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まるでこびりついた泥のように

作者: 美濃由乃

※注意

・人によっては、物語の展開や結末に、精神的なストレスを感じる描写があるかもしれません。

・タグはあくまで要素です。解釈が微妙に違ったり、薄かったりする場合があります。

上記それでもいいよという方は、ぜひ読んでみてください。


かおる、ご飯粒ついてる」

「え、どこ?」

「口のとこ、右下の……そこそこ」

「ホントだ。おしえてくれてありがと、姉さん」

「まったく、ゆっくり食べなよ」

「だって姉さんのご飯美味しいから」


 汐入彩世しおいりあやせは、そう言って笑う年下の幼馴染に、盛大な溜息をついてみせた。


「ご飯粒顔につけて登校する高校生が弟とか、姉として恥ずかしいんだけど?」

「姉さんがおしえてくれるから、登校する前に気づくでしょ」

「おい、私頼みかよ」


 彩世がツッコミをいれると、年下の幼馴染、瀬奈薫せなかおるはいたずらっぽく笑って、また朝食をかきこむように食べ始めた。

 その言葉のとおり、彩世が作った朝食を、心から美味しいと思ってくれているのだろう。薫の食べっぷりを見ていれば、それが疑いようもない本心だとわからされる。


 だから彩世は溜息をつくくらいで、それ以上薫をたしなめることはなかった。

 弟のように大切にしている幼馴染の言葉が、素直に嬉しかったから。


「ごちそうさま。美味しかったです」

「ん、私もごちそうさまでいいや」

「姉さんもおわり? あれだけでホントに足りるの?」

「へーきへーき、女の子はね、みんな小食だから」


 姉さん、と薫から呼ばれている彩世だが、ふたりは別に姉弟ではない。

 彩世と薫は、同じアパートの隣同士の部屋に住む幼馴染だ。

 こうして彩世の家で食事をするのは、昔からの習慣で、幼い頃から家族のように過ごしてきた影響か、薫の姉さん呼びは、高校生になった今でも定着してしまっている。


「ふ~ん、太ったなら食事抜くより運動した方がいいよ」

「あのね薫。女子高生は太らないんだよ」

「はいはい。凄いんだね女子高生って」

「そう。体重計がおかしくなっちゃっただけだから、絶対そうだから」

「あはは、じゃあ片づけるから、姉さんはちょっとゆっくりしてて」

「あんがと……いや、やっぱり今日はふたりでやろっか?」

「なんで……あぁ、わかったよ。ふたりでやろうね。女子高生の姉さん」

「言っとくけど、深い意味はないから。ちょっと動きたいだけだから」


 下手な言い訳をして、彩世は薫と並んでキッチンに立った。

 薫がふたりの食器を手際よく洗っていく。その手つきは慣れたものだ。それも当然のこと、食後の片付けは、昔から薫の役目だったから。

 姉さんは食事を作ってくれるからと、まだ自分よりも小さかった薫が言ってくれたときのことを、彩世は今でもはっきりと覚えている。


 あの日以来、食後の片付けは薫が毎日やってくれている。

 もちろん食事前の準備や他の家事も、現在の薫は彩世と交代でやっている。

 ただ、一番はじめに薫が、自分から何かをしようとしたのが、食後の片付けだったからか、ここだけは薫が譲ってくれないのだ。その代わりに、料理に関しては彩世が譲らないのだが。


 そんなわけで、いつもは洗い物をする薫の後ろ姿を眺めている彩世だが、今日は食器用の布巾をもち、薫から手渡される食器を拭いていく。

 ふと横に視線を向ければ、実の家族より見慣れた幼馴染が目に入る。


 しゃれっけのない黒髪。彩世が髪を暗めのブラウンに染めたとき、一緒に染めようと誘ったのに、薫は恥ずかしかったのか、絶対に首を縦に振らなかった。そんな薫の黒髪は艶があって綺麗だ。

 今では彩世も、あの時染めなくて正解だと思っていた。こんなにも綺麗な黒を、なくさなくてよかったから。


 ふたりの身長はほぼ同じ。昔は彩世の方が大きかったのに、今では並ばれてしまっている。

 それでも薫は、男子としては小柄な方だ。線の細い体躯を見ていると、年頃女子の彩世としては、少し羨ましくもなる。

 だが同時に、幼い頃の、骨が浮き出すくらいに痩せていた薫の姿を知る彩世としては、しっかりと成長し、今では自分と同じくらいまで背が伸びた薫の姿は、純粋に嬉しいものでもあった。


「どうしたの?」

「ん、寝癖ついてないかチェックしてあげてただけ」

「もう子供じゃないだから、自分で確認するってば」

「え〜、さっきは顔にご飯粒つけてたのに?」

「うっ、でもそれなら姉さんだって寝癖ついてるよ」

「うそっ!?」

「後の方ね。鏡見てきなよ」

「うん。あ、でも」

「僕が全部片付けるから大丈夫だよ」

「わかった。ありがとね」


 結局、彩世は数枚の食器を拭いただけで、残りは薫に任せ洗面台に急いだ。


 彩世は鏡で自身の姿を確認する。

 女子の中では平均的な身長。太っているわけではないが、自慢できるほど細くもない。

 顔つきは悪くはないはずだ。昔の彩世は近所でよく可愛らしいと言われていたから。

 問題の髪の毛に目を向ける。毛先が内側にまいたミディアム。最近髪を染めたのは、薫に背が追いつかれたから、少しでも年上っぽくしたくて。


 薫に指摘された箇所を見てみれば、見事に髪が乱れていた。薫がいなければ、彩世は学校で恥ずかしい思いをしたことだろう。

 そんな未来を回避できたことを安堵しつつも、彩世の心中は、複雑な思いでいっぱいだった。

 自分は薫に対してしっかり年上らしく振舞えているか。

 そんな悩みを彩世は抱えていたから。




 彩世が薫と出会ったのは、小学校二年生の頃だった。

 学校が終わり家に帰ると、隣の部屋のドアの前で、座り込んでいる男の子がいたのだ。


 彩世よりも幼く見えた小柄な男の子。その細い身体つきは見るからに不健康そうで、彩世は子供ながらに心配になったものだった。


 まだ春になったばかりの季節だったはずのその日。すでに日が傾いてきていたその時間は、もう肌寒くなっていて、少年は自分の小さな身体を抱きしめるようにして、さらに小さくなっていた。


 彩世が通りかかっても一瞥もすることなく、黙って座ったまま、部屋のドアを見上げている。その瞳は鋭くて、明らかに年下だろうと分かっていたのに、彩世は声をかけるのを少しためらった。


