第15話 追放された研究者の雇用
同じ痛みを知っているからこそ、かけられる言葉があります。
「居場所がない」という絶望の中に、差し出せる手を持つ者の物語。
ノルデン町は、辺境の交差路に位置する小さな宿場町だった。
農園から馬車で半日。マーガレットの描いた簡易地図を頼りに、俺は一軒の酒場の前に立った。
『赤軒亭』。看板の文字は色褪せ、扉の蝶番は錆びている。
昼間から酒場に人影はまばらで、カウンターの奥で皿を洗う音だけが響いていた。
「すみません。こちらに、魔導具の技術者が働いていると聞いたのですが」
店主が面倒くさそうに顎をしゃくった。
「ああ、あの変わり者か。奥にいるよ。——おい、フィオナ。客だ」
洗い場から現れたのは、くたびれた作業着を着た女性だった。年齢はおそらく二十代半ば。薄い青灰色の髪を無造作に束ね、手は皿洗いの水で赤くなっている。袖口には洗剤で荒れた肌が見えた。しかし、その目だけは鋭く、知性の光が消えていなかった。
カウンターの端には、紙束が無造作に置かれていた。目を凝らすと、回路図のようなものが描かれている。皿洗いの合間にも、彼女は何かを設計し続けていたのだ。
「……何の用ですか。もう学会には関係ない人間ですけど」
声には疲弊と微かな敵意が混じっていた。学会関係者からの嫌がらせか、あるいは好奇心の冷やかしか。そのどちらかだと思っているのだろう。
「学会の話ではありません。仕事の依頼です」
フィオナの目が一瞬だけ揺れた。だが、すぐに警戒が戻る。
「仕事? 私は学会から除名された人間よ。魔導具の製作資格も剥奪されてる。私に何を頼もうって言うの」
「資格は問題ではありません。俺が求めているのは、理論を設計に落とし込める頭脳です」
俺はテーブルに座り、鞄から温室の設計図を取り出した。
フィオナは最初、無関心を装っていた。だが、設計図がテーブルに広げられた瞬間、彼女の目が変わった。
無意識に、一歩近づいていた。
「……これ、環境制御型の閉鎖温室? 熱交換回路はグリッド分岐式ね。ディフューザーは天井設置——悪くない設計だけど……」
「だけど?」
「伝達回路の配線が冗長すぎる。十二枚の基板を直列で接続してるけど、これだと信号遅延が累積してセクション間の制御タイミングにずれが出る。もっと根本的な問題として——」
フィオナの声は変わっていた。皿洗いの疲弊した声ではなく、理論を語る者の声。研究者の声だった。
「——この回路構成は、各基板が独立して動作する前提で設計されてるわよね。でも、もし基板間で共鳴結合を形成できれば、信号は同時到達になる。基板の数も、半分で済むわ」
「共鳴結合?」
「魔力伝導体の配置を対称構造にして、隣接する回路同士が共鳴周波数で同期する設計。私が学会で研究してたのは、まさにこれなのよ。『魔導回路の共鳴伝播理論』。実用性がないって一蹴されたけど」
俺は息を飲んだ。
基板十二枚が六枚に減る。それだけで工数は半分になる。伝導率の問題も、共鳴結合による同期で解消される可能性がある。さらに、同期が実現すれば制御精度は個別基板方式より大幅に上がる。温度や湿度のパラメータ制御が、より細かく安定する。
彼女の理論は、俺の設計に欠けていたピースそのものだった。学会が「実用性がない」と切り捨てたこの理論が、俺の温室には完璧に嵌まる。鑑定には使えなかった俺の解析スキルと同じだ。場所さえ変われば、能力は開花する。
「フィオナさん。率直に聞きます。俺は辺境で農園を営んでいます。小さな組織で、資金にも余裕はない。ですが、あなたの理論を実装する場なら提供できます」
「……実装? 学会は私の理論を『机上の空論』って呼んだのよ。実験すらさせてもらえなかった」
「だからこそ、です。俺も似た経験があるので。ギルドでは『無能』と呼ばれたスキルが、農業に応用したら最強の分析ツールになった。理論は、使い方次第です」
フィオナは長い間、設計図を見つめていた。
指先が無意識に回路の配線を辿っている。ここをこうすれば、と頭の中で既に設計を再構成しているのが見て取れた。
「……条件は?」
「住居と食事は農園で保証します。報酬は現時点では銀貨五枚が限界ですが、温室が稼働して星月花の収益が出れば、利益の一部を技術持分として還元します。それと——」
俺は一拍置いて、続けた。
「あなたの研究は、うちの農園で実証実験ができます。共鳴伝播理論を実際の装置で検証する場を、俺が提供します」
その言葉に、フィオナの目の奥で何かが灯った。
金でも待遇でもなく、「理論を試せる場所がある」という一言が、彼女の心を動かしたのだと思う。
長い沈黙の後、フィオナは水で荒れた手を膝の上で握りしめ、小さく、しかし明確に言った。
「——行くわ。あんたの農園とやらに」
店主が奥から怪訝な顔を覗かせた。フィオナはエプロンを外してカウンターに置き、壁際の棚から自分の理論書の束を取り出した。それだけが彼女の本当の荷物だった。
* * *
農園への帰り道。
荷馬車の後ろに、フィオナの荷物——小さなトランク一つと、分厚い理論書の束——が積まれていた。荷物の少なさが、彼女がこの町でどれほど追い詰められていたかを物語っている。
馬車が辺境の田園路を揺れながら進む中、フィオナが口を開いた。
「ねえ。一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「あんた、なんで初対面の人間をこんなあっさり雇うの。私が詐欺師かもしれないのに」
「あなたが設計図を見た時の目を見ました。あの目は、嘘をつける目ではありません。それに——」
俺は設計図の余白に、フィオナが先ほど走り書きした回路の改善案を見た。即興で描かれたものとは思えない精緻な図。対称配置の配線パターン、共鳴点の座標指定、期待される同期率の概算値。走り書きのはずなのに、すべてが論理的に整合している。
「——この改善案の精度が、あなたの能力の証明です。データは嘘をつかないので」
フィオナは少しだけ笑った。
皿洗いの疲弊した顔ではなく、研究者としての——いや、技術者としての笑顔だった。
「……変な農家ね。データで人を信用するなんて」
「俺にはそれしか判断基準がないので」
農園に人が増える。四人目のメンバー。
生産担当のリシア、管理担当のシルフィ、流通担当のマーガレット。そして今日から、技術担当のフィオナ。
この農園は、もう一人の個人事業ではなくなりつつある。
お読みいただきありがとうございます。
新たな仲間、フィオナ。彼女の理論が温室の設計を大きく変えます。




