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回想入ります。
少しばかりお付き合いください。
──父ちゃんと母ちゃんはごく普通の人だった。
俺がどんなにわがままを言っても、どんなにイタズラしても、怒られたり叱られたりした事は一度も無かった。
いつも、軽く微笑んでいた。
珍しくテストで良い点を取ったり、作文で賞を取った時も、二人はやっぱり軽く微笑んでいた……。
──じっちゃんは変な人だった。
悪い事をすれば頭に拳骨の一撃と説教。
でも、良い事をすれば頭が禿げそうなぐらいに撫でられ、大袈裟に笑いながら喜んだ。
そんなじっちゃんは、我術と言う変わった名前の格闘技の達人で、家には道場もあった。
見た目は空手のようにしか見えないからどんな違いがあるのかは俺にはわからなかったが、物珍しい教えとして町でも評判は良かったらしく、門下生もたくさんいた。
俺も中学校入学と同時に門下生に混じって一緒に稽古をした。自分でも驚く程上達が早く、一年経つ頃には年長者相手でも余裕で勝てるようになっていた。
──それなのに。
何故かいつも俺だけ残されて、じっちゃんと組手をさせられた。
そして、普段の稽古とは比べ物にならないぐらいに、この時のじっちゃんは容赦無かった。
激しく荒い鍛錬は夜中まで続いて、毎日死にそうになった。
冗談抜きでキツかった。
体中に出来た痣は、消えてはまた新しいのが出来ての繰り返しで、生傷が絶えなかった。
だからといって、稽古に出ないと尚更酷い目に合うので逃げる選択肢も無い。
正しく地獄のような日々だった。
…………でも、ある日の事。
じっちゃんは唐突に道場を締め、「行ってくる」とだけ告げてふらっと何処かに消えてしまった。
本当に突然で、俺はじっちゃんの行動の意味が分からず、理解が追いつかないままその背中を無言で見送った。
そして、地獄の日々が嘘のように無くなり、俺は晴れて自由の身となったのだ。
だけど……。
あれだけ渇望していたにも関わらず、いざ自由の身となった俺は何をすればいいのか分からなかった。
自分が何をしたいのかが分からなかった。
持て余した時間の使い方が分からず、学校にいない時はずっと家に篭っていた。
友達はいなかった。
次第に自分の事すら分からなくなってきた。
何の為に自分が生きてるのか、何の為に存在しているのか、そんな事を考えるようになった。
苛立ちから物を投げたりもした。それを母ちゃんが無言で片付けた。
物にあたるなんて最低な奴だと、クズだと、自分でやっておいてそんな事を思った。
気付けば、部屋に篭るようになっていた。
机と本棚とベッドだけの簡素な部屋に、何をするわけでも無く椅子に座り、ただ時間が過ぎるのを待った。
机の上にはノートパソコンが未使用のまま置かれている。
勉強用にと親が買ってくれた物だが、生憎使い方が分からず放置していた。
スマホでさえ覚えるのが大変だった俺には使う機会は無いだろうと思っていた。
そのスマホも、稽古で太くなった自分の指では扱い難くて結局アラームぐらいしか使っていない。
暇潰し程度にはなるだろう、そんな思い付きだけでノートパソコンを試しに起動させてみた。
試行錯誤して三十分。
スマホで調べながらノートパソコンを動かすその姿は見る人によってはかなり滑稽に映るだろう。
半ばムキになりながらも、なんとかインターネットぐらいは出来た。
慣れてくると、スマホよりノートパソコンの方が自分にとっては相性が良いかもしれないとまで思えた。
インターネットの世界にはなんでもあった。
自分がするべき事も見つかるかも知れない、そう期待した俺は夢中で探した。
『するべきこと』
その言葉だけを打ち込んで、色んなサイトを見た。
後で知った事だが、パソコンじゃなくてもサイトを見るだけならスマホでも十分らしい。
それでもやっぱり俺はスマホはどうも苦手だった。
スマホで見る世界より、パソコンの画面で見る方が広く見える。……まぁ、それはそうなんだけども。
インターネットはどこまでも広く、自分の知らない事だらけだった。
当初の目的から離れたサイトばかりとなっても、お構い無しに閲覧してはリンク先を進んだ。
どこかに行き当たるんじゃないかと、そんな期待もあった。
……でも。
結局見つからなかった。
いや、違う。
見つからなかったんじゃない、意味が無かったんだ。
──空っぽな人間が何を見ても、所詮無意味なんだと。
……そう、気付いてしまった。
悲しくは無かった。
インターネットの世界に没頭している間は嫌な事を忘れる事ができたからだ。
画面に映る様々な世界を、様々な人達を、ただぼうっと眺めていた。
何かを観測するのが、自分が出来る唯一の事なんだろうと、そんな事を考えながら画面に張り付いた。
そして、漫画やアニメもこの頃には沢山見るようになった。 たまにちょっとエッチなサイトも嗜む程度には見た。
"お"と打つだけで目的の言葉をパソコンが覚えて出してくれるのは便利だと思った。
そんな日々を繰り返し、数ヶ月が経ったある日。
身体の奥底に得体の知れない、苛立ちにも似た感覚に俺は気付いた。
ドロッとした不快感が身体の中で淀んでいる。
嫌な事はインターネットをしていれば忘れる事が出来たが、しかしこの淀みは消えることは無く、源泉のようにコポコポと湧いては腹の底を熱と黒い何かで満たしていくのだ。
日を追うごとにその淀みの水位は上がり、まるで静かに溺れる時を待つかのような不安に、俺は息苦しさと恐怖を覚えた。
次第に寝れない日が増えた。
寝たら溺れて死んでしまうのではないかと、怖かった。
三日間寝れなかった時、ついには肉体的にも精神的にも限界が来て、パソコンを自分の嘔吐物で汚しながら気絶した。
酷い頭痛で目を覚まし、胃の中は空だというのに、未だに自分の身体を満たしていく淀み。
そしてそれはどす黒さを増して尚成長していると気付き、俺は絶望した。
自分に一体何が起こっているのか、この先に待っている結末は何なのか、そう考えただけでとても怖かった。
そして、恐怖で頭がおかしくなった俺は家から飛び出して深夜の町中を、まるで狂人のように泣き叫びながら走り回った。
走って、走って、走り続けた。
泣いて、声が掠れるまで叫んで、何かから逃げる様に走った。
足がもつれて転んで倒れた。
暗くて足元が見えない。
よろよろと起き上がり、また走った。
涙と、鼻水と、涎を垂らし、醜態を晒しながら、見えない恐怖から逃げる様に走った。
肺が潰れるぐらい走り続けた。
意識は朦朧としている。それでも、足だけは動かした。
自分はなぜ走ってるのだろう。
分からなくなってきた、何もかも。
流れる景色が止まる。
足が走るのを止めてしまった。
俺は止まるつもりは無かったのに、足が言う事を聞いてくれない。動けと念じても微動だにしないのだ。
不思議な事もあるもんだなと、俺は思った。
すると今度は、身体がまるで壊れた家のように崩落した。
地面へと落下する中、俺の意識は途切れた。