調査三日目 ~疑惑
調査三日目の朝がやってきた。
俺はベッドから起き上がると、自室の窓へと視点を向ける。カーテンの隙間から漏れる光加減で、今日の天気が穏やかな晴れだとわかった。
寝ぼけ眼を擦りながら自室を出ると、いるはずの鏡子くんの姿はすでになかった。
俺の机の上には、細い文字で綴られたメモ紙が置いてあった。
「これから、クライアント宅周辺の調査に行ってまいります。何か連絡があれば個人携帯にお願いいたします。」
彼女が残したメモ紙にはそう書かれていた。
「ふぅ。鏡子くんは本当に行動が早いな。」
俺は流し台へと向かい、一人暮らしにちょうどいい大きさの冷蔵庫をそっと開けて、トマトジュースとフレンチサンドを取り出す。
それらを乗せたトレイと共に、俺は自らのデスクへと移動した。 この俺にとって、いつもと変わらないのどかな朝食である。
「やはり朝食はこれに限るな。他のメニューなど考えられんよ。」
そんなこだわりに一人うなずきながら、俺はデスクに並んだ朝のご馳走を頬張っていた。
俺は朝食をいただきつつ、鏡子くんが机に置いておいてくれた朝刊を広げる。当然ながら、事件ネタしか目を通さない俺だ。
ちょうど三日前に目にした、渋谷での殺人事件の続報が載っている。よく見ると、被害者の少年の身元が判明したと書いてあった。
「ほう。せっかくだからチェックしておくか。」
俺は興味深く記事を読んでみた。
被害者の名前は中谷晋一郎。住所は渋谷区神泉町一丁目十番・・・。一年ほど前に・・・私立高校を中退・・・。
「ん?この中谷の中退した高校って、加奈の通ってる学校じゃないか。偶然っておもしろいものだな。」
続きを読んでみると、その被害者は、渋谷を中心に活動していたチームに参加していたとのこと、か・・・。
俺は食後の一服を満喫しながら、この記事だけを食い入るように眺めていた。
「まったく、過去も現在も、若者達のやることはどうも理解できん。事件の発端はチーム内の揉め事か何かだろうな。」
俺は独り言のように、年寄りくさくそう嘆いていた。
昔の話ではあるが、渋谷や原宿で一時ブームになったチーマーと呼ばれる連中。彼らはだいたい十代の若者で構成されていて、その若さによる無鉄砲さから、暴行や強姦事件を起こし当時は随分話題になった。
実は過去に、俺はチーマーから息子を救ってほしいという依頼を受けたことがある。無論、それは俺にとっては些細な依頼だったが、これが思った以上に難航したのだ。
一度チームに参加してしまうと、まさにアリ地獄に迷い込んだアリのごとく、抜けるに抜けられなくなってしまうからだ。
抜けようとした者には、集団リンチやおとしまえを強要し、絶対に組織から逃がさないようにするという、まるで極道のような悪質さを持っていた。
結果的には何とか抜けさせることはできたが、とにかく苦労をさせられた覚えが今でも記憶に残っている。
「ろくに弔うことはできないが、まあ、安らかに眠ってくれ。これがさらなる事件のきっかけにならないことを祈るばかりだな。」
俺はそっと目を閉じると、亡くなったこの少年にささやかな黙祷を捧げた。
チーマーの一人として、もし彼の性根が腐っていたとしても、やはり未来ある若者が命を失うことを、素直に喜ぶことなどできるはずもない。
俺はいたたまれない思いで、読み終えた新聞をきれいに折りたたんだ。
『リリリリーン・・・、リリリリーン・・・』
そんな矢先に、事務所に鳴り響く電話の音。今は鏡子くんがいないので、俺の他に電話に出る者は誰もいない。
俺は仕方がなく、鳴り止みそうにない電話の受話器を取り上げる。
「もしもし?藪鬼探偵事務所ですが?」
「あれ、藪ちゃんか?」
電話の相手は、嫌って言うほど聞き飽きた声の持ち主だった。
「何だ助智か。こんな朝からどうかしたのか?」
さすがは朝の早いお寺の住職だけに、助智は朝から張りのある声を上げている。
