98 赤い巨人3:マグ・イーレ夜襲
「第一騎陣。前へ」
よく通る、しかし抑えた若い男の声が、夜のしじまの中を飛んでいく。
馬たちの熱い吐息が白く濁る、ちりちりさらさらと鎖鎧の摺りあう音が無数に起こる。
不思議な灯り、鈍く光る蟲の灯のようなものがいくつも湧いて、濃灰色の外套を着た騎士達の姿を、闇から浮かび上がらせた。
彼らの背にはっきりと見えるのは、黒羽の女神をかたどる紋章である。
「第一騎陣、前へ」
別のだみ声が、また同じ言葉を繰り返す。
「第一騎陣!!」
鋭く届いた女の声が、泡立ちかけた騎士たちの心を、びしりと固めた。
テルポシエ西側に広がる湿地帯を前に、ずらりと一列に並んだ騎士たち、その最前線に立った“白き牝獅子”ことマグ・イーレ第二王妃は、手にした軍旗を高く掲げた。
そこに描かれた意匠、星々を頂く女神が、大きくぐるりとたなびいた。
「行っっけぇぇぇぇ!!」
グラーニャのその一声とともに、マグ・イーレ軍は勢いよく駆け出した。
・ ・ ・ ・ ・
「ちょっ……何じゃありゃ? 軍勢でねえのか!?」
「げえっ、やっぱり!!」
ほんの少し前のこと。妙な光が湿地帯の向こうにちらついてるのに気付いて、西の塔番たちは城内へ報告を送っていた。引き続き監視していたその弱い光が、いま一挙に数十……いや、それ以上に大きく強く膨れ上がって一列となり、自分たちに向かって進み始めたのを見て、彼らは肝をつぶしたのである。
一人が鐘吊るし台に駆けあがり、撥を取って、力任せに叩き慣らす。
「敵襲、敵襲、敵襲――ッッ」
「騎馬、百騎単位――ッッ」
にわかに、蜂の巣をつついたような騒めきが各所に起こり、次々に伝播してゆく。
「第一壁到達前に、人員配備!!」
だがこの数年で城壁内の暮らしに慣れ、その守備に勤しんできたエノの一般兵たちは、さして慌ててはいなかった。
石壁の内では西側を中心に、男たちが次々とそれぞれの持ち場を埋めてゆく。
「ちゅうかー、夜襲なのに真ッ正面から来るか~??」
「隠れて来るだろ! 普通」
「イリー都市国家にも、馬鹿がいるんだね。どこの奴らだろ?」
「まあ、丁寧に迎え撃とうぜ、お前ら」
・ ・ ・ ・ ・
「メイン! イオナ! 敵襲だ、起きろッ」
同時刻、テルポシエ城内最深部の一階上にある王の居室の扉を、パスクアは拳で叩いていた。
一瞬待ったが返事がない。こういった事態には、秒で対応してくるのがメインの常なのだが。そこに待機していた若い予備役の兵と、顔を見合わせる。
「パスクア……」
自分の名を呼ぶ声のか細さに異変を感じ、構わずに開けてみると、皮敷物を重ねた寝床の上に、メインがぽつんと座り込み、折しも窓から差し込んだ月光に照らされていた。
「イオナとフィオナが、行っちゃったよ」
自分に向けて話しているのだろうが、目線はこちらなど見ていない。パスクアはすぐ側にしゃがみ込んで、顔を覗き込む。
「俺の過去、あの人の過去を全部知って、自分の意思で行っちゃった」
父親をなくして王になってからというもの、非常時にここぞと見せつけていたあの冷酷で強かな態度は、一体どこへ行ったのか。
ぼさぼさと乱れた下ろし髪から透けて見える、その顔は白く虚ろで、虐げられた幼児のようにしか見えなかった。
「もう、帰っては……」
メインがさらにうつむきかけたところで、パスクアは友の腕を掴み、かなり乱暴に立ち上がらせた。
「行っちまったんなら、さっさと連れ帰そうぜ?」
意図したわけではないのだが、パスクアの地声に相当な凄みが籠った。
「けど、その前に。テルポシエを、イオナが帰る場所のここを、お前が守らなくてどうする? ああ、エノ軍首領メイン王??」
そこで初めて、メインはパスクアを見た。そしてかなり驚いた。
パスクア自身が持ってきた手燭に照らされて、一瞬誰かと見違えるような、酷いやつれ顔が目に入ったからだ。どす黒い隈もそうだが、
「パスクア……。その目……」
思わずメインは唖然とした。
普段、涙と縁遠い人間が泣くと、こうなる。
涙袋をぶざまに拡張させて、白眼を真っ赤に充血させて、友は静かに怒っていた。
メインに対してなのか、何なのかはわからない。とにかく我を失ってぶち切れる寸前、決壊直前のところを、ぎりぎりで抑えているのが見えた。
それが、ふとそっぽを向く。
「……悪い」
怒りだけではない。哀しみのにじむ声で、パスクアは続けた。
「俺も、……俺の女の場所を守りたいんだ」
腕は離されたが、メインはそのまま立っていることができた。
「……ありがとう、パスクア」
まっすぐ、背を伸ばす。
「すぐ出るよ」
・ ・ ・ ・ ・
「伝令!! 敵軍が第一壁に到達ッ。前後二列編成で総勢およそ百騎、背後に援軍なしッ」
「まだ、どこの軍かわからないのか?」
赤髪のタリエク大隊長が、多少の苛立ちを隠せずに伝令役に問い、すぐに言い直した。
「――すまん、この暗さでは読旗距離も近くなるか」
彼は城壁上から、ぎっと西の方向を睨みつけた。
その視線が飛ぶ先、約一愛里半。
怒号が飛び交う城内とは逆に、防衛最前線となる湿地帯外側の第一壁では、速やかに持ち場についた傭兵たちが中弓あるいは大弓を構え、衝突直前の張り詰めた静寂にじっと耐えていた。
侵入者を安全確保領域の外側で壊滅させるべく、ここには常時弓隊が配置されている。
「構えッッ」
小隊長の塩辛声が鋭く響き、粗く積み上げられた石壁の裏側から、彼らはわずかに頭を出し、瞬時に標的を確認する。
「撃てえェェェッッッ」
夜間に灯りを持って突進してくる騎馬の侵入者たちは、あまりにも狙いやすい標的だった。
ひうひうひうひう、空を切って幾筋もの矢が飛んでゆく。
だがそれらが標的を貫こうと迫ったその刹那、マグ・イーレ騎士たちの周囲に揺らめいていた灯りが大きく膨らみ、巨大な泡のようになって、軍馬とその騎手とを包み込んだ。
光の泡に矢は弾き飛ばされ、騎士たちは全くの無傷で駆け抜ける。
「……すご」
白馬で駆けるグラーニャのすぐ脇、豊かなたてがみの黒馬で疾走していたゲーツは、珍しく率直な感想を口にした。
――兜が要らないってのは、これか……。
それだけではない、まるで乾いた街道を駆けているかのような安定感である。泡の内側から見ているのが、ぬかるんだ湿地帯とは到底信じられなかった。
対峙するエノ軍の弓兵たちは、すぐに異変を見て取った。
「!? 数、減ってねえ……」
「当たったはず、……だよな!? あれぇ!?」
目の錯覚ではない、光をまぶした軍勢がみるみる眼前へと躍り出てきた。
「お おいッッ」
「速いっっ、……」
騎士たちの長剣による斬撃が閃いて、エノ軍兵士達には、山刀ほかの得物に持ち替える暇すらなかった。




