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ラインブレイカー  作者: 藤林保起
13/15

翌日の朝、巧は目を覚ますと、真っ先にメールを確認した。泉新吉からの返信が来ていることに気づき、すぐに開いた。新吉の分析は鋭く、状況を的確に捉えていた。


「ナンマルさん、


昨日のマニピュレーターの処断についてだが、君が洗脳される可能性が消えたことで、彼らにとって君はもはや味方に引き入れられない存在となった。これは、君を殺害するリスクが高まったことを意味している。


さらに、製薬会社にとってマニピュレーターは異能管理の中枢であった。彼を失ったことで、彼らは異能管理の再編を余儀なくされるだろう。この混乱は彼らにとって大きな痛手であり、君にとっては一時的な安全を意味するかもしれない。


しかし、油断は禁物だ。彼らは必ず新たな手段を模索するだろう。今後の動きに細心の注意を払うことを勧める。


泉」


巧は新吉の言葉に深く考えさせられた。マニピュレーターの処断がもたらした影響は予想以上に大きい。しかし、それが巧にとって一時的な安全をもたらすとはいえ、これからの危険は依然として存在する。

その瞬間、ふとハルカのことを思い出した。昨日、動物病院に預けたハルカは今どうしているだろう。彼の心は再び不安でいっぱいになったが、すぐに思考を切り替えた。今は自分の安全を確保しつつ、ハルカの無事を祈るしかない。

巧はメールを閉じて、冷静さを取り戻すために深呼吸をした。新吉のアドバイスに従い、これからの動きに注意を払いながら、状況を慎重に見極めていく必要がある。

「まずは自分の安全を確保しなければ」と心に決めた巧は、次の行動を計画し始めた。大学に行く予定があるが、その帰りにハルカを迎えに行かなければならない。そのためには、ハルカを連れて帰るためのゲージを購入する必要がある。

巧は手早く朝食を済ませ、出かける準備を整えた。必要な持ち物を確認し、特にハルカを迎えに行くためのゲージを購入するための予算を頭に入れた。出発前に、ハルカの様子を確認しようと動物病院に電話をかけた。

「おはようございます、昨日預けたハルカの様子を確認したいのですが」

受付の女性は親切に対応してくれた。「おはようございます。ハルカちゃんは安静にしています。風邪も徐々に回復しているので、夕方にはお迎えに来ていただけると思います。」

巧は安心しつつも、予定通りに動く決意を新たにした。「ありがとうございます。夕方に伺います。」電話を切ると、巧は朝食をさっさと済ませて出かける準備を整えた。ゲージの購入も計画に入れつつ、大学へと向かった。

