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竜王襲来

 その日の山は、ただごとではない雰囲気に静まり返っていた。

 風のせせらぎはどこかに隠れてしまって、木々は普段の喧騒が嘘であるかのように押し黙っている。

 山を取り囲む空気はかき回されることなく、ねっとりと淀んで泥のごとく沈殿するばかりだ。

 鳥獣たちはなにかに怯えているかのように悲鳴をあげながら一目散に逃げ去って、一匹残らず姿を消してしまった。

 ふもとに住む村人たちも何らかの異変を感じ取ったようで、吹き荒れる嵐から身を守るかのように、家の中で音をたてずにじっと引きこもっている。


「ねークリス、翼こったからマッサージしてー」

「珍しくその姿で出てきたと思ったらそれか。というかこるのかよ、羽根って」


 テーブルの上でだらんと寝転がるウキウキ顔の白竜を前にして、英雄はなんとも難しそうな顔をする。

 クリスたちだけはいつも通りだ。


 静けさをもたらした原因が、東の空からやってくる。嵐を巻き起こす雄大な羽ばたきとともに、雲を貫き吹き飛ばしながら飛来してくる。

 山のような存在感を放つ巨体が、天を覆い尽くす巨大な翼を広げて、クリスが住む山の上空に降臨した。


 王冠のような四本の角に純白の鱗を持つその姿は、神々しいまでに美しい。名剣すら霞む鋭さを誇る爪牙は万物を引き裂き、猛々しくうねる長い尾はあらゆる敵を粉砕するだろう。

 (ドラゴン)。天界に住まう偉大な種族で、最強の力を誇る生物である。

 しかもそれはただの竜ではない。完全なる(・・・・)白の鱗をもつ竜は、この世に一頭しか確認されていない。

 神の手によって生み出された最初の竜、神の代理人として生きとし生ける者たちを見守ってきた父なる竜、偉大なる竜王ナスリークである。


 ナスリークは長い首をもたげて大きく息を吸い込むと、眼下の山の一角にあるクリスの家に真紅の双眸を向ける。


「ばっかもーん!」


 そして、お叱りの咆哮とともにブレスを吐き出した。

 撃ち出された炎弾は白熱を超えてプラズマと化し、閃光を放ちながら地へと降り注ぐ。だがそれは途中で爆散して、標的に届くことはなかった。

 クリスの家の周囲に張り巡らされている結界によって防がれたのだ。


 天災級の攻撃を受けて、さすがのクリスも家から出てくる。ただし丸腰で。

 彼は天高くに舞うナスリークの巨大な姿を見上げると、眉をひそめて声をかけた。


「親父い……なんだあ?」


 竜王ナスリーク、クリスの育ての親である。

 彼の趣味は才能のある孤児を拾って英雄として育成することだ。今まで数えきれないほどの子どもを育てあげてきたが、その中でもクリスは才能・実力ともに頭百くらい抜けたものを持つ歴代最強の男で、自慢の息子だった。


「なんだじゃない! クリス、ハイケちゃんに聞いたぞ。あの子が魔王になるためにお手伝いをお願いしたのに、手ひどく断ったそうじゃないか!」


 そのとどろく雷鳴のような咆え声は、天を震わせて地を揺るがす。常人ならば魂のレベルで恐れ戦いて、その場で膝をついて頭を垂れることだろう。

 しかしクリスにとっては聞き慣れた声でしかないので、なんの圧力にもなっていなかった。


「ハイケに魔王って……もしかして、カサンドラのやつの子どものことか?」

「コラ、他人のように言うんじゃない! あの子はおまえの妹なんだぞ!」

「は? いや、なにを言ってんだ」


 父が急にわけのわからないことを言い出したので、さすがのクリスの眼にも戸惑いの色が浮かぶ。


「ハイケちゃんはわしが育てることにしたのだ。あの子は家族になったのだぞ! まあ、まだお父さんとは呼んでもらえてないがな……」


 魔王カサンドラの娘ハイケは両親を失ったので、ナスリークが引き取っていたのである。それはつまり、彼女がナスリーク・ファミリー入りをしたということを意味する。クリスの義妹になっていたのだ。

