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小島弥生は、パソコンの前に座り、録音した音声の文字起こしを終えた原稿を見つめていた。彼女の部屋は静かで、ただキーボードの音が響いている。彼女が編集中の内容は、仁科君の死に関する衝撃的な事実を含んでいた。
録音された内容は以下のようなものだった。
「治験の現場の実態
治験の参加者は事前に詳細な説明を受けることなく、治験に参加するよう誘導される。
参加者は主に身寄りのない、行方不明になってもすぐには捜索されない人物が選ばれている。
治験後の心臓発作
治験終了後、参加者は一時的な安定を見せるが、数日後に急な心臓発作を起こす。
仁科君の死因もこの心臓発作であり、これが彼の死の真相である。
異能の発現とその捕捉
一部の治験参加者には異能が発現するが、その発現率は低く、死亡率は高い。
異能を持つ者は製薬会社によって捕捉され、利用される。
拉致集団の構成
拉致集団は主に二種類のグループに分かれている。
傭兵団。
洗脳済みの異能者。
黒幕の製薬会社
この一連の事態の黒幕は大手製薬会社であり、新薬と称する異能発現薬を開発している。
この薬の使用による死亡率は高く、多くの犠牲者が出ている。」
小島は編集しながら、改めてその内容の重さに圧倒されていた。これが現実であるならば、彼女の知る世間とはかけ離れた、恐ろしい世界が存在することになる。だからこそ、これが都市伝説とされるのだ。しかし、仁科君の死を巡る一連の事実を前にして、これを単なる都市伝説として片付けるわけにはいかなかった。
彼女は冷静に考え、仁科君の身辺を徹底的に洗い出すことが重要だと感じた。さらに、仁科君と同様に死んだ他の人々を見つけ出すことが、この話の真偽を見極めるための鍵となるだろうと思った。
彼女はパソコンの画面に目を戻し、再びキーボードを叩き始めた。真実を求めるジャーナリストとしての使命感が、彼女の手を止めることはなかった。そして、彼女はこの危険な真実を明らかにするために、さらなる調査を続ける決意を新たにした。
小島弥生は、巧から連絡先を交換した際に送られてきたメールアドレスにメッセージを打ち込んでいた。彼女は冷静に、しかし慎重に質問を組み立て、仁科君の生前の交遊関係と新薬による実際の死亡者について尋ねた。
「件名: 仁科君の件について
曽根さん、
こんにちは、小島弥生です。先日は取材にご協力いただきありがとうございました。お話の続きをお聞きしたく、連絡させていただきました。
仁科君の生前の交遊関係について、また新薬による実際の死亡者について何かご存知でしたら教えていただけないでしょうか。特に、仁科君がどのような人たちと付き合っていたのか、また新薬による具体的な事例があれば大変助かります。
よろしくお願いいたします。
小島弥生」
数時間後、曽根巧からの返信が届いた。
「件名: Re: 仁科君の件について
小島さん、
こんにちは、曽根巧です。メールありがとうございます。
仁科君とは付き合いがありましたが、彼のプライベートな部分について深く知っているわけではありません。ただ、一人暮らしで食い詰めていたので、時々コンビニおにぎりぐらいのものをおごっていた関係です。
新薬による死亡者については、仁科君から聞ところでは、長坂寛治という人物が死亡ニュースで報じられていました。
URL:×××××××××××××
また、教来石はるかという人物について、ブログで本人の親による死亡告知をしていました。
URL:×××××××××××××
それ以外に、香坂雅子と跡部克己という人とも仲が良かったらしいです。
何かお役に立てれば幸いです。
曽根」
小島弥生は、曽根巧からの返信を読み終え、深く考え込んだ。彼女の部屋には夕方の柔らかな光が差し込み、彼女の顔に思案の色を映し出していた。巧からの情報は貴重だった。特に、長坂寛治と教来石はるかの死亡ニュースのURLは、彼女にとって確証を得るための重要な手がかりとなった。
彼女はすぐにコンピュータを立ち上げ、曽根巧から提供されたリンクを開いた。長坂寛治の死亡ニュースは、ローカルなニュースサイトで簡潔に報じられていた。教来石はるかのブログも、彼女の親が悲しみに暮れながらも娘の死を伝える内容だった。何より、仁科君とほぼ同時期、心臓発作による死である。
小島はこれらの情報をじっくりと読み込み、心の中でひとつの確信が生まれていた。この二人の死が単なる偶然ではなく、曽根巧が話した治験と関係があるのではないか、と。彼女は直ちに長坂寛治と教来石はるかの詳細な背景を調べることに決めた。
