調査五日目 ~すべての真相
時刻はすでに正午を過ぎていた。
神鳴瞳が勤務する某私立高校は、新宿からJRを利用すること一五分あまりで辿り着く場所にある。俺がここを訪れるのは調査初日以来のことだった。
俺は校舎の中に足を踏み入れて、事務室の窓口までやってきた。
窓口の奥には、二十代の事務員らしき女性が二名待機している。俺が窓を軽くノックすると、その内の一人が俺の方へと近づいてきた。
「はい、何か御用でしょうか?」
「すみませんが、こちらに神鳴瞳さんがいらっしゃると思うんですが?」
受付の女性は、俺に対して事務的に接してくる。
「あの失礼ですが、お約束はされておりますか?」
俺は臆することなく正直に答える。
「いえ、約束はしてません。いきなりの訪問です。今、いらっしゃいませんか?」
受付の女性は、申し訳なさそうに軽く頭を下ろした。
「あいにくですが、神鳴は本日、体調不良によりお休みをいただいておりまして。」
休んでいたのか・・・。そういえば彼女、かなりふらついていたな。俺はふと、今朝遭った時のことを思い出していた。
「わかりました。いきなりですみませんでした。失礼します。」
受付の女性はあいさつ程度の会釈をすると、そそくさと立ち去る俺に、怪しい者を見るような視線を送り続けていた。
校舎を後にした俺は、加奈から受け取った地図を手にしていた。
「こうなったら仕方がない。自宅を訪ねてみるか。具合が悪いとなると気が引けるが、まあ話をするだけだし、なんとかなるだろう。」
神鳴の住むマンションの所在地を確かめると、この学校から数キロ離れた住宅街にあるようだ。さすがに歩いていくには距離があるため、俺は最寄の駅からタクシーを拾うことにした。
「もしかすると、神鳴のあの具合の悪さは、やはり追い込まれたことによる心労だったのだろうか・・・?」
そんなことを考えながら最寄の駅まで辿り着くと、ヒマそうなタクシーが駅ロータリーで列をなして、今か今かとお客を待ちわびていた。
今日は平日だけあって、タクシーを利用するお客の姿はまばらである。これが週末の夜だったら、タクシー一台拾うにも四苦八苦するところだが、今日はあっという間に拾うことができた。
俺がタクシーの窓を軽くノックすると、スポーツ新聞を読みふけっていた運転手が慌ててドアを開けた。
「すまないが、この地図の場所まで頼むよ。」
俺はしわを伸ばした地図を指し示して、運転手に行き先を伝える。
運転手はわかったような素振りで、アクセルを目一杯踏み出した。どうやら、加奈の地図はまんざらではなかったようだ。
俺を乗せたタクシーは、駅ロータリーをぐるりと回り、目的地である神鳴のマンションに向かって出発した。
◇
東京という街で暮らしていると、タクシーを利用する機会は案外多いと感じてしまう。
鉄道が行き届いているため、毎日のように頻繁に乗るわけではないが、こういう時には大いに役立つ乗り物だ。何といっても、目的地の目の前まで運んでくれるのだからな。
そんなことを思っている内に、俺はいつしか、神鳴の住むマンションの看板を窓越しに見つけていた。思っていた通り、タクシーは便利な乗り物だと実感させられる。
「はい、お待たせしました。九二0円です。」
俺は千円を差し出すと、そのままタクシーを降車した。少ないと思いつつも、お釣りは当然サービスとした。
いよいよ、神鳴の住むマンションの玄関までやってきた。彼女の部屋は八階の八0三号室だ。
それにしても、見た目はなかなかきれいなマンションである。
この付近は、立地的にも比較的好条件だし、交通の便もさほど悪くはない。それだけに、安い賃貸マンションではないことがはっきりとわかる。
俺はマンションの玄関をくぐると、すぐ正面にあるエレベーターへと乗り込んだ。
ドアを閉めて八階のボタンを押す。そして俺を乗せたエレベーターは、指示された通りに八階目指して上昇していく。
エレベーターのドアがゆっくりと開く。八階の通路へ一歩踏み出した俺の足音が、このフロアの隅々まで反響した。
通路を見渡してみると、そこには人っ子一人見当たらない。まるでゴーストマンションかのごとく、人の声や物音すら聞こえてこない。
俺は神鳴の部屋番号、“八0三”という三つの数字を目で追った。
八0一号室・・・八0二号室・・・。そして、俺は八0三号室のドアの前までやってきた。
「ここか。具合が悪いなら、きっといるはずだが。」
俺は呼び鈴を鳴らしてみる。
呼び鈴の高らかな音は、ドアの向こうにある彼女の部屋で鳴り響いた。しかし、部屋の方からまるで反応がない。
俺は繰り返し呼び鈴を鳴らしてみたが、音は部屋を素通りするかのごとく、薄汚れた東京の空へと消えていった。
「・・・おかしいな、いないのか?」
俺が困惑していると、神鳴の隣の部屋からドアを開く音が聞こえてきた。
俺はすぐに顔を向けると、視線の先には、買い物かごを抱えた中年女性が立っていた。彼女はまさに、貫禄のあるいかにもオバサンといった感じの風貌である。