「鏡子ちゃんはいないのかい?とうとう愛想尽かして出て行ったのかな?いよいよ俺のチャンスってわけだ。」
「何を言ってやがる。鏡子くんは今ちょっと外出中だ。だいたい愛想尽かすも何も俺達は夫婦じゃない。単なる仕事のパートナーだ。」
「ははは。毎回そう言ってるねー?そこまで否定すると逆に怪しく感じちゃうよ?」
「やかましい!」
どうせ助智のことだ。俺がこれ以上否んでも、どうせ難癖付けておもしろがるだけだろう。
「それより何か用事があって電話したんだろ?何かあったのか?」
「ああ、そうそう。実はね、ちょっと藪ちゃんの耳に入れておきたいことがあるんだ。」
助智の声がだんだんと小さくなっていく。これこそ内緒話モードである。
俺は電話を保留にしてから私室へと赴く。そして、私室に備えてある特殊な受話器に持ち替えた。
俺の持っているこの受話器は、盗聴防止機能の他にも、受話器から流れる声が周囲に漏れない工夫が施されていて、内密な会話をする際には重宝する代物なのだ。
「よし、準備いいぞ。」
完全な内緒話モードに突入しても、助智は決して大きい声を出そうとはしない。それは、お寺の方の設備が完全ではない理由もあるが、何よりも、助智自身がとても用心深いという性格もある。
ヤツのこの慎重さこそが、ヤツ自身の身の安全を確保しているとも言えるだろう。
「実はね、藪ちゃんが行方を追ってる女の子、確か大林加奈だっけ?彼女のことについてはぜんぜん情報がないんだけどさ。」
「おいおい、待てよ。対象者の情報じゃないなら、いったい誰の情報を入手したんだ?」
「加奈の母親の方だよ。」
助智はやはり、俺の予想もしない情報を手に入れてくれたようだ。
「これ当然、裏側からの未確認情報だけど、どうも加奈の母親はね、表以外の収入源があるっていう噂があるんだ。」
ヤツの言う裏側というのは、言うまでもなく裏の世界のことを指す。暴力団関係といった、表立って行動していない組織のことだ。
「詳しいことまでわかってるのか?」
「いや、残念ながらそこまではハッキリしてないけどね。」
助智の知る限りでは、加奈の父親は会社の社長だったそうだが、数年前に交通事故を起こして死亡しているらしい。その後、その父親の代わりに、母親が会社の社長を引き継いだそうだ。
俺は受話器を持ちながら、加奈の母親が記入した調査依頼書を確かめてみた。よく見ると、職業欄には代表取締役社長と記されていた。
「それでその会社なんだけど、経営状態がよくないらしいんだ。まだ親父さんが現役だったとき、取引先で不当たりが出たらしくて、銀行から多額の緊急融資を受けてね、今もその返済に苦しんでいるみたいだよ。」
俺は助智の話を耳にしながら、加奈の母親の家に電話したときのことを思い出した。
あのときは確か、電話に出たのはメイドの女性だったはず。会社が銀行への返済に追われているくせに、悠長にメイドなんか雇っていたということか。
それに、あの母親の煌びやかな身なり・・・。あまつさえ、探偵に大金をはたいてまで調査の依頼をしてくるなど、普通に考えたらおかしな話だろう。
「なるほど。それはおもしろい情報だったな、感謝するよ。」
「お礼はいいからさ、温泉麻雀よろしく頼むよ?」
まだ覚えていたのか、コイツ。記憶力だけはたいしたもんだ。
「わかった、わかった。事件が解決したらな。」
俺は静かに、受話器の切断ボタンを押した。
「ふぅ・・・。」
俺はもやっとした頭をスッキリさせるため、火を灯したタバコを口にくわえた。そして大きく煙を吸い込み、三秒ほど溜めてから、思いっきり紫煙を吐き出した。
「加奈の母親の会社にまつわる疑惑・・・。このことが、加奈の失踪に関係するのだろうか?」
俺は頭を働かせながら、これまでの情報を一つに結びつけようとした。しかし、今の段階では結びつけることはできない。