次に、小島は香坂雅子と跡部克己についても調べる必要があると感じた。巧から提供された情報によれば、仁科君はこの二人とも親しかったらしい。彼らもまた、同じような運命を辿っているのかもしれない。
小島はまず、仁科君の生前の交友関係を掘り下げるために、彼のSNSアカウントを見直した。彼の投稿やコメント欄を丹念にチェックし、そこに頻繁に登場する名前や会話のやり取りをメモしていった。
その夜、小島は再び曽根巧にメールを送った。
「件名: 追加情報のお願い
曽根さん、
先日は貴重な情報をありがとうございました。おかげさまで、長坂寛治さんと教来石はるかさんの死亡についての情報を確認することができました。これによって、より確かな手がかりを得ることができました。
もう少しだけお時間をいただけるとありがたいのですが、仁科君の交友関係についてさらに詳しく教えていただけますか?特に、香坂雅子さんと跡部克己さんについて、もし何か知っていることがあれば教えていただけると助かります。彼らの背景や、彼らが治験に関わっていた可能性について知りたいです。
また、もし可能であれば、仁科君が頻繁に訪れていた場所や、彼が何か話していた内容についても教えていただけると助かります。
お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。
小島弥生」
メールを送り終えると、小島は再び調査に没頭した。彼女はネット上で得られる限りの情報を集め、関連性のある情報をつなぎ合わせていった。彼女の直感と論理的な分析力は、この複雑なパズルのピースを一つ一つはめていく手助けをしていた。
一方、巧は小島からのメールを受け取り、慎重に考えた。彼の異能と治験に関わる事実を隠しながら、どのようにして真実に迫る手助けができるのか。彼もまた、自分が関わる危険な世界の中で、どのようにして小島や斎藤を守るべきかを模索していた。
約束の土曜日が来てしまった。いつもに増して足取りは重い。しかし、男にはやらねばならぬ時がある。そのように自分の足に言い聞かせて、目的地に向かった。
前橋テルサ一階エントランスで巧は甘利泰子を待っていた。高層階にあるポーランド料理レストラン「ゾタ・ビエジャ」でのディナーに招待されたが、彼女が敵に与している可能性が拭えず、警戒心を持っていた。
ドアが開き、甘利泰子が姿を現した。前回会った時の胸のバッツリ開いたスーツとは異なり、今回はレストランのドレスコードに合わせたシックなドレスを纏っている。巧は内心で少し安心し、表情に微かな笑みを浮かべた。甘利は優雅に近づき、挨拶を交わす。
「こんばんは、巧さん。お待たせしました。」
「こんばんは、泰子さん。お美しいですね。」
甘利はにこやかに笑い、巧に取り入ろうとするかのように声を甘くする。「会いたかったです、巧さん。こうして一緒に食事ができるなんて、本当に嬉しいです。」
巧はその言葉に内心で警戒を強めながらも、表面上は柔和な笑みを保った。「自分もお会いしたかったですよ、泰子さん。今夜のディナーが楽しみです。」
二人はエレベーターへと向かい、ボタンを押す。エレベーターの中でも、甘利は巧の腕に軽く触れたり、親しげに話しかけたりしてきた。巧は彼女の意図を探るために、心に響かない言葉を交わすだけだった。
「今日は本当に素敵な夜ですね、泰子さん。」
「ええ、まるで夢のようです。巧さんと一緒に過ごせるなんて。」
エレベーターのドアが開き、最上階のレストランに到着した。高級感溢れる内装と窓から見える美しい夜景が二人を迎え入れる。巧は甘利と共に席に着き、一見すると愛の逢瀬のように見えるが、実際には探り合いの真っ最中だった。お互いの真意を測りながら、料理を楽しむふりを続けた。
「巧さん、このレストランの料理は本当に絶品ですよ。楽しんでくださいね。」
「もちろん、泰子さん。お勧めの料理を教えてください。」
窓際のテーブルに、巧と甘利泰子は向かい合って座っていた。美しい夜景が広がる窓の向こう、東京の街並みが煌めいていた。ディナーの最初のコースが運ばれてくると、甘利は微笑んで言った。
「このレストランのポーランド料理は本当に絶品なんですよ。ぜひ楽しんでください。」
「ありがとう、泰子さん。あなたのお勧めに従って、今日はお任せコースを選びました。」
巧は柔和な笑みを浮かべながらも、内心では彼女の真意を探ろうとしていた。お互いの距離を測りながら、巧は自分の話題を避け、巧妙に甘利の個人情報に探りを入れる。
「そういえば、泰子さん。あなたのご家族のことを聞いたことがありませんね。どんな方々なんですか?」
甘利は一瞬表情を曇らせたが、すぐに取り繕うように笑顔を見せた。「実は、私には親族がいないんです。天涯孤独で…ちょっと寂しい話ですけど。」
