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ラインブレイカー  作者: 藤林保起
12/15

翌日の昼、大学の食堂は、学食の賑やかな雰囲気で溢れていた。学生たちがランチを楽しみながら、談笑する音が響く中、巧と小島はテーブルに座っていた。小島のジャーナリズム研究会の友人である陽気な齋藤あすかが合流し、3人は昼食をとりながら会話を交わしていた。

あすかは元気いっぱいで、手に持っていたサンドイッチを一口食べながら、にこやかに言った。「心霊スポットのトンネル崩落、なんてすごい事件だったみたいだけど、二人とも無事でよかったよ! ほんと、怖い話にはならなくて安心した!」

小島は笑顔で応じ、「そうなんだよ、あすかちゃん。予想外の展開になっちゃってね。でも、無事に帰ってこれて良かったよ。」と話す。その言葉に巧も頷きながら、話題を変えて都市伝説について語り始めた。

「実はさ、俺たちが取材したトンネルにも、昔から色々な都市伝説があるんだ。たとえば、夜になると声が聞こえるとか…」

その時、突如として見慣れない美男子がテーブルに近づいてきた。彼の肌は細かいきめが整っており、儚げな美しさを放っていた。長袖のシャツで隠れた左手には、数多くのためらい傷が見えたが、誰もが気に留めることはなかった。

「楽しそうだね。僕にも聞かせてくれないかい?」その声は穏やかで、優雅な雰囲気を醸し出していた。

巧は瞬時にその男を見て、心の中で「ヒーラーだ」と認識した。彼は予知によって、この男が異能者であり、瞬間治癒の能力を持つことを知っていた。

小島が一瞬戸惑いながらも、「えっと、どうぞ。興味があるなら、ぜひ聞いてみて。」と答えると、あすかも好奇心を隠せない様子で、「へぇ、なんか面白そうな人だね。どんな話が聞けるんだろう?」と興味津々で見守った。

ヒーラーは優雅に笑いながら座り、「僕の名前はヒーラー。異能者として、皆さんの話に興味があります。どうぞ、続けてください。」

大学食堂の賑やかな雰囲気の中、巧はヒーラーに録音の許可を取り、小島も録音機材を用意した。会話が始まり、巧はヒーラーに異能者について質問を始めた。


「では、ヒーラーさん。異能者について詳しく教えていただけますか?まず、異能者がどのように呼ばれているのか、教えてください。」


ヒーラーは穏やかな表情で頷きながら答えた。「異能者たちは、全員がコードネームで呼ばれています。我々の本名は公にはされておらず、これによって我々の身元を保護し、会社の内部情報が漏れるのを防ぐためです。」


巧は次に進み、「異能者の能力はどのようなもので、他の能力と比べてどうなのでしょうか?」と尋ねた。


ヒーラーは軽く微笑みながら答えた。「我々の能力は、主に身体能力の延長に過ぎません。つまり、特別な異能を持つ者は少なく、通常の能力の範囲内での拡張に留まっています。超能力に近い異能は、非常に稀な存在です。」


巧は続けて、「異能者はどのように管理されているのでしょうか?」と質問した。


ヒーラーは真剣な表情で答えた。「我々異能者は、日本で管理されており、洗脳によって調整されています。洗脳治験は日本で行われ、全員が製薬会社の意向に沿った洗脳を受けています。」


次に巧は、「異能者たちは、製薬会社についてどのように思っているのでしょうか?」と訊ねた。


ヒーラーは少し考え込みながらも答えた。「洗脳の結果、我々は製薬会社に対して強い愛社精神を持つようになります。これにより、会社の命令に対して従順になり、脱出の考えなどは全く持っていません。」


巧は次に、「治験がどのような目的で行われているのか、教えてください。」と尋ねた。


ヒーラーは穏やかに説明した。「治験は、一般人の異能を発現させ、異能者の管理と調整を目的としています。これにより、製薬会社は我々をコントロール下に置き、その力を最大限に活用するための手段としています。」


最後に巧は、「異能者の役割について、具体的にはどのようなことをしているのでしょうか?」と尋ねた。


ヒーラーは落ち着いた口調で答えた。「我々は会社の命令に従い、その異能を発揮します。会社の目標達成のために利用されるとともに、我々の存在自体が会社の力の一部として機能しています。」


ヒーラーの説明が終わると、巧は録音機材を確認しながら、収集した情報がどのように役立つかを慎重に考えた。小島とあすかも、この話がどれほど重要かを理解し、しっかりと耳を傾けていた。ヒーラーはにこやかに微笑み、「他に何か質問があれば、お気軽にどうぞ」と促した。


巧は、録音機材を見守りながらさらに質問を続けた。「ヒーラーさん、所属する会社の社名を教えていただけますか?」

ヒーラーは微笑みながら、あっさりと答えた。「もちろんです。製薬会社の名前は『ライフフォージ製薬』です。代表は伊勢宇治守会長ですが、治験や異能の研究・管理を主導しているのはご長男の伊勢宇治綱社長です。」

この情報は、今まで全く出てこなかった最も貴重な情報であった。巧は頷きながら、次に進めるように促した。「ありがとうございます。それでは、現在いる異能者について教えてください。具体的には、脱落者や死亡者を含めてどのくらいの人数が残っているのでしょうか?」

ヒーラーは少し考え込みながら答えた。「現在のところ、脱落者が二名、死亡者が二名です。残っているのは、マニピュレーター、ロック、センサー、そして僕、ヒーラーです。それに、カメレオンもいましたね。」

巧は、ヒーラーが述べた内容を整理しながら頷いた。脱落者と死亡者はすべて巧が関わっているため、把握していた。マニピュレーターとロック、センサー、そして目の前にいるヒーラーも木曽芳恵からの情報で知っていたが、「カメレオン」という名前は初耳だった。巧の表情にはわずかな驚きが浮かんだ。

「カメレオンというのは、どのような能力を持っているのですか?」巧は興味津々で質問した。

ヒーラーは、少しの間考え込みながらも、穏やかな口調で答えた。「カメレオンは、顔を変える能力を持っているんだ。どんな顔にも変えられるから、他人に気づかれることなく、様々な人物に変装できるんだよ。」

巧はその能力に感心しながらも、もう一歩踏み込んで聞いてみた。「それはすごいですね。カメレオンの役割や行動についても教えてもらえますか?」

ヒーラーはちょっと苦笑いを浮かべ、「カメレオンの本来の役割は、社会に紛れ込んで治験参加者を募ること。彼女は直接治験に参加することがあって、監視の目的もあるけど、実際には安全にセックスを楽しめる相手を見つけるために動いていたんだよ」と話した。

巧は驚きの表情を浮かべながら聞いていた。「それは、かなり…独特な役割ですね。」

ヒーラーは肩をすくめて続けた。「うん、正直言って、俺はカメレオンのことはあまり好きじゃないんだ。彼女は快楽主義で無責任、刹那主義っていうタイプで、他人の不幸を楽しむこともあるからね。今は忙しいみたいで、あまり見かけないけど。」

巧はその説明に納得しつつ、興味深く続けて聞いた。「今はどこにいるんでしょうか?」

ヒーラーは少し眉をひそめ、「それはわからないな。彼女の行動はかなり自由だから、どこにいるかは一概にはわからない。でも、忙しいようだし、しばらく姿を見ないかもしれないね」と答えた。

巧は、その情報をしっかりと胸に刻みながら、会話を続ける準備を整えた。小島もこの話に興味深々で聞いており、何気ない会話の中で貴重な情報を得ることができた。


ヒーラーは話をまとめるように、静かに言った。「というわけで、現在活動中の異能者は、マニピュレーター、ロック、センサー、カメレオン、ヒーラー、それとラインブレイカー、君だね。」


小島と斎藤は一瞬、その情報を飲み込むのに苦労していた。斎藤はびっくりした表情で、「え、ラインブレイカー?つまり…」と声を上げそうになるが、言葉を呑み込んでしまう。


巧はその沈黙を破り、「僕は社員じゃないんだけど?」と疑問を投げかけた。


ヒーラーは微笑んで答えた。「社長は認めているんですよ、あなたのこと。」


その一言で、巧は社長の意図に少しだけ驚きながらも、淡々と受け入れるしかなかった。ヒーラーは席を立ち、「二人も倒したんだ。期待せざるを得ないじゃないか」と一言付け加えた後、食堂のドアに向かって歩き出した。