あと少し、あともう少し手がかりが欲しい。俺は心の中でそうつぶやいていた。
「ちょうど、鏡子くんが加奈の自宅周辺で聞き込みをしているところだ。ここは彼女の帰りを待った方がいいかも知れないな。」
俺はとりあえず、自分の代わりに足を使った調査をしてくれている、パートナーの帰りを待つことにした。
* ◇ *
事務所の窓から、赤く染まったきれいな夕陽が差し込んできた。
俺はソファーに横たわりながら、リビングの壁に掛けてある時計に目をやった。時刻はもう夕方五時を回っていた。
「遅いな、鏡子くん。」
鏡子くんは、朝出かけてから一度も事務所に帰ってきていない。しかも、報告の電話の一本も入っていなかった。
俺の心の中に不安がよぎる。いくら調査のイロハを知っているとはいえ、彼女はごく普通の女性だ。その身を脅かす危険は男性よりも高いのだ。
「とりあえず電話してみるか。」
俺はいてもたってもいられず、彼女の携帯電話に電話してみることにした。
受話器を握ってダイヤルしようとしたその刹那、事務所の玄関のドアが開いたような音がした。
俺は素早く玄関の方へ目を向けると、少しばかり疲れた顔色をした鏡子くんの姿が見えた。
「遅くなって申し訳ありません。ただいま戻りました。」
「鏡子くん・・・。おかえり、ご苦労さま。」
俺はふぅっと胸を撫で下ろした。彼女が無事に帰ってきてくれたことに、俺の心がこの上ない安堵感に包まれた。
「先生、さっそく調査結果を報告したいんですけど、お時間よろしいですか?」
鏡子くんはなぜか、俺を急かしているようにも見える。彼女のその仕草を見る限り、それなりの情報を手に入れたのかも知れない。
「帰って早々かい?俺は全然構わないが、何かわかったのかな?」
鏡子くんはハンドバッグから手帳を取り出す。そして手帳をペラペラとめくって、冷静な顔つきのまま報告を始めた。
「加奈さんのご自宅周辺で聞き込みをしてみたんですが、どうも加奈さんと母親は、あまり仲がよくなかったそうです。よく自宅前で、加奈さんと母親が口論しているところを、近所の人が目撃していました。」
鏡子くんのこの報告から、加奈の家出は家庭内トラブルが原因と見てよさそうだ。
「そうか。これで確信に近づいたな。他には?」
鏡子くんは淀みなく報告を続ける。
「あと加奈さんの父親のことですが、どうも四年前に交通事故で亡くなっているようでして。そのため、父親が経営していた会社ですが、現在は母親が代表取締役として引き継いでいるそうです。」
この辺りの情報は、今朝助智からも知らされていたものだった。しかし、さすがは鏡子くんだけに、母親が代表を務める会社の名称が“太陽物産株式会社”というところまで調べてくれていた。
彼女のさらなる報告に、俺は黙って耳を傾け続ける。
「この会社は、海外と取引をする貿易関係の商社のようですが、実はわたしの調べた限りでは、この会社はあまり経営状態がよくないようでして。」
この辺りについても、助智が話していた内容と一致している。それでも、より詳しい情報をかき集めてきてくれたところを見ると、彼女は相当努力したに違いない。
俺はここまでの報告を聞いて、整理する意味も込めて彼女に再確認する。
「鏡子くん、すまない。親父さんが交通事故で亡くなった時期は、間違いなく四年前なんだね?もう一つだが、母親の経営する会社が現在、経営に行き詰っていることについてだが、他に何か聞いたことないかな?」
その確認に返答しようと、鏡子くんは手帳をさらにめくっていた。
「はい。死亡時期ですが、お隣の方が葬儀に出られたそうで、それは間違いないそうです。あと会社の経営難の方ですが、念のため信用調査会社のデータベースを検索してみました。詳細はこの用紙にまとめてあります。」
鏡子くんはそう報告しつつ、俺にA四サイズの用紙を二枚ほど渡してくれた。その用紙には、加奈の母親が経営する会社の登記や業績、そして信用レベルなどが記載されている。
