調査四日目 ~接触
どっぷり夜の帳の下りた東京。この暗闇を隠さんばかりのネオンサインは、俺達人間が生きていることを証明している。
本当に東京という街は静かになることがない。眠らない街とはよく言ったものだ。
俺が恵比寿の街へ辿り着く頃には、時刻はすでに夜九時を回っていた。
夜の調査では、昼間よりも慎重な行動が要求される。俺は緊張感を維持しながら、恵比寿駅裏側にある工場跡地へと急いだ。
「ふぅー・・・。」
急ぎ足であっても、俺はタバコを吸うことを止めようとはしない。心にある切迫さを抑えるため、ついニコチンという特効薬に頼ってしまう。
いつもなら、こんな夜遅くは勤務外だけに調査に出たりはしないが、今日の俺は過剰なまでに業務を遂行している。きっと加奈に遭える・・・。そんな気がしてならないからだ。
恵比寿駅からしばらく歩いていくと、明るさの途絶えた廃墟が姿を見せてきた。システム手帳の地図を見る限り、中谷がいたという工場跡地に間違いないようだ。
「・・・ここか。それにしてもすごい建物だな。」
俺が目にする工場跡地は、建物そのものは原型を残していたものの、壁がはがれて穴の開いた箇所がいくつもあった。
敷地内には、破損したトラックやフォークリフトが散乱としており、無用に生い茂った雑草が、訪れる者を拒絶しているように見える。その名の通り、ここはまさに廃墟と化していた。
果たして、こんなところに加奈が身を潜めていられるのだろうか?俺は思わず、そんな疑わしい衝動に駆られていた。
俺は生い茂る雑草をかき分けながら、その廃墟の敷地の中へと入っていく。ぬめりとして湿った土のせいで、踏みしめる靴が地中に引きずり込まれそうになる。
「それにしても、ここは何の工場だったんだろう?」
俺はようやく工場の出入口まで辿り着いた。
出入口の鉄扉は、長い時間放置されていたせいか腐食しており、半開きのままその場で硬直していた。
半開きの出入口に体を潜らせて、俺は真っ暗な工場の中へと侵入した。
「すごいな、これは・・・。」
操業の止まった工場内は、異様なほどに悪臭が漂っている。そのにおいはあまりに強く、胸がむかつき吐き気をもよおすほどだ。
俺は上着のポケットから、携帯型の懐中電灯を取り出して、暗黒の工場内をぼんやり照らした。
「む!こ、これは・・・。」
俺は一瞬たじろいでしまった。何せ、ライトを通して姿を現したのは、裸体でも恥じることのないくたびれたマネキンだったからだ。ここはかつて、マネキン製造工場だったようだ。
それにしてもひどい有様だ。工場が潰れた後だろうが、どこかの誰かがここで火遊びをしたらしく、床や壁のあちこちに焦げた後が残っている。無論、放置されたままのマネキンも、いくつかは醜く焼け爛れていた。
俺はハンカチで口を覆いながら、工場の奥へと少しずつ進んでいく。
奥に進めば進むほど、街の雑踏は途絶えていく。そしてこの地は、俺の存在と共に完全に孤立していった。
「本当に、こんなところにいたのだろうか?」
俺はここに来て、工場内に侵入したことを後悔し始めていた。
ここに潜伏するのは容易いことではない。このにおい、この暗闇、そしてこの孤独感。そのあらゆる要素が、人間の神経をも狂わせてしまうだろう。
寒気すら感じさせる工場内を、俺は後戻りすることなく忍び足で歩き続ける。一歩また一歩、足の踏み場は暗闇しかない。それでも俺は、かすかな懐中電灯の明かりを頼りに、工場の奥をひたすら目指した。
工場内を捜索すること十数分、俺はついに工場の最奥地に突き当たった。
木製のドアに貼ってあるネームプレートには、“事務管理室”と書かれていた。
「この事務所を確認して何もなければ、いったん戻るとするか。」
俺は独り言のようにそうつぶやくと、事務管理室のドアを静かに開ける。
『ギィィ・・・』
たてつけが悪かったドアが、きしむ音を響かせながらゆっくりと開かれた。
俺はゴクッと息を飲み込んだ。事務管理室へ一歩足を踏み入れて、懐中電灯を揺らしながら室内を見渡してみる。
形を崩した机と散乱した椅子、そして床に散らばっている紙切れの山。ここは、人の気配を失った事務所の有り様をそのまま映し出していた。
「ふぅ・・・。」
俺は溜息をつき、少しばかり緊張を解いた。どうやらこの工場には、加奈どころか、生き物すら存在していないようだ。それを裏付けるように、彼女が隠れていたという痕跡すら見つけることができなかった。
「とんだ無駄骨だったか。・・・仕方がない、帰るか。」
俺は調査をここまでとし、事務管理室を後にしようとした、まさにその瞬間だった。
『ガサッ・・・』
俺の背後から聞こえた不穏な物音。俺は無意識のうちに、足を止めて硬直してしまった。
誰かがいる・・・!俺はそう直感した。俺の心拍数が異常なほど高鳴っている。
俺はゆっくりと背後へ振り向く。そして、意を決して物音がした方角へと歩き出した。
乱雑に倒れた事務机の片隅に目を凝らすと、俺の視界にかすかに動く影が映った。その影は息を殺したまま、身震いしている人間の姿をしていた。
俺は懐中電灯の明かりで、その人物を小さく照らす。映し出されたのは、怯えながらうずくまっている一人の女性だった。
「・・・誰だ?」
俺は問いかけるように、その女性に声を掛けた。
「・・・こ、殺さないで!」
その女性は、震え上がった声でそう訴えてきた。その怖がる声色が、彼女がまだ若い女性であることを告げていた。まさか、加奈か?