 もちろん長年にわたって田舎暮らしをしてきたクリスが知るはずもない。


「いや、初耳だよ。知るかよ」

「しかも聞いた話では、他の人からの頼みも同じように断ったそうじゃないか。人様に迷惑をかけるとはなにごとだ!」

「いや、俺はもう引退してるから。もう昔の筋での仕事なんてやる義理ないから」

「引退してるとかは関係ないだろう! それでも力ある者かっ! わしはおまえをそんな冷たい子に育てた覚えは無いぞ!」


 天から一方的に降り注ぐ説教ブレスに、クリスはとってもめんどくさそうに応戦する。

 聖剣技を振るえば今から五秒以内に撃墜することもできるのだが、さすがに育ての親に対してそこまでやんちゃしようと思えるほど彼の人格は破綻していない。

 彼が唯一できることは、相手が飽きるまで話を聞き流すことだけだった。


 と、そこで姿変えを済ませたアデアナも肩を怒らせながら外に出てくる。


「ちょっとお父さん! なにしてるの!?」


 ちなみに彼女もナスリーク・ファミリーの一員だ。ただしクリスらと違って、義理ではなく実の娘なのだが。

 空を飛んでるお父さんを見上げて、両の拳を握りしめながら怒声を張りあげる。


「竜がいきなり出てくると、みんなびっくりしちゃうでしょうが! しかもこんなところでブレスを撃ち込んでくるとか、なにかんがえてるの!? 下手したら山一つ消えてたじゃない!」

「いやな、痛くしなければ覚えんだろう?」

「痛くするにも限度があるっての! まあ、確かにクリス相手だったらちょうどいい威力ではあるけどさあ」

「それよりアデアナ、おまえがしっかりとクリスの手綱を握っていれば、わしも叱りにやってくることはなあ」

「話をそらさない!」

「うむう……」


 目を三角にして怒っていたナスリークだったが、アデアナが相手になるといきなり勢いが弱くなった。彼は怒ると災害的な意味で怖いが、ふだんは子どもに甘いのだ。


「とにかく落ち着いて。とりあえず降りてきてよ」

「そういえば飛びながらだと、おまえたちとは話しづらいな。腰を落ち着けて話をするべきか」


 アデアナの頼みに従って、ナスリークは地響きをたてながら降り立つ。いくつか木を踏みつぶしてへし折りながら。

 それを見たクリスの左まぶたがぴくりと動くが、アデアナががっしりとクリスの肩をつかむ。そして微妙に棒読みで言う。


「畑をもう一面増やせるよ。やったね」


 クリスはまったくと諦めたようにぶつやいて首を振るだけだった。小屋や畑に被害がなかっただけマシと考えるべきなのだ。


 とりあえずナスリークは地に降りて来たが、その背丈はクリス家の四倍ほどもある。まだ対話するには見上げる必要があるので、首が痛くなってくる。


「とりあえず家に入るか」

「そうだね。お父さん、そのままじゃ入れないから適当に小さいやつに化けてよ。人間でも魔族でもなんでもいいから」

「いや、服を持ってきてないからそれはまずい。今日はこっちで行こう」


 と、ナスリークの体が見る間に小さくなっていって大型犬サイズになる。体を小さくする魔法を使ったのだ。人間に化けるのに比べると消耗はとても軽微で、それなのに人間くらいの大きさになれるという、とっても便利な竜族固有の術である。


「そういえば、おまえたちの家に入るのは初めてだな。見せてもらおうが、おまえたちが作った住み家というものをな」


 真っ白な小竜が顎をしゃくると、お父さんらしく貫禄のある語りをするが、人間以下のサイズになっているうえに興味深そうに尻尾を振りながらだと、いまいち威厳が無かった。


 とりあえず小さなお父さんとともに家に入る。


「ここが普段、俺たちが過ごしているところだ」


 まず、入り口の案内を始める。

 家に入ってすぐが居間だ。小さな調理台もついているのでダイニングキッチンである。

 木張りの床はちゃんと掃除してあるのでぴかぴかになっている。ただ、痛んできているので、ところどころで軋む音がするが。

 部屋の真ん中では、二人用としては大きめのテーブルが床面積の四分の一ほどを占めている。壁際には棚や木箱も置かれているので、空きスペースは人一人が通れる程度しか残っていない。

