✦ Interlude ― 美乃と再会した午後 ―
仕事帰りに立ち寄った、
なんてことのないカフェ。
ほんの少しの偶然が、
環の胸を小さく揺らした。
柊の過去に触れるのは、
ときどき少し怖い。
だけど——
その“揺れ”の先にあるものは、
いつもぽかぽかとした「安心」だった。
柊、環、そして凪。
3人が何気なく過ごす日常の一幕。
その中にある“選ばれた手”と
“家族のような温度”を描いた、小さな物語です。
カフェの静かな午後。
ミーティングを終えた柊、凪、環は、いつものように席に向かおうとしていた。
そのとき、背後から落ち着いた女性の声がする。
「……柊くん?」
振り返った瞬間、柊の目がわずかに見開かれた。
そこに立っていたのは、かつてクロノス時代に同じプロジェクトで働いた先輩――北澤美乃だった。
◇◇◇
最初に彼女が口にした言葉は、
いつか柊に届かなかった想いの残り香だった。
「好きと言わずに終わる。
……これほど後悔するとは思わなかったわ。」
その表情は、凛として、少しだけ寂しげで――
自分自身にようやく区切りをつけた女性の表情だった。
「あなた、いい人見つけたのね。」
柊は一瞬だけ視線を落とし、言葉を選ぶ。
「……はい。結婚しました。」
その言葉を聞いた途端、美乃の瞳がやわらかい光を帯びた。
「そう……なら、安心したわ。
もし私があなたのそばにいたら……きっとあなたを壊してた。
私ではダメだったのよ。」
そう言って微笑むその横顔は、やっぱり美しくて、
どこか諦めて、そして祝福していた。
「結婚おめでとう。
あの子の手、離しちゃダメよ。
……あの子がいなくなったら、きっとあなたが壊れてしまう。そんな気がするの。」
◇◇◇
少し離れた席で、環はその姿をただ見つめていた。
胸がぎゅっと締めつけられ、言葉も出ない。
凪が気づいてそっと声をかける。
「環さん、大丈夫ですよ。
柊先輩、環さんしか見てませんから。」
そのひと言に、環の胸の奥がじんわり熱くなる。
少し涙がにじんだ。
◇◇◇
美乃との会話を終え、柊が戻ってくると、
環は笑顔をつくったが、隠しきれない不安がにじむ。
それに気づいた柊は、黙って環の手を握った。
そこへ、凪がいつもの調子で割り込む。
「柊先輩、あの方誰ですか?
まさか元カノとか?……じゃないですよね〜。」
「凪、何言ってんだ。違う!そんなんじゃない。」
環はまた胸がぎゅっとして、視線を落とした。
「じゃ〜誰なんですか〜? 何話してたんですか〜?」
凪がいたずらっぽく追及する。
柊は小さく息を吐き、ふっと苦笑した。
「あの人は、俺がクロノスに入って3年目くらいのころ、同じプロジェクトメンバーだった人だ。
……昔の気持ちを、さっき初めて聞かされた。」
環の肩が小さく震える。
「でも、結婚したって言ったら……」
柊は環の手を軽く握り直す。
「すぐに環のこと、わかったみたいだ。
『大切にしろ』って言われたよ。
だから安心していい。俺には環だけだから。」
「……柊……」
環は小さく頷いた。その目には少し光が戻っていた。
凪がニッと笑う。
「ほら〜!やっぱりそうだと思ってましたよ〜。
ね、環さん。」
「……凪くん……ありがとう。」
柊は照れ隠しのように環の肩を少し強く引き寄せる。
「凪、おまえ、環になんて話してたんだよ……?」
「聞いちゃいます?
“柊先輩は環さんしか見てませんよ”って言っただけですよ〜。」
「……っな……おまえな〜……」
「だって、本当にそうじゃないですか。
もし環さんがいなくなったら……柊先輩、壊れそうですもん。」
「……は? おまえ、話聞いてたのか?」
「いや、聞こえませんでしたよ。ねぇ環さん。
まさか同じこと言われたんですか?あの人に。」
「……あ、ああ……そうだ。まったく同じこと言われた。
……凪、おまえ、ときどきびっくりすること言うよな。」
「え〜? そんなの毎日見てればわかりますよ〜。」
そのやり取りを聞きながら、環がふっと笑う。
「お、やっと笑ったな。」
「……はい。
2人の会話って、なんかぽかぽかしますね。
私、柊と凪くんと一緒にいられて……幸せだな〜って思いました。」
「そうか……俺も環が隣にいてくれて幸せだよ。」
「もう〜またイチャイチャ始まった〜!
ちょっと僕もいるんですからね〜!」
「はは……そうだな。
凪、おまえも入ってるよ、ちゃんと“幸せ”の中に。」
「そうですよ。私たち“家族”ですから。」
「よかった〜!ありがとうございます〜!!」
◇◇◇
深夜の寝室。
淡い灯りの中、柊は環を抱き寄せながら、目を閉じていた。
――あの言葉。
“あの子がいなくなったら、あなたが壊れる。”
そして凪の同じ言葉が、不思議と胸に刺さる。
同じ頃、環もまた思い返していた。
「もし私がいなくなったら、柊が壊れる……」
胸がきゅっと痛んで、柊の胸元に顔をうずめる。
「……環、どうした?怖い夢でも見たか?」
「ううん……違うの。
今日、凪くんが言ってた言葉思い出して……
柊が壊れるって……怖くなったの。」
柊はしばらく黙り、環の髪に手を添える。
「そうか……
俺もその言葉、思い出してた……」
「え?柊も?」
「うん……俺は、自分でもそう思う……環がいなくなったら俺は俺自身を見失うだろうなって。」
「……柊……私、柊の前からいなくなったりしません。なにがあってもここにいます。……だから安心してください。ちゃんと柊の隣にいます。ずっと……私は柊を壊したりしません。」
「うん。わかった。ありがとう、環。」
「柊……怖かったんですか?」
「そうだな……ああ言われて驚いたけどな、俺はずっとそう思っていたのかもなって思ったら怖くなった……」
「……柊……私も怖かったんです。
柊が壊れるって聞いたとき、私じゃなくて柊が壊れちゃうのがいやだって思いました。私が柊を壊してしまうのがいやだって……柊を壊したくない……柊は柊のままでいてほしい……私は絶対、柊を壊さない……そう思いました。」
「……環……」
柊は環のぬくもりを確かめるように強く抱きしめ
静かに息を吐いた。
ほんの一瞬の不安も、
誰かを想っている証なのかもしれない。
環は、不安になった自分を嫌うのではなく、
“隣に手を差し伸べてくれる人がいる”
ということを、あらためて知った。
柊は言葉で説明するよりも、
手を握ることのほうが誠実だと知っていて、
凪は2人が少し揺れると、
そっと背中を押す役になる。
3人でいるときに生まれるあたたかさ。
それは家族と呼びたくなるような、
静かで優しいひかり。
不安でさえ、
この場所ではぽかぽかに変わっていく——
そんな幕間でした。