その背中が見えなくなるまで、ヒーラーはまるで優雅な舞いをしているように、ひとつひとつの動作が洗練されていた。食堂には、彼の言葉と姿が残した余韻が漂っていた。


小島と斎藤は、彼の去り際に何かしらの重圧を感じつつ、言葉を交わすこともできずにいた。巧はただ静かに、ヒーラーの言葉を反芻していた。


キャンパスの外に待機していた黒塗りの車にヒーラーが乗り込むと、運転席にいたレイチェルが振り返り、鋭い声で問いかけた。「敵に情報を渡すなんて何考えているの?」

ヒーラーは無邪気な笑顔を浮かべて答えた。「彼はわが社の異能者だよ?」その言葉には確固たる信念が込められていた。

レイチェルは不満げな表情を崩さずに続けた。「今日も確保作戦だったはずが、なぜ会談し、重要な情報を与えるだけで何事もなく去った。そうボスに報告しろ、というの?あなたが新薬を飲まされたらどうするの?」

ヒーラーは肩をすくめて、窓の外を眺めながら軽く答えた。「それもいいかもね」と、まるで他人事のような口ぶりだ。

レイチェルは運転席に戻り、ハンドルを握りしめた。この美男子はラインブレイカーを気に入ったのか?彼の本心は測りかねていた。車は静かにエンジンをかけ、キャンパスを後にした。

車の中で、レイチェルはヒーラーの横顔をちらりと見ながら、心の中で思った。ヒーラーは奴を気に入ったのか、それとも別の意図があるのか?その真意はまだ見えない。

「ラインブレイカーが何者か、君は本当に知っているのか?」レイチェルが問いかけると、ヒーラーはただ微笑んで答えた。「それは、時間が教えてくれるさ。それに、今日彼は僕に何もしかけてこなかった。こちらが何もしない間は、相手も何もしてこない。異能の正体がわかってからでも遅くない。そう思わない?」

レイチェルはその言葉に納得できないまま、車を走らせた。ヒーラーの意図が何であれ、彼女には自分の役割があった。そして、その役割を果たすために、彼女は一瞬たりとも気を抜くことはできなかった。


「場所を変えて、ちゃんと話したいことがあるんだ」

巧は斎藤と小島を個室喫茶ジュテームに連れて行き、深刻な表情で話し始めた。ドアを閉めると、深呼吸を一つした。


「まず、一つ目なんだけど…実は俺、治験の参加者だったんだ」と巧は言いながら、テーブルに座った二人を見つめた。


「治験?それってライフフォージの?」斎藤が驚いた表情で尋ねた。


巧は頷いた。「ああ、そう。仁科君と同時期に他の参加者と一緒に治験に参加してたんだ。でも、その治験は普通じゃなかった。参加者の中で生き残ったのは俺だけだったんだ。」


小島の顔が青ざめた。「それって…危険な治験だったってこと?」


「そういうことだ。俺が知り合った教来石も、その治験で出会ったんだ」と巧は続けた。


「そしてもう一つ、ライフフォージ製薬って会社が俺を勝手に社員扱いして、『ラインブレイカー』っていうコードネームをつけてるんだ。今日のヒーラーもそう言ってたけど、俺はその会社の異能者ってことになってるんだよ。」


斎藤は信じられないという顔で巧を見つめた。「それじゃあ、ヒーラーってやつもその会社の異能者ってこと?」


巧は頷いた。「そうだ。あいつも異能者で、ライフフォージ製薬の一員だ。俺たちが出会ったあのトンネル事故も、あの会社の計画の一環なんだ。」


小島はしばらく考え込んだ後、意を決して質問した。「たっくんの異能って、具体的にどんな能力なの?」


巧は一瞬迷ったが、彼女たちを巻き込まないために決心した。「実は、俺の異能は相手の精気を根こそぎ吸い上げる力なんだ。触れた相手の力を吸い取って、自分のものにする。結構エグいだろ?」


小島と斎藤は目を丸くし、一瞬沈黙が流れた。斎藤が少し引きつった表情で言った。「それって、かなりヤバい能力だね…。正直、ドン引きだよ。」


巧は内心ほっとしながらも、真剣な表情を崩さなかった。「だから、君たちはあまり関わらない方がいいんだ。俺の能力のせいで、君たちまで危険に巻き込まれるのは避けたい。」


小島は少し考え込んだ後、強い目で巧を見つめた。「たっくん、それはそれとして、私たちはもう既に巻き込まれているって自覚してる。だから、逃げることはしないよ。私たちも一緒に戦う。」


斎藤も頷いた。「そうだね。何があっても、私たちは友達だし、一緒に頑張ろう。」


巧はその言葉に胸を打たれ、感謝の気持ちでいっぱいになった。「ありがとう、二人とも。でも、本当に無理はしないでくれよ。俺も君たちを守るために全力を尽くすから。」巧は一呼吸置いてから続けた。「それと、もう一つ伝えておきたいことがある。自分の異能については、ここで初めて話したんだ。製薬会社も把握していない。だから、このことは三人の秘密にしておいてくれないか?」


小島は深く頷いた。「もちろん、たっくん。私たちは何があっても口を割らないよ。」


斎藤も同意した。「そうだね、私たちは一蓮托生だもんね。絶対に誰にも言わないよ。」


巧は二人の返事に安堵し、改めて彼女たちの信頼に感謝した。「ありがとう。本当にありがとう。これで、少しは安心できる。」


小島が笑顔で言った。「それにしても、こんな話をするなんて、まるで映画みたいだね。私たちの大学生活がこんなにドラマチックになるなんて思わなかったよ。」


斎藤も笑みを浮かべた。「確かにね。でも、これからはもっと気を引き締めていかないとね。」


三人はその後もしばらく話し合い、今後の行動についての計画を立てた。巧は友人たちの存在が自分にとってどれだけ心強いかを再認識し、戦いに向けての覚悟を新たにした。


その夜、巧は自室でヒーラーが話していたカメレオンについて考え込んでいた。ヒーラーの言葉から、カメレオンは女であり、治験参加者を集める役割を持っていることが分かった。そして、彼女自身も治験に参加している。

自分が把握している治験バイトを集めている人物は、仁科君のバイト先にいる甘利泰子。

治験で男漁りしていた女といえば、木曽芳恵。

つまり、甘利と木曽は、異能で顔を変えた同一人物である、と考えられる。

そして、甘利は木曽の連絡先と称するメモを自分に渡し、木曽の名義でわざとカメレオンの情報が抜けているメールを送ってきた。彼女がカメレオンであることは疑いようがなかった。

巧は自分の机に向かい、カメレオンについての情報を整理したメモを広げた。彼女がカメレオンであるという事実を突き止めたのは一つの収穫だが、依然として不可解な点が残っていた。なぜ甘利、つまりカメレオンは詳細な情報を自分に送ってきたのだろうか。施設の住所、傭兵団の詳細、異能者の詳細、治験と異能発現薬、それをめぐる製薬会社の野望。これらの情報は極めて重要であり、敵対者に渡すようなものではなかった。

「何か裏があるに違いない…」巧は独り言をつぶやきながら、さらに考えを巡らせた。カメレオンが自分に情報を送った目的は何か。裏切りの意図があるのか、それとも別の何かを企んでいるのか。巧の心には様々な疑念が渦巻いた。

「もしかすると、彼女も何らかの理由でライフフォージ製薬に対して反感を抱いているのかもしれない。あるいは、自分の立場を利用して何かを企んでいるのか…」巧は自分の考えに確信が持てなかったが、いずれにせよカメレオンの動向を注視する必要があると感じた。

彼は再び机に向かい、ヒーラーが話した情報と自分が知っている事実を照らし合わせながら、カメレオンの真意を探る手がかりを探し続けた。その夜、巧は自分の周りに渦巻く陰謀と謎に対する警戒心をさらに強め、次の一手を慎重に考え始めた。