講義を受け、昼食時には大学の食堂へと足を運んだ。席に着いて食事を取っていると、齋藤あすかと小島弥生が合流してきた。

「巧、今日は何食べてるの?」あすかがにこやかに尋ねる。

「普通の定食だよ。二人は?」

「私も定食。弥生はいつものサラダとスープね。」

巧はうなずきながら食事を続けた。しばらくして、話題は自然とヒーラーに移った。

「あのヒーラー、かなりのイケメンだけど暗いんだよね」とあすかが言う。「闇を抱えてる感じが好きな人にはたまらないかもだけど。」

「うん、なんかミステリアスな感じがするよね」と弥生も同意する。

巧は心の中で苦笑しながらも、今日は予定があることを思い出した。「あの、今日はちょっと予定があるんだ。ごめんね。」

弥生は巧に目を向け、「また製薬会社関連のこと?」と心配そうに尋ねた。

巧は正直に答えた。「いや、実は飼い猫を病院から迎えに行かなきゃならないんだ。」

弥生の目が輝いた。「見てみたい!可愛い猫ちゃんなんでしょ?」

その瞬間、あすかが状況を察して笑顔で言った。「おっと、私用事があるからここで失礼するね。弥生をよろしく。」

あすかが立ち去ると、弥生は嬉しそうに巧に笑いかけた。「じゃあ、一緒に行ってもいい?」

巧は少し戸惑いながらも頷いた。「もちろん、行こう。」

食事を終えた二人は、大学の近くのペットショップに立ち寄り、ハルカのためのゲージを購入した。そして動物病院へ向かった。

病院に着くと、受付の人がにこやかに「お待ちしておりました。ハルカちゃん、元気になっていますよ」と声をかけてくれた。

その瞬間、弥生が興味津々な表情で「名前はハルカっていうの?」と尋ねた。

巧は一瞬戸惑いながらも、「うん、そうだよ」と答えた。しかし、次の瞬間、弥生の中で何かが閃いたように見えた。彼女の顔に微妙な表情が浮かんだのを見て、巧は心の中で思った。もしかして、弥生は教来石はるかと自分が将来を誓い合った仲だと信じ込んでいるのではないか。そして、その恋人の名前を仔猫に付けたと思われてしまうのではないか、と懸念が頭をよぎった。

実際のところ、ハルカという名前は父親が娘が生まれたら付けたかった名前だった。しかし、説明する間もなく、弥生はすでにその誤解を抱いているように見えた。彼女の目には、教来石はるかとの恋愛物語になぞらえて仔猫の名前を付けたというロマンティックな思い込みが浮かんでいた。

「ハルカって、素敵な名前だね」と弥生が微笑みながら言った。「まるで教来石はるかさんの思いを引き継いでいるみたい。」

巧は内心でため息をつきながらも、微笑みを返した。「そうだね、ある意味、そういうことになるのかもしれない。」

ハルカを迎えた後、二人は動物病院を出て家に向かった。道中、弥生はハルカのことを話題にしながら、その名前に込められた意味についても触れ続けた。

「はるかさんのことをずっと想っているんだね」と弥生がしみじみと言った。

巧はその言葉に対して曖昧に頷いた。真実を説明するべきかどうか迷いながらも、弥生の誤解を訂正することができなかった。巧の心には複雑な感情が渦巻いていたが、ハルカを無事に家に連れ帰ることができたことで少し安堵した。

家に着くと、巧はハルカをゲージから出し、暖かいベッドに寝かせた。弥生はその様子を見て微笑みながら、「本当に可愛い猫ね。ハルカもきっと幸せだよ」と言いながら、弥生は巧に許可を取ってスマホで写真を撮り始めた。

巧は微笑んで、「うん、撮っていいよ」と答えた。そしてふと、自分もあまりハルカの写真を撮っていなかったことに気づいた。「そういえば、あまり写真撮ってなかったな」と呟きながら、巧もスマホを取り出して写真を撮り始めた。

弥生はハルカの可愛らしい仕草を逃さずにカメラに収めていた。巧もハルカのふわふわの毛並みや大きな青い瞳を写真に収めようとするが、ハルカはカメラに気づいて遊び始め、なかなかじっとしてくれない。

「ハルカ、こっち見て」と巧が声をかけると、ハルカは一瞬だけ巧の方を見て、また遊び始めた。

「動きが早くて撮るのが難しいね」と弥生が笑いながら言った。

「本当だね。でも、こうやって動き回っているところも可愛い」と巧も笑った。

そのうち、巧と弥生はお互いにハルカの写真を見せ合いながら、どの写真が一番可愛いかを話し始めた。弥生は特にハルカがピンク色の鼻をぴくぴくさせている瞬間を気に入っていた。

「この写真、すごく可愛いわ」と弥生が見せてくれた写真には、ハルカが巧の膝に乗って甘えている姿が写っていた。

「うん、本当に可愛い」と巧も同意しながら、その写真をじっと見つめた。

夕方になると、弥生はそろそろ帰らなければならない時間になった。巧はハルカをベッドに寝かせた後、玄関まで弥生を見送った。

「今日はありがとう。ハルカも喜んでたし、俺も楽しかったよ」と巧が感謝の気持ちを伝えると、弥生は微笑んで「こちらこそ、楽しかったわ。またハルカに会いに来るね」と言った。

弥生が帰った後、巧はハルカの写真を見ながら一日の出来事を振り返っていた。風邪を引いて一時は心配したが、ハルカが無事に元気になってくれて本当に良かったと思った。そして、ハルカの画像を待ち受けに設定しつつ、弥生との誤解についても、いつかきちんと説明しなければならないと心に決めた。

