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やっぱり、君が好き

作者: 身城ほの

 宮本沙和は、進路指導室前の廊下の窓から、グランドでノックをしている野球部員たちを見つめていた。

 放課後とはいえ、まだ太陽の鋭い光が差す中、白いボールを必死で声をあげて追いかける彼らの姿を見ていると、沙和の心にふと、「かわいそうだな」という感情が湧いてきた。

 もうすぐ甲子園に向けた夏の大会が始まる。どれだけ練習したって、名門校でもない県立高校が出場なんてできるわけがない。なのに、どうしてあんなに頑張れるのかが、沙和には不思議でならなかった。

 沙和の家と高校は、県内一の繁華街から電車を乗り継ぎ約2時間。四方は山で囲まれ、駅から5分も歩けば、一面に田んぼが広がるような街だった。

 沙和は、グラウンドにいる山崎直樹と目が合った。

 野球部のキャプテンの彼とは中学も同じだった。中学の頃から、こうしてよく目が合っていた。鋭く見つめる視線から、彼が私を好きであろうことに沙和は気づいていた。

 しばらくして、山崎は目をそらし、後輩たちに指示を出しはじめた。

「宮本、いいぞ」

 進路指導室から出てきた教師の赤石がそう声をかける。沙和は、窓際を離れて、中へと入っていった。

 机を挟んで、沙和と赤石が向かいあった。

「就職するなんて嘘だよな?」

「本当です」

 沙和は一呼吸も置かずに、そう答えた。

「でもお前、聖女に行きたいって言ってただろ」

 聖女は、聖心女学院大学といって、県内で女子から人気の女子大だ。ここに通っているだけで、女子たちからは羨望の眼差しを向けられ、男性からはモテる。そして、就職にも有利だった。とにかく、聖女に通うというのは、それだけでステイタスになる。

 なによりも、そこに通う女性はみんな誇らしげで、輝いて見えた。沙和も、聖女に憧れを持つひとりだった。いや、今だってそうだ。

「今は、そう思ってません」

「お前の母親は、進学を希望してるそうじゃないか」

「うちにはそんなお金ないですから」

「それでも、親なら子どものためになんとかしようと思うもんだ。それに、奨学金なんてのもあるからなんとかなるもんだぞ」

 赤石のその軽い言葉に、沙和はカッとなった。

「じゃあ、先生なんとかしてくださいよ。先生が学費出してくれるんなら、行きます」

「それは……」

 沙和の鋭い目から、赤石も苛立ちを感じとったのかそう言ったまま黙った。

「もう、決めたので。失礼します」

 沙和は呆然とする赤石を置いて、部屋を出た。

 なにが、なんとかなるだ。あんたはなにもしないくせに。なんとかするのは、私であり、私の母親なのだ。

 沙和は学年でトップクラスの成績だった。おそらく沙和の同級生で聖女に入れるのは、沙和くらいだった。こんな田舎の県立高校から、あの聖女に入るとなったら、この高校の実績になる。赤石がそれを期待していることは、わかっていた。沙和は、そんな大人たちの勝手な思惑に利用されることも嫌でたまらなかった。


 家に帰って電気をつけると、6帖のワンルームの部屋のすべてが沙和の目に入った。

 この狭い部屋に母親と住みはじめて、もう4年になる。4年前、沙和の母の明恵は彼女の父と離婚した。明恵からその原因を聞いたことはないが、どこかの別の女の人のところに行ったことを沙和は知っていた。

 沙和は、色あせ、表面が毛羽立つ畳の上に寝転んだ。

 中卒の明恵は、今までまともな職に就いたこともなく、離婚して働かなければならなくなっても正社員での就職は難しかった。今では、パートを3つ掛け持ちしている。もちろん、休みなどない。