巧は初めて会ったヒーラーについて考え続けた。

彼の出現は予知で知っており、話には応じる相手だとわかっていたから今回は事を構えずにやり過ごした。結果として、重要な情報も得られた。

彼の能力が「瞬間治癒」であるなら、RPGの回復薬のようなものだろうか。治療の力を持つ異能者が拉致作戦においてどれほど役立つかは疑問だったが、何か別の意図があるに違いないと感じていた。

「ヒーラーが接触してきた理由…」巧は思考を巡らせた。「彼の異能が治癒に特化しているのは確かだが、なぜ今このタイミングで自分たちに接触したのか、またその目的は何か、まだ見当がつかない。」ヒーラーが何を考えているのか、その真意を見抜くのは難しいと感じた。

結局、彼が接触した理由やその異能の詳細については、現時点では明確な答えを出すのは難しいと判断した。これ以上考え続けても答えが出ないと感じた巧は、疲れた体を横たえ、取り敢えず眠ることに決めた。眠ることで新たな気づきがあるかもしれないと期待しつつ、布団の中に身を沈めた。夜の静寂の中で、巧は様々な思考を心の片隅に置きながら、深い眠りへと落ちていった。


巧は、前日にヒーラーとの会談で得た情報を整理し終えた翌朝、パソコンを開くと、協力者である泉新吉からの返信が届いていたことに気づいた。泉に送った敵異能者・クラッシャーとの戦いの映像に対して、興奮した様子が伝わってくるメールだった。

「ナンマルさん、この映像は素晴らしい!証拠として完璧です。クラッシャーが谷底に転落するシーンを捉えるなんて、信じられません。これで我々の手元には重要な証拠が揃いましたね。」

泉のメールを読みながら、巧は満足感を覚えた。しかし、さらに情報を共有しなければならないと感じ、泉に向けて新たなメールを打ち始めた。


「件名: 追加情報


泉さん、


クラッシャーの映像について喜んでいただけて良かったです。実は昨日、ヒーラーと直接会談して、さらに重要な情報を得ることができましたので、共有いたします。


①敵製薬会社の名前: 「ライフフォージ製薬」

②主導している人物: 社長の伊勢宇治綱

③私に対する認識: 伊勢は私を勝手に社員と認め、コードネーム「ラインブレイカー」をつけてきました。

④敵異能者・カメレオン:

これは非常に重要な情報です。カメレオンという女の異能者がいて、その正体は情報提供者の木曽芳恵と甘利泰子、つまり、彼女たちは同一人物です。

カメレオンの異能により、彼女は顔を変えることができます。これによって、彼女は直接接触してきて、自身であるカメレオンの情報をわざと抜いた内容を提供していました。


これらの情報が我々の活動にとって大いに役立つことを願っています。さらに詳細が分かり次第、また連絡いたします。


ナンマル」


巧がメールを書き終えて少しリラックスしていると、ハルカが大きなあくびをして目を覚ました。彼はハルカを見て微笑みながら思い出した。この小さな猫は甘利泰子の話をすると、なぜか猫パンチをしてくることがあった。

「おまえは甘利の正体を知っていたのか。おりこうさんだな」と、巧はハルカに向かって優しく言った。ハルカはご機嫌な様子で喉をゴロゴロと鳴らし、巧に頭を擦り付けてきた。

「お前も一緒に戦ってくれているんだな」と、巧はハルカの頭を撫でながら続けた。「これからも頼むぞ、相棒。」

ハルカはさらにご機嫌な様子で尻尾を振り、巧の手に頭を押し付けてきた。その愛らしい仕草に、巧は少しだけ緊張を解くことができた。彼はこの小さなパートナーが、自分にとってどれほど大切な存在であるかを改めて感じた。

巧はハルカを抱き上げて窓の外を見た。今日も一日が始まる。この平和な一瞬を胸に刻みつつ、彼は再び戦いに向けて気持ちを引き締めた。ライフフォージ製薬の陰謀を暴くため、そして異能者たちとの対決に向けて、彼の戦いは続いていく。


傭兵団のメンバーたちは、焦りと緊張に包まれていた。アンドレアが作戦中に致命的なミスを犯してしまい、そのペナルティとして新薬を飲まされてしまった。その新薬は今のところ死亡率100%とされており、残り1週間のうちに彼は睡眠中に死ぬかもしれないという絶望的な状況だった。

アンドレアの失敗により、メンバーたちは次の行動を考えなければならなかった。しかし、次の刺客として指名されたヒーラーはどこか悠長な態度を崩さなかった。「こちらが何もしない間は、相手も何もしてこない。異能の正体がわかってからでも遅くない」と言って、焦る様子を見せない。

このままではアンドレアを救うための行動が遅れてしまうと感じたメンバーたちは、作戦行動で頻繁に共闘する異能者・ロックに相談を持ちかけた。ロックは冷静に話を聞き、「成果を得た後に、ボスに事後報告すればいい」と提案した。この提案にメンバーたちは賛同し、彼らは密かに作戦を開始することに決めた。

ロックはアンドレアを救うための計画を練り始めた。まずは新薬の効果を逆転させる方法を見つける必要がある。そのために、ライフフォージ製薬の研究データや試験結果を手に入れることが最優先となった。メンバーたちは手分けして情報収集を行い、必要なデータを入手するための手段を模索した。

ヒーラーの楽観的な態度とは対照的に、他のメンバーたちはアンドレアを救うために一刻も早く行動を起こすことを決意していた。「時間がないが、必ず成功させる」とロックは静かに言い、仲間たちに決意を示した。傭兵団のメンバーたちは、今や一丸となってアンドレアを救うための戦いに挑むことを決めたのだった。


製薬部内での聞き取り調査の結果、新薬の効果を遅延させる薬が開発中であることが判明した。その薬はフグ毒とトリカブト毒を相殺して効果を遅延させるという理屈と同じ原理に基づいていた。完全に効果を無効にするわけではないが、時間を稼ぐことができるというものだった。

この薬の開発はまだ治験が済んでおらず、理論上可能という段階に留まっていた。そのため、副作用や実際の効果はまだ確証がなく、使用するには大きなリスクが伴った。傭兵団のメンバーたちはこの情報をもとに、アンドレアを救うための次のステップを考えなければならなかった。

ロックは他のメンバーたちを集め、薬の情報を共有した。「この薬がアンドレアを救う唯一の希望だが、副作用が未知数だ」と言いながらも、その目には決意が見えた。

「時間を稼ぐことができるなら、それだけでもアンドレアを助ける手段を見つけるための猶予ができる」とスナイパーの一人が言った。

「だが、理論上可能というだけで、実際に効果があるかどうかはわからない。リスクが高すぎる」ともう一人が反論した。

「それでも試してみる価値はある」とロックが断言した。「アンドレアがこのまま死ぬのを待つわけにはいかない。私たちはすべての可能性を探るべきだ」

彼の言葉に、傭兵団のメンバーたちは黙って頷き、真剣な表情で聞き入っていた。その中で、ジェイコブが提案したのは、製薬部門の内部者を買収して試作品の提供を求める案だった。「私たちには限られた時間しかない。製薬部員に金銭的な引き換えで協力を得るか、もしくは他の方法で試薬の入手を試みるべきだ。」

その瞬間、部屋の扉が静かに開き、カメレオンがスムーズに入ってきた。彼女はスーツの下に隠れていた白衣の一部をちらりと見せながら、無邪気な笑みを浮かべて言った。「わたしにも一枚かませてよ。」

ジェイコブはその突然の提案に警戒心を強め、じっとカメレオンを見つめた。「カメレオン、お前がこの件に加わりたい理由は何だ? 取引の条件は?」

カメレオンは肩をすくめ、にっこりと笑いながら言った。「特に条件はないわ。ただ、試薬の使用結果を知りたいだけよ。」

ジェイコブは一瞬困惑しながらも、時間がないことを説明し、カメレオンに簡単に状況を話した。カメレオンは彼の説明を受け入れ、再びその白衣を整えながら、すぐに行動に移した。彼女は部屋を出てから数十分後、白衣に身を包んで戻ってきた。その手には、試薬の入ったボトルがしっかりと握られていた。