ハルカがふわっとした毛布の中で気持ちよさそうに寝ている姿を見て、巧は心が温かくなるのを感じた。その夜、巧はハルカのそばで静かな夜を過ごした。


傭兵団の拠点では、重苦しい空気が漂っていた。ジェイコブはじめとする団員たちは、ボスである伊勢宇治綱の「ラインブレイカーを生け捕りにせよ」という命令に憔悴していた。製薬会社の異能者九人のうち、三人が死亡し、二人は再起不能。一人は態度不明で前線に送れず、前線向きの異能者はロックのみという厳しい状況だった。

ジェイコブは地図を見つめながら、深い溜息をついた。「この人員でラインブレイカーに対応するのは無茶だ」と心の中で呟きながら、「引き際か…」とつぶやいた。

それを聞いていた部下のミハイルが、「ボスの決断なら従うけど、アンドレアの事もある」と言いながら、ジェイコブに近づいてきた。彼の表情は厳しく、しかしどこかで希望を求めるような眼差しをしていた。「アンドレアが新薬で死ぬ可能性もある。タイミングを見極めるべきだ」と続けた。

アンドレアは部屋の隅で、自分の手のひらを見つめていた。新薬を無効化する薬の副作用が不明であるため、まだ服用していなかった。昨日、ヒーラーがその新薬を飲んだことで、その結果が早く出ることを期待していた。もしヒーラーが無事であれば、その薬を服用する決断材料になるだろうと考えていた。

「アンドレア、どうするつもりだ?」とジェイコブが声をかけると、アンドレアは顔を上げて微かに微笑んだ。

「ヒーラーの結果を待つつもりだ。それまで動かない方が賢明だと思う」と冷静に答えた。

ジェイコブは頷き、「分かった。待つのは賢明かもしれないな」と同意した。

その時、部屋のドアが開き、センサーが入ってきた。「ジェイコブ、ボスからの新たな指示がある」と告げた。

ジェイコブは一瞬ため息をつき、センサーに近づいた。「何だ?」

センサーは小さなメモを差し出し、「新たな作戦指示だ。ボスは状況が厳しいことを認識している」と説明した。

ジェイコブはメモを受け取り、中身を確認した。「了解した。みんな、準備を始めよう」と指示を出し、部下たちは動き始めた。

彼らは厳しい状況の中で希望を捨てず、次の行動に向けて準備を整え始めた。巧との対決は避けられないが、少しでも有利な状況を作り出すために、全員が一丸となって行動する覚悟を決めていた。

センサーがジェイコブに渡したメモには、ボスである伊勢宇治綱の新たな作戦指示が書かれていた。ジェイコブがメモを開くと、以下の内容が目に飛び込んできた。


「作戦名:影の網


①偵察と情報収集

センサーとカメレオンを先行させ、巧の行動範囲とパターンを詳細に調査せよ。可能な限り接触を避け、遠隔での観察を徹底する。

ヒーラーは、直接ラインブレイカーと行動させ、捕捉の補助とする。


②陽動作戦

ロックを中心としたチームを編成し、巧が関心を持ちそうな場所で偽の取引や異能者の活動を演出する。これにより、巧を特定のエリアに誘導する。


③包囲網の構築

巧が陽動作戦に引き寄せられた後、他の傭兵団メンバーで巧を取り囲むように配置。逃走経路を予め塞ぎ、巧を孤立させる。


④捕獲チーム

捕獲を担当するチームを構成し、巧を無力化するための非致死性武器を装備する。電撃銃や麻酔弾などを使用し、巧の異能を封じ込める。

この際に、ヒーラーは巻込んで構わない。


⑤後方支援と緊急対応

アンドレアは後方支援に回り、状況に応じて回復や撤退を指示する役割を担う。新薬の服用は緊急事態に限る。


⑥緊急脱出計画

もし作戦が失敗した場合、全員が迅速に撤退できるよう、複数の脱出ルートを確保しておくこと。また、脱出ポイントには車両を待機させ、必要に応じて救援を呼ぶ。」


ジェイコブはメモを読み終え、部下たちに向けて説明を始めた。


「ボスの新たな指示は『影の網』だ。巧を直接捕まえるのではなく、まずは偵察と陽動で巧を特定のエリアに誘導し、包囲網を構築して捕獲する。ロック、君が陽動の中心だ。センサー、カメレオン、君たちは巧の行動を監視し、情報を集めてくれ。捕獲チームは非致死性武器を準備し、アンドレアは後方支援に回る。緊急事態に備えて脱出計画も立てる。」


