窓口の男
# 第1話「窓口の男」
午前六時四十五分。安藤誠一のアパートには目覚まし時計がない。毎朝、同じ時刻に目が覚える。布団を畳み、シーツの皺を手のひらで伸ばし、枕の位置を壁から拳ひとつ分の距離に合わせる。洗面台の鏡の前で髪を整え、歯を三分間磨く。上の歯から、右奥、左奥、前歯、裏側。下の歯も同じ順番で。
朝食は食パン一枚とゆで卵、インスタントの味噌汁。食パンはトースターで二分半。焼き色が均一になるよう、一分半で一度向きを変える。食べ終えた食器はすぐに洗い、水切りかごに伏せる。シンクに水滴が残らないよう、最後に布巾で拭く。
ワイシャツは前の晩にアイロンをかけてハンガーに吊るしてある。袖を通し、ボタンを下から順に留める。ネクタイは紺の無地。結び目の大きさが毎日同じになるよう、鏡を見ながら調整する。
玄関で革靴を履く。靴べらを使い、踵を潰さないように。鍵を閉め、ドアノブを一度引いて施錠を確認する。
アパートから町役場まで徒歩十二分。住宅街を抜け、用水路沿いの道を歩き、県道を渡る。途中の自動販売機で缶コーヒーを買う。ブラック、百三十円。毎朝同じ銘柄を選ぶ。通勤路にすれ違う人の顔ぶれも、だいたい決まっている。犬を散歩させている老婦人、ジョギング中の中年男性、自転車で通学する高校生。安藤は誰にでも軽く会釈をした。
町役場の住民課窓口は、午前九時を過ぎると途端に静かになる。開庁直後の混雑が嘘のように引いて、蛍光灯の低い唸りだけが残る。安藤はその静けさの中で、カウンターに置かれたボールペンの向きを直した。町章が印刷された面が、来庁者の側を向くように。
「安藤くん、今日も早いね」
隣の席の吉川が缶コーヒーを片手に座る。五十代、住民課の主任。安藤より二十年長くこの窓口にいる男だ。
「朝のうちに届出の整理をしておきたくて」
「真面目だねえ。若いのに」
吉川は感心したように言って、パソコンの電源を入れた。安藤は微笑んで、手元の転入届の束に目を戻した。
この町の人口は二万三千人。転入届は月に十数件。届出一枚ごとに、名前、生年月日、前住所、世帯構成が記されている。安藤はそれらを丁寧に確認し、不備があれば付箋を貼り、ファイルに綴じた。窓口職員の仕事としては、ごく当たり前のことだった。
昼休み、安藤は職員食堂でうどんを食べながらスマートフォンを開いた。マッチングアプリ「Lure」。都市部で流行しているらしいが、最近はこの町にも利用者が増えている。安藤が登録したのは三日前だ。プロフィール写真は、町の桜並木の前で撮った一枚。職業欄には「公務員」とだけ書いた。
通知が一件。マッチ成立。
相手の名前は「凛花」。年齢は二十五歳。職業欄には「フリーランス(経理)」。写真は顔の下半分だけが写っていて、唇が薄く、顎の線が鋭い。自己紹介文は一行だけ。
「面倒な人は無理です」
安藤はしばらくその画面を見つめてから、メッセージを打った。
「はじめまして。面倒じゃない人間を目指して生きてます」
返信は十五分後に届いた。
「笑った。公務員って本当?」
「本当です。町役場の窓口で、毎日ハンコを押してます」
「つまんなそう」
「つまんないですよ。でも誰かの届出を受理するたびに、その人の人生の節目に立ち会ってるんだなって思うと、少しだけやりがいがあります」
既読がついてから、しばらく間があった。
「……変な人」
「よく言われます」
「変な人って言われて怒らないの?」
「怒る理由がないので。変って、その人の中に収まらないってことですよね。収まらないほうが面白いかなって」
「……ほんとに公務員?」
「ほんとに公務員です。証拠に、今日の昼ごはんは職員食堂のうどんです。二百八十円」
「安い」
「美味しいですよ。天かすが入れ放題なので」
「天かす入れ放題で喜ぶ公務員」
「はい。それが僕です」
凛花の返信のテンポが少しだけ速くなった。最初は十五分かかっていたのが、五分になり、三分になった。安藤はうどんの残りを啜りながら、画面を見つめていた。
「ところで凛花さん、フリーランスの経理って珍しいですね。どういうお仕事なんですか?」
「いろんな会社の帳簿を見る仕事。つまんない話だよ」
「つまんない仕事同士、気が合いそうですね」
「……それ口説いてる?」
「口説いてるように聞こえました?」
「聞こえない」
「じゃあ口説いてないです」
「なにそれ」
安藤は昼休みが終わるまでの数分間で、週末に会う約束を取りつけた。
午後の窓口。
安藤が住所変更届の受付をしていると、番号札を持った女が立った。二十代半ば。黒いパーカーにジーンズ。化粧は薄いが、目つきが鋭い。カウンターに届出用紙を滑らせるように置いた。
「住所変更です」
「ありがとうございます。確認いたしますね」
安藤は用紙を受け取り、記載内容に目を通した。名前、氷室凛花。前住所は隣の市。転居理由の欄は空白。安藤はボールペンの先で空白を示した。
「こちら、転居理由をご記入いただけますか? 『転勤』『転職』『その他』のいずれかで大丈夫です」
凛花は一瞬だけ安藤の顔を見た。それから「その他」に丸をつけた。
安藤は用紙を受け取り、端末に入力を始めた。画面には凛花の転居履歴が表示される。過去半年で三回。いずれも近隣の市町村を転々としている。安藤はその画面を数秒見つめてから、凛花に向き直った。
「氷室さん、お引っ越しが多いようですが、何かお困りのことはありませんか?」
凛花の指が、カウンターの上でわずかに強張った。
「……別に」
「そうですか。もしよければなんですが」
安藤は引き出しからパンフレットを取り出した。「生活にお困りの方へ」と書かれた三つ折りの案内。生活保護、住居確保給付金、就労支援。自治体が用意している制度の一覧だ。
「こういう支援制度もありますので、何かあればいつでも窓口にいらしてください。僕、だいたいここにいますから」
凛花はパンフレットを受け取った。受け取って、安藤の顔をもう一度見た。今度は少し長く。
「……ありがとうございます」
「いえ。お気をつけてお帰りください」
凛花が去った後、安藤はカウンターを布巾で拭いた。凛花が触れた場所を、丁寧に、端から端まで。
吉川が後ろから声をかけた。
「さっきの子、ちょっと訳ありっぽかったね」
「そうですか?」
「半年で三回引っ越しって、普通じゃないよ」
「大変ですよね。力になれることがあればいいんですけど」
安藤はそう言って、穏やかに笑った。
夜、自宅のアパート。安藤はベッドに横になり、スマートフォンを開いた。Lureの画面。凛花とのメッセージ履歴。そして、今日窓口で見た転居履歴の画面を思い出すように、天井を見つめた。
通知音。凛花からのメッセージ。
「土曜、何時にする?」
安藤は少しだけ間を置いてから、返信を打った。
「お昼からどうですか? 駅前のカフェとか」
「了解」
「楽しみにしてます」
安藤はスマートフォンを枕元に置いた。部屋は暗く、静かだった。蛍光灯を消した天井に、スマートフォンの通知ランプだけが青く点滅していた。
その光が、安藤の目に小さく映っていた。