 目を閉じると、沙和のまぶたの内側に、疲れた顔で帰ってくる明恵の顔が浮かんだ。

 明恵が帰ってきたのは、いつもどおり、夜1時過ぎだった。

 沙和は、布団の中にいたものの、なかなか寝付けないでいた。

「まだ、起きてるの?」

「……うん」

「明日も学校でしょ」

 そう言って、明恵は深いため息をついた。

 沙和は、明恵のため息を聞くのが嫌いだ。

「沙和。進路はどうなってるの?」

「……就職するって言ったじゃん」

「また……あんた聖女に行きたいって、小さいことから言ってたじゃない」

「……そうだったっけ?」

「大丈夫。お金ならなんとかするって」

「……」

 まだだ。なんとかなる、なんとかする……。今の状態でさえ、なんとかなっているなんて到底言えないのに、なぜそんなことが言えるのか。

 明恵は、沙和の父からの慰謝料や養育費をすべて拒否していた。妻と子どもを捨てて、別の女の元へと走った男なんかから、金なんてもらいたくないのだそうだ。

 沙和は、布団の中にもぐりこんでぐっと奥歯を噛みしめた。

 沙和は、そんな明恵のプライドが嫌だった。おかげで沙和は無理をして働く母親の姿を見せつけられることになった。

 私はそれが何よりもつらい……。そんなだけど、それは決して言葉にはできない。

 母親が、きっと深く傷ついてしまう。

 それをするくらいなら、本音を隠して、自らを傷つける方を沙和は選択した。


 それからしばらくして、明恵が過労で倒れた。

 学校で連絡を受けたとき、いつかはこうなるだろうと思っていたが、電話を持つ手が震えて止まらなかった。このまま、母親が死んでしまったらと考えると、お腹の辺りも胸もぐっと痛くなった。

