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寡黙な側近

寡黙な側近は、廃れた国境の町を立て直す

作者: くるみ
掲載日:2026/09/09

『寡黙な側近』シリーズの第二作です。

こちらから読んでいただけますと嬉しいです。

https://ncode.syosetu.com/n2647ms/


「ヴィクトル。東の街道を何とかしてくれ」


「かしこまりました」


 一礼し、そのまま部屋を出ようとした。


「ヴィクトル」


 足を止める。


「はい」


 北の国、ノルデン王国の王太子オスカーは、机の上に置かれていた手紙を持ち上げた。


「イネス殿から来た」


 西の島国アルメリアへ帰った、オスカーの元婚約者である。


「向こうはうまくいってるらしい。クラリッサも、最近ではよく馬の世話をしてくれているそうだ」


 オスカーは手紙を畳んだ。


「それだけだ。頼んだぞ」


 ヴィクトルは一礼し、部屋を出た。


     ◇


 三日後、ヴィクトルは東へ向かう馬車に揺られていた。


 東街道は、ノルデンの王都から東へ延び、国境を越えてルヴェイン北部へ入る古い交易路である。

 かつては多くの商人が行き交ったが、近年は西のヴェルガード帝国へ向かう道ばかりが賑わい、こちらを選ぶ荷車は少なくなっていた。

 ヴィクトルは飾りのない上着に暗い色の外套をまとい、御者一人だけを連れていた。


 王都を離れてしばらくは、多くの荷車とすれ違った。

 だが東へ進むほど、その数は減っていく。

 昼を過ぎたころ、古い宿場へ着いた。


 道の両側には、使われなくなった建物が並んでいる。

 色の褪せた看板。

 板を打ちつけられた窓。

 軒の傾いた馬具屋。

 三軒あったらしい宿も、今なお客を取っているのは一軒だけだった。

 ヴィクトルはそこで馬車を止めた。


「いらっしゃいませ」


 宿へ入ると、年配の女主人が出てきた。


「食事をいただけますか」


「ええ。今日は牛肉の煮込みがありますよ」


「お願いします」


 窓際の席につく。

 客はほかにいなかった。

 ほどなくして、深い陶器の皿が運ばれてきた。


 牛肉と茸、人参、蕪を赤葡萄酒でじっくり煮込んだものだった。


 濃い褐色の煮汁が肉に絡み、匙を入れれば、ほろりと繊維がほどける。蕪には肉の旨味が染み込み、人参には柔らかな甘みが残っていた。

 横には、表面を香ばしく炙った厚切りの黒パン。

 まだ温かく、その上で黄色いバターがゆっくりと溶けている。


 ヴィクトルはパンをちぎり、煮汁をたっぷり吸わせた。


「おいしいですね」


 女主人の顔が明るくなった。


「そう言っていただいたの、久しぶりですよ」


「そうなのですか」


「お客さんそのものが来ませんからねえ」


 女主人は窓の外を見る。


「あそこも昔は宿だったんですよ」


 向かいの大きな空き家を指した。


「うちより立派でね。昔は夜になると、どちらの馬屋にも馬が入りきらなかったくらいです」


「ルヴェインへ向かう商人ですか」


「ええ。向こうから来る方も」


「いつから減ったのでしょう」


「向こうの国境を治めていたルドヴィク子爵様のころからですかねえ」


 女主人の声が少し低くなった。


 ルドヴィク子爵家は、国境を越えたルヴェイン側に倉庫や流通の拠点をいくつも持っていた。

 正規の関税とは別に、荷改め料や倉庫料、街道維持費など、さまざまな名目で費用を徴収するようになったという。


「最初は皆、文句を言いながら払っていたんですけどね」


 女主人は肩をすくめる。


「そのうち、西へ行く商人が増えまして」


「ヴェルガードですか」


「ええ。遠くても、あちらなら儲かるんでしょうね。だんだん宿も倉庫もできて、知っている商人も西に増えて」


「ルドヴィク子爵家は、もう国境を預かってはいませんね」


「ええ」


 少し前、ルヴェインで不正が明らかになり、ルドヴィク子爵家は国境での権限を失った。

 余分な徴収も、すでになくなっている。


「でも、人は戻らなかった」


「そうなんですよ」


 女主人が苦笑した。


「西へ行けば、もう何でも揃っていますからねえ。わざわざこっちへ戻る理由がないんでしょう」