「それは大変ですね。お一人でいろいろと頑張られているんですね。」
「ええ、そうなんです。以前は結婚まで考えた相手がいたんですが、別れてしまって…。今は恋人もいません。」
巧は頷きながら、さらに話を深掘りする。「今のお仕事に就かれてどれくらいになるんですか?」
「ちょうど1年くらいですね。慣れてきたところです。」
巧はその答えを聞きながら、甘利の目をじっと見つめた。「そうですか。お仕事の話を伺うのも興味深いですが、実は知り合いのことでお聞きしたいことがあるんです。」
「どなたでしょうか?」
「木曽芳恵という人を探しているんです。何かご存知ないですか?」
巧は慎重に言葉を選びながら尋ねた。甘利が木曽と知り合いである可能性を感じつつも、相手に悟られないように気を配った。甘利は少し考え込んだ後、首を振った。
「木曽芳恵さんですか?申し訳ないんですが、存じ上げません。」
「そうですか、分かりました。お手数をおかけしました。」
その瞬間、甘利の表情が微かに変わったが、巧は見逃さなかった。甘利が何かを隠しているかもしれないと感じながらも、それを表に出さずに話題を変えた。
ディナーコースも終盤に差し掛かり、甘利泰子と巧のテーブルには、メインディッシュの皿が片付けられ、デザートの到着を待つばかりだった。ロマンチックな雰囲気の中、甘利は巧に向かって微笑みを浮かべていた。
「デザートも楽しみにしていてくださいね、巧さん。ここのシェフの作るポーランド風スイーツは絶品なんです。」
巧は一瞬、微笑み返した後、時計をちらりと見た。「それは楽しみですね。けど、その前にちょっと失礼します。」
巧は軽く頭を下げ、席を立った。彼の視線は、奥まったところに座っているカップルに向かっていた。そのカップルの男性、黒髪を撫でつけた浅黒い肌の男が、彼の目標だった。巧は静かにその男に近づき、背後に立つと低い声で言った。
「久しぶりですね。」
その男、タイタンは驚いた様子で振り返り、瞬間的にとぼけた表情を見せた。「何のことですか?」
巧は冷ややかな笑みを浮かべた。「大学キャンパスで男漁りしてたでしょう。」
タイタンの表情が険しくなり、勢いよく立ち上がった。その動きに一瞬の緊張が走り、周囲の客も驚いたように彼らを見つめた。その瞬間、巧はタイタンの動きを見逃さず、非常扉に向かってダッシュした。事前に確認していた逃走経路を頭に描きながら、巧は全速力で駆け抜けた。
「待てや!」タイタンの怒鳴り声が背後から聞こえたが、巧は振り返らずに非常扉を開け、階段へと飛び出した。
タイタンは階段を駆け下りる巧の背中を睨みつけながら、その背後にある過去の記憶が蘇っていた。
大学キャンパスで痴漢として騒がれたときのことを、タイタンは嫌でも思い出していた。あの時、自分が逃げ出す姿を目撃した学生たちの目には、軽蔑と嘲笑が浮かんでいた。それを見た仲間たちも、表面上は同情しているふりをしながら、内心では楽しんでいることが分かっていた。彼らの軽蔑とからかいの言葉が耳に残り、屈辱の念が胸を焼いた。
「逃げることしかできない臆病者」と、あの時のことを引き合いに出され、仲間に弄られるたびに、タイタンの怒りは増していった。大学での出来事から、自分を変え、力をつけることに注力した彼は、どんな状況でも自分を屈服させることのない強さを求めていた。
既に6回も巧を捕まえ損ねている。それは彼にとって、許されない失態であり、自尊心を傷つける出来事だった。だが、その度に自分の怒りと執念を燃やし、その怒りを力に変えてきた。
「俺の獲物だ!」
タイタンの心の中で、その言葉が鋭く響いた。獲物を逃がすわけにはいかない。彼の手で直接捕らえることが、自分の名誉を回復する唯一の方法だ。今度こそ、巧を逃さないという強い決意が胸に湧き上がった。
タイタンはその怪力を誇示するように、握り拳を強く握りしめた。過去の屈辱や怒りが、彼の内なる力をさらに強化しているようだった。
四年前、俺は半グレのアウトローとして生きていた。ダチが敵対勢力に捕まったとき、俺は真正面から敵地に乗り込んだ。力任せで何とかなると思っていたが、見事に袋叩きに遭って捉まった。結局、俺の行動で社長に迷惑をかけることになった。そんな俺に社長が紹介してくれたのが治験のバイトだった。全額社長の口座に入れることで話がついたが、その治験がどれだけ危険かを後になって知り、一週間死の恐怖に怯えて暮らした。
その一週間目の朝、製薬会社に回収された俺は、全身の筋肉が増強されて血管を圧迫する、相当危険な状態だったらしいが、洗脳による最適化のおかげで今の俺がいる。今も俺は元気に走り、生きていることを実感している。
彼には、絶対的な決意と、何度でも立ち上がる不屈の精神が宿っている。
それこそがこの男、タイタン!