「ねぇ、どうしたの?」


 それでも放っておけなくて声をかけた彩世。驚いたのか、鋭い表情を崩した男の子と視線が合う。

 見開いた瞳は大きくて、年相応の幼い顔つきに戻った少年は、素直に可愛らしかった。


「……おうちのかぎ、なくなっちゃって」


 舌足らずの喋り方。彩世はそこで、少年が自分よりも年下だと確信した。そうとくればなおさら、このまま少年を置いていくことはできず、少年の目線に合わせるように、彩世はしゃがみ込む。


「わたしのおうちにきなよ。となりだから」

「いいの?」

「うん。そとさむいでしょ? かぞくの人がかえってくるまでいれてあげる」

「でも、おかあさん、いつかえってくるかわからないよ」

「いつもおそいの? なんじくらい?」

「ぼくはいつもねちゃってるから、わかんない」

「おとうさんは?」

「おとうさんはかえってこないよ」


 詳しい理由はわからない。

 どうして少年のお母さんはいつも帰りが遅いのか。

 どうして少年のお父さんは帰ってこないのか。

 もし理由を説明されたとしても、幼い彩世には、全てを理解することはできなかっただろう。

 けれどこのときの彩世には、詳しい理由など、どうでもいいことだった。


 家族のいない家に帰り、一人で過ごす。

 そんな少年の生活が、まるっきり自分と同じだったから。


 目の前にある彩世の家のドア。

 あのドアを開けても、おかえりなさいと言ってくれる人は誰もいない。

 あるのは暗くて冷たい、深海のような空間だけ。


 仕事が忙しいと、そう両親は言っていた。

 詳しいことはもちろん知らない。

 帰りが遅いときもあれば、帰ってこない日も多々あった。

 いつも、どんなときでも、家では彩世はひとりぼっちだった。


 学校が終われば毎日、彩世はあのドアを開けて、ひとり深海へ沈んでいた。

 彩世の孤独の日々は、もう何年も続いていて、光のない世界で耐え続けていた彩世は、もう何も見えなくなる寸前だった。

 いずれ、目の前の少年も、自分と同じようになってしまうのだろうか。そう考えたとき彩世は、自然と少年に手を差し出していた。


「ならやっぱりうちにきなよ。いっしょにあそぼ」

「う、うん。ありがと、おねえちゃん」


 少年が彩世の手を掴む。

 その手はとても小さく、そして冷たかった。

 彩世は同じ境遇にいながらも、健気に耐える年下の男の子の手を、しっかりと握り締めた。

 この少年が、これ以上深いところに沈んでしまわないように。



 それが彩世の薫との出会いだった。

 そのあと学年をきけば、やっぱり薫は一つ年下で、彩世はますます使命感に燃えたのだ。

 年上として、自分がこの少年を守るのだと、幼いながらに意気込んだ彩世。

 彩世が責任を感じるほどに、少年の姿は誰かの助けが必要そうだったから。


 やせ細って年齢以上に小さく見える少年は明らかに栄養不足で、きけば毎日のご飯は、コンビニで買うお弁当だという。さらには嫌いはものは残していて、栄養バランスなんてあったものではなかった。


 服だって洗濯ができているのか怪しくて、とにかく見ていて心配になることばかりだったのだ。

 だから彩世は、熱心に薫の世話を焼いた。まるで姉になったかのように。


 ただし薫と出会うまで、彩世も自炊なんてしていたわけではなかったし、家の家事で出来ることも、そこまで多くはなかった。


 当然、はじめは沢山の失敗を繰り返した。

 ご飯は上手く炊けずにべちゃべちゃで、洗濯で服をダメにしたり、掃除をしようとして家具を壊した。

 年上として上手く振舞えず、恥ずかしくて泣きそうになったこともあった。

 けれど、そんなときは必ず、薫がそばにきて寄り添ってくれた。


 ご飯が食べれずお腹がへっているだろうに、愛着があるらしかった服がもう着れなくなって悲しかっただろうに、壊れた家具で怪我をして痛かっただろうに。

 薫は一切泣くことなく、泣きそうになっていた彩世を心配するかのように、そっと手を握ってくれた。


 最初は、ただの使命感だったのだ。

 自分よりもかわいそうな年下の少年を助けるのだと。

 それが変わったのは、使命感だけではなくなったのは、いつのことだったか。彩世はもう覚えていない。


 とにかく薫と過ごすようになってすぐ、彩世にとって薫は、本当に大切な、なくてはならない存在になったのだ。


 薫とふたりで過ごす家には、もうどこにも光の届かない場所なんてなかった。

 たとえドアを開けたとき、おかえりなさいと言ってくれる人がいなくても、ふたりでただいまと言いあえば、それだけで見慣れたはずの寂しい家が、彩世にはまるで違う場所のように見えた。

 帰ってこない家族に会いたいと、そんなふうに無駄な願いに身を焦がすこともなくなった。

 自分にとって大切な家族が彩世にはできたから。


 つまり彩世は、自分が世話をして助けるのだと、そう思っていた相手に、むしろ救われていたのだ。


 あの出会いから、彩世と薫は、心に空いた孤独の穴を埋め合うように、常に一緒に過ごしてきた。

 本当の家族は、もうお互いに必要としていない。

 彩世にとっては薫が唯一の家族で、薫にとっての彩世もきっとそうなのだろう。


 今でも彩世は薫を弟のように大切にしているし、薫も彩世のことを本当の姉のように慕ってくれている。

 だから彩世は、高校生になった今でも変わらず、頼りになる年上として、薫のそばにいようとしているのだが、それこそが彩世の悩みの種になっていた。





「姉さん? 僕もそろそろ歯磨きしたいんだけど」


 思索に耽っていた彩世は、薫の声で我に返った。

 目の前にある鏡には、首をかしげている薫が映っている。どうやら、もうとっくに食後の片付けは終わったらしい。


「あ、ちょっと待って、すぐ代るから!」

「いや、まだなら別に慌てなくていいから」

「うん。ありがと薫」


 鏡越しに、離れていく薫の背を見送りながら、彩世はまた悩みをふくらませた。

 寝癖を発見されたことも、気を遣わせたことも、どちらも年上としては、相応しくない姿だったから。寝ぐせを見つけてあげるのも、気を遣って洗面台を譲ってあげることも、彩世は自分が薫にしてあげたいのだ。