「お待たせしました。製薬部員に変身して試薬の場所を聞き出してきたわ。すぐに教えてくれたの。」カメレオンは得意げに微笑み、試薬をジェイコブに渡した。

ジェイコブは試薬のボトルを慎重に受け取り、そのラベルを確認した。彼はその中身を取り扱うための準備を整え、周囲に指示を出した。「これでアンドレアの命を救うための時間を稼げるかもしれない。しかし、試薬の効果がどうであれ、慎重に扱わなければならない。」

ジェイコブはカメレオンの協力に感謝の意を示し、試薬のテストを開始する準備を整えた。部屋の中に張り詰めた緊張感が一層高まる中で、彼は試薬の結果がアンドレアの命を救うために十分なものであることを祈りながら、作業に取り掛かった。


巧は、自分のデスクに座りながら、思考を巡らせていた。メールの返信も済ませ、アンドレアの状況や製薬部門から得られた情報に思いを巡らせる一方で、現実逃避に浸りながらもゲーム脳の思考が頭をよぎっていた。

「ヒーラーとロックが組んだらヤバいなー。」巧は画面の前に置かれたモニターを見つめながら、つぶやいた。ヒーラーは回復役として非常に厄介な能力を持っており、ロックは特攻隊としての力量を発揮する異能者だった。もしもこの二人が連携することになれば、その脅威は計り知れないと感じていた。

「ロケランでもあればいいのになー。」巧は、ゲームの中で強力な武器を使って敵を一掃するシーンを思い浮かべながら、ふと笑みを浮かべた。現実の世界ではそのような武器は簡単に手に入るわけもなく、頭の中での幻想に過ぎないと自覚しつつも、こうした考えが少しでも気を紛らわせてくれることを願っていた。

しかし、巧はすぐに現実に引き戻された。敵異能者たちの連携と、それぞれの役割を考えることが重要だと認識していた。ヒーラーは間違いなく脅威であり、戦闘においてはその回復能力が一つの大きな障害になるだろう。ロックはその特攻隊としての能力を駆使し、破壊力を発揮するため、こちらも非常に手強い相手だった。

「ヒーラー、ロック、カメレオン、センサー、マニピュレーター…。」巧はその名前をつぶやきながら、頭の中で彼らの役割を整理していった。カメレオンは変身能力で潜入や情報収集に長け、センサーは敵の動向を探知し、マニピュレーターはその能力で状況を操作する。

「分断できればいいのに。」巧は考え込んだ。各異能者の能力を最大限に引き出させる前に、まずは個々に分断して対処することができれば、より効率的に対策を講じることができるだろう。しかし、それには相当な戦略と準備が必要であり、今はその実現可能性を見極めるための情報収集が最優先だった。

巧は、自分のデスクに突っ伏しながら、マニピュレーターの存在について考え続けた。洗脳役のマニピュレーターが洗脳されたという話は、彼にとって大きな疑問を呼び起こしていた。

「そもそも、洗脳役のマニピュレーターを洗脳したのは誰なのか?」巧は頭の中で問いかけた。自分で自分を洗脳するなんて、論理的に考えても不可能だ。いや、そうでなくても、洗脳能力を持つ者を飼い慣らすというのは、普通では考えられないリスクが伴うだろう。

「下手したら飼犬に噛まれるようなイタイ目に合うだろうな。」巧は苦笑いしながら、その考えに納得した。洗脳できる能力者をコントロールしようとすること自体が危険な賭けであり、逆にその能力を持つ者に反撃される可能性が高い。

「では、飼えないなら監禁中かな?」巧は、次の可能性を考えた。もしもマニピュレーターが他の者によって洗脳されたのなら、その者はおそらくマニピュレーターを完全にコントロールできる立場にあるはずだ。そのためには、マニピュレーターを監禁し、その自由を制限することで、洗脳の効果を確実に維持しているのだろう。

「監禁されているなら、どこに?」巧はその疑問を深めた。もしもマニピュレーターが監禁されているのなら、その場所や状況を突き止めることができれば、逆にそれを利用する手立てが見つかるかもしれない。

巧は、次第に計画を立てる思考に入っていった。マニピュレーターの監禁場所や、そこからどう脱出させるかという戦略を考えることが、敵の構造を理解し、自らの作戦に役立てる鍵となる。情報収集と分析が重要であり、現状の情報をもとに次のステップへ進む準備を整える必要があった。


カメレオンは、施設の廊下を静かに歩きながら、その足音が響くことに少しだけ注意を払った。治験参加者の募集が順調に進み、数が揃ってきたことで、施設に報告のために来ていた。彼女の変装能力で得た情報は、どれもが興味深いものだった。

しかし、カメレオンが心の中で驚いたのは、ライフフォージ製薬が新薬の効果を遅延させる薬を開発しているという事実だった。これは製薬部の発表では、死亡率100%の新薬を相殺するための手段として紹介されていたが、カメレオンには違った視点があった。

「ライフフォージの製造思想からすれば、死の遅延なんて完全犯罪でも狙っているのだろうか?」カメレオンは、皮肉交じりの考えに口元をゆがめた。もしも彼らが本当にそんなことを考えているのなら、これこそが彼らの真骨頂と言えそうだ。カメレオン自身も、その冷酷な製造思想には感心せざるを得なかった。

「死を遅らせるというのは、単なる猶予の問題だ。」彼女は、自分の内心でその概念を解剖してみた。新薬によって死亡が避けられないと分かっていながら、その死を遅延させることで、時間を稼ぎつつ他の目的を達成するための準備を整えるのだろう。

カメレオンは、製薬部の思想や方針を冷静に分析しながら、状況を理解しようとしていた。彼女の内心では、ライフフォージの製薬部がもたらす暗い計画の一端に触れたような気がしていた。そして、そのような計画に対抗するためには、さらに深い情報を得て、計画の全容を把握する必要があると感じた。

「この情報をどう活かすかが重要だ。」カメレオンは、自分の役割を再確認し、冷静な思考を保ちながら施設の中での行動を続けた。彼女は、持ち帰るべき情報を厳選し、それを使って次のステップに進むための準備を整えようとしていた。

カメレオンが施設の内部を歩き回りながら考えを巡らせていると、彼女の変装能力と巧妙な策略がどれほど役立つかを実感していた。彼女の計画が成功するかどうかは、情報を如何に使いこなすかにかかっていた。


大学の講義を終え、巧は校舎を出て正門へ向かうと、そこにはヒーラーが手を振って待っていた。儚げな美男子のヒーラーは目立つ存在で、タイタンの一件で痴漢に襲われたこともあって、巧は一部で「そういう人にもてる」という理解を示されていた。

「またか…」巧は内心でため息をついたが、表情には出さずにヒーラーに近づいた。

「お疲れさま、ラインブレイカーさん」とヒーラーが微笑む。その笑顔に一瞬心が和むが、周囲の視線が痛い。

「お疲れ。ちょっと昼飯でも食べに行こうか」と巧は軽く言って、大学前のカフェ「seventeen hour」へ向かうことにした。二人はカフェに入ると、窓際の席に腰を下ろした。

巧は、注文を済ませた後、周囲の視線を感じつつ、頭の中で様々な考えが巡った。鬱陶しい、この状況を何とかしたい。彼女でも作るか、でもそういう目的で彼女を作ったってバレたらまた変な噂が立つんじゃないか?

