第六話
雨の降る気配さえなかったのに、夜半が近づくと雷がごろごろと鳴り出した。風でガラス窓が小さく震えている。どこからか入ってきた風が燭台のろうそくの火をゆらめかせ、そのたびに部屋の中の影が伸びたり縮んだりする。
否応なしに高まる緊張に、人々は不安をあおられている。吸血鬼がやってくる前にはよくあることだ、とアリスは平然と構えた。
麗しの乙女は食事も喉を通らないありさまだったので、彼女の分の食事は、ほとんどアリスがいただいた。貧血は避けたい。
ユリウスは短い祈りを何度も捧げながら、自分の食事と、麗しの乙女の残した食事を少し食べた。腹が減っては戦はできぬということなのだろう。ユリウスがスープをすくうスプーンは小刻みに震えていたが、アリスはユリウスのことを、ほんの少しだけ見直した。
もしかしたなら最期の晩餐になるかもしれないのだから、食べておいた方がいい。
時計の針が十二時を指し、ボォンと大きな音をたてて時刻を知らせる。空を稲光が駆けていく。燭台のろうそくが一斉に消えたかと思うと、窓がゆっくりときしみながら開いた。
カーテンが風にふわりとふくらみ、音もなく吸血鬼が現れる。
「我が麗しの乙女よ、お迎えに参上しました」
吸血鬼は胸の前に手を当てて、うやうやしくお辞儀をした。
麗しの乙女は胸の前で組んだ手にますます力をこめて、神にくり返し祈っている。ぎゅっと目を閉じ、祈りの言葉さえ詰まらせた麗しの乙女に、吸血鬼は目を細めて微笑んだ。窓の外に再び稲光が走る。吸血鬼の微笑みが青白く浮かび上がった。
「これはこれは、みなさま、おそろいで。我が麗しの乙女のお見送りですかな?」
「吸血鬼め! お前の好きにさせるものか!」
アリスは吸血鬼のことを高慢ちきにしゃべる蚊だと思っているから、さして気にしないが、ユリウスは癇に障ったようだ。勇ましく怒るユリウスの様子を横目でうかがうと、カバンをごそごそと探っていた。
吸血鬼がしゃべらずに麗しの乙女を狙っていたら、間に合わないだろうな……と、アリスは先ほどユリウスを少し見直したことを後悔した。ちょっとばかり時間を稼いでやろう。
「こんばんは、はじめまして、吸血鬼さん。私はアリス」
仰々しい姿勢を崩さず、人々の恐怖すら味わうように窓辺に立つ吸血鬼に、アリスは限りなく簡素なあいさつをした。
「ほう、あなた……。極上の血の匂いがする」
「そうらしいね。食前酒に、おひとついかが? 干しぶどうを食べてきたから、ほんとにぶどう酒みたいな味がするかもよ?」
肩をすくめるアリスに、吸血鬼はいぶかしげな視線を向ける。それでもアリスの血のにおいには抗えないのか、吸血鬼がよろめくように一歩前に出た。
麗しの乙女だなんだと持ち上げていても、所詮は蚊だな──と、アリスは冷笑する。
今までそんな吸血鬼たちをごまんと見てきた。目の前にいる吸血鬼はどうだろうなと、アリスは値踏みするように軽くにらんだ。
「吸血鬼め! くらえ!」
突如、吸血鬼に網が投げつけられた。ユリウスだ。
「こんなもの……」
芝居がかった仕草で網を払い除けようとした吸血鬼の指が引っかかった。不気味なほど白い指が、そっと網目をなぞる。
「こんな……こんなもの……。くそう、気になって仕方ない!」
吸血鬼が網の目に夢中になっていく様子を見て、アリスは吹き出した。
吸血鬼を捕獲するのに、網は最適だ。彼らにとって網そのものは脅威ではないが、結び目が気になってしまって、網から出られなくなる。
いくら仰々しく飾り立てても、やはり蚊のようなものではないか。ちょっとは観察し甲斐のある吸血鬼だと思ったのにな──と、アリスは呆れながら目尻に浮かんだ涙をぬぐった。笑いすぎた。
「ほら」
アリスは自分の持っていたナイフで指先をちょんと突く。すぐに血が出て、小さな赤い球体が人差し指に浮かんだ。網目と格闘中の吸血鬼の前に差し出す。
「おお……おお……なんという芳醇な香り!」
ここに及んで、まだ仰々しさを崩しきれない吸血鬼が、アリスの指先をうやうやしく両手に取る。吸血鬼が指に唇を寄せて血をなめたのを、アリスは目を細めてながめた。彼の最期の言葉はなんだろう。
「……?」
吸血鬼は首を傾げると、どたりと音をたてて床に力なく転がった。先ほどアリスの指に触れていた吸血鬼の手が、さらさらと灰になって崩れ落ちていく。
「なあんだ。言葉もなく灰になっちゃう系か」
「……やったか!?」
ユリウスは銀の弾丸を詰めた銃を構えながら、灰と化した吸血鬼に近づいた。
いつの間にか、雷が止んでいた。窓の外では虫の声が響いている。