 薫の気遣いが嬉しいということを否定はしないが、それでもしてもらうより、彩世はしてあげる立場にいたかった。

 よすがとなる存在として、薫のそばにいたかったから。


 幼い頃、彩世が面倒を見てあげれば、薫は眩いほどの笑顔を彩世に見せてくれた。

 どこに行くにも後を付いてきて、何をするにも一緒にやろうとしてくれた。


 あの頃の薫は、まるで親鳥のあとを懸命についてくる雛鳥のようで、彩世は自分が頼られ、必要とされていると感じることができた。

 求めても帰ってくることのない両親から、自分は必要とされていないと思っていたあの頃の彩世にとって、薫から頼られることは、心に必要な栄養と同義だったのだ。


 薫のおかげで、自分が生きている意味を感じることができた彩世にとって、薫の世話を焼くことは、彩世のアイデンティティを確立する行為であり、今ではもはや、生きがいのようなものになっていた。


 だから彩世は、今でも幼い頃のように薫から頼ってほしいと、そう心から思っているのだが、最近は幼い頃から築き上げてきた、自分の立場が揺らいでいるようにも感じていた。


 薫が成長するにしたがって、頼られる頻度は減っていたし、なんなら先ほどのように、薫から気を遣われてしまうことすらある。

 彩世がしたことといえば、顔についたご飯粒を指摘したくらいで、それだけで年上らしかったかといえば、正直微妙なところだった。


 まるで立場が入れ替わったかのような逆転現象は、薫が高校生になってからは、今まで以上に増えてしまっている。

 普通に考えれば、なにも悪いことではないのだろう。むしろ、できることが増え、気遣いまでできるようになった薫が、よい成長をしていると思えば、それは喜ばしいことだと思うのが普通だ。


 彩世にだって、そんなことはわかっていた。

 わかっていて、それでも彩世は、どうしても手放しで喜ぶことができない。


 もう貴女は必要ない。薫からそう言われているような気がして、どうしても心が落ち着かなかったから。


 彩世は鏡に映っている自分の姿を改めて眺めた。

 じっくりと年上らしさを探してみるも、どこからどうみても年相応。どうしてもそんな言葉が一番しっくりきてしまう。

 特に大人びた顔つきをしているわけでもない。

 身長だって目立つような高さはなく平均的。

 制服を少し押し上げている胸のふくらみは微々たるもので、大人の女性らしさも足りているとは言えないだろう。

 結局、自分の大人らしさを発見することができず、彩世は自分の胸に手をおいたまま、そっと溜息をついた。


「姉さん? なにしてるの?」


 彩世が音がしそうなほどの勢いで顔をあげれば、鏡に映っている薫と目が合った。若干引き気味な表情だが、それでも一応は心配して声をかけてくれたらしい。

 恥ずかしい場面を見られてしまい、また年上としての威厳が損なわれたような気がして、彩世は変なことをしていた自分を呪いたくなった。


「別に、なにも」

「そ、そうなんだ……えっと、もう歯磨きしていい?」

「ん、どうぞ」


 逃げるようにして洗面台を譲った彩世は、結局のところ、寝癖を直すのを忘れたのだった。





「ねぇ薫、昨日やってた宿題は全部できたの? もしわからなくてそのままにしてるなら学校で教えてあげるけど?」


 登校中のこと。薫とふたりで通学路を歩く彩世は、隣を歩く幼馴染に問いかけた。

 彩世と薫は同じ高校に通っている。当然のように毎朝の登校は一緒にしていて、こうしてふたりで並んで歩くのは、彩世にとっての当たり前の日常だった。


 このありふれた光景は、薫が入学してから今日まで、一日たりとも例外はない。

 はじめのうちは、クラスメイトに薫との関係を聞かれたりもしたものだが、最近は物珍しさもなくなったのか、薫とふたりでいても、誰かに気にされることもなくなっていた。

 それくらいに、ふたりが一緒にいることは当たり前だと、周囲にも理解されたのだろう。


 そんな日常の一幕の中で、彩世は家での失態を挽回しようと躍起になっていた。

 世話を焼くはずが、逆に気を遣われて、挙句の果てには、変な行動をしている姿を見られてしまい、彩世の年上としてのプライドにひびが入りそうになっていたから。


「昨日の? あぁ、あれなら全部終わらせたから大丈夫だよ」


 彩世は学年でも成績がいい方だ。一年のときに勉強したものは、今でもしっかりと理解している。だから勉強でなら、年上としての面目を簡単に保てると考えたのだが、そう簡単には活躍させてくれないらしい。


 薫も中学の頃から成績がよかった。昨日やっていた宿題も、すぐにしまっていたから、なんなく解いてしまったのだろう。

 勉強を教えてあげて、頼りになる年上感を出すという彩世の単純な作戦は、始まることもなく失敗に終わったのだった。


「そっか、なら最近学校で困ってることとかもない?」

「ないけど、急にそんなこと聞いてきてどうしたの? なにかあった?」


 首をかしげた薫に彩世は覗き込まれる。どうやらしつこすぎたらしい。年上らしく振舞いたいなど、そんな恥ずかしい本心を言えるわけもなく、彩世は視線をそらしてごまかすしかなかった。


「ん~ん別に、ちょっと心配になっただけ」

「心配しなくて大丈夫だよ。仲のいい友達だってできたし、勉強も今のところ大丈夫だからさ」

「それなら安心だけど、もし困ったら言ってよ。勉強でも、他のことでも」

「心配性だなぁ。本当に大丈夫だよ。いつまでも姉さんに頼ってたら悪いしね」

「そんなこと、ないけど」


 言葉に詰まって、彩世は並んで歩いている薫を見た。

 すがるような彩世の視線にも気づかずに、薫はまっすぐ前を向いていて、どんどん歩いて行ってしまう。まるで彩世のことなんて目に入っていないかのように、先へ先へと進んでいく。