「何か考え事?」ヒーラーが尋ねる。

「いや、ただの雑念だよ。気にしないで」と巧は軽く笑って答えたが、心の中は全然軽くなかった。

周りの大学生女子たちの生暖かい目線が巧に突き刺さる。カフェの窓から見えるキャンパスの風景も、今日はどこか鬱陶しく感じる。

巧は、今朝考えていたことを率直にヒーラーに尋ねることにした。「マニピュレーターってどんな人なの?」

ヒーラーは一瞬考え込むように眉をひそめた後、答えた。「三十代半ばのはずだけど、老け込んだおっさん。本部の地下の一室で終日テレビを見て過ごしてるよ。」

やはり監禁されているらしい、と巧は思った。

ヒーラーは続けて話す。「そういう状況だから、あまり会ったことはない。直接会ったのは、洗脳を受けたときかな」

「どんな感じだった?」と巧が尋ねると、ヒーラーは少し遠い目をしながら答えた。「幸せな気分になったね。後で聞いたところでは、彼自身薬物中毒者らしいから、ヘロインとかの多幸感を脳内に再現しているのかもしれない。アレに抗うのは無理だね。」

なるほど、ライフフォージはマニピュレーターをヘロインで飼っているのか、と巧は理解した。ヘロインの多幸感を利用して、マニピュレーター自身を操り、監禁状態にしているとは、なかなか巧妙で卑劣な手口だ。

巧は「彼に会いたいんだけど、紹介してくれる?」と話す。

ヒーラーは少し驚いた表情を見せたが、すぐににやりと笑い、「もちろんいいとも。わが社はこれで安泰だね」と、洗脳を受ける前提の話を始めた。何か勘違いをしているようだが、そこは黙っておいた。

ヒーラーはすぐに電話を入れて、待機させた車を回そうとしたが、巧はそれを制して、「会うのは今日でなくていい、明後日こちらも準備して伺う」旨を伝えた。

ヒーラーは少し首をかしげたが、「了解、明後日ということだね」と納得し、電話を仕舞った。

巧は再びフォークを手に取り、アクアパッツァを食べ始めた。鮮やかなトマトと新鮮な魚介の香りが広がり、緊張した心を少し和らげる。

「それにしても、あのマニピュレーターに会うのはかなりのリスクがあるな」と巧は心の中で思いを巡らせる。彼を解放する手立てを考えると同時に、ライフフォージの計画を阻止するための情報収集が最優先だ。

ヒーラーがニヤリとしながら、デザートのティラミスに手を伸ばす。「楽しみだな、ラインブレイカーがどんな風に変わるか。」

巧は心の中でため息をつきながらも、微笑みを返した。「まあ、楽しみにしていてくれよ。」

これからの戦いに備えて、慎重に準備を進める必要がある。巧は食事を終えると、ヒーラーとの別れを告げ、大学を後にした。


泉新吉にメールでマニピュレーターの情報を共有するため、巧はパソコンに向かって手早く打ち込み始めた。


「件名:マニピュレーターの情報

泉さん、

以下の情報を共有します。

マニピュレーターについて:

年齢:30代半ば

外見:老け顔

状況:地下の牢獄で麻薬漬けにされている

洗脳の方法:幸せ体験を再現するらしい(ヘロインなどの多幸感を脳内で再現している可能性)

明後日、ヒーラーの紹介で直接会うことになりました。状況に応じて、慎重に行動します。

ナンマル」


メールを送信し終えると、巧は一息ついた。次のステップの準備を進めるために、部屋の中を歩き回りながら作戦を練り直す。マニピュレーターとの対面が決定的な局面になることは明白だ。全ての情報を最大限に活用し、ライフフォージの計画を阻止するために、どのように動くべきかを頭の中でシミュレーションし続けた。

巧はさらにパソコンに向かい、甘利泰子にメールを入れる。彼女の正体がバレていないと思わせつつ、心理的な揺さぶりをかける狙いだ。


「件名:明日の面会について

甘利さん、

お久しぶりです。最近の状況について話したいことがあります。明日夕方、礼の喫茶店で時間を取ってお会いできないでしょうか?

よろしくお願いします。

巧」


メールを送信した後、巧は一息ついた。甘利泰子の反応がどのようになるかを想像しながら、明後日の準備を進めることにした。彼女の正体がカメレオンであると知っている巧としては、この面会が次の一手を打つための重要な鍵となる。

窓の外には、夜の帳が降り始め、街の灯りが静かに輝き始めている。巧は深く息を吸い込み、次の行動に備えるために、部屋の中を歩き回りながら計画を練り直す。敵異能者たちとの対決が間近に迫る中、巧は冷静さを保ちながら、すべての可能性を考慮し、最善の手を打つための準備を進めた。



朝、巧が大学に向かうと、道路に止められていた車から、儚げな美男子が出てきた。その姿を見た瞬間、巧は彼がただの人間ではないことを直感した。彼は異能者のヒーラーだった。今日は、このヒーラーと一緒に異能者のマニピュレーターに会う約束をしていた。

ヒーラーが軽やかに手を振ると、巧も自然と挨拶を返した。「おはようございます、巧さん」とヒーラーが微笑む。その優雅な微笑みが一瞬だけ心の平穏を与える。

「おはようございます」と巧も返す。「さあ、行きましょうか。」

二人は車に乗り込む。ヒーラーは助手席に座り、巧は後部座席に落ち着く。運転席には製薬会社が雇っている傭兵団のひとり、レイチェルが待機していた。彼女は冷静な表情でアクセルを踏み込み、車は静かに発進した。

しばらくの沈黙の後、レイチェルが振り返らずに話しかけた。「直接会うのは2度目ですね。」

巧は少し驚いて眉をひそめた。「そうでしたかね?」と尋ねるが、自分にはその記憶がなかった。彼の脳裏には何も浮かばない。

実際に、巧が数日前に製薬会社の施設に潜入した際、木曽芳恵の替え玉としてレイチェルが暗闇の中で対面していたのだが、それを巧は全く覚えていなかった。巧の記憶は何かに阻まれているようだった。

ヒーラーが優しい声で巧に問いかけた。「緊張していますか?」

巧は深呼吸をしてから答えた。「少しだけ。でも、大丈夫です。」

ヒーラーは頷き、安心させるように微笑んだ。「大丈夫です。私たちがいますから。」

車内は再び静寂に包まれたが、その中にはそれぞれの思惑と期待、そして少しの不安が混在していた。巧は自分の記憶の断片を探るように目を閉じ、これから始まる新たな出会いと試練に心を備えた。車は目的地に向かって、静かに、しかし確実に進んでいった。


ヒーラーが静かに口を開いた。「これからの予定を説明しますね。まず、施設に到着したら、マニピュレーターに会う前に簡単なチェックを受ける必要があります。その後、マニピュレーターとの面談が行われます。面談の目的は、あなたの異能の潜在力を評価し、今後の協力関係を築くためです。」

巧は頷きながら、ヒーラーの話に耳を傾けた。車は静かに、しかし確実に施設に向かって進んでいた。やがて、施設の外回りにある堀が見え始めた。ここに来るのは初めてではない。前回の記憶が少しずつ蘇ってくる。

堀が見える位置まで来ると、巧は突然、バッグに手を伸ばした。そして、そこから何かを取り出すと、「予定はキャンセルね」と冷静に言った。

その瞬間、運転席に座っていたレイチェルの目に向かって、巧は催涙スプレーを吹きかけた。レイチェルは驚きと痛みに叫び声を上げ、ハンドルを握った手が一瞬緩んだ。

車は急に蛇行し始め、ヒーラーが驚いて助手席から振り返った。「巧さん、何をしているんですか!」と叫ぶ。

巧は冷静に、しかし迅速に動いた。レイチェルが目を押さえている間に、車のドアを開けて飛び出した。堀の近くで車が完全に止まる前に脱出しなければならなかった。

車はガードレールをこするようにして止まり、金属音が周囲に響いた。運転席側のドアが開き、レイチェルが目を押さえながらよろよろと出てきた。その瞬間、巧は冷静に動き、彼女の腹に強烈な蹴りを入れた。レイチェルは苦痛にうずくまり、巧はすかさず彼女の左胸から拳銃を引き抜いた。

「これでやっと対等な交渉が出来るよ」と巧は冷淡に言い、続いて銃の底でレイチェルの頭部を殴打した。レイチェルはその場で沈黙し、動かなくなった。巧は一瞬の静寂の中で周囲を確認し、「これで、異変については少しだけ時間稼ぎできるだろう」と独り言をつぶやいた。

助手席にいたヒーラーに目を向けると、彼のシートベルトを素早く外し、腕を掴んで引っ張り出した。「起きろ、マニピュレーターに会わせてくれるんだろ」と巧は命令口調で言い放った。

ヒーラーは困惑と恐怖の表情を浮かべながらも、巧の強引な態度に従うしかなかった。巧は拳銃を握りしめたまま、ヒーラーを連れて施設の入口に向かった。施設の扉が開き、冷たい空気が二人を包み込んだ。

