調査初日 ~男の存在
若者の街、渋谷。
この街を行き交う若者達は、ここ最近の不景気をまったく感じさせないほど歓喜と快楽に満ちている。
どんな楽しい夢や希望を持って、この毎日を生きているのだろうか?社会に出るまでのわずかな期間、そのわずかな時間に、若者達はみな、果てしないほどの情熱を注いでいる。
ここ渋谷には、そんな行く末を不安視する生き様が、街中のいたるところに散らばっているのである。
俺は賑やかな街並みを歩きながら、対象者である家出少女の軌跡を追う。
彼女はどうも、渋谷のセンター街にある衣料品店に顔を出していたそうだ。この情報は、依頼人である母親からのものだ。
娘が家を飛び出した後、部屋に何か痕跡がないかくまなく探していたところ、ゴミ箱の中から、衣料品店のポイントカードを偶然見つけたらしい。
女子高校生という年代なら、買い物するしないに問わず、その衣料品店をよく訪れていたかも知れない。何かしら、手がかりが得られることを期待しよう。
「ここのようだな。入ってみよう。」
俺はその衣料品店へと足を踏み入れた。
薄暗い店内には、お客である若者達のハートを躍らせるかのように、流行のカジュアルな衣装が壁いっぱいに飾り付けてあった。
すでにオレが入店したときも、十人ほどの若者が目を輝かせて、カラフルな衣装を手に取っては物色していた。
「いらっしゃいませ。」
レジ係の二十代前半の男性店員が、入店してきた俺に気のない声を投げかけてきた。
キャップ帽からはみ出す茶髪に、耳たぶで光っているピアスが、今風の若者であることを象徴していた。
「俺はこういうものだが。」
俺は嘘偽りなく、正々堂々と調査を遂行する男だ。その場の状況次第では、正体を隠す場合もないとはいえないが、俺はいつも通りに、正々堂々と自分が探偵であることを明かした。
「へー、探偵さんですか?その探偵さんがウチに何か用?」
探偵という存在が珍しいのだろうか、その店員は興味津々な態度を示してきた。
「買い物客じゃなくて申し訳ないが、少しばかり協力してほしい。いいかな?」
俺はそうお願いしつつ、上着のポケットから一枚の写真を取り出した。
「この写真に写っている女性に見覚えはないか?」
その店員は写真を手にすると、対象者の容姿をまじまじと見つめながら、ひたすら唸り声を上げている。
「どうだ、見覚えないかな?この店で買い物をしたことがあるんだが。」
「う~ん、見たことある気はするんだけどなぁ・・・。で、この女の子がどうかしたの?」
俺はどんなときでも、どんな場所においても、調査のいきさつを軽率に口外したりはしない。
万が一、彼女がトラブルに巻き込まれていたとしたら、ここで漏らした話によって、彼女を身の危険に晒してしまう恐れがあるからだ。
だから俺はこういうとき、目的をぼかしたような言い方ではぐらかすようにしている。
「ああ、たいしたことじゃない。ただの素行調査だ。普段の行動を記録しているだけなんだ。」
彼女が下校時にどこへ寄り道して、どこで買い物をして、そしてどこで誰と遭っているのか、そんな素行について調べているのだと、俺はその店員に事細かく伝えた。
このうまいこじつけが功を奏したのか、その店員は疑うこともなく、この俺に憧れの眼差しを送っている。
「へー、さっすが探偵さんだね。実は俺さ、一ヶ月前から働いてるから、買い物客のことはよくわからないんだ。もしかしたら、店長なら知ってるかもね。」
「店長は今いるのか?」
「いや、今日は夕方からの出勤なんだ。だから、また後で来るといいよ。」
この店員の言う店長なら、何か手がかりになる話が聞けるかも知れない。
