第十六話
ユリウスに手紙を送った日の翌朝、アリスの部屋の扉が荒っぽく叩かれた。まだベッドでうとうとしていたアリスは、突然のことに驚いた。柱時計を見る。まだ朝早い。この屋敷でそんなことをする人間に、思い当たる節がない。
のそのそと起き上がって、あくびをしながら扉を開ける。そこにいたのはユリウスだった。頭に包帯を巻いている以外は、特に以前と変わらない。神父服が少し汚れているくらいだろうか。
「おはようございます、アリスさん」
「おはよう、ユリウス君。君、人質になったんじゃないの? まあ、部屋に入りなよ」
「女性の部屋に入るのは……」
「うん。そんなこと言ってる場合じゃないね」
「……ああ、神よ。女性の部屋に入るという、まぎらわしいことをしてしまう僕をどうかお許しください。緊急事態です。……お邪魔します」
エクソシストというのは、みんなこういうものなのだろうか。ここまで律儀の度がすぎると、いっそ馬鹿馬鹿しく思えてくる。アリスは肩をすくめて、ユリウスが部屋に入りやすいように半身をずらした。
扉を閉めるアリスを、ユリウスは複雑そうな顔でながめている。本当なら、扉を閉めて欲しくないのだろう。密室で二人きりになることを懸念しているのに違いない。
「まあ、緊急事態だからね」
「神よ……」
「ユリウス君が元気そうでよかったよ。いや、ケガはしてるのか……具合は?」
首をかしげてたずねると、ユリウスはアリスが一服盛られたあとの話をしてくれた。倒れたアリスに気を取られた隙に、ユリウスも頭を殴られて昏倒したらしい。「気をつけてたんですけどね」と、ユリウスはしょんぼりした犬のような顔をした。アリスは久々に見たユリウスのその表情が懐かしくなり、微笑んだ。
「牢に閉じ込められてました。治療はしてもらえるし、食事も出るのですが、牢から出ることが叶わず……遅くなって申し訳ありません」
「私は比較的自由にうろうろできたから、ユリウス君を探したんだけどね。どこにいたの?」
「地下の隠し牢です」
「やっぱり隠し部屋だったかー。どうやって出てきたの?」
「牢番を説得しました」
ユリウス君らしいなあ、とアリスは鼻からそっとため息をついた。
「どうやって?」
「アリスさんが対吸血鬼の究極兵器であることを語り倒しました。神の与えたもうた奇跡である、と」
「……それ、よほどうんざりしたと思うよ。もう聞きたくないから、逃がしてくれたんじゃないの?」
おそらく、ユリウスがアリスの家を初めて訪ねてきたときと、同じようなことをしたのだろうな……と、アリスは辟易とした。朝の数時間聞かされるだけで、あんなにどんよりとした気持ちになったのだから、四六時中聞かされようものなら、もはや拷問だ。アリスは心の中で、そっと牢番の受難にお悔やみを述べた。よっぽど目がまわっただろう。ユリウスの熱すぎる語りから解放された今は、きっと心安らかなのに違いない。
ユリウスはごそごそとポケットから手紙を取り出した。そういえば、いつもの肩掛けカバンがない。あのカバンには吸血鬼と戦うのに必要な道具がたくさん詰め込まれていたから、牢に入れられたときに、取り上げられてしまったのだろう。
「ところで手紙、ありがとうございました。吸血鬼の策略に乗るのも悪くはないかな、だなんて……悪いですよ!! 悪いに決まっているでしょう!」
「……でも吸血鬼が死ぬのは変わらないよね? ここの吸血鬼とユリウス君のどちらが手引きをするかってだけで」
「それは……そうですけど」
ユリウスは言葉に詰まり、眉尻をどんどん下げていく。しょんぼりした犬どころか、もはや叱られた犬のような顔になっている。
「ここの吸血鬼は、私からほんの少し採血して、気づかれない程度に他の吸血鬼に盛るつもりだよ。貧血になるんじゃないかなんて、心配する必要もない」
「でも僕は、人質をとってアリスさんを従わせるようなことはしません。あなたの自由意志を尊重します」
「ここでも割と自由にさせてもらってるよ。ユリウス君は吸血鬼を毛嫌いしてるから、そんなふうに思うんだろうけど」
ユリウスは眉を寄せて、しぼりだすように言葉をつづけた。
「旅に出る前、ふわふわのパンケーキを食べたじゃないですか」
アリスは身構えた。パンケーキを食べたから、ユリウスに従うべきだとでも言うのだろうか。思わずユリウスをにらみつける。
──やっぱり、ユリウス君も人間だ。
アリスの胸の奥に、長年かけて蓄積した、人間に対する不信感がじわりとわきあがった。