「心配するな。俺は怪しい者じゃない。私立探偵の藪鬼という者だ。君に危害を加えるつもりはない。」
俺は正々堂々と正体を明かした。とにかく落ち着いてもらい、多少なりにも警戒心を和らげる必要があるからだ。
そんな俺の説得も空しく、俺の視界に映るその女性はブルブルと全身を震わせて、うずくまったまま許しを請う言葉だけを繰り返していた。
「お願い、何もしないで・・・。」
このままではらちがあかない。俺は彼女が加奈なのかどうか、核心に触れてみることにした。
「・・・君は、大林、加奈さんか?」
「・・・え?」
その反応、確かな手ごたえがあった。
間違いない。ここに身を隠していたこの女性こそ、四日間も血眼になって捜索し続けた対象者、あの大林加奈本人なのだ。
「加奈だな?俺は君の捜索を依頼された私立探偵の藪鬼寛樹というものだ。だから安心してくれ。少しだけ話を聞かせてくれないか?」
何とか加奈と話をさせてもらおうと、俺はできる限りの誠意を示して見せた。この俺の熱意は、彼女の怯えきっている心まで届いたであろうか?
「・・・ヤブキ?私立探偵?」
加奈のその声から、少しばかりの安堵感が伝わってきた。
それを察した俺は、すり足で彼女のもとへと近寄っていく。彼女はまだ身震いしながらも、俺にそっと顔を向けてくれた。
「加奈・・・。」
加奈の表情には、あの写真に映っているかわいらしい表情などどこにもない。
泣きじゃくったのか目を腫らしていて、その青ざめた顔色は、まさに逃げ道のない恐怖を心の中に抱え込んでいるようだった。
「待って!お願い、それ以上近づかないで!」
加奈は大声を上げて、近寄る俺を踏み止まらせた。やはり、彼女の側には近寄れそうにない。
彼女と一メートルほど間隔を置いたところで、俺は彼女と話をすることにした。
「・・・間違いなく大林加奈だね?」
「・・・うん。」
消え入りそうな声で、加奈は自らの正体を告白した。
「どうして家出なんかしたんだ?しかも、こんなところに隠れているなんて。」
しばしの沈黙の後、彼女は悪態付くように口を開いた。
「もううんざりだった。お母さんの頭の中はお金のことしかなくて、あたしのことずっと煙たがってた。何をするにもお金、お金ばかり。あたしは、そんな金の亡者から逃げ出したかったの。」
家出の原因を聞いた俺は、間髪いれずに彼女に尋ねる。
「君のお母さん、俺に依頼してまで君を捜してくれって。それだけ君を心配していたんだぞ。お母さんは毎日のように、俺に調査具合を確認していた。それもすべては、君のことを大切に思っている証しじゃないのか?」
それを真っ向から否定するかのごとく、加奈は大きく頭を振り回した。
「違うわ!お母さんがあたしを捜しているのは、家出したときに持ち出した宝石を取り返すためだもん!」
彼女はそう叫びながら、俺の足元に小さな石ころを転がした。俺はその石ころを、懐中電灯の明かりで照らしてみた。
「・・・なるほど。君がこれを持ち出したってわけか。」
ぼんやりと照らされた石ころは、サファイアにエメラルド、そしてルビーなど、紛れもなく高価な宝石であった。この大きさからして、鑑定すれば数百万円は下らないだろう。
いくらお金持ちのご婦人とはいえ、これほどのお宝を持ち出されては、さすがにたまったものじゃないといったところか。
「あたしがこんなことしなかったら・・・。きっと晋ちゃんは殺されることなかった。」
「・・・何?」
彼女の口から出てきた物騒なセリフ。その“晋ちゃん”とは、やはり中谷晋一郎のことだろうか?しかも彼の死が、彼女の家出と関係あるとはいったいどういうことだ・・・?