 簡単に頼れる相手がいるというのに、しっかりと自分の足で、自分の意思で踏み出して行ってしまう。


 実際は隣を歩いているというのに、なぜか取り残されたような気分になって、彩世は思わず薫に手を伸ばしていた。

 その手がもう少しで薫に届きそうになったとき、


「うわっ、なに?」


 気が付いた薫が、跳ねるようにして身を引いた。

 まるで、触れられたくないかのように。

 そんな反応を見せられた彩世は、けして小さくない動揺を感じた。ついさっきまで晴天だったのに、急に暗くなって雨が降ってきたような、転直下な心境。


 血のつながった家族よりも大切な幼馴染から避けられた痛みは深く、年甲斐もなく泣きたくなるくらいには苦しかった。

 けれど、この程度で本当に泣くわけにはいかない。

 そんな、まるっきり子供のような姿を薫に見せるわけにはいかないから。

 だから彩世は、そんな自らの心境を悟られないように笑った。


「なにびっくりしてるの? 埃ついてたからとってあげようとしたのに」

「あぁ、そうだったんだ。言ってくれたら自分で取るから、どこ?」

「ん、もう取れたみたい。ていうかこれくらいやってあげるのに」

「甘やかさないでよ。僕だってもう高校生だよ?」

「え~、別に高校生とか関係なくない?」

「まぁそうだけど、姉さんは世話焼きだから言ってるの。他にもいろいろしてくれようとするけど、ホントに大丈夫だから」


 会話をしながら歩いているうちに、もう校舎もすっかりと見えていた。

 それだけ学校の近くまで来ているということは、他の生徒もそれなりに歩いているということ。

 だからだろうか、薫はもじもじと所在なさげに身体を動かし、視線を右往左往させ、周りの生徒を確認するように見渡した。

 それから、あろうことか彩世と少し距離を取ったのだ。

 まるで、恥ずかしいから親と一緒にいるところを見られたくない子供のように。


 薫の行動は、少なくとも彩世にはそう見えたのだ。

 それは彩世にとって、先ほど身を引かれたときよりもショックな出来事だった。


「ちゃんと自分でやるからさ、もう僕のことは気にしないでよ姉さん」

「ねぇ薫」


 どうして、私から離れて行こうとするの?

