政略結婚で妹の後見と名を奪われたので、兄の私は後見人届の控えを役所へ出しました。本家は詫びを寄越すことになります
「血の繋がらぬ兄は口を出すな」とディートリヒ殿は言った。私は返事をせず、リーゼの指が膝の上の布を一度つまむのを見た。
本家の応接室は、窓を閉め切っていた。火鉢には炭が足されているのに、リーゼは外套を脱がず、襟元で息を細くしている。
「これはクラウゼ家の婚姻だ。家の血を引く者同士で決める。君は席を外したまえ」
ディートリヒ殿の前には、婚姻の届出用紙が広げられていた。嫁ぎ先の欄は埋まり、日取りまで書き込まれている。リーゼの返事だけが、どこにもなかった。
用紙の下部に、後見人の署名欄がある。そこへ紙を一枚重ねるように、ディートリヒ殿は手を置いた。
「署名など、後でどうにでもなる」
「後見人の確認なしでは、取次はできません」
壁際に控えていたテオ・ハインが言った。役所から届出の取次に来た彼は、ディートリヒ殿の椅子ではなく、用紙の空欄を見ていた。
「確認なら私がする。この娘の本家当主は私だ」
「確認する相手が違います」
テオは声を上げなかった。ディートリヒ殿が椅子の肘掛けを叩いても、質問の順序を変えなかった。
「では、ご本人の返事を伺いたい」
「リーゼに異存はない」
ディートリヒ殿が先に答えた。リーゼの唇がわずかに開き、吸い込んだ息が途中で止まった。
私は朝、書類箱を開けていた。月末ごとに中身を確かめ、五年前の日付がある後見人届の控えを取り出し、折り目を親指で伸ばしてから箱へ戻す。それだけのために傷んだ紙だった。
あの朝も、控えは箱へ戻した。折り目はすぐに浮き上がり、蓋の下で元の形に戻ったはずである。
「リーゼの持参品も、こちらで不足なく整える。君の出る幕ではない」
ディートリヒ殿は、婚姻用紙の脇に置いた品書きを私へ押しやった。外套、薬箱、本。三つの項目の横には、購入日と支払った者の名が記されていた。
外套は三年前、冬の初めに買った。薬箱はリーゼの咳が長引いた年、本は彼女が家で学び直すためにそろえたものだった。どの行にも私の名があり、本家の欄は白かった。
「過去の細かな出費を持ち出すつもりか」
「いいえ」
「ならば、この品書きで問題はないな」
ディートリヒ殿は紙を引き戻した。白い欄には目を置かなかった。血筋があれば、空欄まで満ちて見えるらしい。
リーゼの指が布を放した。爪の跡だけがスカートに残り、彼女はそれを両手で隠した。
「話は済んだ。リーゼは残りなさい」
私は立ち上がり、椅子を机の下へ戻した。リーゼは動かなかったが、閉じた窓のほうへ一度だけ顔を向けた。
「帰ろう、リーゼ」
「君には命じていない」
「私も、あなたに伺っておりません」
リーゼが立つと、外套の裾が椅子の脚に引っかかった。私は手を出さず、彼女が自分で布を外すまで待った。
ディートリヒ殿の口がもう一度動いた。テオが婚姻用紙を持ち上げたため、その言葉は紙の擦れる音に紛れた。
「取次は、必要事項がそろうまで保留します」
「役人が家の話に口を挟むな」
「私は欄を見ています」
テオはそう答え、用紙を鞄へ入れた。リーゼが戸口を越えると、詰めていた息が一度に出た。
帰りの馬車は使わなかった。本家が用意すると知らせてきたものは、玄関前になかったからである。
リーゼは私の半歩後ろを歩いた。咳が一つ出るたびに足を止め、治まればまた同じ間隔でついてきた。
「兄さん」
「ああ」
「本家へ行けば、あの話は決まるの?」
石畳の継ぎ目で、彼女の靴先が止まった。私は二歩進んでから戻り、彼女の前には立たず、横に並んだ。
「今日は決まらなかった」
「今日は」
「先のことは、家で話そう」
リーゼはそれ以上尋ねなかった。道の先を見る代わりに、私の袖口を一度見た。
家へ戻ると、私は暖炉に火を入れた。リーゼは外套を脱ぎ、薬箱から小瓶を出した。湯を注ぐ手が、縁へ二度当たった。
私は書類箱を机へ載せた。鍵を回す音に、リーゼの手が止まった。
箱の底には、父の死後に必要となった書類が日付順に収めてある。最後の束から後見人届の控えを抜き、机の上へ置いた。
浮き上がった折り目を親指で伸ばした。いつもなら、そのまま箱へ戻す。
控えを役所へ出せば、後見人が誰であるかを、本家も嫁ぎ先も知らずには済まなくなる。ディートリヒ殿が進めた婚姻は止まり、リーゼを都合よく本家へ戻す道も同じ紙で塞がる。
