私は、おじゃま虫になってしまいますかね」
「……あ、あー――……。んー」
彼は困った顔をして、眼をそらしてしまいます。
まあ、そりゃあ、そうなりますよね。
彼女さんの言葉を、思いを。今ここで勝手に彼が決めるのは、それは“独りよがり”の範囲を抜け出していると思うから。
ごめんなさい、ちょっと意地悪、言いました。
「まあ、所詮雨粒です」
「でも人間だろ」
「そういうのは、後で考えましょう」
それから他愛もない話を、幾つかしました。
他愛のある様な、下れない話は、また後で。
これと言った事は考えずに、気楽に話しました。それは人間になったという事を謳歌するのだとか、もはやそういう事でも無く。
純粋に。
他愛もない話をしました。
あまり冗長にならないくらいでそれは切り上げて、彼は着替えて家から出て行きます。
「あ……――、ひとつ。聞いてもいいですか?」
彼が出て行こうとした時に、そう聞くと彼は何でも無い事の様に頷く。
これは何となく、聞いておかなければいけない事である様な気がした。その答えは分かり切っている事なのだけれど、それでも、聞いておきたかった。
訊いておきたかったというより、聞きたい。
そう言ってくれるのを、聞きたい。
そういうふうに思ったから、聞く事にした。
「あなたは――」
どうしてそんな事を聞きたいのかって、それは、よく分からない。
でも、聞いておきたいのだ。
そういう、よく分からなさが人間なんだとか、そんな事をいちいち言うつもりはない。
「――『私じゃなくてもいいんだ』って言葉に――」
確認作業。
確信が欲しくて、確認する。
答えて欲しい言葉は――きっと口にされる言葉は、もうとっくに分かっている。
彼が私を呼びとめた昨夜から、ずっと。
十二分に、分かっている。
「――何て答えるんですか?」
「お前じゃなきゃダメなんだ」
私は満足して、彼を送りだした。
帰って来る時が、待ち遠しくて、楽しみだ。
実は前書きのアレが元々の題名でしたりしたりたり。
☆
水に蓄積された知識を保有しているので、めっちゃものしりだったりしたりたり。