その用紙を閲覧していた俺は、ここ数年の売上推移に目が留まり、そして、その信用レベルに驚きを隠せなかった。
「これは、びっくりしたな。」
俺の驚きの真意を知ろうと、鏡子くんも一緒になって用紙を覗き込んだ。
「どうかしましたか?」
「見てくれ。この売上推移だが、四年前から明らかにマイナス勘定が続いている。このままこんな経営が続いたとしたら、間違いなく資金難で倒産を余儀なくされるだろう。実際、信用レベルも危険度を暗示しているしな。」
「そうですね。しかし、信用レベルの低い資金難の会社は、この会社の他にもたくさんありますよ。何か気になることでもあるんですか?」
不思議がる鏡子くんに、俺はちょっとした質問をする。
「鏡子くん。君は今日、加奈の自宅を見てきただろう?どんな感じだった?」
質問の意図が見えないのか、戸惑いながら答える鏡子くん。
「は、はい。とてもきれいで大きなお家でしたよ。使用人らしき人も出入りしてましたし。会社社長のお宅ですから、それ相応かと。」
俺は自らが抱いている疑問点について、鏡子くんに問いかけながら打ち明ける。
「おかしいと思わないかい?経営する会社が火の車のくせに、そんな豪邸で優雅に暮らして、しかも、複数の使用人を今でも従事させている。さらに言えば、俺にお金をいくらでも払うから、娘を見つけてくれと頼んできた。」
いくら会社の危機とはいえ、娘を想う気持ちは理解できなくもないが、ただでさえ高額な調査費用をいくらでも払えるとは思えない。俺はそう持論を展開していた。
「はい、そう言われてみると、少しばかり変ですね。」
「自宅にいる使用人たちに、あの母親の豪勢な身なり。この物的状況を鑑みると、どうも何か裏があるような気がしないか?」
「裏・・・といいますと?」
鏡子くんは険しい表情で問い返した。
「まだ確証はないが、もしかすると母親には、会社以外からの収入源があるのかも知れない。」
「まさか、裏金ですか?」
このまさかの展開に、鏡子くんは目を大きくして驚いていた。
「もう少し具体的に下調べが必要だがね。まだ物的証拠がない以上、それに確信を持つわけにはいかない。」
「わたし、そこに重点をおいて調査しなおしてみますね。では、さっそく。」
鏡子くんは着ていたカーディガンを脱ぎ捨てると、意を決したように自らのデスクへと腰掛ける。
彼女は素早い手つきでパソコンの電源を投入し、姿勢を正しながらパソコンが起動するのを待ちわびていた。
「さすがに早いね。でも少しぐらいは休憩するといい。」
「心配ご無用ですわ。パソコンもきっと仕事したがってますからね。」
俺はいつも、彼女のパソコンテクニックには助けられている。
より必要な情報や詳しい情報が欲しいとき、彼女のパソコンが何よりも頼りになるのだ。そんな彼女のためにも、最先端のパソコンを買ってあげなきゃいけないかも知れないな。
俺は詳しくは知らないが、どうもインターネットのチャットとかいうサイトで調べているそうだ。俺には何のことなのかさっぱりだ。
『リリリリーン・・・、リリリリーン・・・』
事務所の静かな空気を引き裂くように、一本の電話がやかましく鳴り響いた。
鏡子くんは、デスクの上にある受話器をとっさに持ち上げる。
「もしもし?藪鬼探偵事務所でございます。・・・はい、お世話になります。・・・ええ、おります。少々お待ちください。」
電話を保留にすると、鏡子くんは俺の方に顔を向けた。
「先生。高塚裕子さんという方からお電話です。」
「高塚・・・。ああ、彼女か。」
高塚裕子。そういえば加奈の親友の一人で、礼儀正しく姿勢のいいお嬢様のような女の子だったな。
俺は咳払い一つしてから、受話器を受け取って通話ボタンを押下した。
「もしもし?藪鬼だが?」