「加奈、その晋ちゃんって、中谷晋一郎のことだな?君はまさか、彼が殺された原因を知っているのか?」
中谷のことを知っている俺に、加奈は一瞬唖然とした顔をしていたが、俺が探偵であることを思い出してか、問い返すようなことはしてこなかった。
彼女は涙まじりで、中谷との馴れ初めについて語り始めた。
「晋ちゃんはもともと、あたしと同じ学校の一つ先輩だったんだけど、あたしが渋谷で遊んでいるときに声を掛けてきてね、遊んでいるうちに仲良くなって、気付いたときには付き合いだしてたの。」
悲しみに満ちた表情のまま、加奈はとめどなく話を続ける。
「あたしは家出したあと、晋ちゃんの家に転がり込んだけど、彼のお母さんから居場所を漏らされたらまずいと思って、ひとまずこの工場跡地に隠れることにしたの。」
その後も、中谷はアルバイト帰りに、この工場跡地に隠れていた加奈に遭いに来てくれたそうで、彼は口癖のように、いつか二人で一緒に暮らそうと話していたという。
「毎日が楽しかった・・・。あたしは、晋ちゃんさえいてくれたら何もいらなかった。家も、お金も、そしてお母さんのことも。」
加奈の抱え込んでいたせつなさを、俺は黙ったまま真剣に聞き入れていた。
彼女は涙を流しながら、あの中谷の刺殺事件当日のいきさつを打ち明けてくれた。
「久しぶりに渋谷で遊びたかったから、渋谷の街で晋ちゃんと待ち合わせたの。あまり明るいとまずいから夜になってからね。それで待ち合わせ場所へ行ってみたら、その付近に人だかりが出来ていて・・・。」
待ち合わせ場所のすぐそば、ビルとビルの間の薄汚れた路地裏で、中谷は横たわったまま冷たくなっていた。彼の死んでいる姿を、加奈は目の当たりにしてしまったのだ。
「あたしをかくまった、ただそれだけの理由で彼は殺されてしまったの!」
彼女の表情に怒りが溢れてきて、その怒りはわめくような大声にも表れていた。愛するものを失った悲しみを、激昂という感情に置き換えてしまったのだろう。
「待ってくれ加奈。どうして中谷の死が、君をかくまったことが原因と断言できるんだ?」
加奈は怒りをあらわにしたまま、憎しみめいた表情で声を震わせた。
「・・・お母さんが、お父さんの交通事故に関わっていたことを、このあたしが知ってしまったからよ。」
「お父さんの交通事故!?」
まさに予想だにしない事実だった。あの母親が、まさか父親の交通事故に関与していたとは・・・。
「く、詳しく教えてくれ!」
俺はつい我を忘れて、声を張り上げてしまっていた。
「四年前のお父さんの交通事故、あれは偶然の事故じゃないの。車に特殊な細工をして引き起こした殺人だったのよ。あたしがそれを知ったのは、家出する少し前のことよ。」
俺は信じられないといった表情のまま、加奈の告白に耳を傾けていた。その信じがたい事実を知ったときの様子を、彼女は記憶を思い起こしながら語ってくれた。
「あの日、たまたま気分が悪くて、あたし、学校を早退して早めに家に帰ってきたの。そうしたら、お母さんが電話で、お父さんの車に細工したことを誰かと話していたわ。」
加奈はそのとき、母親に見つからないように、その秘め事の一部始終を盗み聞きしたそうだ。
ヘラヘラ笑っていた母親を見た彼女は、信じられなくて、そして許せなくて、憎たらしさにしばらく震えが止まらなかったという。
俺には、加奈の憤る思いが痛いぐらいに伝わった。事故死と思っていた父親が、まさか肉親の手によって殺害されていたとなれば、彼女のショックは計り知れないはずだ。
「電話の相手は誰かわかったのか?」
加奈は口篭もったまま、首を小さく横に振った。
「そのとき、電話の相手の名前はいっさい出てこなかったの。でもね、相手は間違いなく女性だと思う。化粧水の話もしていたから。」
「それじゃあ、共犯かも知れない人物は女性ってことか。その化粧水のことで、何か特徴のある話とかはなかったかな?」
「・・・はっきりとした記憶じゃないけど、MAXブランドがどうのこうのって言ってた気がするわ。」
俺はすぐさまシステム手帳を手にして、彼女の告白の一言一句を書き綴っていた。