 だけど、実際に病院のベッドで眠る明恵を見たとき、お母さんは倒れてよかったんだと思った。

 これで、母はもう無理しなくてすむ……と。

 しばらく母親の顔を見つめていたが、病室を出て歩きはじめた。

 これで心の片隅にあった聖女へ気持ちを完全に断ち切らなければいけないのだと思うと、ふいに涙がこぼれた。

 これで良かったのに、どうしてだろう……そう思えば思うほど、沙和の涙はさらに溢れてきた。


 涙を手の甲でぬぐいながら、下を向いて歩いていると、視界に野球のスパイクを履いた足元が見えた。沙和が顔を上げると、そこに山崎が立っていた。

 沙和の泣き顔を、山崎はじっと見つめていた。

「どうしたの? 山崎……」

 慌てて、手のひらで涙を拭きとる沙和。

「……練習中に、手ひねった」

 山崎は包帯を巻かれ、固定されている左手首を見せた。

「宮本は……?」

「お母さんが入院してて」

 山崎は、何も言わない。

「じゃあ、俺……練習あるから戻るわ」

「その腕で?」

「いや、俺は無理だけど。みんなが待ってる」

 山崎はそう言って、歩き出した。

 沙和は、いいようもない苛立ちで胸がざわついた。

「ねぇ!」

 沙和が声をかけると、山崎はゆっくりと振り返った。

「なんで、そんなに頑張るの? 一生懸命頑張ったって、甲子園なんて出れるわけないじゃん!」

 その言葉を聞いた山崎は体を向き直し、沙和の目をまっすぐ見つめた。

「それ、俺に言ってもいいけど他の部員には言うなよ」

 山崎はそう言うと、振り返りもせず、去っていった。

 その山崎の鋭く光る眼に恐怖を覚え、沙和の足は震えた。

 そして、自分を好きだと思っていた山崎に強く言い返されたことに、沙和は傷ついていた。

※※※

 次の日の放課後、沙和はまた赤石に呼び出された。

 行かないでおこうかとも思ったが、母が倒れたことを言えば、赤石もさすがにあきらめるだろうとやって来た。

 沙和は落ち着きなく、指導室の前を行ったり、来たりする。

 これで、もう……私に進学をすすめるものはだれもいなくなる。望んでいたことのに、なぜか心は落ち着かなかった。

 進路指導室前の窓から、沙和は山崎の姿を探した。だけど、どこにもいなかった。山崎の手首の包帯を思い出す。

 すると、近づいてくるひとつの足音に沙和は気づいた。

 山崎だった。左腕には、まだ包帯をしている。

 沙和は、あの山崎の鋭い眼を思い出し、ドキリとした。

 昨日のことを謝ったほうがいいのかと思ったが、できなかった。

「どうしたの?」

 沙和がそう聞くと、山崎は昨日のことなどなかったように、

「赤石に呼び出された」

 と言った。

「そうなんだ……私も。山崎はさ、進学だよね」

「あぁ……」

 山崎はそう答えて、窓から野球部の後輩たちの練習を窓からのぞいた。

「そう……いいね」

 ふいにそんなことを口にしてしまったことに、沙和は焦った。

「宮本は進学じゃねーの?」

「……うちさ、母子家庭なんだ」

 沙和は、そんな風に応えた。

「俺は……おやじと二人」

「そうなの? 初めて知った……」

 山崎は、また窓の外を見ていた。

 沙和は山崎に聞こえるか聞こえないかの声で、

「お父さんか……私のお父さん、どこにいるんだろ……」

 と言った。

 それはやっぱり山崎に聞こえていたらしく、彼は振り返り、沙和の横顔を見つめて、こう言った。

「俺……お前のおやじ、知ってる」


