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プロローグ

 俺はタバコに火を灯した。

「ふぅー・・・。」

 今夜のタバコは、昨夜のものに比べると不思議なほどうまく感じる。

 それもそのはずだ。数日間にも及んだ家出人捜索依頼に、ようやくケリがついたからだ。

 さすがの俺も、今回の調査は手を焼いた。何せ、ただの家出人捜索のはずが、殺人事件にまで関わってしまったのだからな。この世の中、まったくどうなっているのやら。

 ここは東京都某所、十五階建て雑居ビルの十階にある探偵事務所だ。ブラインドを上げた窓には、遠景ながらも光るネオンが、この俺の疲れた目にまぶしく映っている。

「さてと、そろそろ寝るとするか。」

 俺は就寝のため、事務所の中にある私室へと向かう。

 そんな俺の目に、ソファーに置いてある赤いファイルが視界に入った。それは、今回の調査結果をまとめた報告書が綴じてあるファイルだ。

 俺はおもむろに、その赤いファイルを手にして、調査報告書を一枚一枚めくってみた。

 どっかりとソファーに腰掛けた俺は、胸ポケットからタバコを一本取り出し、そして、お気に入りのジッポライターから揺らぐ炎を目の前に熾す。

「ふぅー・・・。」

 調査報告書を丁寧にめくりながら、俺は眠ることも忘れて、今回の調査依頼のすべてを思い起こしていた。


* ◇ *

『コンコン・・・』

 何者かが、俺の私室のドアをノックしている。やさしく、しかもリズミカルなノックだ。

 これは間違いない、彼女がやってきたようだ。

 俺は重たいまぶたをこじ開けると、凍りついたような固い上半身を起こした。

「もう朝か・・・。」

 私室の窓を覆うカーテンの隙間から、暖かい日差しが差し込んでいる。

 季節は春だ。その日差しはあまりにも穏やかで、淀んでいた俺の私室に心地よい息吹を送り込んでいる。

 そんな春の陽気を全身で受け止めながら、俺は私室のドアをゆっくりと開けた。

「おはようございます。先生。」

 俺にキチンと朝のあいさつをするこの女性、今朝もクールな視線を送っている助手の鏡子くんだ。

 肩まで伸ばした艶のある髪、薄めの桜色したリップ、そして、仕事をテキパキこなしそうなインテリメガネ。彼女の印象はざっとこんなところだ。

 彼女の仕事は、主に総務経理業務を担当してもらっている。もう一つ付け加えるとしたら、事務所内の整理整頓もある。

 この事務所のカーペットや書棚の隅々がきれいなのは、言うまでもなく彼女のおかげなのである。

 俺はここ最近、彼女の声で目覚めることが多くなってきた。傍目で見たら、俺達二人は怪しい男女関係も想像されてしまいそうだが、実際のところは・・・。

「ああ、おはよう。鏡子くん。いつになく早いご出勤だね。さては、夜八時には消灯ってヤツかい?」

「コーヒー入れておきましたよ。」

 俺のお茶目なジョークは、彼女の冷ややかな一言であっという間にかき消されてしまった。

 この白けた雰囲気をはぐらかそうと、俺は乾いた笑みを浮かべつつほろ苦いコーヒーを口につけた。

「先生。つい先ほどですが、女性の方からお電話がありました。調査のご依頼のようでした。」

 お目覚めにいきなり仕事の依頼とは・・・。

 まあ、ここ東京という街はそう容易くひまを与えてはくれない。そのおかげで、こんなしがない商売柄の俺でもなんとか生活していけるのだが。

「それで、先方はどうすると?」

「はい。今日の午前九時にお見えになるそうです。」

 俺は肘つき椅子に腰掛けると、コーヒーを味わいながら、デスクの上にある置時計に目をやった。

 アンティークな古い置時計は、今日も正確な時刻を刻んでいた。

「そうか。あと一時間ほどで来るのか。」

 コーヒーをグイっと喉に流し込むと、俺は新しい仕事を迎えるために、私室へと舞い戻っていった。

 