 これでも整理整頓をしているのだが、もとの部屋が狭いので、スペースの確保には限度があった。


「ううむ、翼が引っかかるな。もっと小さくなるべきか」


 ナスリークは部屋の中を見るや否や、さらに魔法を行使すると中型犬サイズにまで縮んだ。この大きさならば、狭苦しい思いをすることもないだろう。

 ちなみにここまで縮むのは超高等技術だったりする。アデアナでも真似はできない。さすがはお父さんといったところだ。


「この家、自力で建てたからな、あまり大きく作れなかったんだよ」


 この物件はクリスの処女作だったので、さすがに最初から大きな建物を、というわけにはいかなかった。

 いちおう個室は二人分あるし、収納も家の外の小屋があるために不足は無いので、今のところ増改築の予定はない。


「で、料理をやってるのはここだ」

「うむ、ちゃんときれいに使っているようだな」


 ぴょんとテーブルの上に飛び乗ったナスリークは、しっかりと磨かれてゴミ一つついていない調理台を見て、感心したように喉を鳴らす。

 まな板置き場、コンロ置き場、水場のキッチン基本三点セット。道具の寿命を延ばすために手入れは欠かさずやっているのだ。汚れたままにしておくようなことはしない。


「ふだんはここで何を作っているんだ?」

「だいたい畑でとれた豆やイモ、山菜だな。ときたま狩りをして野兎とか鹿をさばいて出したりもする」


 ちなみに狩りの担当はクリスではなくアデアナである。竜は人間以上の知性を誇る聡明な生き物だが、本質は狩りを生き甲斐とする猛獣なのだ。持ち前の牙や爪をたまに振るわないとストレスがかかってしまうので、このような分担になっている。


「ふむ。ちゃんと満足に食えているのか?」


 ナスリークは心配そうに娘を見るが、アデアナはどんと胸を叩いて元気ぶりを見せつける。


「だいじょうぶ、この通り健康だって。十年ここに暮らしてるんだよ?」

「そうか、なら良い」


 彼はとりあえず納得したようだった。

 クリスは二つ並んでいる木のドアを指さす。


「俺たちは普段ここで過ごしてるんだが、個室も作ってある。広さはベッド二つ分だけだけどな、でもやっぱり個室があるのはいいよ」

「ほう。ときに寝床は見当たらんが、その部屋で寝ているのか?」

「もちろん。ベッドもちゃんと一部屋に一つ置いてるぞ」

「もしかして、別々に寝ているのか? ひとつのベッドで寝れば良いだろうに」

「いや、男と女だぞ。そんなことできるわけないだろ」


 互いに見られたくないものがあるのだから、個室だけは絶対に必要だとして、家を建てる前から作ることを決めていたのである。

 ここでアデアナがちょっぴり顔を赤らめているのは些末な話だ。


「で、部屋の中はどうなってるんだ?」

「見せたくないね」

「見たら噛むから」

「そ、そうか。わかった」


 個室に入ってみたいと言うと、子どもたちから即同時拒否されたので、ナスリークはちょっと気圧されしていた。お父さんで竜王でも、子どものプライベートに無断で立ち入ることはできないのだ。