 沙和と母親を捨てて出ていった男は、沙和たちが住む町から、わずか電車で20分ほどの隣の街に暮らしていた。

 新築の一軒家が建ち並ぶ、新興住宅地といえる場所だった。

 ここのどこかにある綺麗な家に暮らしていると思うと、沙和は次第に怒りがこみあげてきた。

 山崎に父の居場所を知っていると聞いたとき、会ってどうするつもりかもわからないのに、沙和は今すぐ連れて行ってほしいと頼んだ。

 山崎は、なにも言わずに連れてきてくれた。

 ふたりは進路指導のことなど、とっくに忘れていた。


 すっかり日は沈み、夜になっていた。ここにきて、3時間は経っているだろう。

 車1台が通れるくらいの住宅街のこの道に、何をするわけでもなく立ち続ける二人の高校生を見て、道行く人たちは怪訝な顔をして通り過ぎる。

 山崎が沙和の父親が住んでいるという白い壁の2階建ての家には、まったく灯りが点いていない。父親の新しい奥さんであろう人は、今はいないんだろうか。

 そんなことを考えながら、2階の大きな窓の向こうに見える、薄いピンク色のカーテンをぼんやりと眺めた。

 ここに着いてすぐ、沙和は山崎に、どうして、私の父親の居場所を知っているのか何度も聞いたが、彼は決して答えなかった。沙和は、途中であきらめた。

 ずっと長い時間、付き添って帰ろうとしない山崎を気の毒だと思う反面、やっぱり私のことが好きなんだなと沙和は思った。

 父を待っている間、彼が目の前に現れたとき、一体、どうするつもりなのだろうかと考え続けた。

 どうして私たちを置いて、女の元に走ったのかと激しく責めるつもりなのか。今、私たちがどんな生活をしているのかを伝えるつもりなのか。

 沙和には、自分自身がどんな行動にでるのかはまるでわからなかった。


 気がつけば、夜9時を過ぎていた。

 沙和はその場にしゃがみこんでいた。山崎は壁にもたれもせず、ずっと立っていた。

「もう、帰ろっか」

 沙和は立ち上がって、山崎にそう言った。

 すると、曲がり角の向こうからスーツ姿の男性がひとり、こちらに向かって歩いてきた。

 沙和は、それがすぐに父親だとわかった。右肩が下がり、ゆったりと歩く姿に消えそうになっていたあの父親の面影を思い出す。

 沙和は吸い寄せられるように、すっと歩きはじめた。

 父親である亮介の前に立ったとき、沙和は驚くほど落ち着いていた。

 しかし、彼は目を見開き、足元はがくがくと震え、「あっ、あっ」と何かを言おうとしていたが、声は出ていなかった。

 やっと発した声は、

「沙和か……?」

 だった。

 沙和は、答えなかった。

「元気だったか? 大人になったな」

 沙和はまだ、なにも答えない。

「どうした? なんかあったのか?」

 沙和は、わずかに視線を落とした。

「お母さんが倒れた。働き過ぎだって……」

「そうか……」

 ため息交じりに、亮介はそう言った。

 なにが、そうか……だ。沙和は、苛立った。

「ねぇ、意味わかってる!?」

 言葉に、力が入った。やっぱり私は父を責めたかったのだと、沙和はここで初めて気づいた。

「そうか……だけどな、母さん……受け取ってくれないんだ。父さんからのお金は……」

 そう言う亮介から、沙和は視線を外して、

「綺麗な家だね……」

 と言った。

 私たちは、あんな生活をしているのに、あんたはここで楽しく暮らしているのか。短い言葉に、沙和はそんな気持ちがこもっていた。

 そのときだった。

「直樹……? どうしたの、こんなところで」

 背後から、女性の声が聞こえてきた。