 俺は私室にて身支度を整えていた。

 依頼人に信頼してもらうには、何よりも、それ相応な姿勢や格好がある。

 俺は普段からキチンとしているわけではないが、依頼人と初対面で折衝するときは、必ずスーツを着用するようにしている。というか、そうしないと鏡子くんが何かとうるさいのだ。

 俺はしまっておいた紺のスーツと、犬のプリントをあしらったエンジ色のネクタイをタンスから引っ張り出した。センスはよくないが、いい仕事がもらえるようにと、ちょっとした願掛けみたいな理由でこれを選んだ。

「さてと。」

 ぼさぼさの髪の毛を直してから、事務所内のデスクに戻った俺は、二杯目のコーヒーをいただきながら朝刊に目を通す。

 役立たずばかりの貪欲な政界の記事や、いまいち興味の湧かない芸能界の痴話話をすっ飛ばし、俺は相も変わらず減少の一途を辿らない犯罪記事にばかり目を向けていた。

 今朝の朝刊に興味の引く記事はあるだろうか?俺はゆっくりと、新聞の関連記事欄を目でなめ回していた。

「なになに・・・。牛乳配達員を装い、配達所のヨーグルトを盗んだ男が逮捕。逮捕されたのは、住所不定の飛龍影、三八歳。」

 まったく、いい年齢のくせに窃盗とはせこい男だ。俺は呆れたような溜息を漏らした。

「ん?」

 俺はある殺人事件の犯罪記事に目が留まった。

「一八歳少年刺殺される・・・か。」

 その事件の詳細は次のようなものだ。

 昨夜九時過ぎ、都内渋谷区のNビル裏で一八歳の少年が胸を鋭利な刃物で刺されて死体で発見された。争った形跡はなく、金品に手をつけていないことから、警察は営利目的の犯行ではなく、何かのトラブルに巻き込まれた可能性があると見ている。

「この少年は生前、渋谷区を中心としたチームに所属しており・・・。」

『ピンポーン・・・』

 事務所内に呼び鈴の高音が鳴り響いた。これは、何者かが事務所を訪れたことを意味している。

 置き時計に目をやると、時刻は九時三分前だった。どうやら、さっき鏡子くんの言っていた依頼人のご登場というところか。

 鏡子くんは慌てる素振りもなく、玄関までお迎えに向かった。

 俺も手に持っていた新聞を折りたたみ、散らかっている机の上に放り投げた。

「先生、先ほどの方がお見えになられましたので、応接室にお通ししました。」

 この応接室は、事務所から隔離された別室となっている。

 言うまでもなく、依頼の内容は単純なものから、人に言えないような陰気くさいものまで多岐に渡る。

 初対面の依頼人を応接室へ通す理由は、外部に音が漏れない別室であれば、依頼人も心を許して話がしやすくなるという配慮からである。

 俺はゆっくりと腰を上げると、気合いを込めるように両腕をグルグル回しながら、依頼人の待つ応接室へと向かった。

『コンコン』

「失礼します。」

 俺は会釈しながら、応接室のドアを静かに開ける。

「どうか、よろしくお願いしますわ。」

 俺の目に映った依頼人、年は三十台後半から四十台前半で中肉中背の女性。首からぶら下げているパールのネックレスや、指につけているシルバーの指輪を見る限り、有り余るほどの裕福な生活ぶりが窺い知れる。

 彼女の顔色に注目すると、冴えない表情で少し落ち着かない様子だ。はてさて、いったいどんな依頼をしてくるのだろうか?