「今度こそ、逃がしはしない。」
階段の中で彼らの足音だけが響く。巧は階段を駆け降りながら、これまでの計画を頭の中で再確認した。タイタンが追いかけてくることは白昼夢で予知済みだった。巧は、自分が仕掛けた罠がうまく機能することを願いつつ、階段を降り続けた。
階段の最下層階前の踊り場に差し掛かると、巧は手すりをつかんで飛び越えた。その瞬間、追いすがるタイタンの足音が迫ってきた。タイタンが踊り場に着地した瞬間、足を滑らせて転倒した。巧はにやりと笑いながら、その場を離れた。
「しまった…!」タイタンは床に塗られた潤滑剤に気づき、苛立ちを露わにしたが、すぐに巧を追うために階下を見た。その視線の先には、肩で息をしながら、おもちゃの水鉄砲を構える巧の姿があった。タイタンは思わず手でよけようとしたが、水鉄砲から発射された液体は灯油の匂いがした。
「やめろ…!」
タイタンの叫び声が響いたが、巧は冷静に火のついたオイルライターを取り出し、ゆっくりとタイタンに向かって投げた。火は灯油に触れると一瞬で燃え上がり、タイタンは悲鳴を上げながら炎に包まれた。
巧はその光景を一瞬だけ見届け、「グッバイ、マイストーカー」と言うと、鉄扉を閉め、冷静にその場を離れた。
タイタンはまだうめき声を上げていた。全身がひどく焼け焦げ、痛みと不快感で身をよじっている。応急処置が施され、彼は製薬会社の施設へと送致された。ジェイコブら傭兵団と、現場にいた異能者たち――カメレオン(甘利)、センサー、グラビティも含め、聴取と実況見分が始まった。
レストランの入口には微細な臭気を放つ薬物が仕掛けられていた。その匂いはセンサーの五感には強烈な違和感を与えたが、ターゲットである巧は何の反応も示さなかった。食事もまた、以前カメレオンが仕掛けた2度の睡眠薬回避があったにも関わらず、巧は何も怪しむことなくコース料理を完食し、デザートを待たずに席を立つという行動に出た。料理には2回の失敗もあり、睡眠薬やその他の薬物は仕込まれていなかった。
「これまでの調査で分かったことは、ターゲットはまったく匂いに反応しない」というセンサーの言葉が、静かな室内に響いた。「我々が仕掛けた薬物の臭いも完全に無視された。」
「ディナーの食事も問題なかった」とグラビティが続けた。「ターゲットは何も怪しむことなく完食した。」
「階段から逃げた際の行動も不可解だ」とカメレオンが言う。「主だったメンバーがエレベーターで下に降り、非常階段の出口になる地下駐車場へ向かったが、エレベーターの出口が開かず、行動が遅れた。地下駐車場に待機していた車も、エレベーターの確認に回った隙にターゲットが脱出してしまった。」
「防犯カメラの映像では、ターゲットが地下から地上に脱出している様子が確認されている」とジェイコブが確認する。
センサーが言った。「ターゲットは、敵と味方を見分けているかもしれません。待ち伏せすらも、見えているのではないかと思います。」
ジェイコブは眉をひそめた。「オーラでも見えているのか?厄介だな。つまり、ターゲットは我々の動きや仕掛けをすべて把握している可能性が高いというわけだ。」
グラビティがうなずく。「だから、タイタンがレストランの目立たない席に配備されていたのに気付くことができたのかも。つまり、用意したガス室への誘導がすでに見破られていた可能性もある。罠に気付き、タイタンを利用して逃げる手段を講じたのだろう。」
「タイタンを利用しつつ罠にはめて、逃げるだけの目的だったのだろうか?」カメレオンがつぶやく。「ターゲットはここまで異能の痕跡を見せておらず、チープな方法で脱出している。センサーが言う通り、ターゲットは何か特殊な能力を持っているかもしれない。」
「そうだな」とジェイコブが決意を固めた。「まずは、ターゲットの異能を正確に把握するための調査を進める必要がある。次に、再度作戦を立てるとしよう。タイタンの失敗から学び、確実に成功させるための準備が必要だ。」異能者たちの立案した、ターゲットの異能の特定を優先する方針は、改めて傭兵団でも共有されることになった。