 そんな彩世の悲鳴は、言葉としてこの世に生まれることはなかった。

 なぜか、


「あ! 薫じゃん!」


 彩世の日常。

 薫とふたりで歩く通学路。

 ふたりだけのはずのその時間に、第三者の声が響いたから。


 彩世が反射的に声がした方を向けば、そこにいたのは、同じ学校の制服に身を包んだ、一人の見知らぬ女子生徒だった。


志穂しほさん! おはよう」


 溌剌とした挨拶を返した薫は、彩世と話していたときとは、明らかに違う表情かおをしていた。

 急に声をかけてきた女子生徒は誰なのか、どうして薫はそんなにも嬉しそうにしているのか。

 今起きていることが何一つ理解できず、状況についていけない彩世をそのままにして、薫は女子生徒の元へ行ってしまう。

 取り残されるかたちになった彩世は、その場で離れていく薫の背中を、ただ見ていることしかできなかった。


「はよ~! 登校中に会うの初めてじゃない? いつもこの時間?」

「うん。だいたいそうだよ。志穂さんは今日早いね」

「早起きしちゃってさぁ。偉いっしょ?」

「あはは、それは偉い!」

「でしょ~! んじゃ教室一緒に行こーよ」

「うん。あっ」


 間に入るのが難しいほど近い距離。それが薫と女子生徒の仲の良さを、端的に表していた。

 ずいぶんと親し気な様子で会話は弾んでいる。

 女子生徒からの誘いに、しっかりと返事をしたあとで、薫は少し気まずそうに言葉を区切った。

 すっかりと忘れていた何かを、そこでやっと思い出したかのように。


「姉さんごめん。友達と行ってもいい?」


 振り向いた薫は、一歩たりとも彩世の元には戻ってこずに、その場から問いかけてきた。

 彩世と薫との距離は、いったい何歩ぶんだろうか。

 薫と見知らぬ女子生徒の間には、一歩ぶんの距離もないというのに。


「う、うん。気にしないで」

「ありがと、じゃまたね」


 それだけ、本当にそれだけの会話で、薫は躊躇なく行ってしまう。彩世がどれだけ必死になって言葉を絞り出したかなんて、微塵も気にしていないのだろう。

 薫に背を向けられたとき、彩世には何かが割れるような音が聞こえた気がした。


 「お姉さんなの?」「いや、なんていうか…」遠ざかっていくふたりの会話がすぐに聞こえなくなる。

 自分ではない人の隣で歩く薫の姿を、彩世はただ見送ることしかできなかった。



 どれくらいその場で立ち尽くしていたのだろうか。


「あれ彩世じゃん。どしたの?」


 彩世はクラスの友人に声をかけられて、やっと放棄していた思考を取り戻した。


「めずらし、今日は弟君と一緒じゃないの?」

「え、あぁ、うん。さっきまで一緒だったよ」

「あ、やっぱり? ホント仲いいよね。うらやましいなぁ」

「そう、かな」

「うちの弟なんて生意気なだけでまったくかわいくないからさ、いない方がマシだったわ」

「ちょっと、そこまで言ったらかわいそうじゃん」

「いやマジで。本当の弟ってそんなだから。彩世は恵まれた立場だって自覚したほうがいいよ」


 自らの弟を思い出し、苦虫を嚙み潰したような顔になる友人と一緒に、彩世は学校に向かった。

 本当なら、薫と歩いていたはずの道のりを。



 その日の彩世は、当然のように何をするにも身が入らなかった。

 授業はほぼ聞き流したようなものだったし、昼食だって食べたことは覚えているが、美味しいとか、甘いとか、とにかく味を感じた記憶がなかった。

 それくらいに、朝の出来事が彩世の頭の中でぐるぐると暴れまわっていて、他のことを考えるメモリがどこにも残っていなかったのだ。


 一日を無駄にするように過ごし、迎えた放課後。いつものように合流した薫と下校し、家で一緒に過ごしている間も、彩世は今朝見た女子生徒のことで頭がいっぱいだった。


 薫が『志穂』と呼んでいたあの少女。

 胸のあたりまで伸びたふわふわの髪は、明るいブラウンで、とても目立っていた。

 スカート丈は限界まで短くしていて、健康的な太ももを惜しげなく披露している様は自信に満ちていた。

 制服の上からでもわかるくらいだった胸のふくらみは、きっと男子にはさぞ魅力的に映ることだろう。

 どこをとっても人目を惹きつける要素が溢れていて、何もかもが彩世とは違う、女の子の魅力を極めたような外見の少女だった。


 クラスにいれば、きっと自然と中心になるような存在だろう。

 そんな少女と、今朝の薫は親し気に会話をしていた。

 少女の方から薫に声をかけてきていたことからも、親し気という見立てに、大きな誤りはないだろう。


 いったいあの少女と薫はどういう関係なのか。

 そればかりが異様に気になってしまい、一日中それだけに思考を占領されていた彩世は、もういい加減に限界だった。


「ねぇ、そういえば今朝の子なんだけどさ」


 あれからずっと考えていたなんておくびにも出さず、まるで今思い出したかのように、彩世は薫に声をかけた。


「今朝? あぁ志穂さんのこと?」

「そうそう、ずいぶん親しそうだったけど、クラスメイト?」

「そうだよ。隣の席なんだ」

「仲いいんだね」

「志穂さんって明るくて話し上手だからさ、誰とでもあんな感じだよ」


 そう志穂のことを褒める薫は、まるで自分のことのように誇らし気で、それがまた彩世の心を重くした。


「へぇ~、薫が特別ってわけじゃないの?」

「特別ってなにさ」

「いや、薫を見つけて声をかけてきたとき、ずいぶん嬉しそうに見えたから」

「気のせいじゃない? いつも賑やかな人だから」

「ふ~ん、じゃあ薫はどうなの?」

「どうって?」

「あの子のこと気にならないの?」

「別に僕は気になんて、ただいつも仲良くしてくれるから、それだけでいいんだ」


 そう言った薫の顔は、見たこともないほど真っ赤で、その顔の色が、言葉とは裏腹な本心を物語っているようなものだった。


「仲がいいことは否定しないんだ?」

「え、まぁ、それなりによく話すし」

「仲良くなるきっかけとかあったの?」

「別にいいでしょ、なんだって」

「え~気になる!」

「もぅ、境遇が似てたんだよ。志穂さんの親も忙しくてあまりいないんだって、それで意気投合した感じ」

「へぇ~……そうだ、私も挨拶しにいこうかな、姉として」

「絶対やめて!」

「なによ。そんなに拒否しなくたっていいじゃん」

「やめてよホント、恥ずかしいから」

「恥ずかしいって、それ結構失礼だからね!」

「ごめんって。でもホントに来ないでよね」


 必死になって拒否の意思表示をする薫。

 そんな薫の反応が、彩世には納得できない。

 何度か薫の友達を交えて会話をしたこともあるというのに、どうして志穂のときは、ここまで拒否されなければならないのだろうか。

 そこまで考えたとき彩世は、最近の薫の行動もここに結び付くのではないかと直感的に感じたのだ。


「もしかして、最近やたらと自分でなんでもしたがるのって、あの子と関係あるとか?」

「べ、別にそんなことないよ! もう僕も高校生だし、なんでも出来るようにならないとって思っただけで」


 問いかけると、薫はわかりやすいくらいに動揺していた。

 つまりは、彩世の直観が当たっていたということ。

 薫は明らかに、志穂の目に映る自分の姿を気にしている。

 それがどういうことを意味しているのかを理解したとき、彩世はまた音を聞いた。

 あの何かが割れるような音。

 何かはわからない。けれど今度は、それがどこから聞こえたのかが彩世にはわかった。

 彩世の中から聞こえてきた音だった。


「とにかく! 志穂さんとはただの友達だから!」

「う、うん」

「……志穂さんの話になったから、ついでに言うんだけどさ」


 頬を朱に染めたままの薫がそんなことを言ったとき、彩世は反射的に耳を塞ぎたくなった。

 けして目を合わせようとしない薫は、気恥ずかしさをごまかしているようにしか見えなくて、そんな薫が何を言い出すのか、彩世は怖くて仕方なかったから。

 けれど実際に耳をふさぐ暇なんてなく、薫はすぐに話し始めてしまった。


「明日なんだけどさ、志穂さんから遊びに誘われてて、行ってきてもいいかな?」


 前振りから、志穂が関係していることはわかっていた。

 けれど、わかっていたからといって、動揺するなというのは到底無理な話しで。

 彩世は、いつもの自分という仮面を付け続けるために必死だった。


「放課後ってこと?」

「うん。だから一緒に帰れなくなるんだけど」

「それくらい気にしないで行ってきなよ」

「ありがと。それと、もしかしたらご飯も食べてくるかも」

「そうだなんだ。じゃあ明日の夕飯はいらない感じ?」

「うん。僕のぶんは気にしないでいいよ」

「そっか、あまり遅くならないようにね」

「わかってる。遅くなりそうなら、迷惑かけないようにそのまま家に帰るから」

「そこは気にしなくていいってば、それより明日はふたりだけで遊びにいくの?」

「一応ふたりでって言われたから、そうだと思う」