 テーブルの上にちょこんと座るナスリークは、改めて部屋中を眺め直したあと、納得したように鳴き声を漏らす。


「なるほど、これがお前たちの家なんだな。よくわかった。さて、そろそろ話の続きを」

「このほかに、外にいろいろと小屋を建てていてな。次はそっちを案内しよう。さー行こうか」


 お父さんがなにかを言う前に、クリスは強引に話を遮って家の案内を続ける。

 ナスリークは不満そうに口ごもっていたが、子どもたちがさっさと外に出ていったので、仕方ないといった感じで後をついていった。


 クリスの家の側には小屋がいくつかある。小さい家に収まらない設備が欲しくなったときは、随時新しく建てているのだ。

 まず、家の玄関から一番近いところにある小屋に行く。水汲み用に作った掘っ立て小屋だ。

 クリスが扉代わりの布の仕切りを持ち上げて中を見てみると、さっそく小屋の主が出迎えてきた。


「いらっしゃ~い。ん、どうしたんだいクリスちん? 珍しく驚いた顔してるじゃあないの」

「いや、普通に出てくるとは思ってなかったからな。そこにいるのが誰なのかわかってるのか?」


 クリスはホバリングしているナスリークを顎で指す。さすがにこんなのが出てくると、ミズフィーちゃんもビビって引っ込んでいるかと思われたが、そうでもなかったようだ。


「竜王でしょ? さっき見たし。で、それがどうしたのかな?」


 ミズフィーちゃんは無表情の魚顔で当然のように答える。


「なにか勘違いしてるようだけど……この水汲み場ではね、ボクが上! キミらが下だ! 英雄だろーと竜姫だろーと竜王だろーとなんだろうと、ボクをビビらせたけりゃあなー、ボク以上の芸術を見せてみろって話なんだよ」

「おまえすげえよ。竜王までいるのにその態度とか、真の勇者だよ。おまえ俺の代わりに勇者になってこいよ」


 一歩も引かずに啖呵を切って見せる魚クンに、大英雄も素直に敬服せざるを得ない。さすがは十年もクリスたちを相手に仕事をしてきただけのことはあるか、病的なまでに度胸がある。

 彼? の性格をよく知っているアデアナは苦笑いをする。ナスリークはついていけないようで、ぽけっとしていた。


「で、要件はなにかな?」

「いや、今は案内をしてるだけで、仕事を頼みに来たわけじゃないんだ。また後でな」


 ただの冷やかしということがわかると、ミズフィーちゃんはさっさと引っ込んでいった。ちなみに潜んでいるのは、小屋に据え付けてある水桶だ。


 クリスたちその場をあとにして、隣の小屋に入る。こちらは水汲み小屋の何倍もあるので、全員が入っても余裕がある。


「ここが食糧庫だ。建築は俺、魔法処理はアデアナ、保存食は全部ここに置いてあるぞ」


 そこはクリス家の冷蔵倉庫である。永続的な魔法装置によって一日中ひんやりしている優れものだ。

 もちろん獣の食害対策もしている。無断で入ろうものなら氷漬けにされて、そのまま倉庫のお肉として陳列されることになるのだ。


「ほー。それにしても、しっかりとした作りだな、ここは」

「後から建てたものだからな」


 置いてあるのは主に畑から採った野菜などだ。小さいが冷凍庫もあるので、足が早い肉などはそちらに突っ込んでいる。

 在庫の確認を兼ねて適当に見て回ったあと、倉庫から出る。


「あとは物置小屋だな。あっちは農具置き場、あっちはキノコ栽培用の倉庫、こっちの作りかけのやつは、パンを焼くための窯を置く予定になってるぞ」


 小屋同士の間隔は広くない。あとは所々に建つ小屋を指さして、簡単に役割を説明していった。


「ほうほう、そうかそうか。よくわかった。じゃあ、そろそろ……」

「さて、次は俺たちが作った畑を見てみようか」


 ちょっと飽きてきた風のナスリークは、さっさと本題に戻ろうとするが、クリスはそうはさせまいと次の案内に移る。


「おい、クリス。さっきからなんだ、露骨に話をそらそうとして。いいかげんにしなさい」


 しかし、そううまくはいかなかった。さすがにスルーし続けるのは無理があったようだ。


「わしはおまえと話をしに来たんだからな。案内はもういいから家に戻るぞ」


 お父さんは不機嫌そうに言うが、最初やってきたときよりは落ち着いているように思われる。この分ならごねることもないだろう。

 クリスはとりあえず父の言うとおりにしてやって、案内をやめて家に戻ることをした。




 小さい家屋の狭い居間。物音ひとつしない屋内で義理の親子が向き合う。クリスとアデアナは椅子に座り、小さなナスリークはテーブルの上にちょこんと鎮座する。

 彼は干し肉をぱくぱくかじり終えたあと、父の眼でクリスを見据えながら口を開いた。


「クリス、おまえはあちこちから魔王継承の儀式のために勇者になって欲しいと依頼されて、すべて蹴り飛ばしてきたそうだな。なぜだ?

