第十七話
じっとりとにらみつけるアリスには気づかないのか、ユリウスは言葉をつづけた。彼の頬がわずかに緊張している。
「あのときパンケーキを食べるあなたを見て、僕はアリスさんにこんな一面があったんだなって初めて知りました。あれが本来のあなたなんじゃないか……って」
予想外の言葉に、アリスは目を丸くした。
ユリウスの作ったふわふわのパンケーキを待つ間──アリスは母がパンケーキを焼くのを見守るような気持ちになった。それはアリスにとって、両親と暮らした子供時代を思い出すようなひとときだった。
「アリスさんは、自分を吸血鬼に差し出してきた人間がお嫌いでしょう。血を吸われるのも、痛いのも私……ずっとそうおっしゃってましたよね」
ユリウスは視線を合わさず、どこか寂しそうに笑った。窓の外を飛んでいく鳥が、ユリウスの表情に影を作った。
「僕にはずっと、それがわからなかったんです。アリスさんの血は、吸血鬼を倒すことのできる武器です。神に与えられた能力を活かさないなんて、どうして──僕はそんなふうに思ってました」
アリスは窓に目を向けた。朝の日差しが窓から差し込んでくる。眼下に、庭師が丹念に手入れをしていた植え込みが見えた。芝生がきらきらと輝いている。おそらく水を撒いたのだろう。
「でも違った。アリスさんは、人間の手によって、吸血鬼に差し出されつづけてきた。身代わりに、生け贄にされてきた。だからあなたは人間が嫌いだし、自分にそんなことをしてきた人間のために、危険を冒して吸血鬼と戦おうなんて思えなかったんだ」
「……そうだよ。ほっといても、吸血鬼は勝手に寄ってくるし」
アリスはあっからかんと言って、ベッドに腰掛けた。まったく話の通じなかったユリウスが急にアリスの言葉を理解したのがふしぎで、首をかしげてつづきをうながした。
「アリスさん、吸血鬼は蚊みたいなもんだって、よくおっしゃるでしょう? あなたにとっては、吸血鬼より人間の方がよっぽど恐ろしい。……この屋敷で人間に襲われて、牢に入れられて……僕にもほんの少し、あなたの気持ちがわかったような気がします」
ユリウスの声が、かすかに震えている。人間に襲われたのが、そんなに怖かったのだろうか。多分そうじゃないなと、アリスはゆっくりとまばたきをした。ユリウスの指先は、力が入りすぎて白くなっている。
人間に襲われたことで、アリスの考えをようやく実感できた──そうして吸血鬼への怒りを新たにした──そんなところだろう。
「アリスさんは人間がお嫌いかもしれません。でも……それでも、あなたには人間の側にいて欲しい。僕の身勝手な望みです」
ユリウスが顔を上げて、アリスをまっすぐに見つめる。
こんな顔だったっけな、とアリスは全然関係のないことを考えた。ユリウスは親しみのわく、温和な印象の顔つきだ。
「きっとここには、本来のあなたを取り戻せるような、ふわふわのパンケーキはないから」
「……ほんと、勝手だね」
パンケーキに目を輝かせる姿が本来のアリスだというなら、今のアリスは本来の姿でないとでも言いたいのか。そんなわけはない。
アリスの冷淡な反応に、ユリウスは困ったように笑った。
「でもユリウス君の作ったパンケーキは、ふわっふわで美味しかったよ。……また食べたいな」
アリスの言葉に、今度はユリウスが目を丸くする番だった。
しょんぼりした犬のような表情が一変する。
「ええ! 喜んで! アリスさんに無体を働く人間がいたら、僕がとっちめます!」
ユリウスの鉄拳制裁宣言に、アリスは思わず吹き出した。
まさか自分のために、人間に怒るような人がいるとは思わなかった。
ろくに守られたことのない女の子──アリスはそんな自己評価をくしゃくしゃに丸めるように、寝癖だらけの頭をかいた。
「それはまた……なんというか、暴力神父だねぇ」
「エクソシストは、吸血鬼や悪霊には力を振るいますから、暴力とは切っても切れない関係ですよ」
ユリウスの身もふたもない言葉に、アリスは声をあげて笑った。
柱時計がボォンと大きな音をたてて、時刻を知らせた。