そのオバサン・・・いや彼女は、立ち尽くしていた俺に気さくに声を掛けてきた。
「あら?神鳴さんとこのお客さんかしら?」
中年女性は好奇の目つきで、俺のことをジロジロとなめ回した。
俺は下手に勘ぐられないよう作り話を交えて、彼女の問いかけに合わせることにした。
「ええ、そうです。実はわたし、神鳴さんと同じ故郷の古い友人でしてね。連絡せずにこっちへ来たもんだから。どうやら、彼女はいなかったようです。いやはや、参ったな。」
目の前にいる中年女性は、作り話を真に受けてくれたようで、俺はホッと胸を撫で下ろす。
「あらあら、連絡なしで来るなんて無茶なことしたね~。でも神鳴さん、今日中に帰ってくるかしら・・・?」
中年女性の思わせぶりな言葉に、俺はその真意を問い詰める。
「失礼ですけど、彼女がどこに出かけたかご存知なんですか?今日中に帰ってくるかしらとは、どういう意味です?」
俺の急かすような問いかけに、彼女は身振り手振りしながら語り始めた。
「どうもこうもないわよ。ほんの一時間ぐらい前かしら。あたしが近所の知り合いのところへ行こうと廊下に出たらね、神鳴さんがよそ行きの格好で、玄関から出てきたのよ。」
俺は相槌を打ちながら、彼女の止まらない話を聞き続けた。
「ほら、彼女先生でしょ?いつもだったら、学校にいる時間だから、どうしたのか聞いてみたらね、休みをもらって旅に出るって言い出したのよ。もう、あたしビックリしちゃってね~。」
「・・・旅に出た!?」
驚愕する俺など目も暮れず、彼女はどんどん話を続ける。
「ええ、変でしょう?だって今日休んでも連休にはならないし、いきなりだったしねぇ、これは絶対に怪しいわね。あたしは、コレが絡んでいると思うわよ、うん間違いないね。」
そう言って彼女は、親指を俺に向かって突き立てた。その意味は、言うまでもないが“男”と言いたいのだろう。
「すみませんが、彼女は行き先を言ってませんでしたか?どこか行き先を特定できるところとか、何でも構いませんので。」
まじめな顔をする俺をまじまじ見て、中年女性はニヤリと卑しい笑みを浮かべた。
「あんた、もしかして神鳴さんに横恋慕かい?だから、追いかけようってんだね?いやぁ、あんたやるわね~、ひひひ。」
何を勘違いしてやがるんだ、このオバサン。俺はそう言い返したかったが、ここは穏便にうつむいてはぐらかした。
「残念だけど、行き先は教えてくれなかったわ。でもね、どこ行くのか尋ねたら、何か、海を眺めたいって言ってたわよ。でも、海なんて東京でも見られるからね~。」
俺はこのとき、神鳴瞳の今朝の話を思い起こしていた。
神鳴が口にした“海を眺めたい”という言葉に、俺は頭の中にある記憶を呼び覚ます。そして俺は、ある一つの結論に達した。
「どうもありがとうございました。とりあえず、思い当たるところへ行ってみますよ。それではこれで。」
俺は中年女性にお礼を兼ねたあいさつをした。
立ち去る俺の姿を見ていた彼女は、エレベータへ乗ろうとする俺に向けて声を張り上げた。
「がんばんなよ!早いとこ彼女を見つけて、駆け落ちの男から彼女を取り戻すんだよ~!」
ホントに大きな世話ばかり焼くオバサンだ・・・。呆れてしまって、そうつぶやくしかない俺だった。
俺はマンションを後にすると、逸る思いで駅を目指して舞い戻っていく。
神鳴のこの行動を見る限り、彼女は何かを決心したのかも知れない。それが何かはまだわからないが、俺はひたすら焦っていた。とにかく、焦らずにはいられなかったのだ。
それはきっと、彼女の行く末が悪い方向に導かれていると、俺の心がうるさいぐらい騒いでいたからだろう。
駆け足を続けること十数分が経過し、時刻はもう午後三時になろうかとしていた。
吸いたいタバコを我慢してまで走り続けて、俺はようやく最寄りの駅まで到着した。
俺は息を切らせながら、駅の自動改札を通り過ぎる。
思いついた答えをなぞるように、俺は一番線ホームから発車する電車へと乗り込んだ。横浜行きのキップを右手にしっかりと握り締めて・・・。
* ◇ *
時刻は夕方四時を過ぎていた。日も傾き始めて、見渡す街並みは少しずつ夕焼け空に包まれていた。
横浜駅からタクシーへと乗り換えて、俺は神鳴瞳の足取りを追うべく終着点まで近づいていた。
賑やかな街並みを越えたタクシーは、潮の香りが漂う港が見えるエリアへと行き着いた。
大きな貨物船、貨物を格納する倉庫群、辺りに響き渡る汽笛の音、そのすべてが、港町横浜を象徴するかのように悠然とたたずんでいた。
俺を乗せたタクシーは山下埠頭へと辿り着いた。
タクシー料金を支払うと、俺は素早く埠頭に向かって駆け出した。
「どこにいる・・・!?」
俺は埠頭付近を見渡してみたが、神鳴らしき姿はどこにも見当たらない。果たして、俺の結論は間違ってしまったのだろうか?