カメレオンは深い息をつきながら言った。「ターゲットの行動から推測すると、彼は何らかの方法で我々の計画を見抜いている。次回はもっと緻密な計画が必要だ。」
センサーが最後に言った。「ターゲットの能力についての手がかりが得られるまでは、無理な接触を避け、冷静に行動するべきです。」
ジェイコブは頷いた。「了解した。それでは、これからの作戦に向けた準備を開始しよう。」
重苦しい空気が漂う室内で、異能者たちは次なる戦いに向けて心を決めるのだった。
地下駐車場の出口から外へ出ると、巧は周囲の暗い路地に足を踏み入れた。背後の高層ビルが薄暗いシルエットとなり、街灯の光がまばらに道路に反射している。静かな夜の街は、巧の動きを誰にも気取られることなく包み込んでいた。彼は静かに呼吸を整えながら、白昼夢の中で見た恐ろしい光景が脳裏に浮かんでくるのを感じた。
「ガス室で閉じ込めようとするとは…あいつら、容赦しないぞ」
巧の心の中で、再び浮かんだそのビジョンが冷や汗を引き起こす。ガスの充満する部屋での息苦しさと、閉じ込められていく恐怖。その中で、巧は冷静さを保つために意識を集中させた。
彼の心は、逃走計画が如何に緻密であったかを回想する。地下駐車場での脱出には、事前に準備しておいた4つのトリックがあった。巧は100円ショップで購入した水鉄砲に灯油を詰め、それを階段下の隅に隠していた。あの水鉄砲は、逃走中の自分にとって重要な武器となる予定だった。
さらに、階段の踊り場には、ラードを散布して厚めに伸ばし滑りやすくし、追跡者の動きを封じることができた。甘利と合流し、レストランのある階に到着した後、わからないように、エレベーター出入り口の溝には手ごろな小石を溝に挟んでおき、エレベーターのドアが開かないようにしておいたのもその計画の一部だった。オイルライターも持参しており、それを使ってタイタンに火を放つ準備も整えていた。
巧はこれらの準備を入念に予知を使ってシミュレーションし、最速で脱出できるルートを確保していた。今回の目的は、甘利泰子の製薬会社との関係性を測るための材料を得ることと、タイタンをリタイアさせることだった。タイタンが以前の大学キャンパスでの痴漢騒ぎで顔を晒したことを根に持っていたことは予知していた。拉致後にヤツによって骨を折られるなど痛い思いをさせられる可能性があると見ていたため、再び彼と対峙しないようにするのが望ましかった。
「甘利の状況は、家に帰ってから改めて分析しよう」
巧は路地を歩きながら、帰った後に待っているであろう現実を考えた。再びハルカの猫パンチをお見舞いされるのかと、少しだけ苦笑いする。彼はその強烈なパンチが痛いとわかっていても、彼女との再会がどこか楽しみでもあった。無事に家に帰り着くらしい。
街灯の下で、巧は一瞬立ち止まり、周囲の静寂を感じ取った。まだあの夜の成功に自信を持つことができたが、次なる作戦に向けての準備も怠らないように心に誓った。冷たい夜風が頬を撫で、巧は自分のペースで歩き始めた。無事に帰り着き、次のステップを考えるために。
翌朝、巧は目を覚ますと、スマートフォンの画面に甘利からのメールが届いているのを確認した。メールを開くと、甘利からの心配のメッセージが並んでいた。
「差出人: 甘利泰子
宛先:曽根 巧
件名: 昨夜の件について
巧さん、
おはようございます。昨夜は突然のご不幸に見舞われてしまい、驚いております。どうして突然逃げ出されたのか、本当に心配しています。無事だったのでしょうか?何かあったのではないかと、とても気になっています。
今後の対応についてお話しできる機会を設けたいと思います。お手数ですが、ご都合の良い時間を教えていただけると幸いです。心よりお詫び申し上げます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
甘利泰子」
その言葉に、巧は小さくため息をついた。甘利の心配は表面的なものであり、実際には彼女が巧の逃走の原因を知っているはずだ。巧は、自分がどれほど敵地に単独で乗り込んでいたかを思い返していた。前橋テルサは今では運営者が不在で、本来のレストランは別の場所に移転していた。そのため、巧が訪れたレストランは、実際には拉致のためにでっち上げられたものだった。スタッフも、客も、すべてが拉致に関わっている人間であり、巧はまさに敵地に単独で踏み込んでいたのだ。