「話してくれてありがとう。とにかく、君が無事だったことが何よりの朗報だよ。」
肉体的だけでなく、精神的にも疲労を隠せない加奈。俺はそんな彼女を労わろうと、気遣うようなやさしい言葉を投げかけていた。
俺にとってはこれからが正念場である。いくら母親に疑惑があっても、加奈という家出人を保護する任務を遂行しなければならないからだ。
俺は彼女と同じ目線になるため、紙切れが散らばる冷たい床の上に腰を下ろす。彼女はまだ怯える仕草をしていたが、その顔色からは、わずかながらも温かみを感じ取ることができた。
「中谷があんなことになってから、独りぼっちでここにいたんだろ?食事とかはちゃんと摂っていたのか?」
「・・・うん。晋ちゃんが、バイト料を分けてくれたから。」
できる限り刺激しないよう、俺は言葉を選びながら加奈の恐怖心を和らげようとする。そして気付いたときには、俺と彼女は手の届く距離まで近づいていた。いよいよ交渉するチャンスだ。
「加奈。これはあくまでも君を守りたいという意味で捉えてほしい。俺と一緒に事務所まで来てくれないか?」
無論、俺のこの説得ぐらいで、彼女は素直にうなづくわけがない。彼女は今、このまま逃げ続けるのか、それとも誰かに守ってもらうのか、心の中で激しく葛藤していたのだろう。
「・・・お母さんの悪事、暴いてくれる?それだったら、ついていってもいいよ。」
加奈はそう言うと、細くて小さい手を俺に向かって差し出してきた。彼女はそのとき、俺に初めて微笑む表情を見せてくれた。
「わかった。俺のプライドをかけて解決してみせる。」
俺は交渉成立のうれしさに浮かれてしまい、このとき、背後から襲い掛かる物音に気付くことができなかった・・・。
「動くなっ!!」
「!?」
俺の背後から発せられた怒号。その耳をつんざくような大きな咆哮で、加奈はまるで猫に追われるネズミのように、逃げるかのごとくこの場から走り出してしまった。
彼女の後を追おうとする俺に、その不審者は背後から飛びかかってきた。
「な、何をする、離せ!何者だ、キサマは!?」
「おとなしくしろ、わたしは警察だ!おまえを住居不法侵入の容疑で逮捕する!」
「はぁ!?」
俺はその衝撃に全身が凍りついた。そして、俺は抵抗することもできず、その警官に連行されてしまった。
工場跡地沿いの道路には、白黒のツートンカラーの車がしっかりと止まっている。俺はこのとき、この制服の男が本物の警官なのだとようやく悟った。
強引にパトカーへ乗せられた俺は、有無を言わさず警察署へと連れて行かれるのだった。
* ◇ *
滅多に足を踏み入れることのない窮屈な空間。真四角な形をした殺風景な部屋の中で、俺はパイプ椅子に腰掛けている。
いかつい顔した体格のいい男性が、疲れきった表情の俺ににらみを利かせている。
「いい加減に吐いたらどうだ?おまえと話をしていたヤツは誰だ?どこへ行った?」
ここは警察署の取調室。そして俺の目の前にいるのは、しわのない制服に身を包んだ大柄な警官だ。俺はその警官から、繰り返し質問攻めを受けていた。
それにしても警察というのは横暴だ。俺にタバコの一本も吸わせてくれないのだからな。おかげでメチャクチャ機嫌が悪い。
「このやろう!いつまでそうして澄ましている気だ。さっさと吐け!」
ついに堪忍袋の尾が切れたのか、彼は俺の胸倉を掴んで、部屋中に轟く怒鳴り声を上げた。
「おいおい、うるさいよ。」
緊迫しているこの取調室に入ってきた男性。彼はいかにも偉そうに鼻ひげを生やし、身分の高い風格をにじませている。
面倒くさそうな顔で頭をかきながら、彼は警官の側まで歩み寄ってきた。
「俺達はさぁ、都民を守る健全な公務員なんだから、あんまり粗暴な態度で事情聴衆しないようにな。」
警官は慌てて起立すると、その男性に向かって姿勢をただして敬礼した。
その偉そうな男性は、警官の代わりに俺の正面へ腰掛けると、苦虫を噛み潰したような表情で俺をにらみつけた。
「おい藪鬼ぃ。てめぇ、俺様に何回迷惑を掛ければ気が済むんだ、ああ?」
