プロローグ
夜は深まり、静かな田舎町に響く足音がひときわ大きく感じられる。曽根巧は、小さな荷物を肩にかけて歩いていた。道の先には、今夜の目的地、治験の送迎場所がある。心臓が早鐘を打つ中、巧は友人の仁科守生に誘われた治験バイトのことを思い出していた。
「1週間の拘束だけど、まとまったお金が手に入るぞ。お前もどうだ?」
仁科の言葉に惹かれた巧は、即座に参加を決めた。治験の詳細はほとんど知らされていなかったが、今はその未知への不安よりも、得られる報酬への期待が勝っていた。
送迎場所に着くと、そこには黒塗りのマイクロバスが停まっていた。運転手は無言で巧を迎え入れ、彼が乗り込むとすぐにドアが閉まった。車内は薄暗く、外の景色は全く見えないように窓には黒いカーテンがかけられていた。モニターには海外ドラマと思われる映像が流れていたが、英語のセリフと早口の会話が巧の理解を超えていた。
「まったく見えないな…」巧は窓に近づき、カーテンの隙間を探ろうとしたが、しっかりと固定されていてまったく動かない。仕方なく座席に深く座り直し、流れている映像をぼんやりと眺めることにした。
バスが動き出し、どれくらいの時間が経ったのか、巧にはわからなかった。車内のモニターは途切れることなく映像を流し続け、周囲の音はバスのエンジン音だけが支配していた。やがて、バスは緩やかに停まり、運転手が扉を開けた。
「到着です。降りてください。」
声に促されて外に出ると、高い塀に囲まれた施設の門扉が見えた。門扉の向こうには、薄暗い庭と4階建てのビルがそびえていた。門扉が音もなく開き、巧は促されるままに歩みを進めた。
「ここが…治験の現場か。」
施設に入ると、すぐに正面玄関の扉が開けられた。付き添いの人物に導かれるまま、巧は階段を上がり、階段横の2階フロアに続く扉を開けた。そこには広間が広がっており、広いスペースには大きなモニターが設置されていた。
「ここで待っていてください。あと数名が到着するまで。」
広間には既に一人の女性が座っていた。彼女は木曾芳恵と名乗り、笑顔を見せてくれ、いかにも華やかな笑顔が印象的である。巧は軽く会釈を返し、指定された席に座った。広間には、これから始まる治験に対する期待と不安が交錯する静けさが漂っていた。
やがて、次々と到着する治験参加者たち。彼らとの顔合わせと挨拶が行われるが、その背後では、何かが始まろうとしている気配が漂っていた。巧はその予感を胸に、これから始まる未知の1週間に思いを馳せた。
広間に全員が集まると、白衣を着た中年の男性が前に立ち、手に持ったクリップボードを確認しながら話し始めた。
「皆さん、お集まりいただきありがとうございます。これから1週間の治験についてご説明いたします。まず、こちらの施設についてですが、2階から上が治験のエリアになります。1階への降りること、すなわち外出は固く禁止されています。治験期間中は、施設内で過ごしていただきます。」
彼は視線を上げて、参加者一人ひとりの顔を確認するように見渡した。
「施設内には、共同で利用する風呂とトイレ、それにトレーニングマシーンがあります。これらは皆さんで話し合って使い分けてください。個室についても、好きなところを話し合いで決めて使ってください。毎朝と夜には体温・体重などの検診を行い、夜には投薬があります。それ以外の時間は基本的に自由です。あまり拘束がないように思えるかもしれませんが、外出だけは厳守していただきます。」
さらに、「荷物のうちパソコン・スマホ・携帯などの端末は、階段横のロッカーに入れてもらいます。1週間は取り出せませんが、治験終了のときに返却します」
ということで、手荷物検査の上端末類は、アクリルで中が見えるロッカーに入れて鍵をかけ、取り出せなくなった。もっとも、治験中は同業者防止のためこれらは一旦あずかると告知はされていたので、わかっていたことであった。そうでなくても、ここは電波の圏外である。