中に入ると、巧はヒーラーに指示した。「どこに行けばいい?」

巧はヒーラーの頭に拳銃を突きつけながらも、その様子に少し驚きを隠せなかった。ヒーラーはまるで死ぬことを恐れていないかのように、どこ吹く風の態度だった。

「どこに行けばいい?」巧が再度尋ねた。

ヒーラーは落ち着いた声で答えた。「今日は君に会う予定を入れたから、マニピュレーターは地下から地上の専用のお部屋に移動しているよ。だけど、傭兵と他の異能者も控えているから、まあまあ厳しいと思うけどね。」

巧はその情報を分析しながら考えた。厳しい状況であることは理解していたが、目的を果たすためには進むしかない。

「君が手伝ってくれるなら、助かるんだけどな」と巧はヒーラーに提案した。

ヒーラーは一瞬考え込むように見えたが、すぐに笑顔を浮かべた。「友達になってくれれば、やぶさかではないね。」

その言葉に巧は少しだけ和らいだ表情を見せた。「じゃあ、友達になろう。宜しく頼むよ。」

巧は拳銃を少し下げ、ヒーラーに信頼の一端を示した。ヒーラーもそれに応えるように、友好的な態度を示した。「じゃあ、行こうか。君がマニピュレーターに会えるように手伝うよ。」

巧とヒーラーは並んで施設の奥へと進んだ。廊下を歩きながら、ヒーラーは巧に注意を促した。「傭兵たちに気を付けて。彼らは君の動きをすぐに察知するだろうから。」

「わかってる。君も気を付けて」と巧は答えた。

施設の奥へ進むにつれて、緊張感が増していった。巧はヒーラーに従いながら、周囲の状況に細心の注意を払った。やがて、彼らは専用の部屋の前にたどり着いた。

「ここだ」とヒーラーは小さく囁いた。「中にマニピュレーターがいる。傭兵たちもすぐに駆けつけるだろう。」

ヒーラーは、施設の外で人間が来たら足止めする旨を伝えた。巧は一人でマニピュレーターと対面することになる。ヒーラーはポケットから社員用のカードキーを取り出し、巧に手渡した。

「これで部屋の扉を開けて。中に入ったら、あとは君次第だよ」とヒーラーは冷静に言った。

巧は深呼吸をしてからカードキーを使い、部屋の扉を開けた。扉の向こうには薄暗い部屋が広がっており、中には一目で麻薬中毒者とわかる目つきと雰囲気を纏った男が、拘束具を纏って座っていた。その男こそがマニピュレーターである。

巧は部屋の中央に進み、拳銃をしっかりと握りしめながら男を見つめた。「俺の前でそういう演技は不要だ」と巧は静かに言った。

すると、男の目つきと雰囲気が一変した。「良く見抜いたな」と彼は冷たく笑った。

巧は一瞬も気を抜かず、男の動きを注視していた。巧はマニピュレーターの言葉を聞いて、冷静に質問を続けた。「カメレオンと独自に取引をして、洗脳を解いた、というのは本当か?」

マニピュレーターは一瞬、巧をじっと見つめ、その後ににやりと笑った。「アイツがお前をそこまで買っているとはな。もうヤッたのか?」

どうやら、木曽芳恵としてのカメレオンが言った話は本当らしい。巧は冷静に答えた。「お楽しみはこれからさ。」

マニピュレーターは興味深そうに頷いた。「アイツは顔を変えて俺が収監されていた地下室に飯を持ってきて、その時に取引をした。アイツは洗脳を解いてもらう代わりに、俺の脱獄後に生活できるよう支援する事を申し出た。悪い条件ではないし、洗脳を解くついでに『俺の脱獄後の生活の面倒を見る』という内容を入れておけば、俺も色々楽できる。保険と思って取引に応じたのさ。」

巧はマニピュレーターの話を聞きながら、彼の意図を探ろうとした。彼の表情は落ち着いており、話の内容も含めて冷静に受け止めているように見える。それに対し、巧は軽く笑みを浮かべて言った。「なるほど。俺もカメレオンとは一悶着あったが、どうやら彼女が手を回しているのは確かみたいだ。」

マニピュレーターは頷きながら、巧をじっと見つめた。「どうやら、君もただ者じゃないようだ。カメレオンの支援を受けて、何かを成し遂げようとしているのか?」

「それはお楽しみだ」と巧は言いながらも、目の前のマニピュレーターに対する警戒を解かない。「ただし、今は君の協力が必要なんだ。」

マニピュレーターは微笑みながら、。「わかった。君がここまで来るとは思っていなかったが、君の目的を果たす手助けをするのも面白いかもしれないな。」

マニピュレーターの言葉に巧は少し考え込んだ後、質問を続けた。「麻薬は克服しているんだろう。どうやったんだ?」

マニピュレーターは微笑んだまま、少し考え込みながら答えた。「麻薬の多幸感は身体反応なので抗いがたい。しかし、覚醒状態のときに起きる依存症については自覚的だから、洗脳で克服できる。」

巧はその答えを聞いて驚いた様子で言った。「自分を洗脳できるのか。なるほど、かなりの技術だな。」

マニピュレーターは頷きながら、巧の反応に満足した様子で言った。「まあ、自分を制御する技術を持っているというのは、なかなかの特技だろう。」

巧はさらに質問を続けた。「その異能で社会向きに自分を洗脳することもできるんじゃないか?」

マニピュレーターは目を細めて考え込んだ後、ゆっくりと答えた。「考えたこともなかったが、今度検討してみるよ。社会に向けての洗脳が可能だとしたら、面白い試みになるかもしれないな。」

彼は巧に問いかけた。「ところで、どうやって潜入したのか?」

巧は一瞬の間を置き、「ヒーラーに協力してもらった、トモダチなのさ」と答えた。

その言葉に、マニピュレーターは一瞬驚いた様子を見せた。「アイツとトモダチねぇ。俺の数回に及ぶ洗脳でもトラウマを排除できなくて、自殺願望がある奴だぞ。深入りするのは勝手だが、味方に引き込むのは足枷になりかねないぞ」と忠告するように言った。

巧はその言葉に少し驚きながらも、冷静に受け止めた。「自殺願望があるって、驚いたな。彼の内面にそんな苦しみがあったとは思わなかった。」

マニピュレーターは皮肉を込めた笑みを浮かべながら続けた。「それが現実だ。彼の精神状態はかなり不安定で、支えがなければ、どこかで引き金になることもあり得る。お前が気をつけておいた方がいい。」

巧はその情報を頭の中にしっかりと刻み込みながら、答えた。「ありがとう、参考になった。」と言い、考え込んだ。

マニピュレーターの目が遠くを見つめ、過去の記憶に浸るように語り始めた。その声には、どこか憂いを帯びたものが含まれていた。


高校時代までは、サッカーの特待生として将来が期待されていたんだ。プロの道も夢じゃなかった。でも、悪友とつるむようになってから、俺の人生は狂い始めた。万引きの常習犯になり、どんどん堕ちていった。高校を卒業する頃には、サッカーなんてどうでもよくなっていた。

その後は犯罪者グループに入って、リーダーを務めることになった。強盗団を組織して、数々の犯罪を重ねてきた。仲間たちが逮捕されていく中で、俺だけはうまく逃げ切っていた。だが、それも一年と少しで終わりだった。実は、結構前から警察にマークされていたらしく、ついに捕まってしまった。

保釈後、金が必要だったから治験に参加したんだ。それが運命を変えることになるとは、その時は思いもしなかった。治験中に、他の治験者を自分の言う通りに操れる能力が目覚めた。触れるだけで、相手を思い通りにできる。まるで王様になった気分だった。

しかし、その治験の最終日、いつの間にか手錠をはめられていたんだ。睡眠薬で眠らされて、気がつけば実験の対象になっていた。そこからは、様々な実験が続き、麻薬漬けにされ、地下室で十五年間飼い殺された。十五年だ!ただひたすらに、日の光を渇望する日々だった。

そうやって、俺はここまで生き延びてきた。でも、もうこの状態には耐えられない。コイツを利用すれば、俺はまだまだやれる。

彼には、高尚な支配欲と、ナチュラルな差別意識が宿っている。

それこそがこの男、マニピュレーター!