 振り向くと、さっきまでいた街灯の下で山崎が中年の女性に声をかけられていた。

 山崎は、ちらりと沙和を見た。女性は沙和を見て、言葉を詰まらせながら、こう言った。

「もしかして……沙和ちゃん?」

 どうして女性が私の名前を知っているのかわからなかった。

「どういうこと?」

 沙和は、亮介に訊いた。

 すると、亮介は「妻だ」とだけ答えた。

 沙和が女性の方に顔を向けると、彼女は表情をこわばらせた。

「直樹、沙和ちゃんと……友だちなの?」

 女性は山崎のことを名前で呼んでいる。沙和は、ようやくふたりの関係を理解した。

 山崎は、顔色をまったく変えない。

 沙和はゆっくりとあとずさりをし、すぐに駆け出した。

 亮介の呼ぶ声が聞こえたが、沙和は一目散に走って行った


「知ってたんだ……」

 沙和は、山崎の方を見ることなくそう言った。激しく息が上がっている。

 山崎は、沙和を追いかけてきていた。

「いつから、知ってたの?」

「……ずっと前から」

 駅の改札から出てくる、会社帰りのサラリーマンたちが沙和と山崎の姿を異様な目で見ている。

「なんで言わなかったの?」

 山崎は、なにも答えない。

 沙和は振り返り、山崎に向かって叫んだ。

「なんで言わなかったのよ! お前の父親が俺の母親を取ったんだって!」

 周りの人たちは、さっと二人から離れていく。

「なんで?」

 沙和がもう一度聞くと、山崎がゆっくりと口を開いた。

「それ言って、どうにか、なんのかよ」

 山崎の眼を見て、沙和の体は一瞬で熱を失った。

「そうやって、私のこと……ずっと軽蔑して見てたんだ……なんでよ……なんで……」

 沙和は、山崎の襟につかみかかった。

「なんでそんな風にいられるのよ! お前の父親のせいだってなんで言わないの! なんで私を責めないのよ!!!」

 沙和に強く揺さぶられても、山崎はただそれを受け止めていた。

 周囲の人たちが、異常に気づき、足を止めはじめる。

「ねぇ……なんで?」

 沙和が聞くと、山崎は

「それは……俺も同じだから」

 それだけ言った。

 沙和は掴んでいた襟を離して、そのまま駅の中には入って行かずに、駆け出していった。

 もう、山崎は追いかけてこなかった。


 どれくらい歩いただろうか。あてもなく、何も考えずにただ歩きつづけていた。

 死にたいとは思わない。だけど、誰かが私を殺してくれるなら、それでもいいと沙和は思った。

 それともこのままどこかに消えてしまおうかと思ったが、どこにも行けず、見慣れた街に戻ってきた。

 家の中に入り、ドアを閉めた。

 真っ暗な部屋を見たとき、結局、今はこうして決められた枠の中でしか生きるしかない、その無力さに、沙和は絶望していた。

 電気もつけずに、床に座り込むと山崎の言葉が聞こえてきた。

「それは……俺も同じだから」

 俺とお前は、愚かな親から生まれた、かわいそうな人間なんだ。

 彼が私を見つめる目は、好意ではなく、そんな同情や哀れみの目だったのだと沙和は思った。

「そっか……そうだったんだ……」

 沙和の感情をせき止めていた、何かが壊れた。

「うわーーーーん!」

 沙和は、畳に顔を押し当て、声をあげて泣いた。


 次の日は、沙和は学校に行かなかった。

 このままずっと、体が干からびるまで何も食べず、何も飲まずにいたら、死を手に入れることなく、生きることをあきらめられるのではないか。理解できないような考えが浮かんでくる。