彼女がここへ来たかどうかは、あくまでも俺の想像に過ぎない。彼女が打ち明けたあの言葉、それだけを頼りに、俺は横浜の山下埠頭に的を絞ってここまでやってきていたのだ。
埠頭の至るところをくまなく捜したが、神鳴の姿を発見することはできなかった。
「・・・もしかすると公園の方だろうか。」
俺は横浜ベイブリッジを横目に見ながら、山下公園の方へと足を向けた。
山下公園には、これから夜景を楽しむかのように、若いカップル達がちらほら見受けられた。そんな光景の中、俺は女性がたった一人でたたずむシーンを目で追っていく。
さまざまな人達とすれ違うこと数分、ついに、待ち望んだそのときが訪れた。
「・・・!」
俺の視界に映ったシーンは、一人でたたずむ女性が手すりに手をつき、寂しそうな顔を海岸線に向けている光景だった。
その女性は小さめの旅行カバンを脇に置き、長く艶のある髪の毛を潮風になびかせながら、遠くに広がる大海原に視線を送っていた。
俺はゆっくりと気持ちを落ち着かせながら、その女性のもとへと歩み寄っていく。あと数歩で手が届くぐらいの距離まで近づくと、その女性は俺の存在に気付き、そっと悲しげな顔を向けた。
「・・・探偵さん。」
そこに立ち尽くしていたのは、俺が捜し求めていた人物、そう神鳴瞳に間違いなかった。
俺と彼女は互いに顔を向け合い、ただ無言を貫いたまま対峙していた。
「・・・。」
神鳴は俺から目を逸らすと、青い海の方に視線を戻しながら、そっと瞳を閉じる。
柔らかな潮風に乗って、彼女のささやくような声は俺の耳まで届いた。
「探偵さん。わたくしがここにいること、どうしてわかったんです?」
俺は思いついたことを、彼女を見据えたまま返答した。
「先生、ご自分で言っていたでしょう?よくここへ来るって。ご自宅を伺ったら、お隣の女性から海が眺めるところへ出かけたと聞いたもんで、もしかしたら、ここではないか・・・と思いましてね。」
「フフ、さすがは探偵というご職業だけに見事な推理ですね。」
神鳴は苦笑すると、つむっていた目をゆっくりと開ける。
「・・・今日の横浜はいつもと違う気がしますわ。何だか、とてもゆったりしていて、穏やかで落ち着いているというか。そんな気がしませんか?」
「いや、俺はあまりここへは来ないですから、それは何とも。」
神鳴は気分転換とばかりに、大きく背伸びをしながらうなり声を上げた。
今朝遭ったときに比べたら、彼女の顔色に明るさが戻りつつあった。お気に入りのこの風景、佇まい、そして潮の香りが、彼女の心身の苦痛を和らげてくれたのだろうか。
「ところで、わざわざここまで来られたのは、わたくしに御用があったからですよね?どうかされましたか?」
俺は神鳴の隣まで近寄ると、手すりに手を置き本題について語り始める。
「大林加奈の家出から始まった一連の騒動ですが、ようやくその全貌が見えてきました。そこで、ぜひとも先生にもお話させていただこうと思いまして。」
「加奈さんの家出から始まった騒動・・・?いったいどういうことでしょう?」
不思議そうに首をひねる神鳴に、俺は騒動について一つ一つ順を追って説明することにした。
「まず、大林加奈の家出の原因ですが、金銭感覚の狂った母親との確執だったようです。母親のお金に対する執着心に、彼女は耐えられなかったんです。」
「・・・そうだったんですか。」
神鳴は険しい顔で、俺の話を真剣に聞いている。
「それから三日後、加奈の母親は俺のところへ捜索依頼をしてきました。最初こそ、我が子を想う気持ちが依頼の根源と思っていたのですが、どうやらそれは違っていたようです。」
神鳴は頭を傾げつつ、俺の次なる言葉を待ちわびていた。
「これは加奈本人の証言ですが、彼女は家を飛び出す際に、母親の所持品だった宝石と、一枚の紙切れを持ち出したそうです。つまり母親はそれらを取り返すために、俺に捜索依頼をしてきたわけです。」
「なるほど。ということは、その宝石は、加奈さんのお母様にとって大切なものだったのでしょうね。それにしても、娘さんより宝石を大切にするなんて・・・。」
神鳴は複雑な思いを顔に映して、いたたまれない視線を俺に送っていた。