 ヴィクトルは窓の外を見る。


 閉じた宿。

 使われない馬屋。

 人が来ないから、店が消える。

 店がないから、さらに人が来ない。


 ヴィクトルは残った黒パンで皿の煮汁を拭った。


「ごちそうさまでした」


「もう行かれるんですか?」


「はい」


「国境なら、日暮れ前には着けると思いますよ」


「ありがとうございます」


 代金を置き、宿を出た。


     ◇


 国境を越え、ルヴェインへ入ってまもなく、街道沿いに古い荷改め所が残っていた。


 かつてルドヴィク子爵家が、国境を通る荷を調べるために使っていた建物である。

 不正が明らかになったあと、荷改めは国境の関所へ移された。

 厚い石壁でできた頑丈な造りだったが、今は使われていない。


 ヴィクトルが眺めていると、後ろから声がした。


「あなた」


 振り返る。


 若い女性が立っていた。

 紫がかった黒髪を高くまとめ、すらりとした身体を動きやすい乗馬服に包んでいる。上から羽織った外套は上等な仕立てだったが、裾には乾いた土がついていた。

 少し後ろには侍女が控えている。


「さっきから、それを見ているでしょう」


「はい」


「あれ、取り壊す予定なの」


 ヴィクトルはもう一度、荷改め所を見る。


「残した方がよいかと」


「どうして?」


「倉庫にできます」


 女性が建物を見上げた。


「……そうね」


 今度は隣の空き地へ目をやる。

 そのまま顎に手を置いて、考え込み始めた。


「だったら、ここに馬屋も置けるわね。井戸もいるでしょう?」


 ヴィクトルは頷いた。


「向こうは市場にできそう。北から来た商人が、ここで荷を下ろしてこちらの商人に売るの」


「はい」


「北へ持っていく荷もここへ集める。そうすれば、空の荷車を戻さなくて済むでしょう?」


 ヴィクトルはまた頷いた。


「食事処も欲しいわね。馬屋とは少し離して……宿もあった方がいい」


「北側に一軒」


「まだ残っているの?」


「はい」


「なら使えるわ」


 女性は一人で空き地を見回しながら、次々に話を進めていった。


「道だけ直したって駄目なのよ。商人が止まる理由がなければ、結局西へ行くでしょう? ここで荷を売れて、馬を休ませられて、ご飯も食べられるなら話は別だわ」


 ヴィクトルは黙って聞いていた。

 やがて女性が振り返る。


「あなた、使えそうね」


 ヴィクトルは何も言わなかった。


「私の助手にしてあげてもよろしくてよ」


「結構です」


「……」


 女性が瞬きをした。


「今、断った?」


「はい」


「待遇も聞かずに?」


「はい」


「どうして?」


「仕事がありますので」


「どこの?」


 返事はなかった。

 女性はしばらくヴィクトルを見ていたが、やがて肩をすくめた。


「まあいいわ。それより市場だけど――」


 そのまま、何事もなかったように話を続ける。

 少しして、離れたところに停まっていた馬車から男性が歩いてきた。


「また何か思いついたのか?」


「ちょうどいいところに来たわ」


 女性が荷改め所を指す。


「あれ、壊すのをやめましょう。倉庫にするの。隣には馬屋と井戸。あちらに市場を作るわ」


「さっきまで壊す話じゃなかったか?」


「気が変わったのよ」


「ずいぶん急だな」


「でも、いい案でしょう?」


 男性は空き地を見回した。


「確かに。今進めている宿場の計画ともつなげられそうだ」


「でしょう?」


「市場へ荷車が入りやすいように、こっちの道を広げる必要はあるな」


「食事処も欲しいのよ」


「それなら井戸の位置も少しずらした方がいい」


 二人の話は、そのまま先へ進んでいった。

 ヴィクトルは、尋ねられたことにだけ答えた。

 やがて女性が言う。


「ここまで揃えば、北から来る商人も少しは戻るでしょうね」


「そうですね」


「北側にも、止まる場所があればもっといいけれど」


 ヴィクトルは一度だけ頷いた。


     ◇


 話が一段落すると、ヴィクトルは口を開いた。


「では」


「もう行くの?」


「はい」


「気が変わったら、助手の話はまだ有効よ」


「結構です」


「本当に頑固ね」


 ヴィクトルは軽く頭を下げた。


