33結局落ち着くところは
今日はよく手を引かれる。主に里依に、だったが。しかし今、瑞月の手を引いているのは秋人だ。
決して強くない拘束は、少し手を振ればすぐに外れてしまうだろう。それこそ、里依に対してしているように抵抗すれば。
けれど瑞月は、そうしなかった。あるいはできなかったのかもしれない。振りほどけば、きっと秋人はこれ以上自分に近づくことはなくなるだろうから。
そんな風にあからさまに距離をとられるのは、嬉しくないと思ったのだ。
雨の中、秋人に腕を掴まれるまま走り、たどり着いたのはとあるマンションである。
入口の雨避けになっているところに入って、瑞月と秋人は息をついた。
「急にきましたね」
「夕立かな。森山さん、大丈夫?」
はい、と頷いてからまだ掴まれたままの腕に目をやる。
秋人もそれに気づき、パッと手を離す。同じような反応を前にも見たな、と瑞月は呆れつつ、どこかがっかりしたような感覚を覚えた。
そんな自分に驚く。
彼に何かを、望んででもいたのだろうか。
「小日向さんたちとはぐれちゃったね」
「え? ......あ、あぁ、そうですね。電話してみます」
秋人に声をかけられて、明らかに不審な態度をとりつつも、携帯を取り出し里依に電話をかける。
3コールほどして、里依が出た。
『もしもし、瑞月?』
「里依、無事?」
『無事だよー。そっちも大丈夫そうだね』
「まぁ」
『宮野先輩に連れてってもらってたもんね』
見てたのか。
思わず半目になった瑞月は、そこであることに気がついた。
「里依」と低い声で言う瑞月に、里依のたじろいだような様子が電話の向こうから聞こえてくる。
「......謀ったな」
『えーっと、そんなことないよ......?』
あはは、と誤魔化すように笑う里依に「嘘」と瑞月がぴしゃりと言い放つ。
「まぁ、里依も奏汰さんと話したいことあるだろうし、もういいよ」
『んじゃ、各自解散ってことで』
「わかった」
早々に電話を切ろう、と携帯を耳から離しかけた瑞月に、里依の制止の声がかかった。
『帰ったら報告会ね』
「寝る」
『えっ、ちょっ、瑞月ー!』呼びかける里依の声を無視して通話を切る。
あのように返しはしたけれど、きっと里依はなにがなんでも報告会をするだろう。もしかしたらまた、母が買収されているかもしれない。
こういう時の里依の行動力は尋常ではないのだ。諦めるしかないな、と瑞月は一つため息を吐いた。
「小日向さんは、なんて?」
「各自解散、だそうです」
「......なるほどね」
秋人が考える素振りを見せる。
きっと彼も瑞月と同じ考えに至ったことだろう。苦笑いを浮かべると、瑞月に向かって、「やれやれ」と言うように肩を竦めた。
「とりあえず、雨が止むまで待とうか」
頷いた瑞月は雨に濡れて肌にはりついてくる服をパタパタとあおぐ。ハンカチは持ってきていたのだが、濡れた髪や肌を拭くにはいささか小さすぎるのである。
それを見かねた秋人は、鞄から取り出したタオルを瑞月の頭にかけた。ふわり、と柔軟剤の香りが瑞月を包む。
「本当に、なんでも持ってますね」
「傘は持ってなかったけどね」
「でも、先輩の分のタオルないですよね」
そう言ってタオルを返そうとした瑞月を押し止め、秋人は微笑んだ。
水も滴るいい男、という言葉があるが、それはきっと彼のような人のための言葉だろう。どこを切り取ってもいい絵になる。ポスターなんかで街中に貼り出されていそうだ。
「僕は別に濡れてもいいけど、君は女の子なんだから、あまり体を冷やしてはいけないよ」
「はーいお母さん」
「お母さんって......」
もしかするとこれまで秋人に感じていた安心感は、母親に対するそれと同じようなものだったのかもしれない。
一度意識すると、もはや秋人が母親にしか見えなくて堪えきれず笑ってしまう。そんな瑞月に少しムッ、とした秋人だったが、瑞月の笑顔につられたのか、彼も同じように笑みをこぼした。
穏やかな空気が二人の間に流れていく。思い返せば、図書室で話していたときのような雰囲気を感じるのは久しぶりな気がする。
「そういえば、水族館で奏汰さんと何の話をしていたんですか?」
「えっ」
「......聞かない方が良かったですか?」
「い、いや......」と右耳に手を添えて言いにくそうにする秋人に、瑞月は彼の言葉の続きを待つ。
しばし迷うように目を泳がせていた秋人だったが、意を決したのか、口を開いた。
「......名前の呼び方の話だよ。楢葉君に、下の名前で呼び合ってみたら、と言われてね」
「でも」と彼が少し目を伏せる。
メガネ越しに見ても、彼の青い瞳は綺麗なままだ。長いまつ毛から少し顔を出すように見えるその瞳は、未だ僅かに揺れていた。
「万が一誰かに聞かれたら、森山さんに迷惑がかかるだろうし、そう簡単に女の子を下の名前で呼ぶべきではないと思ってるから」
秋人らしい言葉だ。全て聞き終えた瑞月は納得したように頷き、「じゃあ」と呟く。
「別に、呼びたくないってわけではないんですね」
「そ、れはまぁ......」
そうだけど、と困ったように眉を寄せた秋人に瑞月が悪戯めいた笑みを向けた。
目を開けた秋人と、目を合わせて瑞月は言う。
「なら、私が呼びましょうか」
「森山さんが?」
「はい。......秋人先輩」
反応が無かったのを心配した瑞月がもう一度呼びかける。
対して秋人は目元を手で覆い、色々な感情を吐き出すようなため息を吐き出すと、顔を隠すように俯く。
髪から覗く彼の耳はよく見なければ分からないが、確かに赤みを帯びていた。
「もしかして先輩......照れてます? すみません、あの、冗談のつもりだったんですけど」
「いや......森山さんの呼びやすいように、呼んで」
冗談か、と笑うのではなくそう返したということは、つまり、この呼び方で良いということなのだろうか。
少なくとも、不快に思ったりはしていないようだ。
どうしたものか。これからの彼の呼び方について思案する瑞月のすぐ側で、秋人の「あ」という声が聞こえた。
「雨、上がったみたいだよ」
その言葉に空を見上げると、あんなに強く降っていた雨は確かに止んでいた。
これ幸い、と雨避けになっている所から出る。これ以上ここにいると、要らないことをどんどん口走ってしまいそうだったのだ。
「と、とりあえず、帰りましょう」
「そうだね。とりあえず、ね」
わざわざ隣に来て、さっきの仕返しと言わんばかりの悪戯げな笑みを向けてくる秋人に、瑞月が不満げな表情を浮かべる。
しかし、肩を並べて歩く二人の姿は、行きのときよりもずっと自然だった。