一通り説明が終わると、仁科守生が立ち上がり、明るい声で提案した。
「じゃあ、せっかくだしお互いに自己紹介でもしようか。これから1週間一緒に過ごすんだしね。」
全員がうなずき、自己紹介が始まった。まずは仁科が自ら進んで話し始めた。
「俺は仁科守生、大学生で20歳。なんかあだ名とかつけた方がいいかもね、みんな仲良くなるためにさ。」
すると、チャラ男が笑いながら口を挟んだ。
「じゃあ俺があだ名つけてやるよ!仁科、お前はにっしーだな!」
仁科は苦笑いしながらも、「にっしーか、まあ悪くないな」と応じた。
「それと、俺は跡部克己!かっちゃんと呼んでくれ!パチプロしてますっ!」と、チャラ男が自己紹介した。
次に、シングルマザーの香坂雅子が紹介を始めた。
「香坂雅子です。4歳の子供がいます。よろしくお願いします。」
跡部がすかさず、「お姉さんでいいな」と付け加え、香坂はなんなのこのひと、と軽くため息をついた。
続いて、教来石はるかが少し緊張しながら話し始めた。
「教来石はるかです。にゃんこって呼んでください…」
跡部はすかさず「にゃんこ、了解!」と茶化し、教来石は少し顔を赤らめた。
長坂寛治が次に立ち上がり、声を低くして話し始めた。
「長坂寛治です。よろしくお願いします。」
跡部は即座に、「負け犬おじさんって感じだな!」と悪乗りし、周囲の空気が一瞬凍りついたが、長坂は苦笑いを浮かべただけだった。
続いて、木曾芳恵が立ち上がり、優雅な仕草で自己紹介を始めた。
「木曾芳恵です。お嬢とでも呼んでください。」
跡部が「お嬢、いいねぇ」と満足げに言った。
最後に曽根巧が立ち上がり、「曽根巧です。よろしくお願いします」と簡潔に自己紹介をした。すると、跡部が再び口を開き、「タクミか、俺がカツミでお前がタクミ、名前が似てるし、兄弟ってことにしようぜ!」
曽根は苦笑いしながら、「本人が知らなかった兄弟に再会してしまうとは…」と返した。跡部の無邪気でウザイ態度に全員が少しずつ打ち解け始めたが、それでも隠せない緊張感が漂っていた。
治験は全員未経験であり、これから始まる1週間、彼らがどんなことになるのか、予想もつかなかった。
部屋割りは、参加者全員が広間に集まって間取りを確認しながら決めることになった。どの部屋も同じような間取りで特に違いがないことが確認されると、こだわりがある人から順番に部屋を選んでいった。曽根巧は特にこだわりがなかったので適当に部屋を選び、隣の部屋には教来石はるかが入ることになった。
夜も遅い時間に到着したため、その日は互いに挨拶を済ませた後、各自の部屋に戻って、着てきた服を備え付けのハンガーにかけ、病院服に着替え、就寝した。
翌朝、7時には全員が検診を受けるために広間に集まった。検診が終わり、朝食を済ませると、それぞれが自由時間を過ごすことになった。曽根は動画でも見ようかと考えていたが、その前に木曾芳恵が話しかけてきた。
「曽根君、ちょっといいかしら?」木曾は微笑みながら曽根を自分の部屋に誘った。
部屋に入ると、木曾は曽根に向かって尋ねた。「ねえ、曽根君は何の目的でこの治験に応募したの?」
曽根は少し戸惑いながら答えた。「学生なので、いろいろ物入りなんですよ。」
木曾は微笑みを崩さずに続けた。「私は推しの男の子にあげるお小遣いが欲しくて応募したの。」と言う。「こんなところで1週間も閉じ込められちゃ窮屈よねぇ?若いんだし、溜まっるもの溜まっちゃうでしょう?」
曽根は困惑しながらも黙っていると、木曾は体を摺り寄せてきて囁いた。「お金は治験の後でいいから、お姉さんに任せなさい。」
曽根がどう対応しようか迷っていると、突然ドアが開き、教来石はるかが突入してきた。「何してるの、木曾さん!」
教来石は木曾を睨みつけ、怒りの声を上げた。「曽根君にかまわないで!彼はそんなことを望んでないわ!」