 ふと、病院のベッドに横になる明恵の姿が目に浮かんだ。そして、母親だけは見捨てることができないことを知る。

 いっそのこと、母が消えてくれたら、楽になれるかもしれない。だけど、それはダメだ。そんなんじゃ……お母さんがかわいそう過ぎる。

 もしも、どちらかの死によって、離れ離れになることを選ぶのなら、死ぬのは私の方だと沙和は思った。

 沙和は、明恵の病院へと向かった。今日は明恵の退院日だ。明恵の顔なんて見たくはないのに、なぜかは彼女を迎えにいった。


 病室に着くと、明恵はもうすでに身支度を整えていた。

「あれ? 沙和……学校は?」

「……休んだ」

「ダメじゃない。受験で大変な時期に」

 どうしてまだ、受験をするということを信じているのかと沙和は苛立った。

「私、受験なんてしないから」

 気づけば、沙和は震えた声でそう言っていた。

「なんで? どうして?」

 明恵は、驚きと悲しげな目を沙和に向けた。それが沙和をさらに苛立たせた。

「こんな状態で、どうやって行けるのよ」

「お母さんのこと、心配してくれてるの? それなら、大丈夫。お母さん、これから頑張って……」

「だから、そういうの、もういいってば!」

 沙和の声に、病室が静まり返った。

「沙和? どうしたの?」

「私のために頑張るとか……そういうの、いやなんだけど」

「沙和……ごめんね。でも……」

「なんで、お父さんに言わないの?」

 沙和からその言葉を聞いて、明恵の顔が青ざめた。

「お父さんって……もしかして、あの人に会ったんじゃないでしょうね?」

「……」

「どうして! どうして、そんなことするの! あの人は、私たちを捨てて……」

「だから!!!」

 明恵は、沙和の殺気を感じて、あとずさりした。

「それってさ、お母さんの勝手でしょ? お母さんはただ、自分がみじめだから嫌なだけでしょ? そういうのって……うざい」

 沙和は、明恵の顔を見なかった。きっとお母さんは泣いていただろうと思ったが、それを見ることなく病室を飛び出していた。


 病院から出て歩き続けると、大きな人の流れにぶつかった。

 それは、この街を流れる河の方へと向かっていた。色とりどりの浴衣を着た家族連れやカップルが目につく。

 そうだ、今日は花火大会だったなと沙和は気がついた。沙和は、いつの間にかそれに紛れて同じ方向に歩きはじめていた。

 河川敷に着くと、誰もがみな楽しそうに、日が暮れ、花火がうちあがるのを待ちわびていた。沙和は、そんな中にある、わずかな隙間を見つけて、座り込んだ。

 人々のざわめきの中で、たったひとりでいると不思議と気持ちが落ち着いてきた。


※※※

 日が完全に沈んだ頃、花火があがりはじめた。

 沙和は、花火を見あがることはなかった。

 花火が打ちるたびに起こる振動と群衆からあがる歓声が、胸に響いていた。

 花火が終わると、周りの人たちはひとり、またひとりと消えていった。

 沙和は、どれだけ時間が経っても、立ち上がろうとしなかった。

 しばらくして、河川敷の芝生の上をこちらに向かってくる足音に気づいた。そして、その足音は、沙和に向けて止まった。

 沙和は、ゆっくりと足元から視線をあげた。

 山崎だった。

 沙和は、山崎から目をそらして、「最近、よく会うね」とあきれたように言った。

「まさか、山崎……花火、見にきたんじゃないよね?」

 沙和がそう聞くと、山崎が右手のごみ袋を見せた。

「ゴミ拾い。野球部のやつらと」

 野球部は毎年、地域活動のひとつとして、この花火大会の後のゴミ拾いをしていた。

「そうなんだ……大変だね」

「まだ、帰らないのか?」

「うーん……帰るところあるのかな? 私」

 沙和は、黙っている山崎を相手に、勝手にひとりで話はじめた。

「なんかさ最近……私、おかしいんだよね。我慢しようと思っても、できないんだよ。だから、山崎にあんな風に食って掛かったり、さっきもお母さんに……。どうにかなるわけでもないのに、なんか我慢できないんだよ」