「毒ガスルームにご招待とは、甘利君も本当に手の込んだことをする。」
巧は少し苦笑しながら、再度メールをチェックした。甘利のメールには心配だけでなく、巧が昨日の逃走について何も説明しないままだったため、彼女の真意がどこにあるのかが明確にはわからなかった。それでも、巧の情報収集の目的は続ける必要がある。
巧はメールの返信を打ち始めた。彼の指はキーボードの上で軽やかに動き、心からの謝罪とともに説明を書き綴った。
「差出人: 曽根巧
宛先: 甘利泰子
件名: 昨夜の件について
甘利さん、
おはようございます。昨夜の突然の退出についてご心配をおかけし、大変申し訳ありませんでした。実は、思わぬ事態が発生し、適切に対応できずに逃げる形になってしまいました。ご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。
昨夜の状況について少し説明させていただきますと、予期しない事態に直面したため、迅速に対応する必要がありました。特に、私が置かれていた状況が予想以上に厳しく、どうしてもその場から逃れる必要がありました。痴漢被害についてもお話しする必要がありましたが、それについてはまた別の機会に詳しくご説明できればと思います。
改めて、夜の件についてお詫び申し上げますとともに、ぜひ再度お会いして埋め合わせをさせていただければと思います。どうぞ、ご都合の良い時間をお知らせください。
よろしくお願いいたします。
曽根巧」
巧はメールを送信し、画面を見つめながら思索にふけった。彼の予知能力に頼るつもりではあったが、今回の状況を考慮すると、慎重な行動が必要であることは明白だった。甘利の反応にどのような意図が含まれているのか、また彼女の製薬会社との関係性を明らかにするために、慎重に次の手を打つ必要があった。
巧は再び、作戦の計画とリスク管理を頭の中で組み立て始めた。過去の経験と予知能力を駆使しつつ、一歩一歩、生死を分ける重要な戦略となるだろう。
薄暗い病室の中、スピードスターは痛みをこらえながら、ベッドに横たわっていた。膝蓋骨を骨折した彼の体は、まだ自由に動ける状態ではなかった。その隣のベッドには、全身大やけどを負ったタイタンが苦痛に耐えている。病室の空気は重苦しく、医療機器の音だけが微かに響いていた。
外では、傭兵団の6人――ジェイコブ、アンドレア、イーサン、レイチェル、ミハイル、キャメロン――と、異能者のセンサー、グラビティ、クラッシャー、ヒーラー、ロックが集まり、施設の入口でお偉いさんの視察を待ち構えていた。彼らの顔には緊張が漂っていた。
ヘリポートに降り立ったのは、覇気に満ちたスーツ姿の男、伊勢宇治綱だった。製薬会社の現社長、彼等にとってはボスである。
彼は険しい表情で一行に歩み寄り、施設内へと向かう。部屋の中は張り詰めた空気に包まれ、視察団が到着するや否や、誰もが息を詰めていた。
伊勢は出迎えたメンツの固い表情を見ると、破顔し、「ごきげんよう!」とテンション高く話しかけた。その明るさがかえって場の緊張を高めた。
「優秀な諸君は最近は勢いが振るわないようで、7回もの捕捉失敗が連発しているとか」と皮肉交じりに話す。その言葉に一同は無言のまま、冷や汗をかいていた。
「特に直近のビル一棟を借りて行った作戦の失敗は、痛恨の極みだ」と、彼は続けた。そして、鋭い目で一行を見渡し、「別に責めているわけではないのだよ?釈明があれば聞こう。赦すかどうかは、わからないがね?」と仰せられた。
その言葉に、傭兵団と異能者たちは息をのんだ。釈明の機会を与えられたとはいえ、その結果がどうなるかは全く予測がつかなかった。
ジェイコブが一歩前に出て、毅然とした態度で口を開いた。「最近の作戦が失敗に終わったのは、ターゲットの能力を過小評価していたためです。我々の調査が不十分だったことを認め、今後の作戦に活かすつもりです。」
