聖女様は聖くない
卒業式のパーティーだというのに、私の横にパートナーはいない。
十歳の頃からの婚約者であるマティアスは今、会場の中央で別の女をエスコートして上機嫌な顔をしている。
どうしてこうなってしまったのだろう。
クラーク公爵家の長女として生まれ、物心ついた時から王妃候補として教育を受けてきた。
次期王妃に相応しくあるため、懸命に努力を続けて周囲からも認められていたはずなのに。
いつからこんな惨めな女に成り下がったのか。
それは間違いなく、マティアスの前にあの女が現れてからだ。
別の世界から現れたカレン・イブキ。
瘴気が濃くなり、魔物が現れ始めたこの世界を救うために宮廷魔術師たちが命を削って召喚した聖女様らしい。
三年生の初めにこの貴族学校に転入してきて以来、王太子である私の婚約者と急速に距離を縮めていった。
天真爛漫で、貴族の作法をまるで知らないのになぜか許されてしまう魅力があった。
召喚の場に、第一王子であるマティアスも居合わせたのが私の運の尽きだ。
彼は一目見てカレンを気に入ってしまった。
転入時からマティアスはこの世界に不慣れな聖女を補佐するという名目でべったり彼女に寄り添い、彼女もそれを当然のように受け入れた。
三ヶ月もする頃には誰から見ても立派な恋仲になった二人に、私はなすすべもなかった。
婚約者としての立場を失った私は、周囲の生徒からヒソヒソと遠巻きにされるようになり、同情と嘲笑を向けられた。
誰もが聖女が相手なら仕方ないと思っていただろう。
それでも取り乱さずに堪えられたのは、公爵家の人間としてのプライドがあったからだ。
今だって本当は、パーティーに一人でいる私に嘲笑が向けられているのを感じて、逃げ出したい気持ちと戦うので精一杯だった。
今すぐ帰りたいけれど、公爵家の娘が途中退場なんてしたらますます何を言われるか分からない。
父たちの名誉のためにも私は耐えなければならないのだ。
王太子の婚約者をダンスに誘う人間はいない。
壁の花に徹するしかない私に、ようやく気付いたらしいマティアスがこちらを見て目つきを鋭くした。
マティアスが近づいてくる。
聖女カレンを伴って。
目が合って少しでも嬉しいなんて感じた自分が馬鹿みたいだ。
カレンが現れる前までは良好な関係を築けていたのに、今は敵でも見るような目で私を見てくる。
悲しくて、辛くて、泣きそうだった。
「ヨハンナ」
ファーストネームで呼ばれるのが嬉しかった。
そんな時期も確かにあったのに。
今はただ憎しみを込めた声が胸に痛くて苦しい。
「はい……」
「自分のしたことを分かっているようだな」
私の殊勝な態度に、マティアスが満足げな顔をする。
その隣で、カレンが悲しそうにまぶたを伏せている。
どうしてあなたがそんな顔をするの。
泣きたいのは私の方なのに。
彼は私を断罪しに来たのだ。
愛しい聖女を守るために。
「私には、なんのことだか」
「白を切るつもりか! これまでカレンを睨みつけたり厭味を言ったり、散々嫌がらせをしてきただろう!」
「嫌がらせなんてっ……!」
反論しかけて言葉に詰まる。
身に覚えがない、とは言えなかった。
「マティアス様、私はそんなっ」
「あなたは黙っていて!」
カレンが私を庇うようなことを言うのを聞いて、反射的に遮ってしまう。
どうせこれもあなたが言わせているんでしょう。
そう言いたいのをグッと堪える。
確かに彼女にきつい態度を取ってしまったことはある。
マティアスに近付くのが許せなくて、当然のように甘えるのが腹立たしくて、牽制するようなことをしてしまった。
だってつい最近までその場所は私のものだったのだ。
なのに今はカレンがマティアスの隣で微笑んでいる。
それにあまりに身勝手な振る舞いを公爵家の人間として注意したこともある。
どうしてこんな淑女とは程遠い女性がマティアスの心を射止めたのかと、嫉妬が混ざってしまったのは良くなかったけれど。
でも、大切な婚約者の関心を一身にあつめる女性相手に、平静でいられるほど私はまだ大人ではなかった。
そういう場面を多数の生徒に目撃されていたから言い逃れもできない。
ギュッと拳を握って俯く。
「ついに馬脚を現したようだな、ヨハンナ」