私は紙の端をそろえた。箱の中には空いた幅が残っている。
「兄さん、それを出すの」
「出す」
「私が本家に戻ると言っても?」
湯気がリーゼの顔を隠した。小瓶の蓋を閉める音だけがして、咳は出なかった。
「そのときは、君がそう言ったと役所へ伝える」
「本家が決めたからじゃなくて?」
「君が言ったなら」
リーゼはカップを両手で持った。口はつけず、しばらく指先だけを温めていた。
私は控えを折り直さなかった。伸ばした折り目のまま、箱ではなく内衣のポケットへ入れた。
* * *
翌朝、役所の窓口にはテオがいた。昨日と同じ濃い色の上着を着て、机の上の書類を一件ずつ左から右へ移している。
私が控えを差し出すと、彼はまず日付を見た。次に私の名を見て、最後に紙の折り目へ指を置いた。
「原本との照合を求めますか」
「はい」
「婚姻届出に関する後見人確認へ回します」
「お願いします」
テオは控えを受け取り、受領の印を押した。乾くまで手を離さず、紙の隅が浮かないよう押さえている。
「五年前から、変更はありませんか」
「ありません」
「リーゼ・クラウゼさんの後見人は、あなた一人ですね」
「私一人です」
彼はそれだけを書き留めた。昨日の応接室についても、ディートリヒ殿についても尋ねなかった。
「ご本人は、この提出を知っていますか」
「知っています」
「ご本人から別の申出があれば、そちらも受けます」
「それで結構です」
テオは控えを役所の封筒へ収めた。私の手元には受領を示す紙だけが残り、ポケットは昨日より薄くなった。
外へ出ると、書類箱の蓋を閉めたときの音が、まだ指に残っていた。私は受領の紙を折らずに持ち帰った。
リーゼは居間の窓を開けていた。冷たい風がカーテンを持ち上げ、机の上の本を一頁だけめくった。
「受け取られたよ」
「そう」
彼女は窓を閉めなかった。薬箱の小瓶を棚へ戻し、外套を椅子の背へ掛け直した。
婚姻用紙が本家へ戻されたのは、その三日後だった。
* * *
その翌日、ディートリヒ殿は再び役所へ出向いた。私は別件の書類を受け取りに来ており、待合の長椅子から、窓口へ置かれた婚姻用紙が見えた。
「訂正すべき箇所は直した。これで受理を」
ディートリヒ殿は役人へ向ける声を使っていた。語尾を整え、手袋も外し、用紙の向きまで窓口に合わせている。
テオは上から順に欄を確かめた。嫁ぎ先、日取り、当事者の名。その指が最下部で止まった。
「後見人の署名がありません」
「私の確認で足りるはずです」
「足りません」
「クラウゼ家の当主は私です。事情は先日お話ししたでしょう」
「伺いました」
「ならば」
「必要な名は、アルベルト・クラウゼです」
ディートリヒ殿の指が、空欄の上で止まった。爪先だけが紙に触れ、押し込まれた用紙が机の端でわずかにたわんだ。
「その者は、リーゼと血が繋がっていない」
「後見は、届け出た者の名で残ります」
テオは用紙をディートリヒ殿の側へ戻した。押し返しもせず、指を離しただけだった。
「再提出しても同じか」
「必要な確認がなければ、同じです」
「本家当主の名を添えても?」
「同じです」
ディートリヒ殿は用紙を持ち上げなかった。空の署名欄と、その横に添えられた私の名を交互に見た。
窓口の列が一人分進まなかった。テオは次の者を呼ばず、ディートリヒ殿が紙を取るまで待った。
やがて手袋をした指が用紙をつかんだ。紙の端が折れ、ディートリヒ殿はそれを直さないまま鞄へ押し込んだ。
私が長椅子から立つと、彼は初めてこちらを見た。唇を結んで通り過ぎ、扉の前で一度だけ足を緩めたが、名は呼ばなかった。
テオは私の番になると、頼んでいた書類を差し出した。先ほどと同じ声で、受領箇所だけを指した。
「こちらをお確かめください」
「確認しました」
「以上です」
私は紙を受け取った。ディートリヒ殿の婚姻用紙がどうなるかは尋ねなかった。空欄は、問われる前から答えている。
* * *
その日から、本家の使いが二度来た。最初は署名済みの用紙を届けるようにとの伝言、二度目は本家へ出向く日時の指定だった。
私はどちらにも、リーゼ本人の返事を添えるよう書いて返した。三度目には使いではなく、ディートリヒ殿が来た。
