96 赤い巨人1:オルウェンとの別離
※新章に入ります。
※以前、オリジナル同人誌として漫画に描いていたのは前章部分までなので、ここからの展開は完全に初めて日の目を見ることになります。(門戸)
「……どういうこと?」
テルポシエ城・旧北棟地下階の一室。本来は食糧や日用品などの貯蔵に使われていたという、奥まった場所にあるその部屋は、数本の燭台に照らされてもなお薄暗く、石牢じみた雰囲気に包まれていた。
「ですから、わたしの息子は死産だったのです」
苛立つことなく、エリンは平坦な口調でイオナの問いに答えた。
蜜蝋の灯りに照らされた顔は真っ白で、およそ生気がない。
ごく若い母親となった彼女ですら眼窩は窪み、唇は固く乾いて、出産がいかに女の身体を苛むかを如実に物語っている。
古ぼけた安楽椅子にぐったり座り込んでいる、その腹部はいまだふっくらとしていた。そうして両腕の中には、毛織物にくるまれた小さな赤ん坊が眠っている。
「この死体を、テルポシエの外へ出していただきたいの」
――死体、って……。
イオナは困惑した。
テルポシエ陥落から約三年、王女の親衛隊で替え玉を務めていた町娘のクレアとは仲良くしているし、行きがかりで出産を手伝ってくれた騎士のシャノン・リフィ姉妹とも、まあ出会えば挨拶から天気の具合くらいは話すこともあった。
しかしこのお姫様と口をきくのは、確か今日が初めてなのだ。妊娠していたことも知らなかったが、パスクアとの子なのか。それでもって……どう見ても生きている赤ん坊を死体として外に連れ出せと言うのは、飲み込めなくて当然である。もしや、エリン姫は乱心してしまっている??
助けを、と言うか説明を求めるつもりで横を見ると、さっきシャノンと一緒に、自分をこの地下室へ引っ張ってきた男と目が合った。
エノ軍が支給しているお仕着せの革鎧に、墨染の衣を着てはいるが、よくよく見ればいがぐり頭の剃り残し部分には、ちらちら金髪が光っている。こいつは、テルポシエ騎士の間諜に間違いなかった。
「余計な詮索は、しなさんな」
大きなぎょろ目を狡猾そうに光らせて、男は言う。
「条件をのんでくれれば、脱出路を提供する。俺たちだって、あんたがこそこそどこへ行くのか聞かないし、誰かに告げ口するわけでもない。ここは黙って持ちつ持たれつ……どうよ、王妃さん?」
イオナはぐっと唇を噛む。
そう。時々忘れているが、メインの妻である自分は王妃でしかない。好き勝手に行動できていた傭兵ではなくなっているのだから、特に厳重に警戒されている城壁の夜間通門を子連れで突破しようとすれば、あっという間に確保されてしまうだろう。
「脱出路と言うのは、市街へ?」
「いや、城壁の外へだ。テルポシエ領域、まあ……つまり、エノ軍の範囲外へ。護衛もつけるぜ」
「……その先は?」
「それは、ここでは言わないでおく。ただ、行った先での乳母の目途はもうついているから、そこへ到達するまでの引き継ぎだけこなしてもらいたい。後は、あんたもお好きにしてくれ」
イオナは胸に括り付けた娘を揺すり上げ、溜息をついた。
「……わかった」
ふっと、目の前にいるエリン姫が笑ったようだった。
「ありがとう、イオナさん。わたしの騎士を同行させるけど、お乳の出ない乙女だから困っていたのよ」
右手に赤ん坊を抱え、左手で安楽椅子の手摺にしがみついて、よろよろと立ち上がった。
エリンの腕から、イオナの腕のなかへと、小さく温かな赤ん坊が手渡される。
母親は毛織りの包みに顔を寄せて、低く囁いた。
「さよなら、わたしのかわいそうな赤ちゃん。――いつかまた、会いましょうね」
それを聞いた瞬間、イオナの脳が一挙に沸騰した。
ぱぁん。
左手に娘と赤ん坊をいっぱいに抱えたまま、右手のひらで、自分のすぐ前にあった王女の頬っぺたを引っぱたいていた。よろり、と力なくエリンは床に膝をつく。
「姫様ッ」
一級騎士シャノンが鋭く叫んで近寄りかけるのを、エリンは片手を挙げて制止する。間諜いがぐりは、女たちの間に入って行けないのだろう、凍り付いたように立ち尽くしている。
「どうしようもない力で引き裂かれた親子だっているのに! 王女様、あんたはッ……」
詳しい事情は知らない。知りたくもない。
どうせ、テルポシエ王族だの国の計略だの、色々ご大層な事情がおありになるのだろう。
だがそれが、……この小さな赤ん坊が、たったひとりで他人ばかりの世界へ放り出されると言う、そんな仕打ちに値する理由になると言うのだろうか?
――……ふざけるな、ふざけるな。
「……イオナさん。わたしはその子を、要らなくて捨てるんじゃない」
何かを必死に抑えながら、エリンが絞り出すように言う。
「……無事に生きて欲しいから! だから、オルウェンをあなたに託すの!」
大粒の涙があふれ出たその瞳には、苦渋と真摯とが満ちていた。
けれど、イオナはそんな彼女を軽蔑感を持って、冷たく睨み続ける。
――知るか。
「この子の名は、ローナン」
フィオナが生まれる時、男子だったらとメインと一緒に考えておいた名前だった。迷うもんか、自分でも肝が据わってゆくのを感じる。
「名付けた自分の子は、守る」
そしてくるりと踵を返し、すたすたと部屋の外へ向かう。両手が子どもで塞がっているから、乱暴にがちゃりと足で扉を押して出た。
はっと気づいていがぐり頭のナイアルと、厚い扉の外でやりとりを聞かずに待機していたらしい妹の方の騎士とが、慌ててイオナの後を追いかける。
がらんどうになってしまった両腕で空を抱き締めながら、エリンは声を出さずに嗚咽した。