部下たちは真剣な表情でジェイコブの言葉を聞き、各自の役割を確認し合った。巧を生け捕りにするための新たな作戦が、徐々に動き始めていた。



巧はショッピングモールに向かって歩きながら、背後から聞こえる「おーい」という声に振り返った。声の主はヒーラーだった。内心「なにこのやおい展開、誰得?」と苦笑しつつも、ヒーラーと合流してモールに向かう事にした。

「お迎えの傭兵はどうしたのか?」と巧が尋ねると、ヒーラーは少し笑みを浮かべて答えた。「近くで待機中だよ。今、我々を監視しているのは…」そう言いながら、胸ポケットからペン型カメラを取り出した。「これと、あとセンサーが聞き耳を立てているはず。カメレオンも、ひょっとして近くにいるかもね。」

巧は周囲を見渡しながら、少し緊張感を覚えた。「本当に大掛かりだな。俺一人を捕まえるために、そこまでしなくてもいいのに。」

ヒーラーは肩をすくめて、「それがボスの方針だからね。君の能力は彼らにとって脅威なんだ。捕まえるためには手段を選ばないさ。」とヒーラーが答えると、彼の目が巧のスマホの画面に留まった。

「待ち受け画面に可愛い仔猫がいるね。見せてくれない?」とヒーラーが興味津々に尋ねた。

巧は一瞬ためらったが、昨日待ち受けを飼い猫のハルカの画像に変えたことを思い出した。微笑みながらスマホを取り出し、画面をヒーラーに見せた。

「この子か。名前は?」ヒーラーが尋ねた。

「ハルカだよ。白い毛がふわふわで、人懐っこいんだ。」巧は誇らしげに答えた。

ヒーラーは目を輝かせながらハルカの画像を見つめた。「本当に可愛いね。いつか会ってみたいな。」

巧は笑いながら答えた。「本人の許可が得られたらな。ハルカは人見知りすることもあるから、気に入られるかどうかはわからないけど。」

「そんなこと言わないでよ。きっと仲良くなれると思うよ。」ヒーラーは楽しげに言った。

その後、二人はショッピングモールに向かって歩き出した。背後に潜む脅威を感じつつも、巧はヒーラーとの穏やかな会話に一時的な安らぎを覚えた。彼は自分が今、非常に危険な立場にいることを理解していたが、ヒーラーとのやり取りが彼の心を少し和らげてくれた。

そんな穏やかな瞬間も束の間、背後からごつい男が尾行しているのに気付いた。敵の異能者、ロックである。彼は臨戦態勢に入ると防弾ガラスのゴーグルを着けている。巧は再び緊張感を取り戻し、次なる行動を計画し始めた。

巧は瞬時に状況を判断し、ヒーラーに耳打ちをした。「あのゴーグルを取り上げる。ついてきて。」ヒーラーは一瞬ためらったが、すぐに頷いた。

巧は意を決してロックに接近し、素早くその手からゴーグルを奪い取った。ロックは驚いて拳を振り上げたが、巧はすぐに逃げ出し、ショッピングモールの出口へと急いだ。


ロックの過去は、一般家庭で始まった。父親はボクシングが大好きで、ロックもその影響で幼い頃からボクシングに熱中した。少年時代は地域のアマチュア大会で活躍し、次第にその名を知られるようになった。地元のジムに通い詰め、そこでの練習を重ねるうちに、プロへの道が開かれた。

プロになったロックは、一時期は順調にキャリアを積んでいたが、次第にその撃たれ弱さが露呈するようになった。幾度も顎を狙われ、マットに沈むことが増えていった。試合に負け続けるロックに対して、ジムも次第に見放し、彼はプロボクサーとして生活することが苦しくなっていった。