 やることは魔王の軍と模擬戦をするだけだ。かかってもせいぜい一か月。それだけで人間界と魔界の平和は保たれるんだぞ。

 これはおまえにとって益のある話であるはずだ。人間界の平和は、お前の生活の安定に直結することなんだからな。

 だからこそわからん。なぜだ。なぜおまえは要請を突っぱね続けるんだ?」


 最初にやってきたときとは打って変わって、ナスリークは至極冷静かつ真剣な面持ちでクリスの意図を尋ねる。

 クリスは父と目を合わせたまま、長く深く息をつく。


「俺はな、もう誰かのために戦うのは嫌なんだよ」

「意味が解らん。そう思うに至った経緯を説明せんか」

「俺の人生には戦いしかなかった。小さいときには親父のもとで訓練訓練。物心ついたら騎士団入りして王様のもとで戦い戦い。俺はそれしか知らなかった」


 そこでふと、クリスの表情が緩む。そのどこに向けているかとも知れない目は、懐かしげながらも、寂しそうな色も同時にたたえる。


「そんな俺に戦い以外のことを教えてくれたのは、俺の仲間たちだった。アデアナに、カサンドラに……。あの頃は楽しかったよ。本当に、楽しかった」


 だが、クリスの眼に宿る寂しい色が深くなる。同時に、燃えるような憤怒の炎も踊り始める。


「だが、アデアナ以外はみんな逝っちまった。十年前の戦いで、俺を最後の敵のもとへに導くために、偉い連中の命令のせいでな」


 十数年前の大戦時、クリスは世界を滅ぼそうとする“大いなる外敵”と戦っていた。その敵をうち滅ぼすことができる力を持っている者はクリスだけだった。

 かつての王国・魔王連合軍の首脳陣は、クリスを外敵の首魁のもとへ導くために、彼の仲間たち全員へ犠牲になれと命じた。その甲斐あってクリスは敵を滅ぼすことができたのだが、仲間たちは一部を除いて皆、命を落としたのであった。

 それが必要な犠牲であったことは、クリスもよく理解できた。そうでもしなければ、到底勝てはしなかったとわかっていたから。だがしかし、理解はできても受け入れることができるかどうかは別の話だ。


「俺の仲間を奪ったやつらのためにはもう働かん。俺は、俺の意志のためだけに働く」


 クリスはもはや他者の言いなりになって働くことは無い。これからの彼は、自分のためだけに動く。今は亡き仲間たちが認めた、“戦闘マシーンではないクリス”という個人のために。


「わからん、やはりわからん。なぜそこで折れる? それならば、犠牲者に報いるために働き続けるのが筋だろうに」


 そこまで聞いても、父は子の思いを理解しきることができなかったようだ。

 会話が途切れて嫌な沈黙が落ちる。親と子の交わらない思惑が行き交って空回りし続ける。


「お父さん、これは理屈でどうこう言える話じゃないよ。人間の心はね、(わたしたち)とは違ってそんなに強くはないんだよ。確かにクリスは人間としてはタフすぎるけどさ、ほんとーにタフだけどさ、それでも限度があるの。なんでもかんでも割り切れはしないんだよ」


 その沈黙を、アデアナが横から打ち破った。

 いたわるようにクリスへ寄り添って、責めるような視線を父に向ける。


「いっしょに戦ってきた私だからわかる。クリスは頑張りすぎたの。もうそっとしてあげてもいいでしょ。功績を考えたら当然だと思うんだけど?」


 娘の懇願を受けたナスリークは押し黙る。

 息子と娘の顔を交互に見て、心底困った様子で考え込む。


「……そうか」


 一分か二分か、短いようで長い沈黙の後、彼はなにもかもを諦めたような疲れた声を漏らす。


「これは世界秩序にも関わる問題なのだ。わしの一存でどうこう言える話ではないが……おまえたちの想いはわかった。わしのほうでどうにかならないか考えてみよう」


 ナスリークはテーブルから飛び降りると、玄関扉の前に立ったので、クリスは素早く玄関扉を開けてやる。

 彼は翼を広げると、なにも言わずに東の空へと飛び去って行く。

 クリスとアデアナは、父の姿が彼方に隠れて見えなくなるまで、ずっとその姿を見つめていた。





 とりあえず、村は今日も平和である。

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