「俺は迷惑を掛けているつもりなんてありませんよ、ヒゲノさん。」
「ヒゲノじゃねぇ。シゲノだ。」
俺は苛立ちから、ついそんな下らないジョークを口にする。
俺の正面にいるこの口の悪い男は、警視庁捜査一課に身を置く繁野琢丸巡査部長様だ。俺が探偵家業を始めた頃から、いろいろとお世話になっている人物だ。
世話になっているというのは皮肉な意味で、協力してもらっているわけではない。強いて言えば、邪魔されていると言った方が正解だ。
いつも職権乱用を武器にして、俺の手に入れた情報を奪っていくまるでハイエナのような男なのだ。
「藪鬼、おまえ、渋谷で起きた殺人事件で何を探っている?言っておくがとぼけても無駄だぞ。ガイシャが、あの工場跡地に出入りしていたのは裏が取れてるんだからな。」
繁野から言わせると、俺がその工場跡地にいたことそのものが、事件について何かを探っていた何よりの証拠なのだという。
繁野は食って掛かるような態度で、工場跡地で誰と接触していたのかと、俺に何もかも洗いざらい吐けと強要してきた。
ここで簡単に口を割っては、機密保護を重要視する探偵の名を汚すことになる。そんなに容易くプライドを捨てるほど、俺はド素人な探偵ではない。
「何を言ってるんですか、繁野さん。俺はたまたまあの付近を通りかかっただけですよ。そうしたら、怪しいヤツが工場の敷地内に入っていったんで、後を追っていっただけですよ。まったく、何を勘違いしているのやら。」
澄ました顔で俺がそうごまかすと、繁野の表情がまるで仁王様にように豹変した。わざとらしくとぼけ過ぎたせいか、逆鱗に触れてしまったようだ。
「キサマ~、調子に乗るんじゃねぇ!そんな見え透いた嘘が通用するとでも思っていたのか、ああ!?」
握りこぶしを机の上に打ちつける繁野。そのすぐあと、胸倉を掴まれた俺は、彼の激怒する顔まで目一杯引き寄せられた。
「てめぇ、正直に言わねぇと証拠隠蔽罪でブタ箱に放り込むぞ!接触したのはガイシャの女だろうが?警察をなめんなよ、このヘボ探偵がぁ!」
さすがはニッポンの警察、加奈の存在に気付いていたか。これは下手なことを言うと、これからの俺の調査に影響を及ぼしかねない。
「いいか、ガイシャが殺られた状況から争った形跡がないとなると、顔見知りの犯行と思って間違いねぇんだ。つまりガイシャに一番近づきやすい人物、それは恋人しかおらんのだっ!」
どうやら警察は、恋人である加奈が犯行に及んだと決め付けているようだが、ついさっき接触した加奈は、中谷の事件は母親の犯行であることを匂わせていた。
少なくとも、今の俺には加奈が犯人であるという動機が思い当たらず、しかも彼女が嘘をついているとも思えない。
「藪鬼!おまえなら知っているはずだ。女の名前は?どこに住んでいる?おまえの持っている情報を全部吐きやがれっ!」
繁野はそうまくし立てると、俺の胸倉を掴んだまま、ゆさゆさと激しく揺らし続ける。
俺は運がよかった。コイツら、恋人の存在は知っていても、それが加奈だということまで掴んではいなかったからだ。
もし、俺がここで加奈の名前を明かしてしまったら、今回の依頼がすべてご破算になってしまう。探偵の名を廃らせないためにも、それだけは断固阻止しなければならない。
いつまでも時間を潰すわけにいかない俺は、できるだけ当り障りのない言い訳で、この場から脱出しようと試みた。
「わかった!話すよ。だからこの手をどけてくれ。」
繁野は投げ捨てるように、俺の胸元からやっと手を離してくれた。まったく好き放題やりやがって、都民を守る健全な公務員が聞いて呆れてしまう。
「よーし、全部話せ。さぁさぁさぁ!」
「あんたの言う通り、俺は渋谷での事件について調べてるよ。でも、もともとは家出人探しだったんだ。その対象者を捜しているうちに、偶然殺された中谷にぶつかったんだよ。」
繁野は目を細めて、俺の話を腕組みしながら聞いている。
「ほう、つまり何か?おまえの対象者っていうのが、ガイシャの女だって言うのか?」
俺は紛らわしく軽めに首を横に振った。
