エピローグ
次の日の朝、渋谷で起きた殺人事件の全容解明のニュースが巷を駆け巡った。
実行犯である神鳴瞳の逮捕、そして、その殺人教唆の容疑と宝石密輸の容疑で、加奈の母親である大林加代子の逮捕、さらにその密輸に関与した疑いで、エドワールド社長の川内義郎の任意同行。
もうまもなく、太洋物産株式会社と株式会社エドワールドに強制捜査が入り、隠されてきたありとあらゆる悪事が明るみに出るだろう。
その重大ニュースは、この俺にとってはよくある新聞記事の一つに過ぎない。
それでも、この事件のために失われてしまった男性の命、そして、人生を脅かされて罪を犯してしまった悲しい女性のことを思うと、俺は胸を撫で下ろさずにはいられなかった。
こうして、この一連の事件は瞬く間に解決へと向かっていったのだった。
◇
それから三日後、心地のよい春の陽気に包まれながら、俺はいつも通りの穏やかな朝を迎えていた。
今日は、今回の家出捜索の調査結果をまとめて、依頼人に渡す報告書を作成しなければならない。
「先生、コーヒーです。」
鏡子くんがいつも通りの芳しいコーヒーを淹れてくれた。
俺はそのコーヒーに口をつける。この深みのある苦さが、すがすがしい朝にもってこいの味わいだった。
「手書きの原稿ができたところでお願いしますね。」
俺の探偵事務所では、依頼人へ渡す調査報告書をワープロ化して、データで保存するようにしている。それは言うまでもなく、書棚のファイルよりも、データの方が必要な情報を検索するのが速いからである。パソコンさまさまといったヤツだ。
俺はパソコンが不得手なため、ワープロ入力は当然鏡子くんに任せている。つまり、俺が手書きの原稿を作成し、鏡子くんがその原稿を参照しながら、ワープロソフトで入力して完成させるというわけだ。
「了解。これから書くから、まあ気長に待っていてくれ。」
俺はお気に入りのジッポライターを手にして、口にあるタバコに火を灯す。大きく息を吸い込み、そして紫煙とともに大きく吐き出した。
「・・・さて、それじゃあ始めるか。」
システム手帳を眺めながら、俺がボールペンを手に原稿をまとめ始めた矢先だった。
『リリリリーン・・・、リリリリーン・・・』
せっかくこれからというときに、事務所の電話がやかましく鳴り出した。慌てる様子もなく、鏡子くんは受話器を持ち上げる。
「はい、藪鬼探偵事務所です。・・・あら、おはようございます。ええ、元気ですよ。・・・フフフ。はい、お待ちください。」
彼女は少しだけはにかんで、俺に受話器を手渡そうとする。
「先生、佐倉さんからですよ。」
それは助智からの電話だったようだ。それにしても、鏡子くんのこのうれしそうな表情がつい気になってしまう。まあ、それほど深い意味はないかも知れないが。
「もしもし、助智か?どうかしたのか?」
「おはよう、藪ちゃん!鏡子ちゃんのこと、俺のお嫁さんにくれないかな?」
朝っぱらから何をふざけているんだ、この野郎は・・・。
「・・・切るぞ。」
「わぁ、冗談だって。まったく、冗談も通じないんだもんなぁ。」
いくらなんでも冗談にもほどがある。しかも、俺は鏡子くんの仕事上のパートナーであって、父親でもなんでもない。
「新聞見たよ。どうやら無事に解決できたみたいだね。」
「ああ、おかげさまでな。」
家出人捜索のみならず、殺人事件の真相解明まで辿り着けたのも、助智からの情報提供があったからこそだ。悔しいところだが、ヤツには感謝しなければならないだろう。
「あ、お礼なら言葉じゃなくて、温泉麻雀でよろしくね。」
記憶力だけは人一倍ある男らしく、やっぱり覚えていたがったか。まあ、いろいろ世話になったわけだし、約束通り連れて行ってやるとするか。どうせ、カモにされるのがオチだろうが・・・。
「ああ、わかった。また連絡するよ。じゃあな。」
俺が受話器を置いたあとも、鏡子くんは楽しそうにクスクスと微笑んでいた。会話の内容を聞かれたわけではないが、彼女にはそれとなく見透かされていたのかも知れない。
『ピンポーン・・・』
立て続けに、今度は何者かが玄関の呼び鈴を押した。
鏡子くんが応対のため、玄関へ向かって駆けていく。
「あら、いらっしゃい。」
鏡子くんの声からして、どうやら知人がやってきたようだ。こんな朝早くに、いったい誰が来訪してきたのだろうか?