「いや先生。母親が取り返したかったのは宝石の方ではなく、一枚の紙切れの方だったんですよ。」
「え、一枚の紙切れ・・・ですか?」
俺は力強く、自信を持ってうなずく。
「加奈の母親は、自らが経営する会社の取引ルートを経由して、海外から宝石を密輸しているようなんです。」
交際相手が社長を務める株式会社エドワールドと結託し、国内のあらゆる顧客にその宝石を売買していたことは、俺の調べた限り覆しようのない事実だった。
「その紙切れは、取引をしていた顧客が記されたリストだったんですよ。」
神鳴はその衝撃な事実に、唖然とした表情をしていた。
まるで、ドラマのような筋書きが現実だったことに驚いている、そんなところだろうか。しかし、彼女はそんなドラマの裏側で、一人のキャストとして暗躍していたのは間違いないはずだ。
「そして、そのリストのために、一つの無駄な命が失われてしまったんです。」
「・・・それは、どういう意味ですか?」
眉をひそめて、研ぎ澄ました眼差しで俺を見る神鳴。その視線に張り合うかのように、俺も彼女に突き刺すような視線をぶつけた。
「渋谷で殺害された中谷晋一郎のことですよ。」
加奈の母親はリストを取り返すため、俺に捜索を依頼すると同時に、加奈の口から宝石の密輸という事実が漏れるのを阻止しようと企てた。それが、加奈と交際していた中谷晋一郎の口封じだった。
俺のここまでの推理を、神鳴は平静のまま聞き入っている。
「そこで加奈の母親は、ある人物に中谷の殺害を依頼したんです。その人物は彼女に言われるがまま、凶行に及んでしまったんですよ。」
「そ、それでは、加奈さんのお母様は密輸だけではなく、その殺人にまで関与していたと言うのですか?」
俺が静かにうなずくと、神鳴はただ呆然と立ち尽くしていた。
彼女の顔から異様なほど汗が滴り落ちる。動揺を隠しきれない心理が、彼女の表情からはっきりと感じ取れた。
「今お話した通り、母親はあくまでも指示していただけで、実行犯は別の人間です。・・・そして、ついに俺は、その実行犯を特定することができたんですよ。」
俺は獲物を捕らえるハンターのように、そのターゲットから目を離そうとはしない。
「そ、それは本当ですか?」
「中谷が実行犯に襲われたとき、彼はどうも、すぐには事切れなかったようなんです。なぜなら、彼は亡くなる直前に、知人にメールを送信していたんですよ。」
その衝撃的な告白に、神鳴の顔が瞬時に強張った。俺は休むことなく話を続けていく。
「どうやら実行犯は焦っていたようですね。胸をナイフで一突きした後、彼の死亡を確かめないまま、慌ててその場から立ち去ってしまったんですから。」
その理由については、犯行現場が人の目につきやすい渋谷の路地裏だったからなのは、おのずと想像ができることだ。
犯行がばれないように、その場からすぐさま逃げ出したことが返って裏目に出てしまったと、俺は思いつくままの推理を展開した。
「まさか、中谷が知人宛てにメールをしていたなんて思いもしなかったでしょう。しかも、実行犯を特定する証拠も一緒に送信していたんですから・・・。」
神鳴は顔を引きつらせて、もう余裕の表情すら伺うことはできない。それでも、俺は推理のすべてを持って彼女を追い詰める。
「中谷が最後の力を振り絞って送信したメールには、“インカンに”という文字だけが書かれていました。神鳴先生なら、この文字の意味がご存知なんじゃありませんか?」
知らないと言わんばかりに、神鳴はついに俺から目を背けてしまった。俺はグッと力を込めつつ、そんな彼女に向けて核心に迫った。
「先生。あなたは、学校内で呼ばれているあだ名があるそうですね。インテリカンナリ、略してインカンと。」
神鳴は青ざめた表情で、震えた声で恐る恐る問いかけてくる。
「もしかして、わたくしが実行犯とおっしゃりたいと・・・?」
神鳴は小刻みに体を震わせている。ライオンに追いかけられて、逃げ道を失った哀れなウサギのように・・・。
「中谷がどうして、あなたのあだ名を知っていたのか。先生、あなたなら、それに気付いているはずですよね?」
動揺のあまり目を泳がせつつも、彼女は黙ってはいられないとばかりに憤怒の表情で振り向いた。
