第十四話
ぴちょん、と水の滴る音がして、アリスは目を覚ました。あわてて起き上がる。石積みの壁に鉄格子の扉がはまっている。先ほどまでいた客室とは違う場所だ。おそらく倒れている間に運ばれたのだろう。ユリウスはいない。
アリスは自分のうかつさに、頭をかいた。吸血鬼はアリスの血を吸えば死ぬが、人間はそうではない。数々の苦い経験が頭をよぎって、アリスは石畳の上にあぐらをかいた。
「久々にやってしまった」
まさか吸血鬼の手下になった人間に、一服盛られるとは。先ほどの女性を思い出す。最初はきりりとした印象だったが、どうやら違う。彼女の表情はこわばっていた。
普通の人間は、吸血鬼に血を吸われると死ぬ。彼女は「お前などいつでも殺せる」という恐怖に支配されて、吸血鬼の手下になったのではないか──ユリウスにそう伝えようとして、伝えられなかった。
彼女を責めても仕方がない。けれども正義感の強いユリウスのことだから、さぞかし怒っていることだろう。
ユリウス君はどうなったんだろう。無事でいるといいけれど──。
アリスが一人でこの牢にいるということは、ユリウスの身にも何かあったと考えるのが自然だ。牢屋のほこりっぽさが、やけに喉にひっかかった。
石畳はかたくて、足がすぐに痛くなった。足を組み替える。
アリスはぼんやりと、今回の吸血鬼について考えた。
今までの吸血鬼とは違う、頭のキレる奴がいるものだ。吸血鬼なんて蚊のようなものだと思っていたけれど、策を巡らす知能があるなんて。
しかし、それなら──と、アリスは首をかしげた。吸血鬼の天敵である自分を葬るチャンスだというのに、なぜそうしなかったのだろう。
考えてみても答えは出ない。そうこうするうち、石造りの牢屋にコツコツと足音が響いた。燭台を持った、先ほどの女性だった。
「アリス様、お目覚めですか」
「うん。さっき起きたよ。なんで死んでないのか、不思議なんだけど。吸血鬼の天敵である私を葬る、絶好の機会だったんじゃ?」
アリスの問いかけに、女性は一瞬言葉に詰まった。視線がゆっくりと左右に動く。どうやら一服盛ったのを、悪いと思っているらしい。
「……我が主のご命令です」
「だろうね。ユリウス君は?」
「ご無事ですよ。アリス様にご協力いただけないと、困りますから」
アリスはきょとんとした。協力とは、いったいなんのことだろう。吸血鬼は、アリスの血にしか興味がないものとばかり思っていた。ユリウスは、アリスの協力を引き出すための人質にされているのだろう。
「協力ね。……なんの?」
「我が主は、アリス様の血を欲しておられます」
「飲むと死ぬのに? 私のこと、知ってるんでしょ?」
「ええ。我が主はアリス様の血を、他の吸血鬼に飲ませることをお考えです」
アリスは眉をひそめた。それは他の吸血鬼が死ぬだけでは? と、首をひねった。
──吸血鬼には縄張りがあります。おそらく別の吸血鬼が勢力を広げてくるかと。
ふと、ユリウスから聞いた言葉が脳裏に蘇った。なるほど、自分の勢力を広げるために、他の吸血鬼にアリスの血を盛るつもりなのだろう。
「うわー、策士だなぁ!」
「おわかりいただけましたか? ですので、我が主はアリス様に直接はお会いになりません。……ご協力いただけますか?」
女性の表情が悲痛に曇る。本当はアリスにそんな提案をしたくないのは明らかだ。女性が持つ燭台の上で、ろうそくの炎が不安げに揺らめいた。
アリスは短い間に色々と思考を巡らせると、あっけらかんと答えた。
「痛いのも苦しいのも嫌なんだけど、ユリウス君を人質にとられてるからね。まあ、協力するのはやぶさかではない……というところかな」
「できるだけ、お痛みや苦しみのないようにいたします」
ユリウスは、吸血鬼の撲滅を望んでいる。この策に乗れば、間違いなく多くの吸血鬼が死ぬ。
それでもユリウス君は拒否しそうだな、とアリスは頭の隅で考えた。
──でもね、ユリウス君。私に吸血鬼退治の旅に出ようとか、エクソシストになれというのと、この吸血鬼の提案は、たいして変わらないんだよ。
「毎日血を吸われてたら、多分私は死ぬよ? 血が特殊なだけで、それ以外は普通の人間だもの」
「アリス様の血は、一滴でも猛毒であると聞き及んでおります。ですからごく少量で構わないのです」
そこまで調べてるんだ、と、アリスはこの吸血鬼の調査能力に舌を巻いた。
「貧血は避けたいんだけど、ちゃんとご飯は出る?」