そんな時、彼に一つの転機が訪れた。金のためにと受けた治験が、彼の運命を大きく変えることとなった。ロックは結果として理想の力を手に入れた。しかし、それは彼の自由を奪うことでもあった。製薬会社はその力を知ると、ロックを捕捉し、洗脳を施して自社の社員にしたのだ。

ボクシングから引退を余儀なくされたロックは、製薬会社と契約する傭兵団に派遣として戦場に送り込まれるようになった。そこでは、彼の能力が存分に発揮され、特攻して敵を制圧する際の充実感を感じるようになった。かつてのボクシングの試合では味わえなかったこの感覚に、ロックは次第に満足感を覚え始めた。

「これが俺の新しい生き方か…」と、戦場での彼は思った。そして、製薬会社の社員としての任務を忠実に果たすことが、自分の存在意義であると考えるようになった。

だからこそ、今も彼は巧の捕獲という任務に全力を尽くしていた。どんなに困難な任務であっても、彼にとってそれは自分の新しい人生の一部であり、かつての挫折を乗り越える。

それこそがこの男、ロック!

「俺に人生は、誰にも止めさせない!」


ロックが後を追う中、巧は横断歩道に差し掛かり、道を渡り終えると振り返った。巧は前日に傭兵団から奪った拳銃をロックに向けた。

ロックは反射的に腕を構え、目を守ろうとした。彼の硬化能力が弾丸を弾くことは知っていたが、目は保護できない。その瞬間を狙っていたヒーラーが背後からロックに飛びかかり、力強く羽交い絞めにした。

「何をしている!やめろ!」ロックは激しくもがいたが、ヒーラーの腕からは逃れられなかった。

その時、道路を走っていたタンクローリーが二人に向かって突っ込んできた。ヒーラーは逃げる暇もなく、ロックと共に弾き飛ばされた。タンクローリーの衝突音が響き渡り、周囲の人々は一斉に悲鳴を上げた。

巧は一瞬、立ちすくんだが、すぐに現場に駆け寄った。煙と埃が舞い上がる中、ヒーラーとロックの姿を探した。奇跡的に、ヒーラーはタンクローリーの衝突から一命を取り留めていたが、重傷を負っていた。ロックは銃を向けられたときに硬化能力を発動した影響で、外傷がない代わりに四肢が割れ、無残な姿で倒れていた。

巧は急いでヒーラーの元に駆け寄った。「大丈夫か?」

ヒーラーは苦痛に顔を歪めながらも、かすかに微笑んだ。「以前なら、三、四日はベッドで動けなかったろうになぁ。」と言いながら、ゆっくり立ち上がった。服は血みどろだが、見る間に傷がふさがっていった。

巧は目の前の光景に驚きを隠せなかった。「お前の能力って、こんなに強力だったのか?」

ヒーラーは自嘲気味に笑った。「いや、俺もこんなに早く回復するとは思わなかったんだ。困惑してるのは俺の方さ。」

周囲を見回すと、人だかりができ始めていることに気付いた。巧はヒーラーの腕を引っ張り、「ここから離れよう。目立ちすぎる。」

ヒーラーも同意し、二人は急ぎ足でその場を後にした。人々の好奇の目から逃れ、人気のない路地へと入ると、ヒーラーが息をつき、体をもたれかけた。

「大丈夫か?」巧が心配そうに尋ねる。

「なんとかね。でも、さっきのは本当に驚いたよ。僕の治癒能力がこんなに強くなったなんて、何が原因なんだろう。」ヒーラーは自分の手を見つめながら呟いた。

「君の能力が進化しているのかもしれないな。でも、今はとにかく安全な場所に移動しよう。ここは危険すぎる。」巧は慎重に周囲を見渡しながら言った。

ヒーラーも同意し、二人は再び歩き始めた。ヒーラーは「自分はGPSで位置を捕捉されているはずなので、大通りか分かりやすそうなところで拾ってもらうことにするよ」と言って、巧と別れることにした。 この後の彼の運命を知りながらも。