「そちら側はお任せいたします」


「ええ、任せてちょうだい」


「それでは失礼いたします、ベルク伯爵夫人」


 ヴィクトルはそのまま馬車へ向かい、乗り込んだ。


「あら? 私、名乗ってないわよね?」


「聞いてないな」


 隣の男性が答える。


「だったら、最初から知ってたってこと?」


 馬車が出発した。


「あの人、自分のことは何一つ話さなかったくせに、私のことは最初から知ってたのね!」


 ベルク伯爵夫人は去っていく馬車を見ながら、ぎゅっと両手を握り込んだ。


「……もう! なんだか悔しいわ!」



     ◇


 ノルデンへ戻ったヴィクトルは、そのまま東の国境を預かる領主の屋敷へ向かった。

 王家の徴税官、街道を管理する役人、国境警備の責任者も集めてもらった。


 机の上には、東の関所で使われている帳簿と書類が積まれている。


「これでは商人が東へ戻る理由がありませんな」


 帳簿を見ていた領主が言う。


「税率を下げるべきかと」


「しかし、下げればこちらの取り分も減ります」


 徴税官が言った。

 領主はしばらく古い帳簿を眺めた。


「……以前ほど荷が戻るなら、税率を下げても十分に補えますな」


「西より低くしなければ、戻すのは難しいでしょう」


 話し合いの末、税率は西より低くすることでまとまった。


「それと、窓口もまとめられませんか」


 街道を管理する役人が、積まれた書類に目をやった。


「関税も荷改めも?」


「ええ。徴収は一度にして、あとからこれまでの権利に応じて分ければいい。荷車を何度も止める必要もなくなります」


「通行記録も一緒に取れますな」


「ただ、まとめるとなれば、人も場所も要ります」


 徴税官の言葉に、領主が頷いた。

 口元の髭を撫で、少し考える。


「取り分がこれまで通りなら、王家直属の管理所として、人も場所もご負担いただくのがよいでしょうな」


「その方がよいかと」


 ヴィクトルは鞄を開いた。


「候補者はこちらです」


 人員表を机へ置く。


「……もう人まで選定を?」


 街道を管理する役人が目を瞬いた。


「候補です」


 その下には、新しい管理所の規則案も重ねられていた。


「ずいぶんと準備がいいですな」


 領主がヴィクトルを見る。

 徴税官も規則案へ目を落としたあと、顔を上げた。


「我々が反対するとは思わなかったのですか?」


 ヴィクトルは答えなかった。

 領主はしばらく彼を見たあと、一度だけ片方の口角を上げ、そのまま規則案を開いた。


     ◇


 その日のうちに、宿場を預かる役人たちとも話をした。


「関税が下がっても、泊まるところがなければ商人は戻りません」


「店を再開したい者はいます。ただ、何年も客が来なかった町です。元手がない」


「なら、低い利息で貸すのはどうでしょう」


 年配の役人が言った。


「宿や食事処、馬屋を再開する者に限って。商売が落ち着くまでは返済も待つ」


「倉庫も対象にできますな」


「審査は管理所に任せればいい。通る荷の数も把握できます」


 ヴィクトルは一通の書類を机へ置いた。


「こちらを」


 役人が受け取り、表題を読んだ。


「……低利貸付の案ですか」


「はい」


 数枚めくる。

 やがて苦笑した。


「最初から、我々がこう言うと思っていたのでは?」


     ◇


 王都を出て十二日目、ようやくヴィクトルは王宮へ戻った。


「戻りました」


「おう。どうだったか?」


 オスカーが机から顔を上げる。


 ヴィクトルは数枚の書類と地図を置いた。

 オスカーは一通り目を通した。


「なるほど」


 指で地図の上をたどる。


「西へ行く商人を、無理に東へ戻すんじゃないんだな」


「はい」


「東へ行った方が得だと思わせる」


「はい」


 オスカーは、東街道の管理所の人員候補表を手に取った。

 何人かの名前を追う。


「……この顔ぶれなら、ハルトマンが選ばれるだろうな」


 候補表を机へ戻した。


「西に何かあったときのために、東との商いも残しておきたかった」


 ヴィクトルは黙っている。

 オスカーが笑った。


「よくやった」


 少し笑みを深くした。