「ようこそお越しくださいました。わたくし、当事務所の所長の藪鬼寛樹と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」

 俺はいつものように、いつも通りの丁重なあいさつで切り出した。

「どうも。」

 依頼人は、俺と目を合わさないままあいさつを交わした。少しばかり緊張しているのか、視線は応接室の至る方向へと飛んでいた。

「ご安心ください。当事務所は秘密は必ず守ります。あなたのお話した内容は公表されることはありません。あなたのプライバシーは保護されますので、何なりとお話ください。」

 依頼人の緊張をほぐすために、俺は常にこのような会話をしている。調査においての聞き込みのときでも同様だ。

 どんな依頼人も、後ろめたいことや負い目を持ってここへやってくる。それを仕事という名の下に無闇に口外したり、ましてや公表することなどもってのほかだ。

 これこそが、探偵という商売の鉄則でもありモラルでもあるのだ。

「それは助かりますわ。」

 依頼人の表情が、少しだけ落ち着いたように見える。どうやら、定番とも言える俺のセリフもムダではなかったらしい。

「すみません。タバコ吸ってよろしいですか?」

「ええ、どうぞ。」

 俺は、愛煙しているマイルドセブンを胸ポケットから取り出し、この張り詰めた空気に身を任せながら、くわえたタバコに火を灯した。

「では、お話いただけますか?」

「ええ。わたし、大林加代子と申します。実はうちの娘が、三日前に家を飛び出してしまって、今日まで連絡が取れないんですよ。わたしもう心配で心配で、どうしたらよいものか・・・。」

 娘の失踪について話を切り出した依頼人。ところが、彼女の表情から、娘の身上を案じる感情が伝わってこない。無理やり平静を装っているのか、それとも・・・?

「警察へは通報しました?」

「いいえ。知人に聞いたところ、警察に捜索願を出しても、家出人捜索は後回しにされるそうで。そこで頼むのであれば、探偵事務所の方がよいと聞いたものだから。」

「そうでしたか。おっしゃる通り、警察は重大な事件を優先的に捜査する方針ですからね。家出のような事件性のないことに関しては、警察はまともに捜査してくれないのが現実です。」

 この事務所を尋ねたことが正解だったと言わんばかりに、警察という公務執行機関がずさんな体制で運営されていることを、俺は依頼人にかいつまんで説明した。

「そんなことどうでもいいわ。すぐにでも捜索してくれます?お金ならすぐにでもお支払いするわ。」

 何ともあっさりそう申し出る依頼人。探偵業界の価格相場を知っていての発言なのだろうか?

 俺は言い淀むことなく、あくまでもビジネスライクで応対する。

「ありがとうございます。娘さんの捜索は、わたくし藪鬼にお任せください。必ず娘さんを見つけ出しますので。」

 俺は依頼人を安心させるため、そして元気付けるために自信満々にそう宣言した。

「よろしくお願いしますわ。それで料金は?」

 依頼人は表情を緩めることなく、事を早く進めようとする。俺の方も商売が絡むだけに、物怖じしている場合ではない。

「当事務所では、基本的に一週間単位でコースが決っておりまして。詳しくはこちらをご覧下さい。」

 俺は目の前にいる生活の糧、いや依頼人に、コースやプランについて事細かに説明した。

「それじゃあ、とりあえず一週間コースでいいわ。」

 依頼人は価格に驚く様子も見せず、迷うことなくあっさりコースを決めてしまった。どうやら、金銭面はまったく気にならないようだ。

「かしこまりました。それでは、一週間コースでご依頼ですね。万が一、何かトラブルにより一週間で調査が完了できない場合は、事前にご連絡しますので。では、こちらの書類に必要事項をご記入ください。」

 いざ依頼をゲットできる思うと、俺は不謹慎にも心の中で喜んでしまう。それは当然のことだ。ここで依頼を蹴られてしまったら、俺はしばらく豪勢な料理にありつけないからだ。

 そうは言えど、依頼人は辛い現実や悲しい事実、悩んでも悩みきれない心配事を背負って俺のもとにやってくる。だから、俺は依頼人に卑しい心の中を晒すことなど当然できない。