俺は応対してくれた店員に、後でまた来訪することを告げると、いったん衣料品店を後にすることにした。
「さてと・・・。」
俺はタバコに火をつけると、アナログ式の腕時計に目をやる。
「夕方までかなり時間があるな。それなら学校の方にも行ってみるか。」
俺は夕方までの貴重な時間を持て余すことなく、彼女が通っている学校へと足を向けることにした。
◇
対象者である加奈の通う学校は、渋谷の街からさほど離れていない場所に存在する。依頼人である母親からの話では、加奈は家出して以来、一度も学校には登校していないそうだ。
渋谷の街を離れること三十分ほど、俺は某私立高校へと辿り着いていた。
校門のそばには、八分咲きほどの桜の木が顔を覗かせて、春風に吹かれた花びらがゆらゆらと空中を舞っている。
この桜の咲き具合を、いつも登校時に眺めていたであろう加奈は、果たして今ごろどこにいるのだろうか・・・。
「さてと、聞き込み開始といくか。」
俺にとって、高校生への聞き込みはいささかやりにくい。
最近の高校生のパワーは目に余るものがある。いざ聞き込みを始めると、どうも若者特有のペースにはまってしまい、肝心の調査が一向に進まないこともしばしばあるからだ。
今日は乗せられないよう気をつけようと、俺は心の中でそう自分自身に言い聞かせる。
「探偵!?へー、イメージと違~う!」
「えー探偵?始めて見たぜ!なかなかっこいいじゃん!」
「何か用?あ、わかった!さてはあんた、新手のナンパ師でしょ?」
「何だアンタ?こっちは用なんてないぜ。じゃーなー。」
結果は最悪だった・・・。どいつもこいつも、俺の話をまともに聞いてもくれない。まあ予想はしていたが、この収穫のなさにさながら嘆くばかりだった。
俺のような見知らぬ男が、校門付近で高校生に声を掛けまくっていたせいか、とうとう厄介な人物を登場させてしまった。
「ちょっとあなた!そこで何をしているのですか!?」
甲高い怒鳴り声を上げながら、凛々しい表情の女性が校庭から駆けてくる。そして彼女は、まくし立てながら俺のもとまでやってきた。
「あなたはいったい誰ですか!?この学校の生徒に何の御用ですか!?」
あらぬ方向に誤解されてしまうと後からが面倒だ。
えらい剣幕で怒号を発するこの女性を、俺は必死になってなだめようとする。
「待ってくれ。俺は怪しいものじゃない。まずは俺の話を聞いてくれないか。」
話し方や風貌からして、この女性は学校の教師に違いないだろう。それにしても、大きな定規持参でここまでやってきたのは、さすがの俺も度肝を抜かれた。
「この期に及んで言い逃れする気ですか?とんでもない人ですね!警察に通報しますわよ!」
おいおい警察なんて、そんな物騒なものはできる限りお断りしたい。
俺はそれだけは阻止しようと、手帳から素早く名刺を取り出して、取り乱した女教師の目の前に突きつけた。
「俺は探偵だ。だから落ち着いてくれ。」
「えっ!?」
狂乱していた女教師が一瞬たじろいだ。それでもにらみは利かしたままで、警戒心までは解いてくれない様子だ。
「どうして探偵がこの学校に来たのですか?」
俺はここまでの経緯を、彼女に事細かく説明した。
家出少女のことを知っていたのか、彼女は表情を青ざめながらも、俺のことを信じてくれたようだ。
「彼女のことで・・・。これは大変失礼しました。ここでは何ですから、どうぞ校舎の方へ。」
その女教師に促される格好で、俺は某私立高校の敷居をまたぐことになった。
◇
この某私立高校は、東京都内でも中レベル、文武両道を重んじるそれなりに名の知れた学校だ。
すれ違った生徒たちの大半は、この俺にさわやかなあいさつを交わしていた。生活指導が行き届いている証拠なのだろう。