その態度で罪を認めたと判断したのだろう。マティアスが勝利を確信したような笑みを浮かべる。
「今日でお前との婚約を破棄する! 異論は認めない!」
そうして高らかに宣言するのを、確かに聞き届けた。
目を閉じて深呼吸する。
パーティーの日にそう言われるだろう。
そんな予感はしていたので、衝撃は少なく済んだ。
なにを言われても受け入れる気だった。
私ももう我慢の限界だったのだ。
むしろマティアスから言い出してくれてありがたいと思ったくらいだ。
私から切り出すことなんて、きっとできなかっただろうから。
愛していた時は確かにあった。
だけどこの一年、私が何度懇願しても態度を改めてくれなかったし、ないがしろにされ続けたせいでもう愛情は枯渇しかけていた。
これでようやく終わる。
マティアスの傍らには被害者ぶった顔のカレンがいて、今までさんざん耐えてきた罵倒の言葉が頭の中を渦巻いた。
だけど結局何も言わないまま、私は「分かりました」と頷いた。
ただでさえ不名誉な噂が流れているのだ。
これ以上私の地位を落とすことはできない。
せめて素直に引き下がって、みっともない姿を見せないようにしよう。
「……どういうことなの?」
そう決意してその場を去ろうとした時、なぜかしかめっ面になったカレンが低い声を発した。
「婚約破棄? ということは婚約してたってこと? マティアス様とヨハンナ様が?」
「へ?」
眉間に深いシワを刻んだカレンに鋭い視線を向けられ、マティアスが間の抜けた声を上げた。
地を這うようなカレンの声。
表情は険しく、聖女にあるまじきガラの悪さだ。
マティアスの表情が固まる。
その瞬間、確かに空気が変わるのを感じた。
「ありえない! そんなの今初めて聞いたんですけど!?」
血相を変えてカレンがマティアスを突き飛ばすようにして距離を取る。
「婚約者!? はあ!? そんなの、私にキレるに決まってるじゃん! 最悪!」
せっかく整えられた髪をかきむしるように苦悩しだしたカレンを見て、ポカンとしてしまう。
一体彼女はどうしたというのだろう。
「うわぁマジか……マジか私……いやでも誰も教えてくれなかったし……」
唇を戦慄かせて、独白のようにカレンが呟く。
まるでこの世の終わりみたいな顔だ。
「ううんごめん、こんなの言い訳だよね、マジでごめんなさい」
泣きそうな顔でカレンがヨロヨロと近付いてきて、思わず一歩下がってしまう。
その態度にショックを受けたのか、カレンが絶望したような顔になる。
「そうだよね、嫌だよね……今更言われてもって、感じだよね……」
掠れた震え声が胸に響く。
その声を聞いて、もしかして、とありえない可能性に辿り着いた。
「……まさかとは思うけど、あなた私たちが婚約していたって知らなかったの?」
恐る恐る尋ねる。
彼女の言葉をそのまま受け止めるのならそういうことだろう。
「……です」
カレンが心底申し訳なさそうな顔で頷くのを見て私は驚愕した。
そんなこと、起こりえるのだろうか。
だって私たちの婚約は学校中が知っていたし、卒業後には結婚することが決まっていた。
でもそうだ。
よく考えてみればそれは入学当時に周知されたことであって、三年生で編入してきた彼女が知らなくてもおかしくはない。
ましてや異世界からの転移者だ。
こちらの常識なんて、説明されなければ分からないことだらけだろう。
その上いつだってマティアスがべったりだったし、周囲の人間は遠巻きに見守っていただけだった。
それにしても、普通はマティアス本人から知らされるのではないかと思うのだけど。
「まさかあなた、彼女に言わなかったんですの?」
「えっ、いやぁ、その、言わなかったっけ……?」
マティアスに訝し気な視線を向けると、あからさまに逸らされる。
自分に都合の悪いことがあると目を逸らすのは子供の頃からの癖だ。
彼は言っていないのだ。
きっとカレンが自分に本気になるまで故意に隠していたのだろう。
そしてそうなるまで私との婚約を解消する気はなかったに違いない。
もし上手くいかなかった場合でも、私との婚約が継続していれば彼が失脚することはないから。
なんて卑怯な人間なのだろう。