伊勢宇治綱は冷静に頷き、微笑みを浮かべて応じた。「ターゲットは今までで一番の大物と見える。今まで失敗が無かった諸君だからね。信頼はしているのだよ。」
一同がほっと息をつく中、伊勢は続けて言った。「特に、スピードスターは過去6人捕捉成功の功労者だ。彼のところまで案内してくれたまえ。今日は見舞が目的なのだから。」
ジェイコブは一瞬緊張をほぐし、頷いて先頭に立った。「かしこまりました。こちらへどうぞ。」
施設内の廊下を進む一行は、まるで厳重な警備体制のようだった。ジェイコブを先頭に、傭兵団が伊勢宇治綱を護衛するように周りを固めながら進んでいく。異能者たちもその後ろに続き、慎重に周囲を見渡していた。
部屋に近づくにつれ、医療機器の微かな音が耳に入ってきた。収容されている部屋の前で、ジェイコブがドアを開け、伊勢宇治綱を招き入れる。
スピードスターはベッドに横たわり、膝蓋骨の痛みに耐えながらも、毅然とした表情を浮かべていた。隣のベッドには全身大やけどを負ったタイタンが横たわっており、その顔には苦痛の色がにじんでいた。タイタンは上半身を中心に全身の40%の火傷であり、顔面の皮膚移植も必要な、見るに堪えない状態であった。
伊勢宇治綱は部屋に入り、スピードスターのそばに歩み寄った。「スピードスター、よく頑張ったな。君の勇気と尽力に感謝する。」
スピードスターは微かに笑みを浮かべ、頷いた。「ありがとうございます、宇治綱様。次回は必ず成功させます。」
伊勢はスピードスターの手を握り、激励の言葉をかけた。「君の努力は無駄にはならない。我々は必ずターゲットを捕える。そのために全力を尽くすのだ。」
その後、伊勢はタイタンのそばに移動し、同様に声をかけた。「タイタンもよく頑張った。君たちの犠牲は決して無駄にはしない。」
タイタンもまた、微かに笑みを浮かべて頷いた。「ありがとうございます。次は必ず…」
被害を受けた二人の姿を見て、彼は微かに首をかしげた。
「ターゲットの異能についての見解を聞かせてもらおう」と、伊勢は問いかけた。
センサーが一歩前に出て、慎重に言葉を選びながら説明を始めた。「ターゲットは、敵と味方を見分ける能力を持っている可能性があります。彼は待ち伏せすらも、まるで見えているかのように感じられます。そのため、これまでの作戦がことごとく失敗してきました。」
伊勢は興味深げに頷きながら、センサーの言葉を聞いた。その後、手元のタブレットを取り出し、ターゲットの資料を確認し始めた。氏名、年齢、住所などの基本情報や、治験中や作戦時に得た映像資料が画面に映し出された。
「興味深いね」と伊勢は言った。「この男はただの人間ではない。彼の能力は我々が想定していた以上のものだ。」
タブレットの映像資料には、ターゲットが見事に作戦を回避する様子が収められていた。彼の動きは迅速で、まるで先読みするかのように的確に行動していた。
伊勢はタブレットを見つめながら続けた。「彼の能力を理解するためには、さらに深く分析する必要がある。我々は彼を甘く見ていた。」
伊勢宇治綱はタブレットを手にしたまま、グラビティの方に視線を移した。「グラビティ、君には試作中の強化スーツを提供しよう。重量はあるが、その分性能は飛び抜けている。お前なら使いこなせるだろう。」
グラビティは驚きと共に、期待に満ちた表情で伊勢を見つめた。「ありがとうございます、宇治綱様。全力で訓練し、次の作戦で必ず成功を収めてみせます。」
伊勢は満足げに頷いた。「よし、それでいい。次の作戦のために君たち全員が協力し合うことが重要だ。グラビティ、お前はスーツを使いこなすための訓練に専念するんだ。そして、捕捉作戦を立案し、実行に移す準備を整えろ。」
一同が頷く中、伊勢は再び冷静な視線を巡らせた。「このターゲットは今までの相手とは違う。我々の失敗は彼の能力を見誤ったことにある。しかし、次はそうはさせない。彼の能力を完全に無力化し、確実に捕らえる作戦を立てるのだ。」
ジェイコブが一歩前に出て、毅然とした声で言った。「宇治綱様、我々は全力でこの作戦を成功させます。ターゲットの能力を完全に分析し、彼の弱点を突く作戦を立案します。」