「いや、そこまでは把握してないよ。わかっているのは、対象者と中谷がつながっていたことだけ。だから中谷と親交のあった人物と接触していたら、たまたまあの工場跡地に辿り着いただけさ。」
さすがは刑事課のプロだけに、繁野はそう簡単に俺の話を信用してはくれないようだ。聞き流しているかのように、彼はやる気のない相槌だけをうっていた。
「そうか・・・。よし、もう一つ答えろ。おまえ、インカンっていう暗号が何かわかるか?」
繁野からの質問に、俺は内心ドキッとした。“インカン”とは、中谷が所属していたチームのリーダー、橋本恭介に届けられたダイイングメッセージだ。
警察の方でも、中谷の携帯電話のメール送信履歴は解析していたようだが、まだその真意まではわかっていないらしい。
「・・・いや、聞いた覚えもないですよ。少なくとも、俺の追っている対象者とは関係なさそうだから。」
いずれはばれてしまうだろうが、俺は協力的だった橋本に迷惑を掛けまいと、知らぬ存ぜぬを押し通そうとした。
関心があるのかないのか、繁野は相も変わらず適当な相槌をうっている。この男の腹の中だけは、名探偵の俺でも読み取ることができない。
「ほぉ、なるほどなぁ・・・。だが、イマイチ信用できんなぁ。おい藪鬼、キサマの調査資料を見せろ。」
さすがは天下無敵の警視庁の刑事。とんでもない強引な要求をしてきやがる。
言うまでもないが、調査資料を第三者に公開することは、プライバシー保護の観点から業務上禁止されている。法的な手続きとして、公的機関からの開示請求があれば話は別だが。
「ちょっと待ってくれ、それができないのはあんたも知ってるだろ?そんなことしたら、俺が依頼人から訴えられてしまうよ。」
繁野は目つきを鋭くして、慌てまくる俺を激しくにらみつけた。
「やかましい、そんなこと知ったことかっ!てめぇがどうなろうが、俺にゃ関係ねーんだよっ!」
この野郎、ついに居直ってきやがった。本当に警察っていう組織は、職権をかざしてムチャクチャな注文をつけてくる。
普通ならここで降参するところだが、こういったシチュエーションに慣れている俺は常人とは違う。ルール無視の繁野に、俺は掟破りな交渉を持ち掛けることにした。
「おいおい、繁野さん。あんたがそう来るなら、こっちにだって考えがあるよ?」
「なにぃ?」
繁野の阿修羅のような顔が、余裕の笑みを浮かべる俺の顔に近寄ってきた。
「てめぇ、それはどういう意味だぁ?」
俺はひそひそ声で、繁野の耳元でささやいてやった。
「あんた、昨年港区で起きたOLの傷害事件、まだ追ってるよな?俺さ、その事件のちょっとした裏話あるんだよ。」
「なっ、何だと!?」
繁野はそれを聞くなり、ものすごい勢いで後ろに振り返ると、控えていた大柄の警官に怒鳴り声を上げた。
「おい、おまえ、すぐに席を外せ!」
あまりにも唐突な退去命令に、その警官は唖然とした表情で立ち尽くしている。それにしびれを切らした繁野は、その警官を追い出さんばかりに凄んで見せた。
「何してんだよぉ?ここは俺に任せて、おまえは外に出てろって言ってんだろうがあぁ!」
「は、はい!」
警官はその恫喝に恐れをなして、逃げるように取調室から出て行ってしまった。
「・・・さてと?」
繁野は俺と二人きりになった途端、俺に向かって猫なで声でささやきかけてきた。
「さあ、藪ちゃ~ん、さっき触れた件だけど?で、で?何を知ってるのかな~?」
鬼のような形相をしていた男が、これ見よがしに甘えてくる姿は、不気味なほどに気持ちが悪い。俺は思わず背後に仰け反って、パイプ椅子から転げ落ちそうになってしまった。
「で?で?早く教えてくれよ、藪ちゃ~ん?」
約束は約束だから仕方がない。俺はここぞとばかりに、とっておきの裏話を繁野に提供した。
このような駆け引きは、傍目で見たら不謹慎と思われるだろう。しかし、俺のような探偵稼業が平和的に商売していくには、警察との情報取引は必要不可欠なのだ。
無論、あくまでも提供するのは、依頼人や対象者のプライバシーを侵害しない範囲ではあることは断言させてもらおう。
繁野にとって、俺の密告はかなりおいしかったようだ。彼はすっかり上機嫌になって、背後に回って俺の肩を揉み始めた。