そのズルさに呆れるあまり、私はその場に崩れ落ちそうになってしまった。
マティアスは私の存在を告げていない。
ならばカレンが誰に憚ることなく距離を縮めるのにも納得だ。
彼女にとっては知らない世界で優しくしてくれて、いろんなことを教えてくれる男性なのだ。
しかもあちらの世界の美醜基準では分からないがマティアスは文句なしの美男子で、それに地位も高い。
婚約者というストッパーの存在を知らなければ、好きになってしまうのも無理はない。
「ごめんなさい、私本当に知らなくて……私の世界では学生同士で婚約とか、漫画の中でしかなかったっていうか」
マンガが何かは分からないが、おそらく物語とか舞台とかそういった架空のものなのだろう。
「ううん、そんなの言い訳にもならないよね、本当にごめんなさい。私最悪だ」
今にも泣きそうな顔で言われて胸が痛くなってくる。
彼女は何も悪くなかったのだ。
何も知らずに、ただ自分に優しくしてくれた人を愛しただけ。
「いやカレン、お前が謝る必要は」
オロオロと彼女をフォローしようとするマティアスを、カレンがギロリと睨みつける。
「つうかあんたも最悪。何黙ってんのよ。婚約者がいるならいるって言いなさいよ! 知らないうちに間女にされるなんて最低だよ!」
「ひっ」
カレンの剣幕に、マティアスが恐れ慄いたように仰け反る。
「謝る必要ないだぁ!? ふざけんなお前こそ謝れよ全力で!」
襟首をつかんでガクガク自分を揺さぶるカレンに、マティアスはびっくりして声も出ない様子だ。
今までカレンがこんなふうに声を荒らげることはなかったから、本気で怯えているようだ。
これまで淑女らしくない口調に苦言を呈してきたけれど、あれでもかなり努力している方だったらしい。
「カ、カレンさん、落ち着いてください」
今にもマティアスを引っ叩いてしまいそうなカレンを慌てて止める。
仮にも彼は王太子なので、このままでは不敬罪で捕まってしまう。
「優しすぎますよヨハンナ様!」
マティアスを締め上げたまま涙目でカレンがこちらを見る。
「この男はあなたというものがありながら他の女を口説いてきたんですよ!? しかも公衆の面前で婚約破棄なんてヨハンナ様に恥をかかすような真似までして! 最低最悪ですよ!」
「……あなたが望んだのではなくて?」
「ひどい! そこまで根性ねじ曲がってませんよ!」
疑われたのがショックだったらしく、カレンが青褪める。
確かに婚約自体知らなかったのだから、彼女がこんなひどいこと思いつくはずもない。
「だいたいなんでみんな言ってくれないんですか!? ヨハンナ様が婚約者だって知ってたら絶対マティアス様になんか近づかなかったのに!」
王子の襟首を掴んだまま、カレンは悲愴な顔で周囲を見回す。
「その……王太子殿下に口止めされていて……」
「私も……」
「僕はもしバラしたら未来はないと脅されました」
カレンの剣幕に気圧されたのか、生徒たちがおずおず進み出て真相を告げる。
それを聞いて、カレンが聖女らしからぬ形相でマティアスを睨みつけた。
「はぁ~信じらんない! あんたどこまで腐ってんの!?」
「ごっ、ごめんなさい!」
矛先が再び自分に向いて、マティアスが涙目になる。
「謝る相手が違うでしょうが!」
「ごめんなさい!!」
カレンに怒鳴られて、マティアスが情けない顔で私に謝った。
その顔があまりにも格好悪くて、なんだかもう何もかもが急にどうでもよくなってしまった。
婚約者をないがしろにし、好きになった女性にさえ嘘をつく。
どうしてこんなくだらない男に私は固執していたんだろう。
「……カレンさん、もういいわ」
脱力しながらカレンに声を掛ける。
「ええ? 全然良くないでしょう、ボコボコにしたいなら私が押さえておきますのでお好きにどうぞ」
そう言いながらカレンはマティアスを羽交い絞めにして、私に差し出すようにする。
「そっ、そんなぁ!」
情けない声を上げてマティアスがカレンの腕から逃れようとするけれど、カレンの力が強いのか抜け出せないようだ。
「マティアス様のあとは私を殴ってくれていいので」
妙にキリッとした顔でカレンが言う。
その潔さと、マティアスの往生際の悪さとの対比に笑いがこみ上げてくる。