伊勢は満足そうに頷いた。「それでいい。次の作戦が最後のチャンスだと思え。成功すれば我々の目標は達成される。失敗すれば、試作として作った錠剤の異能発現薬を実行者に飲んでもらうことになる。動物実験では死亡率が100%に近いが、更なる異能が発現する可能性を期待されている。」
その場にいた全員が緊張感に包まれた。異能発現薬の恐ろしさは誰もが知っていたが、それでも成功を勝ち取るために必要ならば、覚悟を決めなければならない。
ジェイコブが毅然とした態度で口を開いた。「宇治綱様、その薬を使うという決断も、我々の使命の一部です。全員がそのリスクを理解し、次の作戦に全力で取り組むつもりです。」
伊勢は頷き、「そうだ、その覚悟が必要だ。今までの失敗を教訓に、ターゲットの捕捉作戦を完璧に遂行する。グラビティ、スーツの訓練に励み、次の作戦でその力を存分に発揮してくれ。」
グラビティは強い決意を込めて頷いた。「了解しました。必ず成功させます。」
伊勢は満足げに微笑み、再び視線を巡らせた。「全員が力を合わせ、この作戦を成功させるのだ。我々の目標達成のために、全力を尽くせ。異能発現薬の使用を避けるためにも、次の作戦で必ずターゲットを捕らえるのだ。」
一同はその言葉に深く頷き、新たな決意と共に動き始めた。次の作戦の成功に向けて、それぞれが自らの役割を全うし、完璧な計画を練り上げるために尽力することとなった。
昨日の甘利の態度を思い返しながら、巧は心中で整理を始めた。あの状況でメールをして心配してきたこと、そして交渉の姿勢を持ち続けるところを見て、甘利が薬を盛る行為をしながらも敵対する意図を持っていないことがわかった。また、拉致される未来を予知した際に甘利の姿が見えなかったことも気になっていた。
「結論から言えば、甘利の周囲を排除した状況なら交渉可能である、と見るべきだ」と巧は確信を持った。甘利が密かに渡してきたメモは明らかに利敵行為であり、彼女が完全に洗脳されていない証拠である。
ハルカのかまって攻撃を受けつつ、巧は泉さんに上記の内容を報告メールとして送信した。敵の囲みの外で交渉する方法を模索しながら、巧のスマートフォンがメールの着信音を鳴らした。送り主は小島さんだった。
「都市伝説について確認したいことがあるので、一度外で会えないか」という内容だった。これに対して、巧は了承のメールを送った。
「件名: 再会のご提案
小島さん、
お世話になっております。巧です。ご連絡ありがとうございます。
都市伝説についての確認、ぜひお話ししたいと思います。よろしければ、以下の日時でお会いできればと思います。
日時:明日13時
場所: 大学前のSeventeen Hour
ご都合が合わない場合は、他の日時でも調整可能ですので、ご希望をお知らせください。
よろしくお願いいたします。
曽根巧」
巧はパソコンの前に座り、先ほど送信した小島さんへのメールを確認していた。手元にある温かいコーヒーのカップを取り、ひと口飲むと、ハルカは足元でのかまって攻撃を続けていた。彼女の柔毛が彼の足に触れ、くすぐったい感覚が伝わる。
「ハルカ、ちょっと聞きたいんだけど、甘利さんをどう思う?」巧が問いかける。
ハルカは一瞬止まってから、巧の外くるぶしに軽く猫パンチをする。巧は苦笑しながら、「やっぱりね、あまり好きじゃないか」とつぶやいた。
「じゃあ、小島さんはどう思う?」と次の質問を投げかけると、ハルカは巧の膝に飛び乗り、頭を擦り付けてきた。そして、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「小島さんはいい人なのかな?」巧はそうつぶやきながら、ハルカの頭を優しく撫でた。ハルカの反応は、まるでその問いに肯定的な答えを示しているかのようだった。ハルカの落ち着いた様子に、巧も心が少し和らぐのを感じた。
彼はもう一度、小島さんとの待ち合わせのメールを確認し、都市伝説についての会話がどのような展開になるかを考えながら、ハルカと共にその時間を過ごした。