「はっはっは。さすがは精鋭の私立探偵だな、藪鬼くん。今日は実にいい日だ。よし!今日は俺の顔に免じて許してやろうじゃないか。ただし、今回だけだぞ!はっはっは。」
さっきまでの仁王顔はどこへ行ったのやら・・・。繁野はこれまた公務執行機関の特権をフル活用して、俺の釈放をあっさりと承諾してくれた。
俺は鼻で笑いながら、繁野に会釈してから取調室を出て行く。すると背後から、彼のわざとらしいセリフが飛んできた。
「いいかぁ!俺はな、てめぇみたいな、すかした探偵気取りが大嫌いなんだよ。天下の警視庁様に隠れて私服を肥やしやがって。いつか必ず、この俺がてめぇをムショにぶち込んでやるから覚悟しやがれ!」
取調室の前で待機していたさっきの警官が、涼しい顔をした俺を疑念の目で凝視していた。そして彼は、慌てて繁野の下へと駆け寄っていく。
「繁野部長!これはどういうことです。いったい何があったのですか!?」
「うるせぇな!あのクズは証拠不十分でいったん釈放だ!」
繁野はくさい芝居を続けながら、警察署の奥の方へと消えていった。
◇
俺は警察署から解放されると、胸ポケットに入れておいたタバコを取り出す。
「ふぅ~・・・。」
たまらない一服だ。いったいどれぐらいの時間拘束されていたのだろう?
今の時刻を確認してみると、夜の十一時をとうに過ぎていた。
俺は携帯電話を手にして、留守番メッセージを確かめようと事務所へ電話を掛ける。俺の掛けた事務所の電話番号は特別で、誰も電話を取らなければ、自動的に留守番メッセージが流れる仕組みとなっている。
『ガチャ・・・』
留守番メッセージが流れると思いきや、親しんだ女性の声が電話を通じて流れてきた。
「もしもし、藪鬼探偵事務所です。」
「あ、鏡子くんか?」
「せ、先生ですか?」
驚いたことに、電話を受けたのは鏡子くんだった。いくらなんでも、こんな時刻まで残業しているとは思いもしなかった。
「鏡子くん、まだ残ってくれていたのか?」
「はい。パソコンの調査報告書データを整理していたら、いつの間にか、こんな時間になってしまって・・・。」
鏡子くんは、自分自身に呆れるようにそう答えた。そんな彼女のいつもと変わらない声に、俺はようやく日常に戻れた気がしていた。
「それより先生。いったいどこにいらっしゃるんです?何度かお電話差し上げたんですが。」
「ああ、話すと少しばかり長くなるんだ。これからすぐに事務所へ戻るから、申し訳ないがもう少し待っていてくれ。」
俺はそう告げると、携帯電話を持ったまま駆け出した。
加奈が話してくれた新しい事実、そして殺された中谷の残したダイイングメッセージ、さらに警察の事件への介入状況など、ありとあらゆる情報を引き下げて、俺は鏡子くんの待つ事務所へと急いだのだった。
* ◇ *
警察署を出てから一時間ぐらい過ぎた頃、俺はようやく事務所のドアまで辿り着く。
「おかえりなさい。」
鏡子くんのいつものあいさつが聞こえた。彼女はデータの整理が終わっていないのか、キーを叩きながらパソコンと向かい合っていた。
「鏡子くん、あまり無理をするなよ。今日はもう休んでくれ。」
「ご心配ありがとうございます。それより先生、いったいどんな情報が入りました?」
鏡子くんは、目を輝かせながらそう問いかけてきた。俺からの最新情報を心待ちにしているのだろう。
彼女の期待に応えるように、俺も休む間もなく、入手した手がかりのすべてを伝えると、そのあまりにも大きな進展に、彼女も驚きを隠せない様子だった。
「でも、残念ですね。せっかく加奈さんに遭えたというのに。」
「ああ。途中で警察に邪魔されてしまったからね。しかし不幸中の幸いは、連中が加奈の身元を調べきれていないことだ。」
万が一、中谷と加奈のつながりを警察に知られてしまうと、これからの俺の調査にも影響が出るだろう。とにかく、加奈の捜索を急ぐ必要があるのは間違いない。
鏡子くんも同じ意見とばかりに、俺と一緒に大きくうなずいていた。