「あ、探偵様ですね?わたし、先日お目にかかってお話しました高塚裕子と申します。」
裕子は予想を裏切らず、行儀よく丁寧なあいさつをした。とはいえ、俺のことを“探偵様”と呼ぶのもどうかと思うが・・・。
「電話をくれたってことは、あれから何か思い出したのかい?」
「はい。あのとき加奈さんとご一緒されていた男性のことなんですけど、つい今しがた、その人のことがわかりましたので報告をと思いまして。」
裕子からのびっくり発言に、俺の鼓動が一瞬で激しくなった。
「それは本当か?その男は、いったい何者なんだ!?」
俺は感情が高ぶって口調が荒くなっていた。それもそのはずで、これまで会話に出てきたキーワードの正体を、ついに知ることができるからだ。
「それがですね・・・。」
どういうわけか、裕子の口調がおぼつかない。まるで、これから話すことを誰にも聞かれたくないかのように。
「探偵様は、三日前に起きた殺人事件をご存知ですか?渋谷で一八歳の男性が刃物を突き刺されてしまって殺害された、という事件です。」
「あ、ああ。知ってるよ。」
俺は次の瞬間、顔面が凍りつく感覚を覚えた。
「ま、まさか・・・。」
俺はその直後、裕子から思いも寄らない事実を聞かされることになる。
「殺害された男性なのです。あのとき、加奈さんとご一緒していた男性というのは・・・。」
何と言うことだ・・・。加奈の失踪に絡んでいた男の正体が、俺が何気なく目にしていた殺人事件の被害者だったとは。
「・・・間違いないのか?」
「・・・はい。夕方のニュースで写真が映った際、はっきりと思い出したのです。間違いありません。」
俺は受話器を握り締めたまま、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、こんなことで我を失っているわけにはいかない。
俺はこの事実を受け止めて、冷静な行動をとる必要があるのだ。
「貴重な情報をありがとう。また何かわかったら電話してくれ。」
俺はそう礼を告げると、受話器の切断ボタンを押下した。
このただならぬ雰囲気を察してか、鏡子くんがすぐさま俺に声を掛けてきた。
「どうかしたんですか?何か問題でも起きましたか?」
俺は険しい表情のまま、机の上に無造作に置いてあった新聞を彼女に広げて見せた。
「この事件記事を見てくれ。三日前、渋谷で起こった殺人事件の一八歳のこの被害者が、どうやら加奈と関わりのある人物のようなんだ。」
「え、それは本当ですか?」
鏡子くんは動揺しながら、その事件記事を食い入るように凝視している。
「・・・こんな事件が。」
俺は胸ポケットからタバコの箱を取り出し、天を仰ぎながら一本のタバコを口にくわえる。
「そこにも記載されているんだが、その事件の被害者が中退する前に通っていた学校、実は加奈が通っている学校なんだ。」
「なるほど・・・。つまり加奈さんとこの被害者は、同じ学校という接点があったんですね。」
俺は口をつぐんだまま軽くうなずいた。
「参ったよ。この失踪の最大の手がかりとなる人物が、すでにこの世にいないとはね。これで調査は振り出しってわけさ。」
「・・・。」
落胆する俺を気遣ってか、鏡子くんは何も声にしようとはしない。ただ黙って、俺からの指示を仰いでいるようだった。
「いや、これで終わりじゃない・・・。」
俺はふと気付いた。何もこれで、すべてがやり直しと言うわけではないと。
ここまでに手に入れた手がかりは、すべてが無駄ではないはずだ。これしきのことで、鏡子くんまで落胆させるわけにはいかない。
こういった行き止まりから活路を見出すことこそが、俺のような超一流の探偵と言えるのだ。
俺は思いついたように、鏡子くんに向かって血気盛んに指示を出した。
「鏡子くん、すまないがもう少し残業してくれ。これからこの被害者について徹底的に調べるんだ。どんな些細な情報でも構わない。よろしく頼むよ!」