女教師に導かれるがまま、俺は校舎内の応接室まで案内された。
堂々と居据わる本皮製ソファーに腰掛けると、女教師は起立したままで、俺に対して腰を低くしながら謝罪を申し出る。
「先ほどは申し訳ございません。わたくし、生活指導担当という立場から、生徒達に何かあったらと思うとつい我を忘れてしまうようで。改めてお詫びいたしますね。」
その女教師は謝罪を終えるなり、簡単な自己紹介をしてくれた。
「わたくし、この学校の教員を務めております神鳴瞳と申します。わたくし、実は大林加奈さんの担任でもあるのです。」
かしこまったあいさつをする、目の前の神鳴と名乗る女教師。
ハイヒールを履いているせいか、身長は見た目よりも高く、長い髪の毛を後ろで結い、化粧も薄く清潔感を感じさせる。
たるみのないスーツを着こなし、短めのタイトスカートから伸びる美脚を見る限り、さっきの暴走行為などとても想像できない。
細く切れ長の瞳で俺を見つめる姿は、不謹慎にも、色気という言葉を匂わせるそんな女性だった。
「率直に伺いますが、加奈さんが家出するような理由、学校では何かあったんでしょうか?例えば、いじめにあっていたとか、学業で落ち込んでいたとか?」
神鳴は失礼しますとばかりに、俺の向かい側のソファーへ腰を下ろした。
「わたくしの知る限りでは、そのようなことはありませんでした。ですから、加奈さんのお母様からこのお話を伺ったときは、正直なところ愕然としてしまいました。」
神鳴の話では、加奈はとても真面目で立派な学生だったようだ。
日頃から勉学に取り組み、成績も高順位に在位し、スポーツにおいても優秀で、友人も多くクラスでも人気者だったという。そんな非の打ちどころのない彼女が、なぜ家出を・・・?
ここでの証言を踏まえるなら、家出の原因は学校内のトラブルではなく、それ以外のトラブルの可能性が高いだろう。
俺は許可をいただいたタバコを堪能しながら、そんなおぼろげな推理をしていた。
「すいません、先生。加奈さんの友人を紹介いただけませんか?もう少し、彼女のことについて詳しく知りたいですから。」
神鳴は整った美顔で快く承諾してくれた。
「少々お待ちくださいね。」
彼女が席を外してから数分後、彼女は一枚のレポート用紙を持って戻ってきた。
「わたくしの知る範囲で、加奈さんの友人の詳細をここに記載しておきました。」
神鳴が手渡してくれたレポート用紙には、一人の女性の名前、そして住所と電話番号が明記されていた。
「この生徒には、わたくしの方から前もってお話しておきますので訪ねてみてください。明日なら土曜日ですし、午後であれば彼女も自宅にいるでしょう。」
親切丁寧に協力してくれた神鳴に、俺も丁寧な姿勢でお礼の言葉を告げる。
「ありがとうございます。それでは、そろそろ失礼します。」
「いいえ。こちらこそ、あまりお役に立てずに申し訳ありません。もし何かあればお知らせいたしますので。」
俺は自らの名刺を神鳴に手渡してから、黄昏色に染まり始めた学校の校舎を後にする。
「お、もういい時間だな。」
時計の針を見る限りもう夕方だ。俺はこの足のまま、さっき訪ねた渋谷の衣料品店へと舞い戻ることにした。
* ◇ *
見渡す景色はすっかり夕焼け空、儚い心を映し出すかのような真っ赤な落日だ。
渋谷のセンター街は、この時間でもまだ賑わいを見せている。
さっきまでと違って、通り過ぎる人々の年齢層も若干変化し、お疲れモードな企業戦士の軍勢が、癒されることのない自宅という城へ帰還する姿が見受けられた。
そんな虚ろな影とすれ違いながら、俺は日の沈み始めた街中を歩いていく。
俺は約束した通り、さっき訪れた衣料品店の前までやってきた。時間が時間だけに、お客の姿も少なくなっているようだ。
