94 イオナの出奔8:真実と出奔
長いながいメインの話が、終わりに近づいていた。
ひとつだけ灯っていた蜜蝋はいつの間にか消えていて、鎧戸を閉めないままの窓から、冷ややかな空気とともに忍び入る月光が、薄布を透かして室内をぼんやり照らしている。
「そうして、あなたがやってきた」
大きな白山羊の皮の上に座り込んだイオナは、やはり目の前にあぐらをかくメインの手を握りしめていた。
「強い哀しみを抱えた、優しい男が連れて来た」
彼女は珍しく、寒気を感じていた。すぐに体のどこかがかたかた震えだす、それを止めたくて縋るようにメインの手を、彼女が信じるメインの手を握っているのに、どうしてなのだろう。
永遠と思えたあの力強さ、温かさが今はそこに感じられない。
「ニーシュと呼ばれていたあの男。イニシュアと、彼の娘を……」
――“死に追いやった”。“死なせた”。 ……いいや、違う。いまさら言い逃れをしてどうなる。
「二人を殺したのは、俺だ」
ぱあん。
うつむき加減のメインの顔、その頬をイオナは張った。
「……なんで……」かすれ声に涙が混じる。
黒髪の陰に表情を隠して、メインは呟いた。
「あいつは、大事なものを持ち過ぎた」
ゆっくり彼女の方を振り向く、その瞳もやっぱり濡れていた。
「死んだ恋人とその娘とイオナで、誰が一番大切か決めかねている奴なんかに。俺が一番いとおしく思うあなたを、取られたくなかった」
イオナの頬を幾つもの滴が伝う、そこへ彼はゆっくり右手のひらを伸ばす。
「……仲介人と偽って、キヴァンの集落で傭兵を何人か募り、そのままテルポシエに送り込んだ。大陸最強の戦士なら、先行要員の彼も葬ってくれると思ったんだ」
指先が、イオナの最も大切な冷たくて乾いてがさがさのメインの手が、彼女の頬にふれた。
「狂ってると思う?」
メインは少し大きな声を出した、まっすぐにイオナを見上げた顔は必死で――
「けど、これが俺だ」
必死で訴えていた、彼の本心を。
いま初めて本当に語る、心のうちの最深部を。
「俺の手で、俺の力で。あなたを幸せにしたかっただけなんだ」
涙をこぼして、少しどもりさえしながらも、そこからメインは止まらなかった。
「初めて見た時、あなたが抱えた哀しみが見えて、体じゅうが痛くなった。……すぐにあの人の娘とわかったよ。
あのひと自身じゃない、けど彼女は希望でもって俺をこの世にとどめて生かしてくれた、そうして約束を果たしてかえって来てくれた、……そう思えたんだ。そうして、そこにいたイオナは」
メインは辛そうに息をつぐ。
「……もう、理由なんて理屈なんて何もない。俺はイオナがいとおしくなった。俺はこの人を幸せにするために、この人と幸せになるために、……生まれて、待っていたんだと信じてる。いまも」
もう片方の手で両眼の辺りを押さえつつ、メインはしゃくり上げる。
「あの日から、イオナ。あなただけが」
イオナはもう、他にどうしようもなくなった。両腕いっぱいに、メインを強く抱きしめた。
「……あなただけが、俺の生命の理由になったんだ……」
肩の上で、声がくぐもって嗚咽になる。
全てを知ってしまって、イオナは心の中すら、うつろな闇に浸食されてゆく気がする。
なんて馬鹿な、いとおしい男なんだろうと、そればかりを思った。
・ ・ ・ ・ ・
闇の中、イオナは瞳を開けた。
まどろみの中で思っていた“鷹の王の話”、そこにいまの自分が、つけるべき結末をつけた。
メインの寝息が彼女の腕の中で規則正しく、深いものになりつつある。
――わたしは今まで、毒蛇の巣の真ん中、鷹の褥にいたんだ。
イオナは覚醒した。頭が冴え始める。
するり、と床を抜けた。
この三年、ほとんどしていなかった“陣営の動作”で身支度をする、音なんか立たない。
一番最後にフィオナを抱き上げ、抱っこ布の中に入れて胸にさげ、巻き外套の裾でしっかりくるみ込んだ。
娘はむにゃむにゃ言ったきり、また眠りの中に落ちて行った。
彼女は一度だけ、寝床を振り返った。
「さよなら、メイン」 わたしの鷹。
離れたくなんかない、けれどもうここには居られない。
彼女の故郷、兄とアランを奪った毒蛇の国にはいられない。それでもイオナは、約束しようと思った。
「わたしも。……わたしも、あなたに帰って来る」
そう囁いて、彼女はふいと頭をめぐらした。やはり音を立てずに柔らかく扉を開け、そうして彼女の最もいとおしく思う男のもとから、去っていった。