「それもそうですが、加奈さんが先生に話した、母親の殺人関与も気になりますね。それと、殺害された中谷の友人に送られたダイイングメッセージの意味も解読する必要があります。」
「そうだな。」
俺はくたくたに疲れた頭の中で整理を始める。
「加奈の母親が不穏な動きをしているのは明らかだ。これは助智からの情報もあるから確実だろう。」
鏡子くんは、パソコンからプリントアウトした用紙を俺に手渡してくれた。
「加奈さんの母親が経営する太陽物産と、株式会社エドワールドの関係ですよね?この二社の知り得る限りの詳細を、この用紙にまとめておきました。」
俺は用紙を手にしながら、記載されている詳細に目を通した。
「なるほどな。太陽物産の役員に、株式会社エドワールドの社長、川内義郎の名前があるな。どうやら、母親と川内がつながっているのは間違いなさそうだ。」
「はい。取引している商品については、やはり佐倉さんがお話した通り、特段目立ったものはないようです。しかし、この両社の間で大きなお金が動いているのも確かです。」
「目に見えない商品売買ってわけか・・・。」
「そういうことですね。」
俺と鏡子くんは無意識の内に、互いに天井を見上げながら考え込んでしまった。
「・・・まあ、この辺は俺の方で調べてみるよ。鏡子くんは少し休んでから、できる範囲で調べてみてくれ。」
「はい、かしこまりました。わたしは、母親と川内のメールの内容について当たってみますね。」
鏡子くんは大きく息を吐きつつ、パソコンの電源を切る準備をしていた。
「そういえば、先生。」
何かを思い出した彼女は、俺の方へ顔を振り向かせる。
「机の上にメモを置いておきましたが、夜八時ぐらいにお電話がありました。神鳴瞳という女性の方からです。ご存知の方ですか?」
神鳴瞳。無論、聞き覚えのある名前の一つだ。
「ああ、加奈の通っている学校の担任だよ。何か新たな情報でも入ったんだろうか?」
机の上にあるジッポライターを手にして、俺はくわえたタバコに火を灯す。自分の居場所で吸うタバコは、どんなことにも代えがたい奥ゆかしさがある。
「それでは先生。わたし、そろそろ自宅へ帰りますね。少しだけ遅くなりますが、午前十時までには来ますので。」
鏡子くんの声を聞いて、俺はデスクの上にある時計に目をやる。時刻はもう午前一時に近づいていた。知らず知らずのうちに、調査を開始して五日目となっていた。
「鏡子くん。こんな時刻だし、すぐ近くまで送っていこうか?」
「それには及びませんわ。今日はタクシーで帰りますから。ご心配ありがとうございます。」
鏡子くんは帰りがけに、香り深い挽きたてのコーヒーを俺に淹れてから、疲労感を背中に事務所を出て行った。
俺は鏡子くんが残してくれた、机の上にあったメモを手にする。
「さすがにこの時刻に連絡はできないな。神鳴先生への折り返しは朝になってからにしよう・・・。」
俺は上着のポケットから、情報がいっぱい詰まったシステム手帳を取り出すと、調査初日から今日まで、俺が入手してきた手がかりや足取りをもう一度確認してみた。
「依頼人、つまり加奈の母親が、わざわざ探偵に依頼してまで娘の捜索に必死になる理由とはいったい?」
俺は初日のページをめくり、二日目のページに目を置いた。
「・・・加奈の友人から聞かされた中谷晋一郎の存在、しかしその中谷はすでに渋谷で殺されていた。タイミング的にも、加奈失踪に関わっている可能性が高い。」
俺は二日目のページをめくり、三日目のページに目を置いた。
「・・・加奈の母親が経営する会社の不穏な動き、そして商品取引のない会社との怪しいメール。」
俺は三日目のページをめくり、四日目のページに目を置いた。
「死んだ中谷から送られた“インカンに”のメッセージ。そして、加奈本人から聞いた母親の知られざる疑惑。」
俺は静かにシステム手帳を閉じた。そして、これからの調査方針を頭の中でまとめていく。
加奈を早く見つけるためにも、明日はより決定的な手がかりが得られるよう俺は祈るばかりであった。
「さてと、もう寝るとするか・・・。」
俺は事務所の明かりを消すと、安らぎをくれる私室のベッドにこの身を任せた。