「藪鬼さーん、こんちわぁ!」
朝っぱらから元気いっぱいにあいさつしてきた人物、それは、俺達二人とすっかり親しくなっていた大林加奈であった。
「おお、加奈か。おはよう、元気みたいだな?」
「まあね、この顔見ればわかるでしょ?何せ、名探偵様だもんねー。」
俺の目の前にいる女の子は、孤独と苦痛に怯えていたあの時の女の子ではない。今の彼女は、充実感と安堵感に満たされた明るい女子高生であった。
「おいおい、何だよ、その皮肉っぽいセリフは?」
加奈はクスクスと愛らしく笑った。
「反対の意味だよ。藪鬼さんには本当に感謝してるんだから。」
加奈は現在、学校へも毎日滞りなく通っていて、父親の母親、つまり祖母の住まいで不自由なく暮らしている。
ある意味、社会復帰させてくれたのは俺だからと、加奈は喜びいっぱいで感謝の気持ちを伝えてくれた。
「それはそうと、藪鬼さん。あたしからの頼みごと、真剣に考えてくれた?」
「ああ。あのことか?」
加奈からの頼みごととは何か?それは、この事務所でアルバイトをさせてほしいというものだった。
今回の調査の正式な依頼人は、警察署に身柄を拘束されているため、調査結果の報酬は未払いのままだ。代理の依頼人となってしまった彼女は、その肩代わりとして、事務所の雑用をして働いて返したいと申し出てきたわけだ。
彼女の厚意そのものはうれしいのだが、そういった理由で働かせるという行為に、俺は少しばかり抵抗があったのだ。
俺がためらいがちに頭を悩ましていると、鏡子くんが俺の背中をやさしく後押ししてくれた。
「先生、わたしは加奈さんのこと大歓迎ですよ。彼女が手伝ってくれたら、わたしも伝票処理やデータ整理に集中できますし。」
加奈がいてくれた方が、事務所も散らからなくて結構だと言わんばかりの鏡子くん。そんな嫌味っぽいセリフを吐かれては、この俺に断る術などないだろう。
「わかった、加奈。君の好きなようにしたらいい。俺から強制はしないから、都合のいいときに手伝いにきてくれ。」
「うん。ありがとー、藪鬼さん!」
加奈は大喜びで、側にいる鏡子くんとハイタッチしていた。この事務所に新しい仲間が加わり、俺はますます肩身が狭くなってしまいそうだ。
「それでね、今日は藪鬼さんと鏡子さんにプレゼント持ってきたの!」
加奈はニコニコ顔をしながら、手さげカバンから包装紙にくるまれた箱を取り出すと、それをソファーの近くにあるテーブルの上に置いた。
ゆっくりと包装紙をはがし、彼女はプレゼントの正体を俺達に見せてくれた。
「あら、かわいい。小さな観葉植物ね。」
加奈からのプレゼントは、手のひらサイズで緑色に映える観葉植物の鉢植えであった。
「あたしね、この前から思ってたんだけど、この事務所ってちょっぴり地味な気がするの。それで、こういうかわいいのを飾ると、少しは華やかになるかな、と思ってね。どう、鏡子さん?」
「フフ、とっても素敵なプレゼントね。どうもありがとう。先生もそうお思いでしょう?」
鏡子くんは俺にアイコンタクトしてきた。その視線が、かわいい贈り主に逆らうな、と訴えているように見えなくもなかった。
「あ、ああ、そうだな。加奈、どうもありがとう。贈ってくれるついでに、君の好きな場所に飾ってくれないか?」
加奈は微笑ましくうなずくと、事務所内をパタパタと駆け回るのだった。
俺はささやくような声で、隣にいる鏡子くんに話しかける。
「よかったな。加奈のヤツ、すっかり元気になってくれて。」
「そうですね。彼女は、わたし達が思っている以上に強かったのかも知れませんね。」
俺達二人は穏やかな気持ちで、事務所内ではしゃぐ加奈を眺めていた。
「フフフ、それより先生。加奈さんへお渡しする報告書、早く作りませんと。」
「おお、そうだった。」
俺は慌ててデスクへと戻っていく。そして、今回の調査報告を原稿用紙へと綴り始めたのだった。
* ◇ *
俺は赤いファイルをゆっくりと閉じた。そして、くわえていたタバコをテーブル上の灰皿に押し付ける。
「ふぁ・・・。今度こそ寝るとするか。」
俺はファイルを本棚へ片付けると、安眠を与えてくれる私室のドアを開けた。
私室の窓から見える東京のネオンは、また新しいドラマの幕開けを知らせているようだった。
ここは眠らない街東京。このネオンの下では、悲しみや憎しみから救いを求める人間がたくさんいる。こんな乾ききった街だからこそ、俺のような探偵が必要なのかも知れない。
俺はそんな独り言を心に思いながら、私室内のベッドへと身を任せた。
俺は深い眠りにつく。そして、新たな調査の依頼が来るのをひたすら待つのである。
このおはなしは、これでおしまいです。
少し昔のおはなしで、時代錯誤していて矛盾点もあったかと思いますが、何か感じたことがありましたら、感想などいただけるとうれしいです。
最後まで読んでいただいた皆様には、重ねて厚く御礼を申し上げます。