「伊達に俺が選んだ側近じゃないな」


     ◇


 オスカーがヴィクトルを選んだのは、まだ二人が子どもだったころだ。


 ノルデン王家は、もともと感情を大きく表へ出す家ではなかった。

 父王も、王妃も、妹のアストリッドもそうだった。

 互いをよく見ている。

 ただ、それを言葉にすることが少なかった。


 幼いアストリッドが、庭で作った花冠を父へ持ってきたことがある。


「父上。これ」


 国王は受け取った。


「よくできている」


「……はい」


 アストリッドが少しだけ俯いた。

 横で見ていたオスカーが口を出した。


「父上、それずっと待ってたでしょう?」


 国王が息子を見る。


「何の話だ」


「昨日、僕がもらったのを見て、アストリッドは明日も作るのかって聞いていたじゃないですか」


「……」


「三回も」


「二度だ」


「じゃあ二回でいいです」


 アストリッドが顔を上げる。


「待っていたの?」


「ああ」


「嬉しい?」


「もちろんだ」


 アストリッドが笑った。

 オスカーも笑う。

 少し離れたところで、王妃も口元を緩めていた。


 オスカーは、そんな顔を見るのが好きだった。


 自分が大きく喜べば、母も笑う。

 父の気持ちを口にすれば、アストリッドも喜ぶ。

 従者たちも安心する。


 だから、よく笑った。

 よく話した。


 いつの間にか、それがオスカーの普通になっていた。


     ◇


 有力な家の子どもたちが王宮へ集められた日のことだった。


 皆、王太子であるオスカーに自分を覚えてもらおうとしていた。

 剣の話。

 馬の話。

 領地で採れる珍しい石の話。

 オスカーは、どの話もよく聞いていた。


 一人だけ、自分からほとんど話さない少年がいた。

 それが、ヴィクトルだった。


 午後、一人の少年が、何度も扉を見るようになった。

 オスカーはそれに気づいた。


 声をかけようとした、そのとき。


「医務室の熱さましをお渡しして、お帰りいただいたらいかがでしょうか」


 隣から声がした。


「……誰を?」


 ヴィクトルが、扉を気にしている少年を見る。


「あちらの方です」


「どうして薬なんだ?」


「妹君が熱を出しているそうです。先ほど、お話しになっていました」


「それは俺も聞いていた」


 オスカーは少年を見る。


「だから帰す?」


「はい」


「薬まで持たせるのは?」


「手ぶらで帰せば、ご実家で叱られるかと」


「ああ」


「殿下からの見舞いなら、問題ありません」


 オスカーがヴィクトルを見る。


「……なるほど」


 オスカーはしばらく黙っていた。

 周囲では、ほかの子どもたちがまだ自分の話を続けている。


「俺があいつを帰したいと思ってたのも、わかったんだな」


 ヴィクトルが頷いた。

 オスカーは笑った。


「お前とだと話が早そうだ」


 ヴィクトルは何も言わなかった。


「明日も来い」


「かしこまりました」


 翌日も呼ばれた。

 その翌日も。


 やがて、ヴィクトルがオスカーのそばにいることは当たり前になった。


     ◇


 街道の整備が始まって間もなく、ルヴェインに滞在しているアストリッドから、父王宛ての手紙が届いた。


 国王は読み終えると、しばらく動かなかった。

 その隙に、オスカーは手紙を覗き込んだ。


「……アストリッドに男?」


 オスカーは顔を上げる。


「ヴィクトル」


「はい」


「ルシアン・ハーグレイヴとは誰だ?」


「ハーグレイヴ公爵家の次男です」


「兄弟は?」


「兄が一人。ギルバート・ハーグレイヴ。騎士団に所属しています」


「父親は?」


「ルヴェイン国王の弟君です」


「年は?」


「アストリッド殿下と近いかと」


「評判は?」


「良好です」


「それだけか?」


「学院では成績上位。問題行動なし」


「女関係は?」


「悪い噂はありません」


「賭け事」


「目立ったものはありません」


 オスカーは黙った。

 国王は便箋へ視線を移し、慎重に返書を書き始めた。


『その男が本気で北へ来るというのなら、連れて帰りなさい。私が会う』


 そこで筆を置く。

 オスカーが便箋を覗き込んだ。