閉店の準備だろうか、窓越しに見える店員達は、いそいそと売り物の整理に追われていた。
俺はそんな店内に、歩き疲れただるい足を一歩踏み入れる。
「いらっしゃいませ。」
俺の姿を見て声を掛けた男性店員は、さっきの無気力な若い店員ではなかった。
金髪に染めた長い髪の毛に、偉そうに生やしたあごひげ。この醸し出す貫禄は間違いない。彼こそ、この店の店長であろう。肩からぶら下げたお店のロゴ入りのエプロンが、それを物語っていた。
「すみません、ちょっとお尋ねしてもいいですか?」
「はい?」
俺は迷うことなく名刺を差し出した。
「ああ。お待ちしておりました。」
その男性は名刺を見るなり、俺の存在を快く受け入れてくれた。どうやら、さっきの店員が話を通してくれていたらしい。
「申し訳ないけど、奥の方まで来てもらえませんか。」
店長は招き入れるように、俺を店内の奥へと案内した。
その奥にある部屋は店員の控え室のようだ。どうも倉庫の役割もあるらしく、大きな段ボール箱やハンガーに掛かった衣装が無造作に置かれていた。
プラスチック製のテーブル席に、俺と店長は向かい合って腰を下ろした。
「わざわざ戻って来ていただいてご苦労さまでした。俺がこの店の店長です。よろしくお願いします。」
「こちらこそ。何の前触れもなくお邪魔してしまって。俺は探偵の藪鬼と申します。ちょっとお聞きしたいことがありまして。」
「どうぞ、何でも聞いてください。」
店長は落ち着いた感じで、あごひげを手で弄びながら聞く体勢に入ってくれた。
俺はお言葉に甘えて、加奈のことを知っているかどうか、彼女の写真を見せながら店長に尋ねてみた。
「この女の子、ご存知でないですかね?」
俺はそこに写る彼女を見るたびに、明るくてかわいらしい満面な笑顔がとてもいじらしく思えてしまう。
「あ、ああ。」
数秒ほど写真を見つめていた店長が、何かを思い出したように小さく口を開いた。
「知ってますか?」
「ええ。よく来るお客さんでしたよ。たしか、加奈ちゃんだったかな?」
店長は加奈の顔のみならず、名前まで知っていた。彼女はそれなりな常連客だったと見える。
「ええ、そうです。名前は大林加奈。最近、彼女を見たのはいつか覚えてますか?」
俺は店長に立て続けに質問をぶつける。
対象者の存在を知る人物には徹底的に質問する。これが探偵における調査マニュアルの一つなのだ。
店長曰く、加奈を一番最近見かけたのは、今から一週間ぐらい前とのことだ。
加奈が家出をしたのは三日前だったはず。つまり、店長が彼女を最後に見かけた日は、まだ彼女が家出をする前ということになる。
「その一週間前の彼女ですが、いつもと違うような感じはなかったですか?例えば、元気がなかったとか、見た目が違っていたとか、あと、いつもと違う人と一緒だったとか?」
俺の矢のような問いかけに、店長はハッとしたような表情を俺に向ける。
「そうそう!この前見たときは、そうだ、見たことのない男と一緒だったなぁ。」
「見たことのない男・・・?」
俺は探偵の七つ道具の一つ、システム手帳のメモ欄をサッとめくった。
「加奈ちゃんがここへ来るときは、いつも女の子と一緒なんですよ。まあ、この店は女の子向けの衣装が多いですからね。でもそのときは、なぜか男性と一緒でしたね。しかも、ちょっとガラの悪いヤツでしたよ。」
なるほど、ガラの悪い男と一緒か・・・。彼女の家出に関わっている可能性は否定できないだろうな。
俺はそれらを聞き漏らすことなく、システム手帳にスラスラとペンを走らせる。
店長がその男に見覚えがないとなると、彼から聞き出せる情報はこんなところか。それでも、有力な情報を手に入れたことに違いはない。