「へぇ~やるじゃん! このこの!」

「ちょ、やめてよ姉さん」


 ダメなんて、とても言えるわけがなかった。

 薫が明らかに楽しみにしているのが、彩世には分かってしまったから。

 彩世はその楽しみを奪って、薫から嫌われたくなかった。

 だから、ただの姉ならこう答えるだろうと、そう思ったことを笑顔で伝えるしか、彩世にはできなかった。





「ただいま」


 彩世の声は、深海のように冷たい家の中に溶けていき、何一つとして返ってくる反応などなかった。


 着替えさえする気になれず、彩世は鞄を床に捨て、リビングの椅子に倒れこむようにして座った。

 昨晩、薫から志穂と遊びに行くと聞いてから、彩世の思考が落ち着くこは一瞬たりともなかった。

 まるで眠れる気がしない夜をベッドの上で過ごし、いつもは心穏やかに過ごしている薫との朝も、心がざわついて仕方なかった。


 挙動不審のようになっていた彩世だったが、そんな様子を薫が心配してくれることもなかった。

 心ここにあらずといった様子の薫は、すでに心が放課後に向いているようで、彩世の変化になど気が付いてくれなかったのだ。

 学校での時間も二日連続で無駄に浪費して、放課後いつものように昇降口で薫を待ち、それが無意味なことだったと思い出して、彩世は一人で帰宅してきた。


 今頃きっと薫は、志穂とふたりで楽しく過ごしているのだろう。

 そんな光景を想像してしまうたびに、彩世はひたすら息苦しくなる。

 どうしてこんなにも息苦しいのか、その答えを彩世は持ち合わせていない。

 彩世は目を閉じ、答えを求めて思考の海に潜っていく。


 簡単に思い浮かんできたのは、弟から姉離れされて悲しいというもの。

 幼い頃は、いつも後ろをついてきた薫が、今はもう自分の意思で行く先を決めてしまう。

 それは、姉として、頼りになる年上としてありたいと思っている彩世には、嬉しくも寂しいことだから。

 だから薫がいないだけで、こんな気持ちになるのだろう。

 一見すると的を得ているような考察に、彩世も一度は納得しかける。

 けれど、どうしても引っかかるものがあった。

 本当にそれだけなのだろうかと。


 息が苦しくて、喉をかきむしり、首に穴をあけたくなるようなこの苦しみが、本当にそんな理由で起こるものなのか、彩世には納得できない。

 弟が離れていくだけで、姉とはこんなにも辛い想いをするものなのだろうか。


 クラスの友達は言っていた。弟なんて生意気なだけでかわいくもないと。いない方がいい、一人っ子がよかったと。

 そんな悪態をついていた友達は、弟という存在に辟易しているように彩世には見えた。

 全ての姉弟がそうではないのだろう。けれども、本当の姉にとって弟とは、その程度の存在なのだろうか。

 だとしたら、こんなにも苦しい想いをしている自分はなんなのか。


 苦しくて、とにかく助けてほしくて、そんな想いをしている彩世の頭に浮かぶのは、やっぱり薫の姿だけ。

 たとえ自身を苦しめるこの気持ちを定義することができなとも、彩世は、薫が自分から離れていくのが嫌なのだと、それだけは嫌でも理解していた。


 ドアの外から通路を歩く音がして、彩世は思考の海から引き揚げられた。

 薫が帰ってきてくれた。そんな希望の光は、灯った瞬間には消えてしまう。足音は彩世の家の前を通り過ぎて行ってしまったから。


 行ってしまう足音を追うように見ていた彩世は、すでに外が暗くなってしまっていることにやっと気が付いた。

 時間を確認すれば、すでに夕食を食べていてもおかしくないくらいの時間になっていて、けれど薫が帰ってくる気配はない。スマホを確認しても、連絡一つ入っていなかった。


 少しの間、彩世は悪足掻きのように、何もせずに時間を浪費してみる。それでも薫が帰ってくることはなく、仕方なく重い腰を上げて、一人夕飯を食べることにした。

 けれども、とても料理なんてする気分にはなれない。

 どんなに腕によりをかけて作っても、今日はあの笑顔を見ることができないから。

 ただそれだけで、毎日の日課ですら、彩世には苦痛な作業のように思えてしまったから。


 冷凍していたご飯と、あまりもののおかずをレンジで温める。それだけの作業ですら億劫で、お皿なんて出さずに、保存していた容器から直接口に運ぶ。

 口に入れたものを飲み込むためには、自力だけでは足りなくて、水の力をかりて流し込んだ。

 顔を上げても、向かいの席には誰もいない。

 まるで幼い頃、薫に出会う前に戻ってしまったような感覚に襲われて、彩世は自分の身体をきつく抱きしめた。


 一人は嫌だったから。

 薫のおかげで、彩世は自分が生きている意味を見出すことができた。

 薫がいたから、親から必要とされていないと思っていた彩世は、自分が存在していてもいいんだと思うことができた。

 だから薫がいなければ、今の彩世はこの世界に存在していない。

 薫がいなくなったら、彩世はもうこの世界に存在できない。


 そばにいてほしい。

 どこにもいかないでほしい。

 一緒にいてくれたら、なんでもしてあげるから。

 そんな本心を、一人で過ごす家は嫌でも自覚させてくる。

 けれど、だからといって、彩世は薫に自らの胸中を語ることなどできない。


 だって志穂といた薫は、あんなにも嬉しそうにしていて、彩世が見てきた中で、一番眩しく見えたから。

 本音を伝えて引き留めたら、あの笑顔は見る影もなく曇ってしまうのだろう。


 なによりも大切な薫に、そんなことを彩世はしたくなかった。

 だから、すぐにでも声を聞きたい衝動を抑えこみ、手に取ったスマホを手放した。下手なことをしてしまわないように、彩世は残っていたご飯を口に運ぶ作業を再開した。


 薫のいない一人の夕飯。深海のような家で食べるご飯は、彩世には痛いほどに冷たく感じた。





 結局、その日のうちに彩世が薫の顔を見ることはなかった。

 翌日、いつもの時間に彩世の家にやってきた薫の姿を見たとき、彩世はやっと悪夢から覚めたような気分になった。

 ただ一度の連絡もなく、一晩のうちに冷え切ってしまった彩世の心は、凍傷で腐り落ちてしまう寸前だった。


 もしかしたら、このまま薫は一生帰ってこないかもしれないなんて、そんな不安に押しつぶされそうだった。

 だから、当然のように薫が家に来てくれて、彩世は心から嬉しかったのだ。

 なのに、


「姉さん、今日も一緒に帰れないから、先に帰っててね」


 そんなことを薫に言われてしまえば、彩世はまだ自分が悪夢の中にいるのだと、認識を改めるしかなかった。


「今日も志穂さんと遊びに行くの?」

「うん。昨日帰り際にさ、明日もどうかって誘ってくれて」

「そうなんだ。またふたりきり?」

「まぁ、その予定」

「志穂さんってすごい積極的だね。もしかして薫のこと好きなんじゃない?」

「そ、そんなわけないって! 隣の席だしもっと仲良くしたいって言ってたからそれだけだよ!」

「な~に慌ててんの? 薫もホントはそう思ってたとか?」

「そんな自意識過剰なこと思ってないってば! 揶揄わないでよ姉さん」

「あはは、ごめんってば」


 いかないで。

 私と一緒にいて。


 口を開くたびに出そうになるそんな言葉を飲み込んで、彩世はいつもの姉として、相応しいものだけを選んで言葉にする。

 上手く笑えているかを気にしながら、必死になって本心を抑え込む。

 薫と一緒の賑やかな朝の時間。昨日一人で過ごした夜とはまるで違うはずなのに、どうしてか彩世は寒いままだった。


 薫の幸せを邪魔しないように、そう自分に言い聞かせて、彩世はおぞましい本心を押さえつける。

 ただ、どんなに彩世が我慢したところで、この状況が好転することなど、何一つとして起こらなかった。


「姉さんごめん。志穂さんに一緒に登校しようって誘われて、明日から朝は先に行くね」


 急いでご飯をかきこんだ薫は、彩世を置いて行ってしまうようになった。


「週末は志穂さんと出かける約束しちゃったから、こっちこれないと思う」


 ふたりでなにをするでもなく、一緒に過ごしていた穏やかな時間も奪われた。


「あ、志穂さんだ。じゃあ僕行くね!」


 学校での何気ない少しの会話ですら、彩世は取り上げられた。


 一日。また一日と過ぎるごとに、彩世の世界から、薫という要素が一つ、また一つと削ぎ落されていく。

 そのたびに彩世は、自分という存在が壊れていくのを実感していた。

 それでも必死になって、漏れ出してしまいそうになる本心だけは、自分の中に閉じ込める。

 薫の邪魔をしないように。姉としての矜持だけを頼りにして。


 けれど、彩世はとっくに限界を超えていたことを、自覚できていなかった。




「あのぉ、汐入先輩ですよね?」


 ある日の昼休み。彩世は志穂に声をかけられた。どうして志穂が急に接近してきたのかは分からない。だというのに、ものこの時点で、彩世は嫌な予感で頭が痛くなり始めていた。