「父上、それだけですか?」


「何がだ」


「父上の気持ちが書いてないでしょう」


 国王が息子を見る。

 オスカーはそれ以上はなにも言わない。


「……」


 国王はもう一度、筆を取った。


『帰りを待っている』


 オスカーが満足そうに頷く。


「それでいいと思います」


「……そうか」


 国王は少しだけ居心地が悪そうに答えた。


     ◇


 すべてが完成するより前に、東街道へ人が戻り始めた。

 関税は下がり、国境でいくつもの窓口を回らされることもなくなった。

 古い宿場でも、閉じていた店の扉が少しずつ開き始めた。


 ヴィクトルは、以前訪れた宿へもう一度立ち寄った。


「いらっしゃいませ!」


 今度は、女主人の声の向こうにいくつもの話し声が重なっていた。

 商人たちが酒を飲み、奥では旅の一家が食事をしている。


「あら、この間の!」


「こんにちは」


「今日はお泊まり?」


「食事だけお願いします」


「もちろんです」


 ほどなくして、あの牛肉の煮込みが運ばれてきた。

 柔らかな肉と茸。

 甘く煮えた根菜。

 葡萄酒の香りを残した濃い煮汁。

 黒パンは焼き立てで、割ると白い湯気が上がった。


「パンも変わりましたね」


「わかります?」


 女主人が嬉しそうに笑った。


「お客さんが増えたから、昼にも焼くようにしたんですよ」


 ヴィクトルはパンを煮汁へ浸した。


「それから、娘夫婦も戻ってきましてね」


 女主人が窓の向こうを指す。

 以前は板を打ちつけられていた建物に、新しい看板が掛かっていた。


「利息の低い貸付を使って、向こうで食堂を始めたんです」


「そうですか」


「借りたものはきちんと返さなきゃって、さっそく張り切ってますよ」


 そう言いながら、女主人は笑っていた。

 外からは、荷馬車の車輪の音が聞こえていた。


     ◇


 新しい管理所が動き始めて数日後、ヴィクトルの執務室へ、一人の男が入ってきた。


「ハルトマンからです」


 差し出されたのは、王宮へ提出される報告書とは別の封書だった。

 ヴィクトルは封を切った。


 ルドヴィク子爵家で帳簿を扱っていた男が、ルヴェイン西部の商会へ移ったこと。

 その商会に、ヴェルガード帝国から資金が入っていること。

 さらに、その関係者が最近、エルフォード公爵家に出入りする商人と接触していること。


 ヴィクトルは最後まで読み、封書を閉じた。


「ハルトマンに、これを」


 用意してあった小さな封書を男へ渡す。


「ラングレー男爵家へ、内密に回すように」


「承知しました」


「それと、ベルク伯爵夫人の交友関係も調べておくように伝えてくれ」


「はい」


 男は一礼して部屋を出た。


     ◇


 その日の夕方、仕事を終えたヴィクトルは、馬車を一軒の花屋の前で止めさせた。


「あ、ヴィクトル様」


 店番の娘が笑った。


「いつもありがとうございます」


「こんにちは」


「今日は珍しい花が入ったんですよ」


 娘が奥から、小さな白い花を持ってくる。


「ルヴェインからです」


「そうですか」


「東の街道が通りやすくなって、今朝着いたばかりなんですよ」


 白い花弁の中心だけが、淡い黄色をしていた。


「では、それをお願いします」


「はい」


 娘は慣れた手つきで花を束ね始めた。


「でも、素敵ですよね」


「何がですか」


「ヴィクトル様ですよ」


 娘が笑う。


「いつもご自分でいらして、ご自分で選ばれるでしょう?」


 ヴィクトルは何も言わなかった。


「お忙しそうなのに」


 白い花が紙に包まれていく。


「贈られる方も、お幸せでしょうね」


 娘は細い紐を結んだ。


「こんなふうに何度も花を贈ってくださる恋人なんて、素敵ですもの」


 ヴィクトルは何も答えず、花束を受け取った。


「ありがとうございます」


 花束を膝に置いた馬車は、本邸とは逆の道へ曲がった。

同じ世界観の『騙されやすい公爵令嬢』も、よろしければぜひ。

https://ncode.syosetu.com/n4318mp/

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