「どうもありがとう。役に立ちました。」
「いえいえ。それより加奈ちゃんに何かあったんですか?バイトからは、行動を監視するための調査だって聞いたけど、今の質問からして、そんな感じがしなかったもんだから。」
この店長、なかなか勘の鋭い男のようだ。このまま警戒心を抱かせてしまうと面倒なことになりかねない。
不意に勘ぐりをされるぐらいなら、いっそすべてを打ち明ける手もあるだろう。ましてや、彼はこれからの調査にも役立ってくれるかも知れない。
そういう結論に行き着き、俺は事のすべてを店長に包み隠さず話すことにした。彼は信用できる、俺はそう判断した。
「・・・そうだったんですか。わかりました。俺もできる限り協力しますよ。」
そう約束してくれた店長に、俺は自らの名刺を手渡した。
「それじゃあよろしく。」
衣料品店を後にした頃、渋谷の街はもう夜の帳を下ろした後だった。それでも、商店やビルを飾るネオンが輝いて、街の暗がりを明るく照らしていた。
事務所まで帰宅する途中、俺は今日一日の成果を頭に描いていた。そして、明日からの調査のために、さまざまなキーワードを整理していた。
家出少女加奈・・・。担任の教師が言うには、彼女は学校では一目置かれていたようだ。
いじめや学業不振といった理由で家出したわけではない。そうだ。彼女の家出の原因は、学校内ではなく他のところにあるはずだ。
さらに、行きつけの衣料品店に訪れた、彼女と一緒にいた謎の男性の存在。無論、この男性の正体は不明のままだ。
「よし、今日の調査はこんなところか。」
明日からの調査方針をシステム手帳に書き込むと、俺はまばゆいネオンサインで溢れるコンクリートジャングルへ足を向けていた。
* ◇ *
『プルルルル・・・プルルルル・・・』
ん、この着信音、俺の携帯電話か?
『プルルルル・・・プルルルル・・・』
うるさいなぁ。誰からだ?・・・事務所かっ!?
「もしもし、鏡子くんか?」
俺は携帯電話を手に、声を裏返しながら呼びかけた。
「はい、そうです。先生今どちらですか?」
「え?ああ。まだ調査中なんだ。」
「そうですか。わたしはまた、てっきり雀荘かと思ってましたが?」
ギクッ・・・!!
「ま、まさか、そんなわけないだろう、ははは。ところで何かあったのかい?」
「はい。つい先ほどですが、クライアントからお電話がありまして。できれば連絡が欲しいと申されておりました。」
ちなみに、クライアントとは専門用語で依頼人のことだ。彼女はやたら横文字を使うから困ってしまう。こう見えても、俺は学生時代英語が大の苦手だったのだ。
「そうか、わかった。悪いけど電話番号を教えてくれないか?」
鏡子くんが教えてくれた電話番号を、俺は手元にあった点数表に書き込んだ。
「ありがとう。そうだ鏡子くん。もしだったらもう上がってもらって構わないよ。俺はあと二時間ぐらいかかりそうだから。」
「はい、そうさせてもらいます。先生、あまり無理しないで下さいね。どうせ負けているでしょうから。」
鏡子くんのねぎらいの言葉、かなりトゲトゲしかったな。やはり彼女に嘘はつけないらしい。実際、麻雀してるし。しかも、しっかり負けてるし・・・。
「おいおい、先生。点数表に変なもん書くなよ。あんた負けてるから、わざといたずら書きしやがったな!」
「違うって。ちょっと急ぎで電話する用事が入ったからいったん席を外すよ。言っておくが、まだ勝負はついてないぞ。今日は絶対に俺が勝つんだからな。」
俺は他の面子にそう豪語しながら、駆け足で雀荘から飛び出していく。
『プルルル・・・』
それにしても、なぜ依頼人から連絡が来たんだろう?