「突然すみません。あたし一年の」

「あ、志穂さん、だよね? 薫から聞いてるよ」

「え、そうだったんですか?」

「薫とは毎日一緒にいるから、いつも薫と仲良くしてくれてありがとうね」


 意識してにこやかに、それでも言葉を選ぶことはできなくて。

 彩世は言葉を発した後で、まるでマウントをとろうとしているかのようなことを言ってしまったことを少し後悔した。

 けれども幸運なことに、根がいいのか、頭が緩いのか、とにかく志穂は彩世の言葉を、そのままの意味で受け取ったらしい。

 気分を害した様子もなく、目を輝かせて距離を詰めてきた。


「それなら話しが早いっていうか、薫のことでちょっと話があるんですけど、いいですか?」

「えっと、なにかな?」

「ぶっちゃけちゃうと、あたし薫のこと好きで」


 恥ずかしがる様子もなく。オープンに心情を開示してくる志穂。

 彩世にはできないようなことも、この派手な外見の少女には、とても簡単なことらしい。

 それがまた、彩世の心をぐちゃぐちゃにする。

 まるで異性を虜にするのなんて簡単だと、そんな自信の表れのようで、とにかく気に入らなかったから。


 そしてそれ以上に、はっきり好きだと言われたことで、彩世の中に確かに存在していた焦燥感が、意識できるほどに大きくなった。

 奪われたくない。

 そうはっきりと心が訴えていることを、彩世は自覚した。


「それで、薫が意識してくれてるのか知りたくて、あたしのこと、なんて言ってるか教えてほしいんです」

「えっと、仲良しだって聞いてるけど、それくらいかな」

「それだけですか? あたしのこと意識してるような感じありませんでした?」

「う、う~ん。薫はそういうことあまり言わないから」

「そ、そうですか」

「なんかごめんね。役にたてなくて」

「いえいいんです。やっぱり変に回り道しないで、直接行く方があたしには合ってるから」

「え、それって」

「そのうち告ってみようかなって思ってるんでよ」

「そんなに、薫のこと好きなの?」

「はい! まぁけっこういい感じかなって、先輩も応援しててくださいね!」

「は、はは、うん。もちろん」


 意外にも礼儀正しくお辞儀をして去っていく志穂。

 彩世は何もできずにその背中を見送った。

 すぐに志穂の姿が歪んで、視界がぐにゃぐにゃと揺れ始める。

 瞬時に吐き気が襲ってきて、彩世は近くのトイレに駆け込んで、食べたばかりの昼食を全て吐き出した。


 口の中から、鼻を刺すような異臭がする。

 吐いた気持ち悪さで、視界が涙で潤んでいる。

 けれど、そんな些細なことを気にする余裕は、今の彩世には微塵もなかった。

 そのうち告ってみようかなって、志穂は確かにそう言っていた。

 その志穂の言葉が、彩世は何よりも怖かったから。


 彩世は志穂に嘘をついた。

 正確には嘘をついたわけではなく。知っていることをおしえなかった。

 薫の姿を見ていれば、志穂のことを意識していることなんてすぐにわかっていたから。


 嫌だった。

 薫が取られてしまう。

 薫が自分のそばからいなくなってしまう。

 彩世には、それが何よりも、嫌だった。


 ふらふらとした足取りでトイレから出る。

 どこに向かっているのかもわからない。

 それでも彩世の足は止まることがなくて、自然とある場所に向かっていた。


 一年の教室がある校舎の三階。

 ゆっくりと一段ずつ階段を上る。


 もう我慢も限界で、ただ嫌だとしか考えられなくて、泣きたくて、助けてほしくて、一人にしないでほしくて。


 彩世はただ薫に会いたかった。



「あれ、姉さん?」


 幻聴ではない。彩世が顔をあげれば、そこにはちょうど通りかかったらしい薫がいた。

 幼い頃、初めての家事を彩世がよく失敗していた頃、薫はいつもそばに寄り添ってくれた。

 あの頃のように今も、彩世が助けてもとめれば、薫はそれに応えてくれる。

 薫が通りかかったのは偶然だと分かっていても、彩世は泣くほど嬉しかった。

 嬉しくて、ただ薫にふれたくて、ふらふらと上手く動かせない足で駆け寄ろうとした。

 だからだろうか、


「姉さん!?」


 驚愕に目を見開き、手を伸ばしてくる薫。

 その姿がすぐに見えなくなり、彩世の視界には天井が映っていた。

 おかしいと思うと同時に、身体が宙に浮いていることを彩世は理解する。

 その瞬間には、激しい痛みと共に、彩世は意識を手放した。





 彩世が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。

 すぐ隣には酷い顔をした薫が座っていて、目を開けた彩世を見た薫は、その酷い顔をさらに歪めて泣き出した。

 とっさに薫に近寄ろうとした彩世は、身体中に痛みを感じて、そこでやっと、自分が階段から転げ落ちたことを思いだしたのだった。


「全身痛むだろうけど、右足が折れてて一番酷いかな。打ちどころによっては、もっと酷いことになってたかもしれなかったことを考えると、命があってよかったね」


 やってきた医師からの説明で、動かせない右足が折れていることを彩世は理解した。

 全身を打って怪我をしているが、幸いにも他は打撲程度で、折れているのは足だけらしい。念のため明日、脳の検査をして、異常がなければ、退院もすぐにできるとのこと。

 そんな説明を一緒に聞いていた薫は、命に別状はないよと医師に言われて、あからさまに安堵しているようだった。


「安心して姉さん、退院したあとは僕がお世話をするからね」

「はは、よい弟さんがいてよかったね」


 身を乗り出す勢いの薫を見て、医師は微笑ましそうに笑い、そのまま説明の時間は終わったようだった。

 どうやら薫が親への説明を自分ですることなど、すでに上手く病院側へ伝えてくれていたらしい。

 それだけでも彩世にはありがたいことだったが、薫はまだまだ物足りないかのように、身の回りの世話をかってでてくれた。


 入院中、薫は毎日病院までお見舞いに来てくれて、衣類や生活必需品を持ってきてくれた。

 薫がやってくるのは放課後になってすぐの時間。だから当然、遊びには行っていないのだろう。

 病院にいる間は彩世のそばを離れようとせず、その瞳に彩世の姿だけを映している。

 そんな薫の姿が、彩世にはまるで、出会った頃の薫に見えた。


 彩世だけが頼りで、彩世だけが世界と同義だった、あの頃の薫に見えたのだ。


 最近、志穂との時間を優先していた薫とは、一緒に過ごす時間がめっきりと減っていた。

 薫は志穂のことで頭がいっぱいで、彩世はまるで、薫から忘れられたような気がしていた。