木曾は冷静に教来石を見つめ、「まあまあ、はるかちゃん。ちょっと話をしていただけよ」と言ったが、教来石はなおも激昂していた。
曽根はこの隙に部屋から脱出し、廊下へ逃げ出した。背後で木曾と教来石が言い争う声が聞こえたが、曽根は振り返らずに自分の部屋へと急いだ。部屋に戻ると、深く息をついてベッドに倒れ込んだ。
「これからの1週間が思いやられるな…」曽根は天井を見つめながら呟いた。治験の目的はなんであれ、ここでの生活は一筋縄ではいかないことを実感しつつ、曽根は改めて自分の立場を見直し始めた。
この数日過ごしてわかったことは、治験参加者それぞれが抱える事情だった。
木曽はホストに貢ぐための資金が必要だった。
香坂は子供の将来を考えており、
長坂は失業中に三食昼寝付きで大金を手に入れるチャンスと考えていた。
跡部は借金取りから雲隠れするために参加していたが、その目的を知ったときには「借金返すためじゃないんかい!」と思わずツッコミを入れたくなった。
教来石には…怖くて聞けていない。
そして仁科は一人暮らしの軍資金を得るためにこの治験に参加していた。
この施設は外部からの食料や物資の搬入以外の出入りがほとんどなく、検診をしている研究員たちも同じ敷地の別の棟で生活しているらしかった。また、この治験棟には各部屋に隠しカメラがあることも推測された。
毎晩投薬を受けるが、誰も身体に異常をきたすことはなかった。激しい反応を示す人も一人もいなかった。曽根はそれに安心していた。
木曽は他の男たちと関係を持ったようだった。彼女自身は特に態度が変わらなかったが、男たちの顔に充足感が見られたり、跡部に至ってはもろにニヤケ顔をして、木曽になれなれしくなっていた。
ちなみに、曽根は教来石の厳しい監視のため、木曽と関係を持つ機会はなかった。「ズルイ」と曽根は内心で嘆いた。
曽根はその夜、ベッドに横たわりながら、これまでの出来事を振り返った。この数日で見聞きしたことは、自分が想像していた以上の人生経験をした人々と、意外に緩い管理体制の割に、治験現場の異常とも思える秘匿性。そして、この治験の本当の目的が何なのか、ますます気になってきた。曽根は、これからの数日間で何が待ち受けているのか、それとも何事もなく治験は終わるだろうか、と考えながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
治験最後の夜、投薬後に治験者同士で動きがあった。跡部は、木曽と香坂の連絡先を一生懸命聞きだそうとしていた。彼のしつこさに対し、二人はどこか呆れながらも、治験での共通体験を共有したことで多少の親しみを持っている様子だった。香坂は苦笑いしながら携帯を取り出し、跡部に連絡先を教えていた。
一方、教来石は曽根のところに来て、そっとメールアドレスを書いた紙を渡してきた。「連絡待ってます」とだけ言い残し、彼女は去っていった。その真剣な眼差しに曽根は少し戸惑った。
その晩、全員が順番に、来た時と同じように一人ひとり車に乗せられて帰宅することになった。治験が終わり、これでお別れなのだ。曽根もまた、その一人として車に乗り込んだ。
車に乗り込んだときのことが昨日のことのように思い出される。送迎の待ち合わせ場所で降ろされ、久しぶりに自宅へと戻った。家のドアを開けると、静かな自宅が迎えてくれた。治験期間中の出来事が、まるで遠い昔のことのように感じられた。
その晩、曽根は夢を見た。中学時代の友人の母親が自宅に来て、「仔猫の里親を探している」という話をしている夢だった。夢の中で曽根はその話を真剣に聞きながら、友人の母親と久しぶりの会話を楽しんでいた。
朝目が覚めると、曽根はその夢の唐突さに少し驚いた。普段付き合いもない人の来訪の夢なんて珍しいことだと思った。しかし、その夢が何かを示唆しているような気がしてならなかった。実は猫を飼いたいと心の底では思っているのだろうか、と考えながら、曽根は新しい一日を迎える準備を始めた。