「待ってください。おっしゃる通り、わたくしは受け持ちの教え子にインカンと呼ばれています。だからといって、二、三度生活指導をしただけの彼が、そのあだ名を知っているとは限りませんわ。」
彼女のその言い訳が、俺の推理をより言い逃れようのないものにしてくれた。
「先生。あなたは今、中谷に二、三度生活指導をしたといいましたね?」
ドキッとした顔で、目を大きく見開いた神鳴。俺のその問い返しが理解できていない様子だ。
「今朝、中谷のことを尋ねたとき、あなたはこう言ってましたよね?彼の名前は聞いているが、面識はありません・・・と。」
「・・・!」
突きつけられた矛盾に、神鳴の顔面は蒼白と化した。
「生活指導担当であるあなたが、すれ違った程度ならまだしも、二、三度指導した生徒のことを知らないはずがない。しかも、退学してしまった生徒ならなおさらだ。」
神鳴が中谷に対して生活指導していたのは、加奈の証言からも明らかだった。それでも、鎌をかけてまで、神鳴の口から告白させたことに価値があるのだ。
「つまり、あなたはあのとき、中谷と面識があることを知られて、俺に実行犯と気付かれてしまうことを恐れるあまり、あえて嘘をついた。違いますか?」
「・・・。」
彼女はしおれるように肩を落として、そのまま黙り込んでしまった。
「神鳴先生。俺はこれ以上は詮索しません。俺の推理はあくまでも憶測であり、物的証拠は何一つありませんから。」
物的証拠はなくとも、神鳴と加奈の母親が見えない糸でつながっていることは調査済みだけに、これだけははっきりと断言できた。
「加奈の母親が警察に出頭したら、あなた自身も無事には済まないでしょう。そうなる前に、今ここですべてを打ち明けてくれませんか?」
「・・・。」
さっきまで聞こえていた賑わいは影を潜めて、ここ山下公園に夕闇が迫っていた。立ち尽くす俺と神鳴の耳元を、大海原から押し寄せる潮騒だけが小さくかすめていく。
神鳴は大きく息を吸い込むと、その夕闇迫る大海原に向けて勢いよく吐き出した。
「探偵さん、お見事でしたわ。あなたのおっしゃる通り、中谷くんを殺したのはわたくしです。」
彼女は覚悟を決めたかのように、俺に事のいきさつを洗いざらい語ってくれた。
「あなたの推理した通り、加奈さんの母親は東南アジアから宝石を密輸しています。彼女の交際相手が経営するエドワールドを隠れ蓑として。」
横浜港を遠い眼差しで望んでいる神鳴。彼女は昔のことを思い浮かべながら、やるせない告白を続けてくれた。
「わたくしは大学に在学中、同じ大学のある男性とお付き合いしていました。彼もわたくしと同じ教養学部で、同じく教員を目指していたこともあり、いろいろ将来の話をして楽しく過ごしていました。そんな彼でしたが、一つだけ大きな障壁にぶつかりました。・・・彼には、生活力がなかったんです。」
その男性は、実家を勘当されていたせいで仕送りもなく、日々の生活ができるほど十分な貯蓄もなかった。無論、アルバイトはしていたものの、学費の支払いだけで手一杯だったそうだ。
その不憫さに見かねた神鳴は、自らの生活費を切り詰めながら、その男性のために貢いでいたという。
「わたくしも、両親からの仕送りだけでは生活苦になってしまい、両親に内緒でアルバイトを始めました。・・・もうご存知かも知れませんが、その勤め先がエドワールドだったんです。」
神鳴とエドワールドのつながりについては、鏡子くんの絶え間ない努力により、すでに突き止めていた事実だった。
「わたくしが勤めてから二ヶ月ぐらい経った頃でした。」
水平線に沈む赤い夕日が、彼女の顔をより悲しく染めていた。
「ある日の夜、アルバイトから家に帰ってきてすぐに、彼から連絡があったんです。助けて欲しいから、すぐに家まで来てほしいという話でした。」
その男性の声色にただならぬ事態を感じて、神鳴はすぐさま彼のもとへと駆けつけた。しかし、そこで彼女を待っていたのは、彼の姿などではなく、数人のガラの悪い男性達だったという。
「彼は、アルバイト先でトラブルを起こしていたんです。暴力団の一人に因縁をつけたばかりか、入院させるほどの大怪我を負わせてしまいました。」