 そんな薫が、今は彩世だけを見てくれている。


 心配してくれているというのは、痛いほど伝わってきた。

 昔から、彩世が失敗すると寄り添ってくれた薫が、誰よりも優しいことを彩世は知っている。


 心配をかけて申し訳ないと思う。

 不安にさせてしまい、心苦しい。

 すべて彩世の本心だ。彩世は心から薫を安心させてあげたかった。

 けれど、そうはしなかった。


 申し訳ないという気持ち以上に、彩世はこの状況に心地よさを感じてしまっていたから。


 幼いあの頃、一人だった頃に戻されたような恐怖と痛みを、また体験させられた彩世は、もう自分の心を理解してしまっていた。

 姉としてなど、ただのいいわけであることを。

 年上として、薫の世話をするといいつつ、自分が薫を必要をしていることを。

 それはけして弟としてなんかじゃなく、なくてはならないものとして。

 今の薫は彩世のそばにいてくれる。それがただただ心地よくて、もう絶対に離したくなくて、だから彩世は決めたのだ。


 薫が誰よりも優しいことを彩世は知っている。

 こんな状態になり、一人では生活することも難しい人間を、放っておいて遊びに行くなど、薫にはできないことを、彩世は知っていた。

 つまり彩世は、最近抱いていた焦燥を薫に隠したまま、自分のそばにいてもらう方法を悟ったのだ。

 そのとき、きっと彩世は決めてしまったのだろう。


 薫の重荷になることを。





「ごめんね薫。こんなに迷惑かけて」

「何言ってんの。いつも姉さんが面倒見てくれたんだから、こんなときくらい僕に頼ってよ」


 彩世は数日の入院を経て、今は無事に退院していた。

 折れた足での生活は確かに不便だが、数日のうちに松葉づえをつく生活にも慣れていた。


 早期に退院できたのは、ひとえに薫のおかげだった。

 退院日には薫が病院と家を往復して荷物を運んでくれ、松葉づえをついて歩く彩世の隣で、常に気を張ってついてきてくれた。

 家でも当然、薫は付きっ切りで世話を焼いてくれた。


 入院中も一度顔を出したくらいで、それ以降は来ることもなかった親を、彩世は初めから頼りにしていない。

 薫もそれは分かってくれていて、いつも夜は家に帰っていたところを、彩世の家に泊まっていてくれる。


 家事全般を一人でやってくれて、慣れないはずの料理も、スマホで調べながら悪戦苦闘しつつ頑張ってくれている。

 あり合わせや、買ったものでいいと彩世が言っても、薫は妥協しなかった。


 学校でも薫の献身は変わらない。

 登校中は彩世が転ばないように、隣で常に気を張ってくれている。

 休み時間のたびに連絡をくれるし、様子を見にきてくれることもある。

 放課後は教室で待っているようにお願いされていて、すぐに薫が迎えにきてくれる。


 薫と常に一緒にいられる彩世の日常が、ここに戻ってきてくれていた。

 いや、明らかに以前よりも、彩世は薫の時間を拘束していた。

 それこそ、離れる隙なんてないくらいに。

 遊ぶことなんて、もちろんできていないくらいに。


 一度、薫の迎えが遅かったときがあり、彩世は薫のいいつけを破って見に行った。

 そこで見たのだ。志穂に頭を下げている薫の姿を。


 きっと、もう何度も誘いを断っているのだろう。志穂は明らかに、以前のような空気を纏っていなかった。

 殺伐とした空気が漂う中、彩世はバランスを崩して壁に寄りかかる。

 その音を聞いた薫が気づき、志穂を残して、駆け寄ってくる。

 こちらを見たあのときの志穂の顔を、彩世は一生忘れることはないだろう。


 だが、たとえどんな表情かおで睨まれようと、もう彩世はこの安らぎを手放すつもりなんてなかった。



「ごめんね薫。いつも荷物持たせちゃって」

「いいんだって、こんなことくらい当然なんだからさ」


 そして今日も、彩世は薫に付き添ってもらって、家まで帰ってきた。

 荷物を薫が片づけてくれ、ふたりで少しの休憩をとる。とくに喋ることがなくても、ふたりの間にある空気が、彩世には心地よくて、向かいの席に座る薫を見ているだけで満たされた。


 そんな安らぎの中、机においた薫のスマホが震える。

 画面には、志穂からの着信が表示されていて、薫はすぐに戻るからと、外に出て行ってしまった。


 その姿を大人しく見送って、それからすぐに彩世はドアまで薫を追いかけた。

 通路で電話をしているのだろう。ドア越しに薫の声が聞こえてくる。


「だから、今は姉さんが大変だから!……志穂さんのことは、でも」


 微かに聞こえる会話。

 彩世はすぐに、バランスを崩して、盛大に転んだ。

 音に気が付いたのだろう。慌てた様子の薫が駆け込んでくる。


「姉さん! 大丈夫!?」


 薫の持つスマホからは、志穂の苛立つ声が聞こえてくる。

 それでも薫からの返事がないと、バカ! と大きな一声を最後に通話は切れたようだった。


「ごめん薫。私、薫に迷惑しかかけてないね。こんな私なんて、いない方がマシだよね」


 彩世は謝る。できるだけ惨めに見えるように。

 そんな姿を見せられた薫は、一瞬だけ見せた泣きそうな顔を、すぐ無理に笑顔へと変えた。


「そんな悲しいこと言わないでよ。姉さんは、僕にとって本当の姉さんなんだ。僕たちはお互い唯一の家族でしょ? 他に頼れる家族なんていないんだからさ、もっと僕を頼ってよ」


 薫は彩世を心から大切にしてくれているのだろう。

 家族として、彩世が薫に抱いているそれとは、違うものとして。

 わかっていた、彩世にはわかっていたのだ。薫から向けられる感情が、自分の想いとは似て非なるものだと。けれど、


「カッコよくなったね、薫」


 そばにいてくれるなら、それでもいい。

 だから彩世は笑う。姉としての顔で。


「茶化さないでよ」

「茶化してないよ。泣きそうだもん」

「嘘つけ」

「嘘じゃないよ。本当に嬉しいもん」


 彩世は知っていた。

 昔から一緒にいた薫のことなら、彩世は誰よりも理解しているから。

 心優しいこの幼馴染が、情に厚く、義理堅いことを。

 幼い頃から自分を姉と慕って、感謝してくれていることを。


 だから彩世は、薫の重荷になる事を決めたのだ。

 ただそばにいてほしくて。


「そばに居てくれて、ありがとう」


 彩世は支えようとしてくれている薫の手を強く握った。

 少しでも離れることのないように。

 払われたとしても、洗い流されそうになっても、けして落ちることのない、こびりついた泥のように。

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