玄関に立つ彼の後ろに、馬車が待っていた。以前用意されなかったものは、彼自身が使う日には遅れないらしい。
リーゼが戸口へ出ると、肩が持ち上がった。咳が一つ、次いでもう一つ続いた。
私は彼女の前へ半歩出た。ディートリヒ殿はその位置を見てから、帽子を脱いだ。
「後見人殿に、お話がある」
呼びかけの先は私だった。リーゼへ向けていた命令の続きを、その舌はすぐには見つけられなかった。
「どうぞ」
私は応接用の小部屋へ通した。窓を少し開け、リーゼの椅子を風上へ置いた。
ディートリヒ殿は鞄から婚姻用紙を出した。折れた端は伸ばされていたが、筋が白く残っている。
「役所が形式にこだわっている。君がここへ名を書けば済むことだ」
「リーゼの返事は、どこにありますか」
「家同士では、すでにまとまっている」
「リーゼの返事を伺っています」
ディートリヒ殿は私を見た。役所で使っていた整った語尾が、そこで一度途切れた。
「この婚姻は本家に必要だ。リーゼにとっても悪い話ではない。後見人殿には、道理を理解していただきたい」
空欄を指していた手が、机の下へ引かれた。代わりに鞄から品書きを取り出し、婚姻用紙の横へ置いた。
「持参品についても、本家で責任を持つ。十分な支度だ」
以前と同じ三行だった。外套、薬箱、本。購入日も、支払った者の名も変わっていない。
私は外套の行へ指を置いた。
「これは、誰が用意しましたか」
ディートリヒ殿は答えなかった。指を薬箱へ移した。
「これは」
「細かな勘定を今さら持ち出すのか」
本の行を指した。三点目で、ディートリヒ殿の手が品書きへ伸びた。
「これは」
「すべて君の名になっている。それで満足か」
私は紙から手を離した。外套は廊下の掛け具にあり、薬箱はリーゼのそばにあり、本は開いたまま窓辺にある。品書きにして運べるものではなかった。
「本家名義の品は、どれですか」
「婚姻が決まれば用意する」
「決まった後で」
「本家には本家の順序がある」
ディートリヒ殿の声が、リーゼへ向けられたときだけ太くなった。
「お前も黙っていないで、アルベルトへ言いなさい。これはお前のためだ」
リーゼの胸元で呼吸が止まった。私は椅子を引かず、彼女とディートリヒ殿の間に立ったまま、婚姻用紙をこちらへ寄せた。
「後見人殿。君はクラウゼの血を引かない。だからこそ、本家の決定へ従うのが筋だろう」
私は机に置かれたペンを取り上げ、空欄の横へ置き直した。インク壺の蓋は開けなかった。
「血は、書きません。書くのは人の手です」
ディートリヒ殿の口元から、次の言葉が消えた。私の手と空欄を見比べたが、ペンは机の上で動かなかった。
「では、条件を聞こう」
「条件はありません」
「持参金か。住まいか。リーゼの扱いなら、本家から嫁ぎ先へ念を押す」
「リーゼの返事がない縁談には署名しません」
「だから、その返事を本家が」
「本家の返事ではありません」
ディートリヒ殿の指が、机の縁を二度たたいた。役所では用紙の前で止まった指が、この家では音を立てる。リーゼへ届く音だけは、まだ自由になるらしい。
「君が拒めば、本家の面目が潰れる。この話をまとめるため、どれだけの者が動いたと思っている」
「本家が動かした方々には、本家からお話しください」
「君もクラウゼを名乗っているだろう」
「本家の後始末を引き受けるとは届けていません」
窓から入った風が、婚姻用紙の角を持ち上げた。ディートリヒ殿は手のひらで押さえ、しばらくその姿勢を崩さなかった。
「本家には、養わねばならぬ者もいる」
「では、ディートリヒ殿がお養いください」
「余裕があるなら、君が一部を」
「ありません」
家の金庫に何があるかを、私は知らない。リーゼの外套と薬と本に使う分なら、五年間、一度も本家の勘定へ入れなかった。
「リーゼを引き取った君にも、本家を支える責任はあるはずだ」
「本家の扶養を引き受けておりません」
ディートリヒ殿は品書きを見た。三つの行は、今度も増えなかった。
リーゼの呼吸が、少しずつ長くなった。彼女は私の背ではなく、机の向こうの用紙を見ていた。
「署名はしないのだな、後見人殿」
「リーゼが選んでいないものには」
私は用紙を彼の側へ返した。ディートリヒ殿は端をそろえ、品書きと一緒に鞄へ入れた。