神鳴は悔しさに唇を噛んで、握りこぶしにグッと力を込める。
「・・・その責任の矛先が、このわたくしに向けられていたんです。」
逃げることもできず、神鳴はその暴力団の男性達に拘束された挙句、五百万円という法外な慰謝料を請求されてしまったという。
「彼はそのとき、暴力団の脅しに恐れをなして、わたくしの前から姿を消していたんです。わたくしは・・・。わたくしは、援助までした相手に、借金を背負わされて裏切られたんです!」
神鳴の悲痛な叫びは、俺の背筋に凍てつくような悪寒を走らせた。彼女は肩を小刻みに震わせて、涙目のまま話の続きを語っていく。
「その男性達は、すぐに払わなければ職場や実家まで乗り込むと脅迫してきました。そんなことをされたら、わたくしは教員になる夢をも失ってしまう。・・・そのときのわたくしは、ただ焦っていたんです。」
五百万円など当然工面できるわけもなく、彼女は危機を脱しようと消費者金融からお金を借りて、その男性達に慰謝料を返済したそうだ。しかし、ホッとしたのもつかの間、今度は消費者金融からの返済催促の嵐が始まってしまう。
どんなに働いて返済しても、高利子が足かせとなってしまい、気付いたときには、彼女自身の生活力では返済しきれない金額にまで膨れ上がっていたそうだ。
「・・・もう取り返しのつかないところまで来ていたんです。わたくしは、エドワールドで経理業務の補助をしていたことを利用して、会社のお金を自らの口座に振り替えてしまったんです。」
俺は眉間にしわを寄せて、神鳴を問い詰めるように口を開いた。
「・・・つまり、横領か?」
「・・・そうです。」
さすがに考えが甘かったのか、経理のプロではない神鳴の横領は、些細な伝票の記入ミスにより、あっという間に会社の人間にばれてしまったそうだ。
「問い詰められたわたくしは、エドワールドの社長室まで連れて行かれました。・・・そのとき、わたくしは出会ってしまったんです。社長の隣でふんぞり返っていた、人の顔をしたあの悪魔に・・・!」
神鳴は憎しみを映す顔つきで声を張り上げた。その憎悪はあまりにも大きく、この俺の体をも押しのけるぐらいの迫力だった。
「・・・それは、加奈の母親のことか?」
俺の問いかけに、神鳴はしぼむように力なくうなずいた。
「大林加代子という女は、まさに悪魔そのものでした。わたくしが横領をしてしまったことを知るや否や、彼女はわたくしにとんでもない取引を持ちかけてきました。」
「・・・取引?」
「はい・・・。それは殺人でした。」
神鳴は恐ろしい事実を口にした。彼女の表情は冷え切っていて、さっきまで見せていた穏やかな表情など見る影もない。
「あの女は、ご主人の会社を自分の物にするため、邪魔になったご主人を事故に見せかけて殺害しようと目論んでいたんです。」
加奈の母親はそれを成し遂げるために、神鳴にこう脅しを掛けてきたそうだ。
“わたしの言う通りにすれば、教師になる夢を壊さないようにしてあげる”と。
「わたくしは・・・。教師になる夢を守るため、そして人生を守るために、悪魔に魂を売り渡してしまったんです。」
神鳴はためらい、殺人という罪の重さにさいなまれながらも、加奈の父親が出勤するタイミングを見計らい、彼の自家用車のブレーキに特殊な細工をしたのだという。
「なるほど、加奈の父親の事故はそういうカラクリだったのか。しかし、車に細工したってことは、警察の事故処理のときにいろいろ調べられて、その細工がばれてしまうと思うんだが?」
俺のふと湧いた疑問に、神鳴はその事故当日の真相について答えてくれた。
「それも計算していました。ご主人が出かけられた後、わたくしはバイクで追走していたんです。そして、思惑の通りに事故が起きた後、わたくしはあたかも通行人の振りをして、自家用車に近づいてからブレーキの細工を取り外したんです。」
「そうか、そこまで用意周到な犯行だったわけだ。」
神鳴は悔いるような表情で、薄暗くなってきた上空を見上げる。
「・・・そして、中谷くんのときもそうでした。いきなりあの女から電話があり、中谷晋一郎という男に遭って、加奈さんの居場所を聞きだし、口封じのために殺せと指示がありました。」