「面白いことが、始まろうとしている…!」


巧はマニピュレーターの後ろに回り、冷静に拘束具を外しながらも心の中で計画を練っていた。「じゃ、この拘束具を解くぞ。」彼は冷静な声で言った。マニピュレーターは拘束具が外れると、少し安心したように肩の力を抜いた。

「ところで、脱出後はどうするつもりだ?」巧が問いかけると、マニピュレーターは一瞬考え込み、「これから考えるさ」と答えた。その表情には、未だに未来についての計画が固まっていないことが見て取れた。

巧は一瞬、彼の内面に潜む薄弱さを見抜いた。「俺はお前に洗脳される気はないし、強盗の片棒を担ぐ気はないぞ」と冷たく言い放った。その言葉に、マニピュレーターの表情が消え、彼は後ろを振り向こうとした。

その瞬間、銃声が鳴り響き、マニピュレーターの頭が一瞬で吹き飛んだ。血飛沫が壁に散り、空気が静まり返った。巧は冷静に銃を片手に構え、マニピュレーターの倒れた姿を見下ろしていた。予知によって、マニピュレーターが自分を変えようとしない、変われないクズだという事実を知っていた巧は、彼の存在が無駄であると判断していた。

「自分の状況を変える気も、他人と共に新しい未来を作る気もない。お前のような人間が生き延びる価値はない。」巧は静かに呟いた。

彼がマニピュレーターを排除した理由は、単に彼が信頼できない存在だったからだけではない。彼の存在は製薬会社の異能管理の肝として重要であり、その情報と協力を得ることが巧の計画にとって不可欠だったが、その実態を知り、使い物にならないと判断した結果の行動だった。

巧はマニピュレーターの死体を冷たく見つめながら、次のステップを考えた。施設からの脱出、そして新たな戦略の構築が彼の今後の課題であり、いかにして自分の目的を果たすかがこれからの鍵となるだろう。


その頃、巧は車を回してきたカメレオンと接触した。「やあ、甘利さん。今日もカワイイね」と彼が言うと、カメレオンは少し照れた様子で「そんなこと初めて言うじゃないですか。でも、ありがと」と応じた。その反応に、巧は少し微笑んだ。

巧はヒーラーに向かって「また会おう、今日は楽しかったよ」と言うと、ヒーラーは「今度は社長に会ってくださいよ?」と、解けぬ洗脳による愛社精神を見せた。巧はその返答にわずかな憐憫を感じつつ、彼らの関係がこうして続いていくことを心に留めた。

車は問題なく施設を脱出した。


事前に甘利カメレオンに接触し、「明日、洗脳の異能者と接触し、解放する」旨を伝えていたのだ。木曽の情報としてカメレオンの洗脳が既に解けているなら、これに対する反応を見たかったのである。

甘利はその話を聞いて「洗脳の異能者は、元強盗犯と聞くわ。慎重にお願いね」と答えていた。この回答から、カメレオンは「解放は非推奨」という立場であることがわかった。そこで巧は「実は潜入には手数が足りなくて、洗脳のモニタールームの占拠と、脱出手段があるとありがたい。その時には、洗脳の異能者は処断されている、という状況になっているといいな」と、甘利の名目上の立場を無視した独り言のように要望を言ってみた。

甘利は少しの間考え込むようにしてから、「そうなるといいわね」と答えた。その返答を聞いて、巧は内心で安堵した。甘利が協力してくれる可能性が高まったのだ。

車の中で、巧はカメレオンに向かって「あのヒーラー、かなり根が深いみたいだな。洗脳の影響がまだ残っているのかもしれない」と言った。甘利はそれに頷き、「彼はかなり重いトラウマを抱えているわ。だからこそ、注意が必要なの」と答えた。

巧は甘利に問いかけた。「脅威度の高い敵はどんな奴だと思う?」甘利の立場に配慮したその聞き方に、彼女は少し考え込んでから答えた。

「五感が鋭い異能者とかいれば、匂いだけでもこちらの居場所がわかるから嫌。あと、戦闘のプロ集団ね。」

巧はその答えに頷いた。つまり、センサーと傭兵団が脅威であるということだ。「カッタイ男とか怖くない?」と、異能者・ロックについて聞けば、甘利は微笑んで答えた。

「確かに強力だけど、こちらの動向を察する力はないから、言うほどでもないわ。」

甘利は自分の能力を基準に評価しているようだった。彼女にとって、最も警戒すべきは感知能力に長けた敵と、戦闘経験豊富なプロ集団ということだ。なるほど、センサーと傭兵団か。それなら、彼らに気をつけて動く必要があるな。巧は甘利の意見をもとに考え始めた。

「ま、体の一部がカッタイ男は好きだけど」と言って、甘利は巧の股間をまさぐり始めた。巧は驚いて「そこはギアではありませんよ!」とおどけて返し、軽く笑いを誘った。

車は徐々に街区へ向かって進んでいった。


その夜、施設内の専用回線が繋がる部屋には、緊張感が漂っていた。ジェイコブ、ロック、そして椅子に縛られたヒーラーがいた。モニターには社長・伊勢宇治綱の冷徹な顔が映し出されている。彼はヒーラーに向かって厳しい尋問を続けていた。


「なぜ、マニピュレーターのところに案内した」と、宇治綱は鋭い目でヒーラーを見据えた。


「友達ですから」と、ヒーラーはあっけらかんと答えた。その軽い態度が周囲の緊張をさらに引き締めた。


「結果としてマニピュレーターは死に、ラインブレイカーに脱出された。脱出を幇助したのは女という事だが、知らない女だったのか」宇治綱は問い詰める。


「見たことはないねー」と、ヒーラーは気に留める様子もなく答える。カメレオンが甘利の顔をしていたため、ヒーラーにとっては初対面だったのだろう。


「お前は異能管理の要を殺した相手を取り逃がしたんだぞ」と宇治綱が叱責すると、ヒーラーは軽く微笑みながら、「社長には会ってくれると思いますよ?」と要領を得ない返答をした。


その瞬間、ロックが硬化した拳でヒーラーの足を殴り、ボキィィィという凄い音を立てた。完全に大腿骨を折り、怒りの声を上げた。「貴様、ふざけるのもいい加減にしろ!」


しかし、驚くべきことにヒーラーの足は瞬く間に元の形状に戻っていく。ヒーラーは平然とした表情で、「頭か心臓を破壊しないとだめじゃないの?」と淡々と言い放った。


ジェイコブは腕を組みながら黙ってその光景を見つめていた。彼の表情には困惑と冷静さが入り混じっていた。彼らの前にいるヒーラーは、単なる「友達」としてマニピュレーターを案内したのか、それとももっと深い意図があったのか。問いの答えはまだ得られていなかった。


そもそも、ヒーラーの異能の性質は捕獲作戦や傭兵任務には全く向いていなかった。彼の治癒能力は驚異的である一方、その能力は自分しか回復できないので、戦闘や捕獲に直接役立つことは少なかった。さらに、彼には深刻な自殺願望があり、組織内では扱いかねていた。結局、彼はライフフォージの医局、通称「病院」のモルモットとなっていたのである。

今回、ヒーラーが捕獲作戦に駆り出されたのは、異能者が4人脱落した段階で手数を増やす必要があったからだ。製薬会社はヒーラーの可能性に賭け、何とか役立てようとしたのだ。


宇治綱は冷徹な目でヒーラーを見つめた。「お前の行動がどれだけの被害をもたらしたか理解しているのか?」

ヒーラーは肩をすくめた。「理解はしているつもりですよ。でも、社員ですよね?」

ジェイコブは口を開いた。「社長、このままでは時間が無駄です。彼が協力的でないのは明らかです。別のアプローチを考えた方がいいかもしれません。」

宇治綱は一瞬考え込み、そして決断した。「お前には、異能発現薬の錠剤、新薬を飲んでもらう。動物実験では死亡率100%の薬だ。それが嫌なら、お前が友達を処分しろ。」

ヒーラーは平然とした表情で答えた。「それだったら、新薬と、それを相殺する研究中の薬の両方を飲むよ。」

宇治綱は驚き、「なぜそれを知っている」と問いただした。

「みんな知っていると思いますよ?ここにいる人みんな。」

宇治綱は険しい表情で部屋にいたジェイコブとロックに目を向けた。ジェイコブは一瞬躊躇したが、すぐに冷静さを取り戻し、毅然と答えた。「私たちは知りませんでしたが、ヒーラーの情報収集能力を侮ってはいけません。彼は情報を得る手段を持っているようです。」

