虹色の英雄
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足の重みに疲れを感じる。旅人は、次に辿り着く地を一晩の宿りとすると決めて足を進めた。暫く歩いていると、霞む視界の奥に村らしき景色が映った。温かい食事を思い浮かべながら足を踏み入れた旅人は、願い虚しく肩を落とすこととなる。村には人の気1つ無かったのだ。数少ない住民が他所へ出ているのかもしれないと一筋の希望に縋りつつ、旅人は村を散策することにした。寂れた村に並ぶ商店や家らしきものは崩れかけ、広場の噴水は枯れていた。かつては栄えていたのであろう市場の跡も、絡まる蔦に全貌が見えない。この村にはもう暮らす人がないのだと結論づけるしかなかった。どうにか宿らしきものを見つけた旅人は、今晩の寝床を確保できたことに安堵し、荷解きを始めた。
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冷たい空気に起こされて、老人は体を起こした。老人を急かすものは今やなにもないというのに、未だに決まった時間に目覚めてしまう。職人の性というものか。数年前からこの村の住民はこの老人一人だけ。再び眠りにつくことができそうにはない。老人は重い腰を上げ、誰の足音がすることもない通りに出た。あてもなく歩くその足は、ある商店の前で止まった。そこには「あなたの銅像お作りします」とかすれた文字。かつての老人の店だった。
「銅像は人が最も輝く瞬間を閉じ込めたもの」老人は呟いた。それがこの店の信条であった。老人は、賊から村を守った青年や、新しい薬を開発した科学者ら、皆が英雄と呼ぶ人々を創ってきた。老人は、自分の像を見て誇らしそうに笑う英雄たちを見るのが堪らなく好きであった。
その頃創った像はもう遺っていない。醜い争いのためにほとんどが溶かされ、辛うじて残ったものも盗まれたり、風化したり。老人には、生きる気力も糧も残っていなかった。
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残っていた商店を物色し、特に収穫なしと見て宿に向かう道中、旅人はなにか惹かれるものを感じて振り返った。思うままに足を進めると、そこには蔦に覆われた銅像があった。目を凝らして人だと認識できるかかできないかというだけの錆に覆われたそれは何故か旅人を引き留めた。急ぐ理由があるわけでもない。勝手に宿を借りる詫びとして、銅像を磨いてからこの村を出ることにしようと旅人は決めた。
蔦をどかすと、全体像が見えた。自分の背丈を遥かに超える大きさに気圧され、旅人は一歩下がった。これだけの大きさだ。どれだけの英雄なのだろうか。未だ見えない姿に想像を膨らませながら、旅人は銅像を磨き始めた。
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いつもと変わらない朝。老人は視界の歪みを感じた。迎えが近づいているのだという実感とそれを悲しむ者のいない侘しさにこぼれた笑いは、掬われることなく落ちていく。老人は自らのその笑みを諦めと受け取った。然れど喉につかえた靄は消えなかった。
老人は観念したように立ち上がり、奥の戸を開いた。大きく軋む音を立て、埃混じりの空気が放たれた。老人は目を細くして、何かを取り出した。争いが止んだとき、平和を呼び寄せた英雄を創るため、隠し置いていた銅塊。どうせ使う当てもないのなら、自らが生きた証を遺してみてもいいかもしれない。老人は気合を入れるように腿を叩くと、工房――だったもの――に向かった。
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姿が露わになればなるほど、如何に創り込まれているかが分かる。服の装飾や刺繍さえも再現され、あたかもここに存在しているかのような錯覚に陥る。これだけ作り込まれた銅像を、旅人はかつて見たことがなかった。どんなに素晴らしいと賞賛される芸術品にも、歴史に残る英雄の像にもないなにかが内包されていた。その光を感じるたびに、旅人は自らの侘しい姿を思い知らされるかのような喪失感にからだが潰されるのを感じた。故郷も家族も、生きがいも輝きも、旅人には何もなかった。
磨き始めてどれだけ経っただろうか。旅人は始めた頃の義務感など既に何処かへ消え、己に突き動かされるようにただ手を動かしていた。銅像はみるみる見違えっていった。
やがて、それがありきたりな英雄像ではなく、老人をモデルにしたものだということが露わになった。その事実は旅人をさらなる興味に引き寄せた。しわや髪の一本まで丁寧に彫られた姿はいのちをそのまま閉じ込めたかのよう。何がこの輝きを生むのか、旅人には分からなかった。作り手の魂を拾うように、旅人はただ磨き続けた。
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できあがった自らの銅像を前に、老人は胸にうつろを感じた。己の最高傑作ともいえる精巧な出来映えに満足していないわけではない。咀嚼できない感情を持て余していたとき、老人は思い出した。足りないのは英雄だと。彼らの誇らしげな顔が無ければ銅像は完成しない。つかみ損ねた欠片が老人のてからするりと抜け落ちた。それからというもの、老人は生気を失ったように日々をこなした。
ある日老人は夢を見た。広場に佇む老人の像の目をまっすぐに見つめる若者。若者は問うた。『あなたは英雄なのだろう。しかし他のどの英雄像とも違う。あなたはなぜ、それほどに輝きを纏っているのですか』
余韻に浸りつつ目覚めたとき、老人は夢を覚えていなかった。しかし不思議と胸に満たされたものを感じた。ぼんやりとする意識の中、老人は、村をただ一人護り生きたことを、英雄だと認めてやってもいいかもしれないと思った。
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雨に濡らされた老人の銅像は、虹色に反射しながら力強く空に胸を張っていた。