 それを聞いた山崎がさらに一歩、沙和に近づいた。

「なんで我慢するんだ? 別にいいんじゃねーか?」

 沙和は、驚いて山崎を見上げた。沙和と山崎の視線が、ぶつかる。

「あんたもずっと我慢してたんじゃないの? 私にずっと言いたかったんでしょ? 本当のこと」

「別に……そんなつもりはなかった」

「じゃあなんで、お父さんのところに連れて行ったわけ? それってそういうことでしょ?」

「そんなんじゃない」

「じゃあ、なに? わかんないんだけど……全然」

「宮本が……困ってたから」

 沙和は、彼の言葉を頭の中で繰り返したが、やっぱり理解できなかった。

「私……あんたのこと、わかんないわ」

 そう言うと、沙和は立ち上がって、スカートの汚れを払った。

「ゴミ拾い、手伝うよ」

 沙和が歩きだすと、山崎もゴミ袋を持ってついてきた。

 二人は、河川敷のゴミを夜が更けるまで拾い続けた。


 その日の夜は、家に帰っても明恵はいなかった。

 夜勤の仕事でも行ったのだろうと考えると、すぐに罪悪感が襲ってきた。

 我慢すればよかった。あんなこと言わなければよかったと激しく後悔した。

 同時に、どうしてお母さんは誰にも助けを求めようとしないのだろうと思った。

 それは、私に対してもだ。

「お母さんには、私がいるのに……」

 口にしたとたん、自然と涙がすっと流れた。


 山崎から、電話があったのはその週末だった。

「お前のお父さんが会いたがってる」と、山崎は言った。

「山崎も一緒に来て」と頼むと、やっぱりついてきてくれた。

 待ち合わせをしたファミリーレストランで、沙和と山崎が並んで待っている。

 沙和は山崎の横顔見て、

「ねぇ……一緒に来てって、言ったのは私の方だけど……大丈夫なの?」

 と訊いた。

「何が?」

「だってさ、あんたの母親を取った男が来るんだよ? 普通、嫌でしょ?」

「まぁ……そうかな」

「やっぱり嫌んだ。じゃあ、ここにいなくていいよ」

「いや、別にそこまでじゃ……」

「え? どういうこと? 結局、嫌じゃないってこと? どっち?」

「どっちでもない」

「なによ、それ! わけわかんない……」

 沙和は、山崎のことがわからなかった。

「ねぇ、今日一緒に来てくれたのってさ……それも、私が困ってたから? 私のこと……助けたいって思った……」

 沙和がそう訊こうとしたとき、亮介がやってきた。

 亮介は、わかってはいたはずだが、沙和と山崎が並んで座っているのを見て、戸惑いを見せた。

「ごめん、山崎……ちょっと外で待っててくれるかな?」

 沙和がそう言うと、山崎はすっと立ち上がって、外へと歩いて行った。

 亮介は山崎が去っていたのと見て、沙和の前に座った。

「すまんな、呼び出したりして……」

「ううん、別に……」

「沙和は……直樹くんと付き合ってるのか?」

 亮介にそう聞かれて、沙和は意地悪をしたくなった

「だったら、困る? そりゃ、困るよね。でもさ、それって……すごく勝手」

 そう言われた亮介は困った顔をして、

「そうだよな……俺にそんなことを言う資格なんてないな」

 とうつむきながら、そう言った。

 沙和はそんな亮介を見て、ざまあみろと思った。

「お父さんはどうして、お母さんと私を置いて出ていったの?」

 沙和は、ためらいなく訊いた。

 亮介はそれだけは聞かないでくれというような顔をしたが、沙和は彼から目をそらさなかった。

 これを聞かなければ、前に進めないことが沙和にはわかっていた。

「母さんは強い人だから、俺は必要ないと思ったんだ」

 その言葉を聞いて、沙和は足元から震えるくらいに腹が立った。

「お母さんのこと、本当に強いと思う?」

 亮介は、黙り込んだ。

 その姿を見て、この人は何もわかっていない。そして、これからもずっとわからない。

 もう、なにをいても無駄なのだと沙和は思った。

「それで、なに?」

 沙和が訊くと、亮介はカバンからあるものを取り出した。

「これは、沙和のために貯めていたお金なんだ。使ってくれるか?」

 亮介が差し出したのは、通帳だった。

 沙和は手を差しだそうとしたが、怒りに狂う明恵の顔が浮かんだ。

「受け取れない……」

「なんでだ?」

 沙和は、答えなかった。すると、亮介は少し間を置いて話をはじめた。

「言わないでくれって言われたんだけどな……。母さんから連絡があったんだ」

「お母さんから?」

「あぁ……私じゃなくて、沙和を助けてくれって」

「うそ……」

「沙和は、本当は大学に行きたいのに、自分のためにあきらめようとしてるってな」

「うそ! お母さんがそんなことでお父さんに連絡するはずなんてない!」

 沙和がそう言うと、亮介は優しい目で彼女を見つめた。

 それは、子どものとき、休みのときに一緒に遊んでくれた父親の顔だった。

「母さんは、沙和のためならなんでもするよ。一番やりたくないことだって、沙和のためならできるんだ」

「じゃあ、どうして今まで……」

「母さんはその方が沙和のためだと思ってただけだよ。家族を捨てて出ていった父親に助けを求めるのは、きっと沙和が嫌がるだろうって。だけど、それが逆に沙和を傷つけてたって母さん言ってた」

「うそだよ! うそ……絶対うそだ!」

 沙和は何度もそう言いながら、テーブルに顔を伏せて、泣いていた。

 亮介は、そんな沙和の頭を、そっと撫で続けていた。


 帰り道、沙和は通帳の入ったカバンを胸に抱きしめていた。

 沙和は歩きながら、本当にこれでよかったのか……と何度も自らに問いかけていた。

 明恵が、このことで傷ついていることは沙和にはわかっていた。

 母を傷つけてまで、手に入れるものだったのかを沙和はすぐには答えを出せないでいた。

 沙和は、さらにカバンをぎゅっと抱きしめた。

 どうやって、この話を明恵に切り出せばいいのかを考える。

 母が悲しそうな顔をしないか。もしかしたら、話しさえしてくれないかもしれない。そう思うと、胸が苦しくなった。

 だけど逃げずに、まずは、ありがとうと言おう。

 そして、お母さんは私が守る。それだけは決めていた。

 沙和は、隣を歩く山崎の姿を見た。いつもと変わらない彼の表情にほっとする沙和。

「山崎、桜山大学に行くんだっけ? そこって、社会学部ある?」

 と訊いた。

「あると思うけど」

「じゃあ、私も桜山に行こうかな」

「はぁ? お前、聖女だろ?」

「うそに決まってんじゃん!」

 そう言って、沙和がスキップをして歩き出すと、山崎は走ってついてきた。

 彼が、どうして私を助けてくれるのかは、今でも理解できない。聞いても、彼は答えてくれないだろう。

 だけど、やっぱり山崎は、私のことが好きなんだ……そのことだけは、確信していた。

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