鏡子くんは唐突のあまり唖然としていたが、俺の指示の意図を理解した途端、自信満々の笑顔で快諾してくれた。
「はい、まかせてください。わたしのインターネット検索で見つけられない情報はありません。少しだけお時間をください。」
彼女はガッツポーズでやる気を示すと、ものすごい速さでパソコンを操作し始めた。
そんな彼女の勇姿を見ると、つくづく仕事上のパートナーでよかったと思う。さっきのガッツポーズは、自信がなければ出来ない行為だろう。どうやら俺は安心して待っていられるようだ。
「先生!これを見てください。」
「もう何かわかったのか?」
俺は鏡子くんに促されるがまま、パソコンのディスプレイを見つめた。
そのディスプレイには、カラフルな色で制作されたホームページらしきものが表示されている。くまなく見据えると、被害者の名前である“中谷晋一郎”の文字が記載されていた。
「鏡子くん、これは?」
「このサイトには、渋谷で活動するチームがいくつも記載されています。この“渋谷ラッキースター”というリンクを辿ると・・・。」
彼女はマウスを手際よく扱い、その先にあるホームページを呼び出した。
「見てください。被害者の中谷が参加していたチーム、渋谷ラッキースターのホームページです。大手のプロバイダーへホームページを設置していますね。アクセスカウントもまずまずといったところかしら。」
俺は知ったかぶりして、彼女の話に真顔でうなずいていた。
「どうやら管理人は面倒くさがりな性格のようですね。まだ中谷のことを残したままにしてますから。そのおかげで、検索が早くマッチした点では運がよかったです。」
彼女の口から出てきたインターネット用語を、俺は果たしてこのまま鵜呑みにしてもいいのだろうか?
俺は昔、まだ麻雀を覚えたての頃、友人が教えてくれた嘘のテクニックを鵜呑みにしてしまい、大負けした経験がある。
振り返ってみると、とても悔しい思い出の一つだが、今はそんなことはどうでもいい。
とりあえず俺は、鏡子くんのマウス操作に従うままに、中谷のいたチームの詳細を参照していった。
「なるほどな。このチームのメンバーに接触してみる価値はあるようだ。もしかすると、加奈のことを知っているヤツがいるかも知れない。」
「そうですね。先生は、その辺りから当たってみたらいかがですか?」
何はともあれ、鏡子くんの努力によって明日への活路を見出すことができた。彼女には本当に感謝せねばなるまい。
「明日また渋谷へ行ってみるよ。申し訳ないが、君は明日は、事務所で留守番をしてくれないか。何かわかり次第、すぐ調べてほしいことがあるかも知れないからね。」
「・・・は、はい、わかりました。」
鏡子くんは少しだけ表情を曇らせていた。
調査報告をするさっきの姿からして、彼女はやはり、現場調査に行きたい気持ちが強いのだろうか。
「鏡子くん、本来は調査に行ってもらいたいところだが、ここはガマンしてくれ。現場調査は危険を伴うことにもなる。万が一、君に何かあったりしたら一大事だからね。どうかその辺の事情、わかってくれないか?」
俺の切実な説得を受け入れた鏡子くんは、前日と同じく可憐な笑みをこぼしてくれた。
「わかっています。ご心配いただいて、とてもうれしいですわ。」
彼女の魅惑な仕草を目にすると、俺の理性がどこかに吹き飛びそうになってしまう。しかし、彼女はあくまでも仕事上のパートナー、間違ってもそんなことを想ってはいけない。
俺は頭に浮かんだ雑念を、見えないトンカチで叩き壊していた。
「先生。わたし、そろそろ失礼しますね。明日はいつも通りに事務所へ来ますので。それでは、おやすみなさい。」
鏡子くんはそういい伝えると、芳しい香水の香りを漂わせながら事務所を後にした。
俺は不本意ながらも、その日の夜、何とも不謹慎な夜を迎えることになってしまった・・・。