中谷のアルバイト先を突き止めた神鳴は、そのアルバイト帰りの途中に、かつて生活指導をした教師という立場で彼に声を掛けたそうだ。
自分自身の人生を守るため、そして教師という立場を失わないために、彼女は罪悪感に身も心も震わせながら、またしても殺人行為に及んでしまったということだった。
「あなたは結果的に、中谷から加奈の居場所を聞きだすことができなかった。・・・だから、母親はこの俺のような探偵に、加奈の捜索を頼らざるを得なかったというわけか。」
「その通りです・・・。」
神鳴の言及した真実を耳にして、俺は正直なところ戸惑いを隠し切れなかった。礼儀正しく丁寧な姿勢の彼女から、たった今明かされた魔性の姿は、あまりにも想像しがたいものだった。
俺たち人間は自らの立場を守るために、人の命をも奪ってしまう醜い生き物なのだろうか?彼女はそこまで追い詰められていたのかも知れないが、俺はついそんな自問自答をしてしまう。
事件の全貌を話し終えて、疲れ切ったような息を吐いた神鳴は、おもむろに俺の方へと振り向く。
「探偵さん、差し支えなければ教えていただけません?どうしてわたくしが怪しいと思ったんです?」
俺は頭の中にしまっておいた確証について、神鳴に一つ一つ振り返るように提示していく。
「一つは、中谷が殺害されたとき、争った形跡がなかったという現場の状況だよ。その状況からすれば、犯人は中谷に容易に近づける人物、つまり彼の知り得る人物ということになる。」
神鳴は黙ったまま、俺の冷静な推理に耳を傾けている。
「もちろん、それだけではあなたが実行犯とは特定できない。最終的な決め手になったのは、あなたの愛用している化粧水だ。」
「化粧水・・・?」
その真意が見えないのか、戸惑いながら首を傾げている神鳴。
「実を言うと、加奈は父親の事故が他殺だということを知っていたんだ。もちろん、犯行に自分の母親が関わっていたこともね。」
「加奈さんが?どうして・・・?」
加奈は偶然にも、父親の殺害をほのめかす電話をしていた母親の姿を目撃していた。俺はその証言を神鳴にそのまま伝えた。
「そのとき、母親は電話の相手と、MAXブランドという化粧水の話をしていたらしい。ちょっと気になってね。俺なりに、このMAXブランドのことを調べてみたんだ。」
このMAXブランドは海外の高級ブランドらしく、日本国内に直販店のない大手化粧品メーカーだった。そのため、日本ではダイレクト販売でしか購入できず、価格もそれなりに高価な代物だというところまでは調べがついていた。
「そんな高価なものを試用で使っているならまだしも、好んで使っている人はそういないだろうと思ってね。あなたは確か、他の化粧水だと肌に合わないから、MAXブランドを好んで使用していると言っていたはずだ。」
たまたま神鳴のバッグから、MAXブランドの化粧水が落ちていなければ、俺は彼女をここまで追い詰めることはできなかっただろう。
こういった出来事も、そして加奈の証言すらも、すべては幸運が重なった上で成り立っていると言っても過言ではなかった。
俺の確証を聞き終えると、神鳴は観念するように大きな溜息をついた。
「・・・そこまでお調べになられていたのなら、もうわたくしに言い逃れる術などありませんね。」
神鳴は波立つ横浜の海に視点を向ける。やさしく穏やかに吹く潮風は、彼女の傷ついた心身をほんのりと癒していく。
「・・・わかっていました。いくら立場を守るためとはいえ、罪のない人を傷つけてしまうことが許されるはずのないことを。」
神鳴は肩を震わせながら、うなだれるように泣き崩れていった。
「・・・しかし、気付いたときには、わたくしは底の見えない泥沼の中へと足を踏み入れてしまっていたんです。」
あの気丈でポーカーフェイスだった彼女の瞳から、まるで罪と罰を洗い落とすかのごとく、大きな涙の雫がこぼれていた。
俺は黙ったまま、そんな彼女のむせび泣く姿を見届けていた。
「先生。俺は探偵であって警察じゃない。だから、あなたを拘束する義務は俺にはない。あなたがこれからどうすべきか、それはあなた自身が決めることだ。」
