第16話 均一じゃないからこそ
「正しい理論」と「正しいデータ」が衝突する時、答えは常にその間にあります。
噛み合わないからこそ、二人で辿り着ける場所がある——
農園に戻って三日目の朝。マーガレットの早馬が届いた。
定期訪問ではない。書簡だけだった。
シルフィが封を切り、一読して顔色を変えた。
「カイ。東街道の診療所——あの試験注文を出してくれた主任から、連絡よ」
嫌な予感がした。シルフィの表情がそれを裏付けている。
「『ギルドの通達範囲が拡大された。研究目的の個別調達にも規制が及ぶ可能性が出てきたため、当面、新規の発注を見送りたい』——だそうよ」
唯一の直販ルートの起点が揺らいでいる。あの主任が個人の裁量で見つけてくれた抜け道すら、ギルドは塞ぎにかかっている。
シルフィが帳簿を開いた。
「現在の備蓄銀貨、三十一枚。月あたりの支出は温室建設の資材費込みで十五枚に増えてるわ。フィオナの生活費も加わったから。収入がゼロになった場合——」
「二ヶ月」
俺が先に言った。四ヶ月あった猶予が、半分になっていた。
「温室を完成させて星月花を咲かせるか、その前に資金が尽きるか。時間との勝負ね」
その通りだった。だからこそ、今日の作業が止まるわけにはいかない。
* * *
作業小屋では、フィオナが朝から回路図を描き続けていた。
「ここの伝達回路、全部やり直すわ」
テーブルに広げた設計図の上に、フィオナが新しい図面を重ねた。対称配置の魔力伝導回路。隣接する基板同士が共鳴周波数で同期する構造。彼女が学会で研究していた共鳴伝播理論の応用だった。
俺は隣で、昨日までに計測した実測データを記録帳に整理していた。温室予定地の魔力密度分布、地中の雲母結晶による伝導率の偏り、外気温の時間変動パターン。
「フィオナさん。共鳴点の配置座標ですが、計算の前提は均一場ですか」
「当然でしょう。共鳴伝播理論のモデルは均一場を前提としてる。教科書に載ってる基本仮定よ」
俺は記録帳を開いた。
「実測値です。温室予定地の魔力密度は、北端で十四・二、南端で十一・八。偏差は約十七パーセント。均一ではありません」
フィオナの手が止まった。しかし、すぐに首を振った。
「十七パーセント程度なら、共鳴場の自己補正効果で吸収できるわ。主導波形が確立すれば、局所的な密度差は平準化される。理論的に証明済みよ」
俺にはその「理論的に証明済み」がどこまで現場で通用するか確信が持てなかった。だが、押し問答をしても先に進まない。二ヶ月の猶予が頭の隅にある。
「わかりました。試作で検証しましょう」
* * *
翌日。温室予定地の一角に設置した試作回路が起動した。
六枚の基板が対称に配置され、伝導体が幾何学的な精度で走っている。学会で「美しい理論」と呼ばれた所以が、実物になると一目で理解できた。
最初の二秒は理論通りだった。
三秒目。北端の基板の同期が0.3秒遅れた。
五秒目。南北の基板間で位相差が発生し、制御信号が干渉し合い、温度制御パラメータが振動を始めた。
「止めてください」
俺が声をかけた時には、北端の基板が過負荷で赤熱し始めていた。フィオナが慌てて魔力供給を断ち、回路が沈黙した。
焦げた魔力伝導体の匂いが漂う。
俺は解析スキルで試作回路の状態を読み取った。
「北端の魔力伝導率が南端より十二パーセント低い。地中の雲母結晶の分布が不均一で、理論が前提とする均一場はここには存在しません」
「……理論通りにいかないはずがないのよ。何か外的要因が——」
「外的要因が、現場です」
フィオナの顔が強張った。
「じゃあ私の理論が間違ってるって言いたいの」
「理論が間違っているとは言っていません。前提条件が現場と合っていない、と言っています」
声に感情を込めないようにした。これは論争ではない。事実の確認だ。
フィオナは歯を食いしばり、何か言いかけて——設計図を掴んで作業小屋に戻っていった。
* * *
残された試作回路の片付けをしながら、リシアが口を開いた。
「あの人の図面、すごくきれいでした。一つ一つの線が正しい場所にある感じがした」
「理論は正しいと思います」
「カイさんのデータも、正しいんですよね」
「はい」
「なら——両方正しいなら、合わせればいいんじゃないですか」
単純な言葉だった。だが、核心をついていた。
* * *
深夜。作業小屋の灯りが消えていなかった。
中に入ると、フィオナが机に突っ伏していた。テーブルには書き散らされた数式と、丸められた図面が散乱している。
「ずっと考えてた。学会でも同じだったの。理論は美しいのに、実験すると合わない。データがおかしいんだと思ってた。実験条件が不完全だって。でも——」
声が震えた。
「——本当は、私が現実を見てなかったのよ。理論の前提が現場と合わないことを認めたら、研究の全部が崩れると思ったの。だから目を逸らした。学会に追放されたのは、理論が間違ってたからじゃない。私が、理論と現実の乖離を認められなかったからよ」
俺はテーブルの空いた椅子に座った。
「俺の記録帳のデータを使ってください。魔力密度の分布図、伝導率のマッピング、地温の時系列データ。全部あります。均一場の仮定を外し、不均一場での共鳴伝播モデルを新たに構築する。それがあなたの理論の本当の実力を示す方法です」
フィオナはしばらく黙っていた。それから、俺の記録帳を手に取った。
「……不均一場での共鳴伝播。学会では誰も考えなかった拡張モデルね」
ペンが走り始めた。
二時間後。フィオナの目から赤みが消え、代わりに研究者の光が戻っていった。
「できた。不均一場の補正係数を導入すると、共鳴点の最適配置が変わるの。基板は六枚のまま、配置は非対称。美しくはないけど——」
「機能しますか」
「する」
即答だった。フィオナの声の質が変わっていた。
「計算上、同期率は均一場モデルより高くなる。偏差を利用して共鳴を増幅できるの。皮肉ね、均一じゃないからこそ、より強い共鳴が生まれる」
シルフィが横から工期を試算した。
「この設計なら、製作日数は当初見積もりの六十パーセント以下。資金リミット内に収まるわ」
二ヶ月の猶予。六割の工期。数字上は、間に合う。
窓の外が白み始めていた。フィオナはペンを置き、自分の新しい設計図を見下ろした。
「……ありがとう。理論だけじゃ、ここには来られなかった」
温室の設計は、根本から刷新された。
だが——俺はその日の試作失敗の瞬間を思い返していた。魔力供給を断つ直前、解析スキルが一瞬だけ拾った異常値。遮蔽容器の中の魔力種子が、回路の過負荷に呼応するかのように、ごく微かに脈動の周期を変えたように見えた。
誤検知の可能性が高い。だが、記録帳の隅に数値だけは書き留めておいた。
噛み合わなかった理論とデータが、一つの設計に結実しました。しかし、資金の猶予は残り二ヶ月。そして、農園の心臓たる魔力種子に、微かな変化の兆しが。