立ち上がっても、帽子をかぶるまでに時間がかかった。リーゼには何も告げず、私へも頭を下げずに戸口へ向かった。
「この話が潰れれば、リーゼにも傷が残る」
私は扉を開けた。返事の代わりに、外で待っている馬車を見た。
ディートリヒ殿が乗り込むと、御者台が揺れた。馬車は本家へ戻り、本家が進めた縁談と、本家に残る者たちの暮らしも、その車輪の後ろへついていった。
扉を閉めると、リーゼが薬箱へ手を伸ばした。だが小瓶は取らず、箱の蓋を一度押さえただけだった。
「兄さん」
「ああ」
「私が選んだら、書くの?」
机の上にはペンだけが残っていた。私はインク壺の蓋を閉め、椅子を元の位置へ戻した。
「君が選んで、君が頼むなら」
「兄さんがいいと思わなくても?」
「私の欄に、私の相手を書くわけではない」
リーゼは窓をもう少し開けた。入ってきた風で本の頁が数枚めくれ、途中で止まった。
本家の婚姻話は、それから先へ進まなかった。ディートリヒ殿は自分で始めた話を自分の名で断ることになった。
リーゼのところへ詫びを伝える使いは来なかった。代わりに品書きだけが一度郵便で戻り、三つの行には取り消し線が引かれていた。
私はその紙を暖炉へ入れなかった。外套の代金も、薬箱の中身も、本の頁も、線を一本引いた程度では本家のものにならない。書類箱の一番下へ置き、蓋を閉めた。
* * *
冬がほどけかけた午後、テオが家を訪れた。役所の鞄は持っておらず、濃い色の上着も着ていなかった。
私は応接の小部屋へ通し、リーゼを呼んだ。彼は立ったまま彼女を待ち、椅子を勧めても、本人が来るまで座らなかった。
リーゼが戸口に現れると、テオは一礼した。彼女も礼を返し、私の隣ではなく、窓に近い椅子へ座った。
「今日は役所の取次ではありません」
テオは両手を膝の上へ置いた。机には書類を出さず、リーゼの顔が上がるまで待った。
「リーゼさんに、婚姻を申し込みに参りました」
リーゼの指が、椅子の布へ触れた。以前のようにつままず、織り目を一筋なぞって止まった。
「私に、ですか」
「はい」
「クラウゼ本家ではなく」
「あなたにです」
テオはそこで言葉を切った。役所で説明するときの短さと同じだったが、次の問いを急いでは置かなかった。
リーゼが私を見た。五年間、薬の量を決めるときも、学ぶ本を選ぶときも、訪ねてきた者へ返事をするときも、最後には向けられた視線だった。
私は何も言わなかった。膝の上で手を組み、彼女が息を吸い直す音を聞いた。
一度目は浅かった。二度目は肩が下がり、三度目で胸元の布がゆっくり戻った。
テオも動かなかった。拒まれたときの言葉も、承諾されたときの書類も先へ出さず、空いた机をそのままにしている。
リーゼの視線が私から離れた。窓辺の本、棚の薬箱、廊下に掛けた外套を順に見てから、テオへ戻った。
私は机の上へ手を置いた。そこに用紙はなく、空欄もなかった。
「では、ご本人の返事を伺いたい」
今度は誰も遮らなかった。
リーゼは布から指を離した。椅子の背に預けていた体を起こし、テオをまっすぐ見た。
「テオさん」
「はい」
「私は、あなたと暮らしたいです」
テオはすぐに返事をしなかった。膝の上の手を一度開き、また重ねた。
「私の隣へ来てくださいますか」
「はい。自分で行きます」
リーゼの声は、閉じた窓にも、誰かの返事にも塞がれなかった。最後の音まで出てから、テオは頭を下げた。
彼は持ってきた封筒をそこで初めて取り出した。婚姻用紙を机へ置き、リーゼが内容を読み終えるまで、ペンには触れなかった。
リーゼは一行ずつ確かめた。嫁ぎ先、日取り、自分の名。最下部の署名欄で指を止め、私を見ずに言った。
「兄さん。お願いします」
私はインク壺の蓋を開けた。ペン先の余分な一滴を落とし、後見人の署名欄へ一度だけ名を書いた。
アルベルト・クラウゼ。
乾いたのを確かめてから、ペンを置いた。用紙をリーゼの前へ戻し、私は半歩下がった。
リーゼは立ち上がった。私の袖を取らず、差し出されたテオの手にもすぐには触れず、自分の足で彼の隣まで歩いた。
並んでから、彼女はその手を取った。私は二人の後ろで、書類箱の鍵をポケットから抜いた。
もう控えを戻す場所は空いていた。兄でいるのに、箱は要らなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