同日夕刻。ヒーラーは薄暗い施設の地下室でまた椅子に縛られていた。冷たいコンクリートの床と無機質な壁が、彼の拘束された状況を一層重苦しいものにしていた。彼の体はまだ完全に回復しておらず、痛みがじわじわと広がっていた。

扉がギシギシと音を立てて開き、黒いスーツを着た男が入ってきた。彼の冷たい目がヒーラーをじっと見据えた。

「君の回復能力には感心するよ、ヒーラー」と男は低い声で言った。「しかし、君が巧と接触したことについては、上層部は非常に不満を抱いている」

ヒーラーは無言でその男を見つめ返した。彼の目には怒りと決意の色が浮かんでいた。傭兵団長ジェイコブが、ボス・伊勢宇治綱社長からの伝言を読み上げる。

「ヒーラー、君には失望した。一度目はこちらの情報をラインブレイカーに提供し、二度目はマニピュレーター殺害に加担し、三度目はロックを再起不能にした。ロックの四肢は損壊し、回復の見込みはなく、胸部の傷は肺に達し、未だ意識が戻らないままだ。前回既に新薬と無効化薬を飲んだうえで出来るペナルティは、もはや処分しかない。このうえ損害を拡大しかねない君を放っておく選択肢は、もはやないのだ。ごきげんよう。」

これを聞いてヒーラーは乾いた笑いを漏らした。「社長に捨てられちゃったか。僕の愛社精神は本物なのにね。」

ジェイコブは冷たく笑った。「お前の独特な愛社精神を理解できる者は、お前の会社にはいないと思うぞ」と言いながら、ヒーラーの頭に銃を突きつけた。「最後に言いたいことは?」

ヒーラーは一瞬目を閉じ、遠い昔の記憶に思いを馳せ始めた。決して平坦ではなかった。


一般家庭の一人っ子だった僕は、中学に入ったばかりの頃に父が交通事故で亡くなった。それがきっかけで、母は壊れた。おりた保険金で男遊びをするようになり、家には帰らなくなった。見かねた父方の叔父が僕を引き取り、養父母と、二つ下の妹が出来た。

高校3年で大学への進学も決まり、そのときに義理の妹に告白された。僕は傷つけないように当り障りなく距離を取ったが、僕が大学に行くと同時に家を出る事を知っていたから焦っていたのだと思う。ある夜、僕の寝室に忍び込んできて関係を持ってしまった。この事はすぐにばれて、叔父に殴られ、怒鳴りつけられた。僕は妹を庇い、「僕に責任がある」と言い続けた。だから、妹を守り続けなければならない。だけど、この家にはもういられない。

家族という拠り所を失うことで、自分はどんどん脆くなっていくのを感じた。日に日にアームカットの跡が増え、このままじゃいけない、叔父にはもう頼れないから、バイトをして引越し先の頭金ぐらいは作らないと、と思って治験に参加した。

一週間後、僕はあの家から連れ去られ、製薬会社の社員になっていた。気が付けば、腕を切っても瞬時に跡形もなく回復してしまう体になっていた。

死を望みながら、死ねない体になってしまった。

それこそがこの男、ヒーラー!

「短い人生、それもいいかもね。」


彼の回想はここで途切れ、現実に引き戻された。ジェイコブはまだ銃を向けたままだ。「思い出に浸る時間は終わりだ。お前にはもう選択肢がない。」ジェイコブの冷酷な声が響いた。

ヒーラーは微笑みながら「こういう終わりも、たまにはいいかもね」と言った。

その瞬間、ジェイコブは引き金を引いた。轟音と共に、血の飛沫が空気を切り裂いた。ヒーラーの頭部に空いた穴から弾丸が排出され、瞬時に傷が閉じた。焼けた肉の匂いが立ち込め、現実の感覚が彼らの前にあった。

ジェイコブは動揺を隠せなかった。「なんだ…これは?」

ヒーラーは肩をすくめ、「新薬と無効化薬の影響、かもしれないね。皮肉だな、なかなか死ねなくなるなんて」と冷静に答えた。

ジェイコブは再び銃を構え、今度は心臓を狙った。弾丸はヒーラーの胸を貫き、先程よりも多くの血が飛び散った。しかし、やはり弾丸は排出され、傷は瞬時に閉じた。

「どうなってるんだ、これが本当にお前の能力なのか?」ジェイコブは震えた声で問いかけた。

ヒーラーは冷たい笑みを浮かべ、「ああ、どうやら新薬のおかげで、普通じゃ考えられない再生能力を手に入れたみたいだ」と言った。「ただし、その代償が何かはまだわからない。」