俺は上着のポケットから携帯電話を取り出して、ある相手に電話越しで呼びかけた。
「もしもし、藪鬼だ。今大丈夫か?」
俺はイヤホンを耳にセットしてから、そっと携帯電話を神鳴に差し出す。彼女は恐る恐る、俺から携帯電話を受け取った。
「・・・もしもし?」
「先生?あたし、大林加奈です。」
「・・・!」
携帯電話の相手は、俺の事務所で待機していた加奈だった。
ここへ向かう途中、俺は前もって彼女に電話を掛けるよう知らせていたのだ。
「お久しぶりですね。いろいろお騒がせしちゃって。先生にも迷惑掛けたみたいで、ごめんなさい・・・。」
「・・・いいのよ、加奈さん。でも、よかったわ、無事でいてくれて。」
神鳴はとても穏やかな表情をしていた。それはまさに、教え子の身を案じる教師という立場そのものだった。
「先生。あたし、もう家出とか、そういう身勝手なことしないから。だから、先生・・・。先生もその、罪を償ってさ、またあたし達の教室に戻ってきてよ。」
加奈は控え目ながらも、いつもと変わらない態度で神鳴を励ましていた。それは、恩師を想う生徒の気持ちの表れだったのかも知れない。
「・・・加奈さん。先生はね、お父さんや、あなたの恋人にひどいことをしてしまったのよ?それでも・・・。手を血で染めたこんなわたしのことを待っていてくれるの?」
一瞬だけ言葉に詰まる加奈。そして彼女は、思いのままにそっと口を開く。
「もちろん許せない。簡単に許せるわけないよ。・・・もし、あたしがそこにいたら、先生のこと、殺しているかも知れない。」
加奈の傷心から来るその殺気で、神鳴の表情に戦慄が走る。そしてこの俺すらも、恐怖のあまり背筋が凍りついた。
「お、おい加奈・・・。」
そのすぐ直後、加奈は声のトーンを暖かくして話を続ける。
「冗談だよ。あたしにそんな勇気ないもん。・・・それに、悪いのはみんなお母さんなんでしょ?先生の話、電話越しからみんな聞いてたよ。お母さんのせいで、先生をこんな目に合わせてごめんなさい。」
「加奈さん・・・。」
神鳴は衝動を抑えきれず、大粒の涙をこぼし始めた。
電話の向こうにいる加奈も、神鳴を気遣う同情なのか、それとも母親に対する憎悪なのか、神鳴と同じように声を震わせていた。
「先生、もう自分を責めないでいいから。早く罪を償って、あたしたちの教室に戻ってきてよ。だから自分を捨てたりなんかしないで。それと、あたし達のことも見捨てないでね・・・。」
クラスメイトの誰もが、自分と同じ気持ちだと訴える加奈。その心のこもったメッセージに、泣き崩れてしまった神鳴は、教師でいられたことを誇りに思えていたに違いない。
「加奈さん、ありがとう・・・。」
神鳴は自分の足でゆっくりと立ち上がる。そしてハンカチで涙を拭き取り、彼女はわずかに口元を緩める。その表情からして、これからどうすべきか決心は固まったようだ。
俺に携帯電話を手渡した彼女は、俺に向かって姿勢正しくお辞儀をした。
「藪鬼さん。本当にありがとうございました。わたくし、この山下公園で、わたしくが一番好きなこの場所で、罪深き人生を終えるつもりでいました。・・・しかし、加奈さんとお話して、わたくしは生きる希望を見出せました。」
加奈のために、いやクラスメイト全員のためにも、一から出直すことが教師である自分の責任なのだと、神鳴は迷うことなくそう誓っていた。
「先生。あなたは今朝、生徒から尊敬されているのかわからないと、俺にそう言ってましたよね?加奈と話をしてみて、その答えがはっきりしたんじゃないですか?彼女やクラスメイト達のためにも、少しでも早く学校へ戻ってあげてください。」
神鳴は小さく笑顔を浮かべて、ためらうことなく大きくうなずいた。
そのときの彼女の顔からは、罪の意識にさいなまれた絶望感は微塵にも感じられなかった。むしろ、すべての罪を償う覚悟を決めたかのように、果敢に立ち向かう姿勢を覗かせていた。
「それじゃあ、行きましょうか。」
俺達はゆっくりと歩き出し、空を舞うカモメに見守られながら、夕闇迫る山下公園を後にした。
その後、神鳴は横浜市内の警察署へと出頭した。警察署の中に消えていく彼女を見届けると、俺はすっかり夜の帳の下りた市街地へと戻っていった。