「……っふふ」
堪えきれず笑うと、カレンがポカンとした顔になった。
その腕の中で、なぜかマティアスがにわかに嬉しそうな表情になる。
許されたとでも思っているのだろう。
「ヨハンナ……! やはり君の笑顔は美しい! 君も分かっているんだろう? これは俺が騙されていただけだと」
「あっ、ちょっとあんた何言ってんの!?」
馬鹿みたいなこと言いだすマティアスに呆れてしまう。
そんなこと、今更誰が信じるというのだろう。
「ねえカレンさん、私あなたとお友達になりたいわ」
「へ?」
「だからそんな荷物は置いて、あちらでデザートでも食べません?」
私がそう誘いかけると、カレンはきょとんとした後でパッと笑顔になった。
その笑顔が可愛らしくて、私もつられて笑顔になる。
本当に魅力的な人だと思う。マティアスが彼女に惹かれるのも理解できていた。
むしろマティアスの存在がなければ、転入早々真っ先に私から話しかけに行ったはずだ。
「賛成! 私、本当はずっとヨハンナ様とお話ししてみたかったの!」
カレンはポイッとマティアスを捨てて、私の腕を取った。
私がもう彼女に対して腹を立てていないことを理解したのだろう。
途端に人懐こい顔になる聖女を可愛く思う。
だって彼女は何も悪くない。
マティアスに騙されていただけ。周囲の生徒も王太子に言われたら黙っているしかないだろう。
ならばもう、悪いのは私の婚約者だった彼だけだ。
「呼び捨てで構わないわ。私もカレンって呼ぶから」
「嬉しい! ヨハンナはどんなスイーツが好き?」
お喋りをしながらデザートの並んだテーブルに向かって歩き出す。
その場に残されたマティアスが哀れな声で私たちの名を呼んでいたけれど、振り返らなかった。
きっと私が何か言うまでもなく、この話はあっという間に国王陛下に伝わることだろう。
王侯貴族というのは醜聞を何より嫌う。
自らの心変わりにより公爵令嬢に不当な扱いを強いて、恥をかかせたのだ。
それで聖女の心を射止めたならまだしも、怒らせた挙句に捨てられたとあれば、マティアスの王位は危うくなる。
二つ下の第二王子は彼より優秀だし、このままいけばあっさり挿げ替えられるのではないか。
だって替えの利く王太子より、唯一無二の聖女の方が大事だろうから。
私たちはもう一切マティアスのことは気にせずに、目の前のデザートの山に夢中になった。
「嫌われてるって思ってたから、ヨハンナと話せて嬉しい。だってすごく美人だし、凛としててかっこいいって憧れてたの」
「かっこいい? そんなふうに言われるのは初めてだわ」
この世界では女性をかっこいいと形容することはない。
だけどカレンにそう言われるのはなんだか嬉しかった。
「でも本当にごめんなさい。知らなかったからって許されることじゃないと思う」
「いいのよ。私もロクに話もせずあなたのことを誤解していたもの。最初からこんなふうに話せていたら婚約者だってすぐに分かっていたはずだし」
「それは言えてる」
お互いに反省点を伝えて笑い合う。
「それよりあなたの世界のことを聞かせてほしい。マンガがどんなものなのかとか」
「あ! そうだこの世界漫画ないよね! 小説も小難しいのばっかだし。マジ勘弁してほしい」
「ねえカレン。やっぱりその言葉遣い、どうにかした方がいいと思うわ。うつりそう」
「え、いいじゃん口の悪い公爵令嬢とか。ウケると思うよこっちの世界では」
調子のいいことを言ってカレンが笑う。
彼女の口から語られる異世界の話は魅力的で、マティアスとの婚約がダメになったことなんてすぐにどうでもよくなってしまった。
屈託ない笑顔は見ているだけで心を浮き立たせるし、もっといろんな話をしたい、聞きたいという気持ちになる。
帰ったら親に叱られるかもしれないけど、それももういい。
マティアスに婚約破棄されたって、今まで築き上げてきた私という人間の何が損なわれたわけでもない。
これからはカレンの言う、かっこいい女を目指すのもいいかもしれない。
大丈夫。
王太子妃になれなくても、学園を首席で卒業した私には選ぶべき道はいくらでもある。
それになんといっても、カレンという素晴らしい友人ができたのだから。