ジェイコブは驚愕と恐怖の入り混じった表情でヒーラーを見つめた。「お前がどれだけ強くなったとしても、俺はお前をここで終わらせる。」ジェイコブは冷徹な決意を込めて言い放った。彼は天井からぶら下がっている滑車にかかる鎖の一端をヒーラーに巻き付けた。

「ボスの命令がある以上、出来得る限りの方法を使うことになる」と言いながら、ジェイコブは滑車の操作を始めた。

ヒーラーは苦しそうに微笑み、「こいつは苦しそうだね」と呟いた。ふと、巧から見せてもらった仔猫の画像を思い出し、「ハルカちゃんだっけ、会いたかったな」と、涙を浮かべながら言った。

滑車が動き始め、ヒーラーは椅子に縛り付けられたまま、ゆっくりと天井に向かって引き上げられた。彼の体は鎖一本でぶら下がり、激しい痛みと共に宙に浮かんだ。

ぶう、ぶぶ、と喉から空気が出る音を立て、苦悶の表情を浮かべ、涙を流しながら、ヒーラーは最期の時を迎えた。彼の目には、決して叶わなかった希望と、失われた未来への哀愁が浮かんでいた。ジェイコブの冷たい視線の下、ヒーラーは静かに息を引き取った。

ヒーラーの体が完全に動かなくなった瞬間、ジェイコブは一瞬のためらいもなく滑車を止め、ヒーラーの死を確認した。彼の任務は完了したが、胸の奥にわずかな罪悪感が残った。

「これが、俺たちの世界の現実だ」とジェイコブは自分に言い聞かせるように呟いた。彼はヒーラーの無念を背に、再び任務に戻るために歩き出した。

一方で、巧の心には、ヒーラーとの出会いと別れが深く刻まれていた。ヒーラーの最後の言葉と、その死を無駄にしないためにも、巧は自分の使命を全うする決意を新たにしたのだった。


傭兵団のメンバーたちは、隣の部屋でヒーラーの処刑の一部始終を見守っていた。彼らの表情は硬く、緊張感が漂っていた。特に、ヒーラーの驚異的な回復力が強化されているのを目の当たりにした時、彼らは動揺を隠せなかった。

その中で、ひとりの男が心の中で決意を固めていた。アンドレアである。彼は以前ペナルティとして新薬を飲んでいたが、無効化薬を得ていながら未だ飲んでいなかったのだ。ヒーラーの強化された回復力に感化されたアンドレアは、自らも同じ道を選ぶことを決意した。

「皆、聞いてくれ」とアンドレアは皆の前で宣言した。仲間たちは一斉に彼に注目し、静まり返った。アンドレアは無効化薬の瓶を取り出し、手の中でしばらく見つめた後、決然とした表情で言葉を続けた。

「ヒーラーのように、俺も強くなりたい。この薬を飲むことで、俺の力がどう変わるかは分からないが、もう迷うことはない。俺は仲間のために、そして自分自身のために、この薬を飲む」

その言葉を終えると、アンドレアは瓶の蓋を開け、中の無効化薬を一気に飲み干した。薬の苦味が喉を通ると同時に、彼は全身に異様な感覚が広がるのを感じた。

傭兵団の仲間たちは息を呑みながら見守っていた。アンドレアの体が徐々に変化していく様子を目の当たりにし、彼らの心には新たな希望と不安が入り混じった。

「俺たちも負けてはいられない」と、他の傭兵たちも心の中で決意を新たにした。アンドレアの行動が、彼らに新たな覚悟を促したのだった。

アンドレアは仲間たちの前で薬を飲み干した後、しばらく静かに立ち尽くしていたが、次第に力がみなぎってくるのを感じた。彼の決意と行動が、傭兵団全体に新たな士気をもたらし、彼らはさらに結束を強めていった。

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