「確かに受け取りました。どうもありがとうございます。」

 俺は依頼人から書類と手付金を受け取った。

 やばい・・・。思わず笑顔がこぼれそうになる。俺は必死に、こみ上げてくる喜びを押し殺していた。

「娘さんの写真か何かはお持ちですか?あと娘さんのお名前も教えてください。」

「娘の写真はこれです。名前は加奈といいます。年齢は一七歳、高校二年生ですわ。」

 俺の手にした写真には、加奈と呼ばれる女の子の笑顔が写っている。

 少しだけ茶色がかった髪の毛を伸ばし、春らしいピンクのカーディガンを着こなした愛らしい顔立ちの女の子だった。

「加奈さんですね。この写真はお預かりさせていただいてよろしいですか?」

「ええ、どうぞ。」

 俺は写真と一緒に、家出少女である大林加奈の詳細を手に入れた。彼女のおおよその身長、よく遊びに行く場所、通っている学校、その学校の住所など。

 これだけの情報がそろえば鬼に金棒というヤツだ。

「それではよろしくお願いするわ。できる限り早く、必ず娘を見つけてくださいね。お金ならいくらでも支払いますから。」

 依頼人は見せびらかすように、耳元で光るパールのイヤリングに手を触れた。

 お金に糸目をつけないところを見ると、家出した娘のことがよほど心配なのだろう。しかし、この冷め切った表情と物腰はどういうことだ・・・?

「かしこまりました。いいお知らせができるよう精一杯努力しますので、どうか安心してお待ちください。」

 俺は誠心誠意をもって、律儀な姿勢でそう約束した。それを聞いた依頼人は、軽く会釈するとそそくさと応接室を出て行った。


「お疲れ様でした。いかがでした?」

 事務所のデスクに戻ってきた俺に、そう問いかけてきた鏡子くん。彼女も忙しくなるかどうか、気が気じゃなかったのだろう。

 俺は鼻歌交じりに、受け取った手付金を彼女に見せる。

「まぁ!正式な依頼ですね、よかったわ。」

冷静沈着な鏡子くんでも、事務所の経営を支える現金には、さすがに頭が上がらないといったところだ。

「ああ。これで今晩は豪勢なディナーにありつけるよ。鏡子くんは何か欲しいものはあるかい?」

 鏡子くんは、インテリメガネのレンズを光らせながら、満面の笑顔で語り始める。

「わたし、そろそろこのパソコンの買い換え時期だと思うんです。最近、事務処理ソフトがどうも動作不安定だったんですよ。このパソコンでは推奨スペック以下ですし、OSの古さも原因のひとつですから・・・。」

 また始まってしまった。鏡子くんのパソコン講座が・・・。彼女は筋金入りのパソコン通なのだ。

「この機に、もう少しハイスペックなパソコンを購入しませんか?CPUはペンティアムフォーの一ギガヘルツで、メモリは五一二メガバイトで・・・。」

 俺は申し訳ないが、パソコンはまったくのド素人だ。彼女が流暢に語っている専門用語は、俺にとっては単なる暗号として訳されている。まるで、外国人とお話している気分だ。

 というわけで、これ以上話を聞いても仕方がないので・・・。

「ああ、鏡子くん、わかった。とりあえず君の欲しいパソコンの金額を教えてくれ。買うか買わないか、それを見てから決めることにする。それでいいかい?」

「はい。かしこまりました。」

 ふぅ、これで一安心と、俺は思わず溜息を漏らす。

 それにしても鏡子くん、わざと難しい専門用語を並べている気がする。まさか俺の頭をパニックにさせて、強引に新しいパソコンを購入させようという魂胆なのだろうか?

 彼女の涼しい表情を見る限り、その辺りの企みはさすがの俺でも読みきれなかった。

「よし、それじゃあ調査開始といくか。」

 家出娘の居場所を突き止めるべく、俺は早々と調査へ向かうことにした。

 とりあえずどこから当たるか・・・?調査にとって重要なことは、まずどこから始めるかということだ。このスタートラインの見極めも、名探偵にとって重要なことなのである。

「まずはよく行く場所、渋谷に行ってみるか。」

 俺は鏡子くんに見送られながら、調査のスタートラインとなる渋谷へと足を運ぶのだった。

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