まさか、娘が帰ってきました、とかいうふざけたオチじゃあるまいな。せっかくいい仕事だったのに、ここで調査が終わってしまったら、ここまでの苦労が水の泡になってしまう。
俺は心でぶつくさ言いながら、雀荘の入居したビルの片隅で依頼人宅へコールし続けた。
十回ほどコールした後、ようやく相手側の受話器が上がった音が聞こえた。
「もしもし?わたし、藪鬼探偵事務所の藪鬼です。」
「あの、どういったご用件でしょうか?」
電話の相手に、いきなり素っ気なく返事されてしまった。しかも、その声を聞く限りあの依頼人の声ではない。だが、女性の声であることは間違いなかった。
「あの、そちら大林さんのお宅ですよね?加代子さんはいらっしゃいますか?」
「は、はい。奥様ですね。す、少しお待ちください。」
やけにおどおどしている女性だ。この話し方からして、彼女は多分メイドか何かだろう。やはり、依頼人はかなり裕福な暮らしをしているようだ。
「はい、お電話代わりました。探偵さんですか?すみませんね、わざわざお電話をいただきまして。」
「あ、いいえ、とんでもない。それより電話を出られた方は、メイドさんか何かですか?」
「ええ。使用人です。もしかして失礼でもありましたか?彼女は従事したての見習いでして。他の使用人はもう帰宅しておりましたので、致し方なく電話を応対させましたの。」
どうやら依頼人宅には、さっきの女性以外にも使用人が存在しているらしい。何ともうらやましい限りである。
「あ、それより、何かありましたか?」
俺は平静を装うも、依頼人からどんな答えが返ってくるのか、内心ドキドキしていた。
“娘が帰ってきた”という答えだけは極力避けたいが、それが双方にとっても一番いい答えなのはわかっていた。
俺も本心では、できればそうであってほしいと願っている。しかし、こっちも生活がかかっている。依頼が中途半端に解決してしまうと、ここまでの努力がすべて無駄骨になってしまうのだ。
できることなら、俺が娘を探し出して自宅まで無事に送り届ける。そして成功報酬をしっかり受け取る。これこそが、俺の理想ともいえる解決手段なのである。
「何かありましたかって、それはこちらのセリフですよ。娘のことで何かわかりました?」
「え?」
どうも俺の取り越し苦労だったようだ。依頼人は、俺の調査結果を知りたがっていただけだった。
まったく、ヒヤヒヤさせてくれる・・・。俺は心の中で、大きな溜息を漏らしていた。
「大林さん、お気持ちはわかりますが、ご承諾いただいた際にもお話した通り、調査報告は一週間後にそちらへお届けすることになっています。それまでは、特別なことがない限り報告はできませんので。」
当探偵事務所の約款について、俺は言い聞かせるように丁寧に述べた。しかし、依頼人は素直に応じてはくれない。
最愛の娘の失踪という事実が、彼女をここまで追い込んでしまったのか、彼女はかなりの苛立ちをあらわにしていた。
「何でも結構ですから、教えてくださいよ!もしかしてあなた、本当は娘の居場所を知っているんじゃありませんの?まさか、娘に口止めされているんじゃないでしょうね!?」
依頼人は怒鳴り声で、とんでもないことまで口走っていた。
俺はこのとき、もし娘を見つけていれば、とっととそっちへ引き渡してがっぽり報酬をもらっていると、声を大にして叫びたかった。
「落ち着いてください。わたしは嘘はついていません。まだ調査初日ですから、娘さんに接触すらできていませんよ。そんなにあっさり見つかるぐらいなら、あなたの方で見つけているんじゃありませんか?」
俺も苛立ちのあまり、少しだけ語気を強めて物申した。
温厚な性格を売りにしている俺は、こういった状況でも感情的にならないように気をつけている。だが、今回は少しばかり感情を高ぶらせてしまったようだ。
俺は彼女を納得させるため、とりあえずここまでの成果をかいつまんで報告した。その甲斐もあってか、彼女はようやく落ち着きを取り戻してくれたようだ。
「そうですか、わかりました。」
「調査は明日も続きます。娘さんはきっと見つけ出します。だから、もうしばらくお時間をください。」
俺は精一杯の誠心誠意を示して、彼女との取り留めのない長い通話を終えた。
「ふぅ。明日またがんばるとするか。」
俺はすっかり気分が萎えてしまい、麻雀を続けることなく、このまま事務所へと帰ることにした。
今夜はかなり負けていたから、逃げられたと思われたかも知れないな・・・。