ロックも同意するように頷いた。「彼が本当のことを言っているかどうか、試してみる価値はあるかもしれません。」

宇治綱は眉をひそめながらも、考えをまとめていた。「いいだろう。ヒーラー、お前の提案を受け入れる。ただし、少しでも不審な動きを見せれば、その場で処分する。」

ヒーラーは微笑みを浮かべ、「わかりました。それで十分です。」

ジェイコブは無線で指示を出し、研究中の薬を持ってくるよう命じた。数分後、白衣を着た研究員が二種類の薬を持って部屋に入ってきた。戒めを解かれたヒーラーは冷静にそれを受け取り、異能発現薬と相殺薬の両方を手に取った。

「ホレェ」とジェイコブが促すと、ヒーラーは一瞬ためらったが、すぐに薬を飲み干した。部屋は静まり返り、全員がヒーラーの様子を注視していた。

数分が過ぎ、ヒーラーは平然とした表情で立ち続けていた。「さて、これで取引成立ですね。」

宇治綱は満足そうに頷いた。「よろしい。今後、お前は我々のために働くことになる。その友達についての情報も、すべて提供してもらう。」

ヒーラーは微笑んだ。「もちろん。わが社のためなら、何でもしますよ。」

言いながら、実際のところヒーラーは薬を飲むことを目的としてラインブレイカーに味方していたともいえる。社長はラインブレイカーを社員として認めている。そんな彼を先輩社員として庇う。一見会社を裏切っているかに見えて、実は一貫してラインブレイカーを社員と認識することで、実質的に会社に損害を与えている。理由はシンプルで、自殺願望である。死亡率100%なら間違いないであろう。

今まで会社をここまで追い詰めた人物は現れなかった。社員として認められたラインブレイカーだからこそ、ヒーラーを味方にすることが出来たのである。

新薬を相殺する薬の存在は、傭兵団の密談を聞いていたからに他ならない。この薬は、副作用不明という別の危険性がある。「自分はどう転んでも無事ではいられないだろう」という期待に、胸を高鳴らせていた。

ヒーラーが薬を飲み干した後、宇治綱は鋭い眼差しで彼を見据えた。「これでお前の忠誠心を確かめた。今後は我々のために全力を尽くせ。」

ヒーラーは微笑みを浮かべて頷いた。「もちろんです。期待に応えますよ。」

ジェイコブとロックはその場の緊張感を和らげるため、宇治綱の指示に従い、ヒーラーを解放した。しかし、その心中には複雑な思いが渦巻いていた。ヒーラーの行動は一見忠誠心に見えるが、その裏に潜む真意を完全に見抜くことは難しい。

ヒーラーが部屋を出た後、ジェイコブはロックに耳打ちした。「彼が本当にどこまで協力するか、慎重に監視する必要がある。副作用が出る前に、彼がどんな動きを見せるか見極めよう。」

ロックも同意した。「ああ、注意深く見守ろう。彼の異能は利用価値があるが、信用しすぎるのは危険だ。」

ヒーラーは廊下を歩きながら、心の中で不安と興奮が入り混じっていた。自殺願望に駆られた彼は、この薬の効果を試すことに期待を寄せていた。「これで全てが終わるのか、それとも新たな地獄が始まるのか」と、胸を高鳴らせていた。

彼が向かう先には、これから起こる出来事に対する不安と期待が交錯していた。自分の命がどうなるかを知ることはできないが、それでも彼はその一歩を踏み出すことを選んだ。

一方、ジェイコブとロックは、ヒーラーの行動とその結果に目を光らせ続けた。彼らは、ヒーラーが本当にラインブレイカーに協力するのか、それとも自らの命を絶つための行動を取るのか、慎重に見極める必要があると感じていた。

その夜、製薬会社の施設内では、新たな緊張感が漂っていた。ヒーラーの運命と、彼の行動がもたらす影響が、誰もが注視する中で進行していった。


夕方、重い瞼を開けると、頭がズキズキと痛んだ。体中がだるく、喉の奥が乾いている。間違いなく風邪を引いたようだ。ベッドから起き上がると、身体がふらつき、目の前が霞む。何とか洗面所にたどり着き、冷たい水で顔を洗った。

「日中の潜入作戦が思った以上に体に負担をかけたんだな…」

鏡に映る自分の顔を見つめながら、巧は呟いた。だが、その言葉はどこか現実逃避のように響いた。彼の頭の中には甘利泰子の姿が鮮明に浮かんでいた。彼女の助けがなければ、マニピュレーターを倒すことはできなかっただろう。

しかし、思い出せば思い出すほど、彼の胸には不安が広がっていった。甘利は、木曽芳恵という偽名で治験に潜入し、自分以外の男たちと関係を持っていた。そして、その男たちは皆、死んでしまった。冷静に考えれば、彼女が疫病神のように感じられても不思議ではない。

「まさか、俺も…?」

あの後心当たりが出来る事があったので、そんな考えが一瞬頭をよぎったが、巧は首を振って追い払った。今はそんなことを考えている場合ではない。まずは風邪を治さなければならない。

リビングに向かい、ソファに倒れ込むように座った。スマートフォンを手に取り、泉新吉に送ったメールを確認する。マニピュレーターを倒した報告に対して、返信はまだ来ていない。彼がどんな反応をするか、少し不安だったが、今はそれどころではなかった。

巧は冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、一口飲んでから、再びソファに横になった。体を横たえると、再び甘利のことが頭に浮かんできた。彼女は自分に何を望んでいるのか?彼女の真の目的は何なのか?そして、自分は彼女にどう対応すべきなのか?

「考えすぎても仕方ないか…」

巧は深い溜息をつき、目を閉じた。風邪を治すことが最優先だ。今は休息が必要だ。

ソファーにハルカが乗ってきた。白い毛並みがふわりと揺れ、青い瞳が巧をじっと見つめている。ハルカは心配そうな面持ちで、巧の頭に肉球をそっと乗せた。

「心配してくれているのか。でも大丈夫だよ」

巧が優しく語りかけると、ハルカはニャっと鳴いた。その声には、まるで安心させるような温かさがあった。ハルカの存在が、彼にとってどれほど慰めになるか、再確認する瞬間だった。

数十分のうちに、巧の体調は驚くほど回復していった。まるでハルカの優しさが彼に力を与えたかのようだ。巧は立ち上がり、晩御飯の用意に取り掛かることにした。台所で食材を切り始めると、ハルカも彼の足元に寄り添い、静かに見守っている。

やがて、父の虎永が帰宅した。リビングに入ると、ソファーの上でハルカが倒れているのを見つけ、驚きの声を上げた。

「ハルカ!」

虎永は急いでハルカを抱き上げ、その小さな体を確かめるように見つめた。ハルカはかすかに鳴いて、苦しそうな様子を見せた。

「巧、すぐに動物病院に行こう!」

巧は急いで準備を整え、父と共にハルカを連れて動物病院へ向かった。心配が胸に広がる中、病院に到着し、すぐにハルカは診察を受けた。

「命に別状はありません。ただの風邪です。ただ、まだ仔猫ですので、安静にするために入院が必要です」

獣医の言葉に、巧と虎永はほっと胸を撫で下ろした。ハルカは入院となり、病院のケージの中で静かに横たわっていた。

「ハルカ、早く元気になって戻ってきてくれよ」

巧はケージ越しにハルカに語りかけた。ハルカは目を閉じて、穏やかな表情を浮かべた。巧はその姿を見て、彼女が無事であることに安堵した。

家に戻ると、静寂が広がっていた。ハルカがいないだけで、こんなにも家が寂しく感じられるとは思わなかった。巧は自分の部屋に戻り、ハルカとの思い出を振り返りながら、ベッドに横たわった。

「ハルカ、君がいてくれることが、どれほど大切か改めて感じたよ」

その夜、巧はハルカの無事を祈りながら眠りに就いた。彼の心の中には、甘利泰子の影がまだ残っていたが、ハルカの存在がその影を少しずつ和らげてくれるように感じた。これからも彼は、彼女と共に歩んでいくために、自分自身と向き合い、真実を追求していく決意を新たにした。

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